人気ブログランキング | 話題のタグを見る
Frank Frost
Frank Frost は1936年の 4月15日、Arkansas 州の Auvergne( alt. Augusta, Arkansas。Memphis の約 70 マイル西)で生まれています。
その家庭は音楽に縁があり、父は管楽器、母は鍵盤楽器を、ともにゴスペルの伴奏のために演奏していたようで、彼自身の最初の楽器も教会の合唱団に伴奏するピアノでした。
1951年、15才の時に彼は St. Louis に移り、そこでハープ・プレイヤーの Wiilie Foster のバンドにギタリストとして参加しています。
そこに現れたのが Sam Carr*で、父のとこにいてはコキ使われるだけだ、と思ったのか(?) St. Louis に移ってきて、自分のバンドを作ろうとしたようですが、フロントマンを必要としていた Sam Carr が目をつけたのが Frank Frost だった、っちゅうワケ。
「 Willie Foster にとっちゃ Frank Frost がそれほど必要、ってワケじゃなかった」のだそうで「だから彼を引き抜くのに後ろめたさは無かったねえ」とゆーイキサツで、この時から Frank Frost と Sam Carr の長〜いツキアイが始まります。

* ─Sam Carr は1926 年 4月17日、Mississippi 州の Friar's Point で「あの」 Robert Nighthawk の息子として生まれています。
彼はごく小さいときから父のバンドを通じて音楽に関わり、やがてはそのバンドでベーシスト兼ドライヴァーとして働くようになるんですが、ワシゃ、こんな人生イヤじゃ!とゆーことで(?)独り立ちを目指し St. Louis に行ったのでしょか。
出あったころの Frank Frost も Sam Carr もギターを弾いておったんですねえ、これが。
「 Frost よりは俺のほーがウマかった」だそうですが・・・ まあ、自分で言ってるだけですからねえ。こゆこというブルースマンはゴマンといます。ちゅうか、これこそブルースマン「らしさ」てな気までするくらいで!
ただし、この時期、Willie Foster のバンドではなく、父の Robert NightHawk のバンドで Frank Frost も一緒に演奏をしていた、としている資料もありますが、それは1960 年代のハナシでしょ。

その Willie Foster のバンドにいた時には、ジミー・リード・スタイルのハープを学んだそうですが、最も多くのことを学んだのはやはり Sonny Boy Williamson からだったようで、基本的にはサニー・ボーイ・スタイルだ、と自分では言ってますね。
でも、人柄の違いが「音」に出るのか、Frank Frost のハープははるかにシンプルでストレートで「暖かい」ような気がするんですが・・・1956 年から、割れたボトルのガラスで手に怪我をしてしまい、ギターを断念する1959 年まで、サニー・ボーイのギターを務めたそうですが、サニー・ボーイは彼にハープを教えて、まるで自分の息子であるかのように扱ってくれたそうです。
「彼についちゃイロイロ言う人もいるようだけど、俺にとっちゃ偉大な存在だ」

そして Frank Frost と Sam Carr のふたりは Mississippi 州に向かいます。
1960 年には Sam Phillips の International Records に初の吹き込みをしていますが、このときには契約関係にうとかったのか、「たった」 800 ドルが支払われただけだったとか。
そして1962 年にはギターに "Big" Jack Johnson**を迎えて吹き込み。

**"Big" Jack Johnson は1940 年 Mississipp i州 Lambert で生まれています。
Sonny Boy Williamson、Jimmy Reed、Robert Nighthawk から Carl Perkins までのサポートを行い、1961 年には Memphis の Sun Studio で初吹き込み( alt. 1964 年としている資料もあります)。
彼は1970 年代の晩期からは The Jelly Roll Kings のシンガー、ギタリスト&ベーシストとして活躍し、1980 年代に入ってからはソロ・アルバムもリリース、2002 年には日本にも来ています。
成功してからもデルタにとどまり、そこからツアーに出る生活を続けているとか。

その "Big" Jack Johnson を加えたバンドは Frank Frost and the Nighthawks と呼ばれていたようで、そのメンツでは1962 年にシングルとアルバム Hey Boss Man! を録音。
バンド名は Little Sam Carr and The Blues Kings になったりもしておりましたが、Jelly Roll Kings で落ちついたみたいです( 1978 年に、シカゴに本社のある Earwig Records に吹き込み)。
1966 年には Scotty Moore のプロデュースで Nashville で Jewel Records に「Things you do 」を含む 3 枚のシングルとアルバム一枚を吹き込み。「 Baby Scratch My Back 」はマイナー・ヒットになりました。
また、この Frank Frost、Sam Carr、Jack Johnson で構成されるトリオは Robert Nighthawk がデルタに来たときにはバッキングをしていたらしく、他にも B.B.や Little Milton、Johnnie Taylor、Albert King に Jimmy Reed などのデルタでのバッキング・バンドを務めています。
彼らはまたミシシッピー州内のジュークジョイントをめぐり歩いていますが、バンドとしての吹き込みは前述の通り1978 年の Earwig への Jelly Roll Kings 名までしばしお休み。あ、でも、ここでは Frank Frost は Farfisa オルガン(?)を弾いてます。

1990 年の Midnight Prowler を最後に Jack Johnson はバンドを去り、Frank Frost と Sam Carr の二人は相変わらずミシシッピー・デルタを廻り歩き続けたのでした。
1990 年代には Arkansas 州 Helena の Missouri Street 121 番地の古いビルにある Eddie Mae's Cafe を本拠地として周辺でギグをしていたりしていたのですが、1992 年に Robert Palmer のプロデュースで製作されたドキュメント、『Deep Blues』で採り上げられたことによって広くその存在を知られるようになりました。
また映画『Crossroad』の影響もあったのでしょう、Helena の彼のもとには若いハープ奏者が訪れて、どしたらそんなふうに吹けるのか?とか、ハープでイチバン大事なのはなんですか?などと尋きにくるそうですが、そんな時の彼の答えは、いつも決まってて、「そりゃ胃だべ。ここ(と胸をさす)から上で吹いちゃダメだあ」だそうです。
Joddy Williams がしばらくブルースから離れていて、再起を決意したとき、「(指は動かなくなっていたものの)ブルースはここ(アタマ)とここ(ハート)に残っていた」と言っていたのと真反対でオモシロいですねえ。「胸から上」じゃあアタマはもちろん、ハートも含まれてるワケですから。
また、お気に入りのハープのブランドやモデルはあるか?という質問も多いようですが、答えは「なんでもいい。」だそうです。ただ録音で多く使われているのは Marine Band の「 C」。

Sam Carr は Frost より10 才年上なのですが、アスリートのようなカラダつきのせいか、実際の年齢より 2・30 才は若く見えるのに対し、晩年の Frost は車椅子での生活で、 1999 年の10月12日、Helena で死亡しました。


reserched by Othum: Blues After Dark


# by blues-data | 2018-12-31 18:14
Otis Redding
みなさまは Johnny Jenkins をご存知でしょうか?
1939 年、Georgia 州 Macon で生まれ、Swift Creek と呼ばれるド田舎地帯でもっぱらバッテリーを電源とする Portable Radio(つまり、電気も引かれてないイナカっつーことでしょか?)でブルースや初期の R&B、アーティストとしては Bill Doggett や Bullmoose Jackson などを聴いて育った、という彼は 9 才の時、よくあるケースで、シガー・ボックスとゴム・バンドでギターを自作したのですが、(元々左利きなのか、それとも偶然そーなっただけかは資料からは判りませんでした)普通とは逆の向きに持ち始めたようで、それは姉からホントのギターを買ってもらった後もそのままだったようです。
その Johnny Jenkins が 1962 年に Atlantic に録音するために STAX のスタジオに現れました。
Georgia 州のローカルな放送局に出演していた Johnny Jenkins を最初に認めたのは、後に Macon で Capricorn Records を設立することになる Phil Walden かもしれません。
彼は Johnny Jenkins とそのバンド the Pinetoppers のブッキングも手がけるようになっています。
そして Phil Walden は自分の兄弟の Alan Walden とともにプロダクションのようなものを共同経営し、かつ Gerald というマイナー・レーベルの所有者でもあった Atlantic の南部担当の A&R マン Joe Galkin をつかまえ、なんとか STAX のスタジオで Johnny Jenkins と the Pinetoppers のインスト・ナンバー Love Twist を吹込ませることに成功したのでした(事実、この Love Twist はその Gerald からリリースされているようです)。
ただしその日の Johnny Jenkins はあまり調子が良くなかったのか、これはダメだ、ということで見切りをつけた時点で、およそ 30 分以上の余裕が出来たので、( Jim Stewart の回顧によれば)この吹き込みに立ち会っていた A&R マンの Joe Galkin は、Johnny Jenkins 一行の車を運転してきて、スタジオまでバンドの機材を運び、まるでローディのように見えたシャイで物静かな男、どうやら Johnny Jenkins のバンド the Pinetoppers のヴォーカリストで、お抱え運転手でもあった男に、「時間あるからキミも歌ってみる?」てなことを言ったんでしょか?男は、それじゃあ、ってんでレコーディングに臨み、しかし、最初に吹き込んだ曲はどうもイマイチとゆう感じだったのが、違うのはないのか?とゆうことで「自作の曲でよければ」と吹き込んだ二曲め⋯

その曲こそは、いまだにその時のオリジナルを超えるカヴァーが(おそらく、これからも永久に)存在しないであろう名曲、名唱となったのです。

この両腕の寂しさ、哀しみ
この両腕の憧れ、お前に憧れて
もし、この両腕でお前を抱きしめることが出来るなら、その歓びはいかばかりか⋯
(原詞 http://www.lyricsdepot.com/otis-redding/these-arms-of-mine.html )

These Arms Of Mine、歌ったのは Otis Redding。21 才の、まさに新しい才能が「シーン」に登場した瞬間でした。
この曲は 1962 年の 10 月に STAX の R&B のサブ・レーベルたる Volt からリリースされ、翌 1963 年の 3 月にはチャート・インしています(実際には A 面の Hey Hey Baby をプッシュしていたのに、ひとりの D.J. が盤を裏返して針を乗せてしまい、こっちの方がいいじゃないか!と「その気になった」と⋯)。
ただし、この曲は Otis Redding の初レコーディングではなかったようで、それは 1960 年の 7 月、Otis and The Shooters という名義で行われ、She's All Right という曲が録音されていますが、実質的には Johnny Jenkins の the Pinetoppers そのものだったようです。
また、厳密に言えば、実は These Arms of Mine は、Otis Redding にとっての「 STAX での初レコーディング」でもありませんでした。
実際にはその前の Pinetoppers の録音が不調に終り( Jim Stewart によると)バンドが機材を片付け始めてから Joe Galkin が、ちょっと彼にも歌わせてみよう、と言い出したとき、ピアノがもういなかったため、ギタリストでピアノなんて弾けない、という Steve Cropper をピアノに座らせてムリヤリ録音したのが Hey Hey Baby。
そ!栄光の Volt 103、These Arms of Mine のカップリングとなった曲だったのですが、それを聴いた Jim Stewart は「ダメだね、Little Richard そっくりじゃないか!Little Richard はひとりいれば充分だ!」という反応でした。
しかし Joe Galkin はさらに、バラードも歌うっていうからやらせてみようじゃないか、と・・・

どうやら、この Jim Stewart の証言を信じるとすると、Otis Redding が世に出るきっかけは、まったくもって、この Joe Galkin のインスピレーションによるものだったようです。
その後も Joe Galkin は Otis Redding のプロモーションに熱中し、周辺の放送局のスタジオにおしかけては、D.J.に対し、「このシングルをかけろ!今すぐかけろ!でないと、ウチ( Atlantic )が無償で提供してた全部のレコードを即座に引き揚げる!」と「脅し」をかけて歩いたそうですからスゴい!
Phil Walden が「オレが Otis Redding を世に出したんだ」などと吹聴しているようですが、この Joe Galkin が Jim Stewart を、そして Jerry Wexler や、その Phil Walden を説得したからこそ、そんなタワゴトも言っていられるんだ、ということをお忘れなく。
いやはや、いつの世にもこういう、なんでも自分の手柄にしちゃう手合いは絶えないものですねえ。

ところで、実はそうゆうストーリィとはまた違った証言もありまして、当初、Hey Hey Baby が A-side で、おそらくそのままだったら、さほど話題にもならず自然消滅して行きそうな運命だったものが Nashville の D.J.だった "John R." Richbourg のアドヴァイス、「これは B 面の曲の方が売れるぞ」の進言を受けて戦略を転換した、という Carol Cooper の記述も存在するんですねえ。
その証言を信じると、その John R. Richbourg の存在がなければ Otis の開花(?)もなかった可能性はあります。

Otis Redding(パスポートの記載では Otis Ray Redding Jr. )は 1941 年の 9 月 9 日、Georgia 州の州都 Atlanta からおよそ 200km 南、State Highway 520 沿いの Dawson で生まれました。
彼が 5 才の時に家族は Macon の the Tindal Heights Housing Project という(おそらくは、低所得者層のための供給住宅ではないかと思われますが)住宅地区に移っています。
彼の父は Robbins 空軍基地で働き、週末には the Vineville Baptist Church の牧師(キリスト教の各宗派における呼称の区別には詳しくないので、あるいは司祭、神父、などの方がふさわしいのかも?原資料でも preacher と minister の両方が使われてます)でもあったようです。
Otis はその教会の聖歌隊で歌い始めました。ただ、彼の少年時代、父は病に臥せっていたようですが。

その後 Bellevue という Macon 西郊の土地に掘っ立小屋みたいな家を建ててしばらく暮らしていますが、そこが火事で燃えてしまったため、ふたたび Tindal Heights に戻っています。
Ballad Hudson High School の第10学年で(日本でいう高 1 かな?)おそらく父の病気によって危機的な状況になっていた家計を助けるためにドロップ・アウトして Little Richard のバンド the Upsetters で働き(ある資料では、彼のステージ・ネームを Rockhouse Redding であった、と。ローディーや兼ドライヴァーあたりだったのでしょか?当時の写真では他のメンバーは楽器を手にしているなか、彼はマイク・スタンドを手にポーズをつけているものがあります)家には週 25 ドルを送っていました。
また、当時 Gladys Williams(このひとについてはよく判りません。地方の名士でしょか?お名前からすると女性のようですが)が主催していた Sunday night talent show(それが正式名称ではなさそうですが、賞金は 5 ドルでした)では 15 週連続で勝ち抜き、それ以上の出場を断られたのだとか。
このころのエピソードと思われるのですが、近所で「 Plantation Inn 」という(この Plantation Inn に関しては、当時の南部にあっては「一般名詞」だったのかもしれませんが、手持ちの辞書では該当する一般名詞としては発見できなかったため、一応、固有名詞扱いとしておきます。案外プランテーションに付随する簡易な宿の総称かもしれません)周辺住民に開放されたサロンを持っていた Claude Sims という人物は、15 才の Otis Redding から相談を受けているようです。
数々のアマチュア・コンテストや、アマチュアを出演させるショーなどに出まくっていた Otis も、それが結局はさほど金にはならず(賞金やギャラはゼロか、あっても僅かだったみたい)さほど生活の助けとはならないことに苛立ち、彼のサロンで毎週、金曜の夜にパフォーマンスをさせて欲しい、という申し出でした。
Sims はこれを了承し、これによって Otis Redding はそれまでのような一出演者ではなく、「自分のショー」を持つことが出来て、さらにスキルをアップさせていったのかもしれません。

1959 年には the Grand Duke Club で歌い始め、1960 年からは Johnny Jenkins and The Pinetoppers にヴォーカルとして加わり、その地方では有名だった D.J.の Hamp Swain によって、土曜日の朝に the Roxy Theater(後には the Douglas Theatre に)で行われていた『 Teenage Party 』タレント・ショーに出演したほか、バンドで南部一帯をツアーし始めます。
1960 年の 7 月には前述の The Shooters ─ 実質はおそらく The Pinetoppers をバックに She's Alright(あるいは She's All Right )/ Tuff Enough を録音。これはシングル Trans World 6908 として 1960 年10月にリリースされています。
続いては資料によって前後を逆にしているものもあるのですが、一応ここでは同じ 1960 年 7 月の録音ではないか?という推論を信じて Shout Bamalama ではなく Alshire 5082 としてリリースされた(ただしリリースのデイトが不明) Gettin' Hip / Gamma Lama、そして同じ 1960 ではないか?とされる The Pinetoppers をバックとした Shout Bamalama / Fat Girl をレコーディング。この録音は Confederate 135として 1960 年中にリリースされたようですが、同じマスターにオーヴァー・ダビングしたものが 1964 年に Bethlehem 3083 として、また 1968 年には King 6149 として再発されています。

なお、彼が妻の Zelma Atwood に出合ったのが 1959 年で、結婚は 1961 年の 8 月でした。
この夫婦の間には三人の子供が生まれ、Dexter、Karla、Otis III そして実はもうひとり、Demetria がいるのですが、この次女は Otis の死後に養子となったものです。

1962 年のこの These Arms Of Mine は Johnny Jenkins and The Pinetoppers 録音用のセッティングを流用したものだったようですが、それが R&B の大ヒットとなり、1961 年に新設された STAX のセカンド・レーベル Volt を大いに潤したことにより、それ以降は STAX のハウス・バンドたる Booker T. and The MG's がフルにサポートをすることとなりました。
These Arms of Mine は Hey Hey Baby をカップリングとして STAX のサブ・レーベル Volt から、シングル Volt 103 として発売されました(もちろん当初は Hey Hey Baby が A サイドで、These Arms of Mine は B サイドだったワケですが)。この録音が彼の生活も、そして STAX というレコード会社の運命をも「変えた」と言ってよいのかもしれません。These Arms of Mine は 地域を超えて広がり、全米 R&B チャート 20 位、Pop チャート 85 位を記録。

続いて 1963 年 6 月24日に録音された That's What My Heart Needs( Volt 109。R&B チャート 27 位。カップリングは Mary's Little Lamb )は同年 6 月に(という点に、録音から発売までの期間が「短すぎる」として録音の時日に疑問を呈する向きもおられます。確かにほぼ一週間ってのはちと短いですが、それ以外の準備がすべて整ったスタンバイ状態にあったとしたら「不可能ではない」とは言えるのかも? )Volt 109 としてリリースされています。
さらに同年 9 月26日に録音、とされる Pain In My Heart( Volt 112。Pop チャート 61 位。カップリングは Something Is Worrying Me )も、発売が 9 月、という資料から考えれば、もしかしてそれって録音日時ではなく、リリースした日時じゃないのか?というギワクが当然のよに出てきます。
ただねえ、どーもコトはそうカンタンではないようで、話が進んでくにつれて、さらに驚愕の事実が⋯(ってのはちとオーヴァーですが)

Rhino の The Definitive Otis Redding Rhino R2 / R4 71439 に付属した(良く出来た)ブックレットによれば、次に録音されたのは 1964 年の 1 月16日、Security( Volt 117。Pop チャート 97 位。カップリング; I Want to Thank You )で、しかしこのシングルは、その後の 1964 年 2 月 6 日に録音された Come to Me( Volt 116。Pop チャート 69 位。同 Don't Leave Me This Way )の 2 月中の発売に先を越され、4 月24日に発売となっています(ただし、記録上ではそのリリース日時を 1964 年 1 月 1 日としている資料も散見され、そこら「きりのいい」とこで 1 月 1 日にしてしまったのかもしれません。現に、 Security「も」収録した彼にとっての初アルバム Atco 33-161 Pain In My Heart も 1964 年 1 月 1 日リリースとアナウンスされており、そんなことタイム・マシンでも無きゃ「不可能」でしょう。この「 1 月 1 日」ですが、 Sly and the Family Stone のアルバムでも遭遇し、他の資料と整合しないので困ったものでした。
なお、アルバム Pain In My Heart にはシングルとしてはリリースされていないナンバーも収録されており、Stand By Me / You Send Me / I Need Your Lovin' / Louie Louie / Lucille の各曲についてはその録音日時などを示唆する資料がいまだ発見できていません。
なお、http://www.bsnpubs.com/ によれば、当初のアルバムはモノラルだったものを 1968 年の再発時にステレオ化した、とありました。また同サイトではそのリリースを 1965 年としております)。

ところで、実際の録音がいつだったのかまったく記録が無く、しかもそれが収録されたアルバムがかなり後のものであるために、余計、その時期が判らない、ってものもあります。
その音から推測して 1963~1964 年あたりではないか、とされるのが Little Ol' Me と Don't Be Afraid of Love の 2 曲で 1992 年のアルバム Remember Me で初めて世に出ています。
そして、その Little Ol' Me までは(ただし That's What My Heart Needs を除く。また最初の She's All right と Gettin' Hip は不明)かっての彼の雇い主 Johnny Jenkins がバックでギターを弾いておりました(ってとっから逆算すると、Little Ol' Me もかなり早い時期、ということになります)。

続いてのシングルは 1964 年 9 月 9 日に録音され、なんとこれまた一週間も経ってない 9 月15日に発売された Chained and Bound( Volt 121。Pop チャートの 70 位をマーク。カップリングは Your One and Only Man )で、きっちりした日付が残っているところを見ると、やはり、そんな短期間でリリースできる態勢が出来ていた、ってことでしょうか?後加工が多い現代では考えられないスピードですねえ(なんて言っていられるのも今のうち⋯)。
この 1964 年にはもう一枚、Mr. Pitiful( Volt 124。R&B チャート 10 位、Pop チャート 41 位。カップリングは R&B 18 位、Pop チャート 74 位、というボス・サイド・ヒットとなった That's How Strong My Love Is )を 12月28日に録音して、12月30日には発売!!
もう、言うこともありませんね。二日でマスターからカッティングしてメタル・マスターを作り、そっからプレス・マザーを起こす。そしてスタンピング、っちゅう一連の流れを考えるとプレス・テスト盤くらいは作れるかもしんないけど、「発売!」なんて言うにゃあ市場に最低でも一定の量が供給されてる必要がありますよね?
とかく「XX日に発売、ってことにしとけ」っちゅう「いーかげん」な会社だったのか、あるいは「神業」でもって、たった二日で市場に出すことはおろか、なんと録音時日より「前に」市場に出すという「奇跡」まで起こせたんでしょか? STAX は・・・

明けて 1965 年 1 月20日には、後に The Great Otis Redding Sings Soul Ballads Volt 411 として 1965 年 3 月にリリースされたアルバムに収録されることになる For Your Precious Love などのレコーディングを開始しています。
そのアルバムの収録曲は That's How Strong My Love Is / Chained and Bound / Woman, Lover, A Friend / Your One and Only Man / Nothing Can Change This Love / It's Too Late / For Your Precious Love / I Want to Thank You / Come to Me / Home In Your Heart / Keep Your Arms Around Me / Mr. Pitiful。
そしてその 4 月19日には「あの」I've Been Loving You Too Long ( To Stop Now )が録音されました( Volt 45-126 ─ ここ以降、シングルはシリアルの前に 45- を、アルバムでは 33- を付して区別させていただきます。─ カップリングは I'm Depending On You )。R&B チャート 2 位!Pop チャートでも 21 位まで登った Otis Redding にとって生前の最大のヒットです。
続いて 7 月 9 日には、これまた R&B チャートでは 4 位まで、Pop チャートでも 35 位をマークした Respect( Volt 45-128。カップリングは 7 月27日に録音される Ole Man Trouble )と、同じく R&B チャート 4 位、Pop チャート 31 位を記録した Satisfaction( Volt 45-132。カップリングは Any Ole Way )、さらに、こちらは後に Volt 45-149 として、1967 年の 4 月27日に、「ライヴ録音の」 Shake の B 面としてリリースされることになる You Don't Miss Your Water も同じ日に録音されたようです(また、この日か、あるいは Ole Man Trouble と一緒か「?」ですが Cupid もこのあたり)。
さらに、シングルとしてリリースはされていませんが 1965 年 9 月15日にリリースされたアルバム Volt 33-412 Otis Redding Sings Soul に収録された Change Gonna Come / Down In the Valley / Shake( Shake ならシングルで出てるじゃん!とお思いの方もおられるでしょうが、シングルの Shake はライヴを録音したもので、別な音源)もレコーディングされています。

まず 1962 年に録音された These Arms of Mine が「本格的に」売れ始めた 1963 年から、次々とチャート・インするヒット曲を連発したおかげで、発売元の STAX / Volt はモチロン、Otis Redding 本人にも「充分な」金額が届くようになり、それをもって 1965 年に Otis は夢のひとつを実現しています。
それは生活することに追われ、苦しかった少年時代にはまさに適わぬ夢であった「自らの牧場を持つこと」、それを実現したのでした。

1965 年、Round Oak に念願だった牧場を持ち、そこを Big "O" Ranch と名付ける・・・

ここでアルバムのシリアル・ナンバーに気がついた方はおられますでしょか?
Volt 33-411 → 412(実は次のアルバムも 413と)まったく連続しておりますでしょ?
間が開いてるのに、連続してる、ってことは、この時期の STAX、いえ、Volt に関しては、少なくともアルバム・セールスにおいてはほとんど Otis Redding「一本」だった、つーワケでございます。
ここで、具体的にどんだけ「依存してたか」、ひとつリストを見ていただきましょ⋯

Volt 33-411 Otis Redding: Sings Soul Ballads
Volt 33-412 Otis Redding: Otis Blue / Sings Soul
Volt 33-413 Otis Redding: The Soul Album
Volt 33-414 Mad Lads: In Action
Volt 33-415 Otis Redding: Complete & Unbelievable ~
Volt 33-416 Otis Redding: Live In Europe
Volt 33-417 Bar-kays: Soul Finger
Volt 33-418 Otis Redding: History of Otis Redding
Volt 33-419 Otis Redding: The Dock of the Bay

410番台の実に 9枚中 7枚が Otis Redding なんですねえ( Barkays ってのは Otis のバック・バンド)。

次のレコーディングは 1965 年の 11月 5 日で、I Can't Turn You Loose と Just One More Day( Volt 45-130 )。I Can't Turn You Loose は R&B チャートで 11 位をマークし、カップリングの Just One More Day も R&B チャートの 15 位、Pop チャートでは 85 位という両面ヒットとなりました。
1966 年になると、まず 5 月 3 日に My Lover's Prayer をレコーディング( Volt 45-136。R&B チャート 10 位、Pop チャート 61 位。カップリングは Don't Mess With Cupid )
そして 8 月 2 日には Good To Me / Cigarettes and Coffee / Chain Gang / It's Growing をレコーディングしていますが Good To Me 以外はシングルとしては発売されず、Volt 33-413 The Soul Album( 1966年 4 月 1 日発売ってことに「なっている」けど、モチロンんなワケはない)に収録されています。
その The Soul Album には他に Just One More Day / Nobody Knows You ( When You're Down And Out ) / Scratch My Back / Treat Her Right / Everybody Makes A Mistake / Any Ole Way / 634-5789 が収録されています。

Good To Me だけは 8 月30日に録音された Fa-Fa-Fa-Fa-Fa ( Sad Song )の B-side にもなって Volt 45-138 として同年 9 月 7 日にリリースされています。
Fa-Fa-Fa-Fa-Fa ( Sad Song )は R&B チャート 12 位、Pop チャート 29 位にまで達しました。
あと、Rhino のブックレットでは、おそらくこのあたりの録音ではないか?としてるのが 1992 年 4 月19日にリリースされたアルバム、STAX 33-8572: Remember Me に収録された I'm Coming Home ですが、これをこの時期、と特定したコンキョは Rhino が提示していないため、なんとも・・・

9 月13日には
I'm Sick Y'All : Volt 45-141/ 1966.11.14
Sweet Lorene : Volt 45-157/ 1968. 1. 8
Day Tripper
Try A Little Tenderness : Volt 45-141/ 1966.11.14
などが録音され、その前の Fa-Fa-Fa-Fa-Fa などと一緒にアルバム Complete & Unbelievable...The Oris Redding Dictionary of Soul っちゅうスゴいタイトルの Volt 33-415 として 10月15日にリリースされています。
その収録曲は上記以外に Tennesse Waltz / My Lover's Prayer / She Put the Hurt On Me / Ton of Joy / You're Still My Baby / Hawg For You / Love Have Mercy。
Try A Little Tenderness は R&B チャートの 4 位、Pop チャートの 25 位を記録しています。
他に Stone っちゅうワケ判らんレーベルから 1976 年に Volt 側に「無断(?)」でシングルで出された You Left the Water Running と、こちらは STAX 33-8572: Remember Me に収録された Trick Or Treat の 2 曲が 1966 年の録音「らしい」のですが、そのデートは不明なようです。
また、"Things Go Better With Coke" でお馴染みのコカ・コーラの CMソング A Man and A Woman というのも吹込んでいるらしいのですが、Rhino の資料で見る限り、それは結局オン・エアされていないようなんですねえ。もしかすると、彼の不慮の死がその背景にはあったのかもしれませんが・・・

翌1967年の 1 月18日と 19日にかけてレコーディングが行われ、そこでは
New Year's Resolution ( with Carla Thomas ) : STAX 45-244/ 1968. 1.24
Tramp ( with Carla Thomas ) : STAX 45-216/ 1967.4.13/ R&B-#2, Pop-#26
の 2 曲が Carla Thomas とともに吹込まれ、そして Volt ではなく STAX からリリースされています( Tramp のカップリングは Tell It Like It Is。New Years~については後述)。
続いて 1 月20日以降は
Open the Door: Volt 45-163/ 1968. 4. 8 ( The Happy Song の B 面となる)
Knock On Wood ( with Carla Thomas ) : STAX 45-228/ 1968. 7.28/ R&B-#8, Pop-#30
Lovey Dovey ( with Carla Thomas ) : STAX 45-244/ 1968. 1.24/ R&B-#21, Pop-#60
I Love You More Than Words Can Say : Volt 45-146/ 1967. 3.21/ R&B-#30, Pop-#78
Let Me Come On Home : Volt 45-146 ─ つまり上の曲の side-B
などが録音されています。
ところで、Rhino の CD ボックス・セットの三枚目のアタマには 1967 年に録音されたらしい Otis Redding のスピーチ(?)が収録されており、それは、自分が学校を中退していることから、学校に通うことの大切さを説き、ドロップ・アウトしないように、っちゅうものなんですねえ。
確かにどしても学校が肌に合わない、なんてんじゃなく、生活苦から通えなくなった身としては、いっそう学校教育の欠落がコタエたことでしょう。
事実、初期の Barkays では、まだ就学中のメンバーがおり、Otis は彼らがきちんと学業を「まっとう」できるよう、活動をその時間に合わせて融通し、「まるで彼らの父親のようだった( by Zelma Redding )」そうですから。
ここら、アメリカン・フットボールの精神(?)とも似通ったものを感じますね。
勉強なんて落第せん程度でいいから、っちゅーか、多少アタマ悪くても「いいタマを投げる」なんてピッチャーがいたら「推薦入学」で入れちゃう「どっかの国の野球の強い私立高校」なんかとは大違いで、チームのコーチは選手達に A クラスの成績を要求し、それが達成できなければレギュラー落ち、という「スポーツ馬鹿じゃない」メンバーでチームを構成していく⋯
いえね、日本もかくあるべきだ、なんて言う気はさらさらおまへん。
でも、そういう世界もあるんだ、ということは覚えといてもいいんじゃないでしょか。

ところで、この1967年の 2 月には、なんと「次のクリスマス用に」 Merry Christmas, Baby と White Christmas の 2 曲が録音されているんですねえ。
しかし・・・
この 2 曲が A/B 面のカップリング・シングルとなった Atco 45-6631 は結局、1968 年の 10月23日に発売されることとなったのでした。
そして、こちらは 2 月13日、と日付もハッキリしてる録音で、
Glory of Love : Volt 45-152/ 1967. 6.30/ R&B-#19, Pop-#60
Tell the Truth : Atco 33-333/ 1970. 7. 1
Slippin' and Slidin' : Atco 33-333
などが録音され、それと同じ日付か、あるいは別な日か不明ですが(たぶん別?)

I've Got Dreams To Remember : Atco 45-6612/1968. 9. 3/R&B-#6, Pop-#41
Hucklebuck
なども録音されていますが、Hucklebuck というのは例の「学校をドロップ・アウトしないように」呼びかけるキャンペーンのための V/A アルバムに収録されたものでした。
I've Got Dreams To Remember のカップリング曲は Nobody's Fault But Mine。

この 1967 年は Otis Redding のヨーロッパ・ツアーのライヴ録音が生まれた年でもあります。
3 月のヨーロッパ公演から
Respect / Can't Turn You Loose / I've Been Loving You Too Long / My Girl / Shake / Day Tripper / Satisfaction / Fa-Fa-Fa-Fa-Fa / These Arms of Mine / Try A Little Tenderness
などが Volt 33-416 Live In Europe として 1967 年 7 月10日にリリースされています。
ヨーロッパでライヴ・レコーディングされた Shake ですが、これは以前に述べたように 1967 年 4 月27日、シングル Volt 45-149 として You Don't Miss Your Water をカップリングに発売され、R&B チャート 16 位、Pop チャート 47 位を達成しています。
その発売に先駆けて 4 月 8~10 日には
Good To Me
Mr. Pitiful
Just One More Day
I'm Depend On You
Ol' Man Trouble
Any Ole Way
Your One and Only Man
Chained and Bound
Papa's Got A Brand New Bag
Security
A Hard Day's Night
などが別なライヴで録音され、1982 年に Rhino からリリースされた Otis Redding Recorded Live: Previously Unreleased Performances としてリリースされているようです( Atlantic 33-19346。1982 年 3 月)。

1967 年には、もうひとつのライヴ、Monterey International Pop Festival もまた彼にとっては重要なマイル・ストーンとなりました。
およそ、ソウルあるいは R&B というものにはほぼ馴染みがない、当時のコトバで言う「ヒッピー」が大半を占めるその聴衆たちは Otis Redding にとっては、まったく未知の世界との遭遇だったかもしれません。
そこでは Shake / Respect / I've Been Loving You Too Long / Satisfaction / Try A Little Tenderness が収録され、Reprise 33-2029 Historic Performances Recorded At The Monterey International Pop Festival として 1970 年 8 月にリリースされています。
このアルバムはご存知のように同じ Monterey International Pop Festival での Jimi Hendrix と背中合わせのアルバムとなっていることから、多くの(普通なら Otis Redding の歌に触れる機会など無さそうな)ロックのファンにも買われて、彼の歌がより広い範囲に浸透することになった、と言うことが出来るかもしれません。

Otis Redding にとって 1967 年は、ヨーロッパ・ツアーや the Monterey International Pop Festival などで、実に華やかな年でもありました。
Otisのツアーでバッキングを務める the Bar-Kays にまで Soul Finger というヒットが生まれています。

そして 11 月には
The Happy Song ( Dum-Dum): Volt 45-163/1968. 4. 8/R&B-#10, Pop-#25
Hard To Handle: Atco 45-6592/1968. 6.14/R&B-#38, Pop-#51
Amen: Atco 45-6592/1968. 6.14/R&B-#15, Pop-#36
Gone Again: STAX 33-8572 Remember Me/1992. 4.19
I'm A Changed Man: Atco 33-289 Love Man/1969. 6.20
Direct Me: Atco 45-6636/1968.11.11/C. with Papa Got A Brand New Bag
Love Man: Atco 45-6677/1969. 4.28/R&B-#17,Pop-#72
Free Me: Atco 45-6700/1969. 7.15/R&B-#30,Pop-#103
Look At the Girl: Atco 45-6723/1969.11.20
That's A Good Idea: ↑ / ↑
Pounds And Hundreds: STAX 33-8572 Remember Me/1992. 4.19
Johnny's Heartbreak: Atco 45-6742/1970. 3.11
The Match Game: Atco 33-333 Tell the Truth/1970. 7. 1
A Little Time: ↑ / ↑
( Sittin' On ) the Dock of the Bay: Volt 45-157/1968. 1. 8/R&B-#1, Pop-#1
を録音しています。

そして運命の 12月10日、同じホテルに家族で投宿していた妻の Zelma の回想によれば、朝の 8 時に呼ばれて行ってみると、どことなく調子が悪そうに見えたそうです。
どこか具合が悪いの?と訊いた Zelma に、いやちょっと疲れてるだけさ、と答え、出掛ける前にちょっと子供たちに声を掛けて行きたい、と言う Otis でしたが、子供たちのなかでもう起きていた 3 才になった Otis III だけになにか話かけ、そうしてるうちに部屋までパイロットが迎えに来たのですが、Zelma はちょうど掛かって来ていた電話に応対していたため、出しなに Otis がなにか言ったらしいことは判ったけど、その内容までは判らなかったので受話器を耳元から離して Otis の声に注意してみると、「⋯ねえ、判ったかい?」というようなことを言われたので「えっ?なにが?」と尋くと Otis は「いや、君が気分よく過ごしててくれたら、と思って」と言うので、「あら、なんのこと?わたしならいつもいい気分よ」と返すと「それならいいんだ Zelma、気持ちよく過ごしててくれ」
これが Otis Redding とその妻 Zelma Redding の「最後の会話」⋯

Otis Redding と The Bar-Kays が乗り込んだ双発のビーチクラフト機は Wisconsin 州 Madison の、周囲およそ 21km、最も深いところで 22.6m という Lake Monona に墜落し、天空にひときわ輝いていた大きな星は失われてしまったのでした。
この事故によって Otis Redding とともに、バック・バンド the Bar-kays のメンバー、Ron Caldwell、Carl Cunningham、Phalin Jones、Jimmy King も死亡してしまいます。
─双発のビーチクラフト機が 12 月の凍える冷たい水の中に墜落した事故から、ただひとり生き残った the Bar-Kays のトランぺッター Ben Cauley は奇跡的に救出され、その後 1989 年の血栓症の危機も乗り越えたのですが、その彼の証言によれば、一行は金曜の夜は Nashville で Vanderbilt の学生のためのライヴを行い、翌土曜夜は Cleveland でのライヴ。
睡眠不足のまま翌日、 1967 年12月10日の日曜日の早朝に空港に集まったのは、ほぼ半日を費やしてそこから Wisconsin 州の Madison に飛び、その夜のライヴに出演することになっていたからでした。
パイロットの Richard Fraser、Otis Redding、その付き人の Matt Kelly に the Bar-Kays のメンバー 5人が搭乗したところで、バッテリーの不調からか、エンジンの始動がうまく行かず、地上クルーの助けを借りてプロペラを回してもらうクランキングでエンジンを掛けたそうですが、そのこと自体は低温によるバッテリーの性能低下であって、それがそのまま「墜落事故」に直結するような「強い」原因となりうるものとは思えません(ま、かといってゼッタイに原因とはなり得ない、とも言えませんが)。
そのようないきさつの後、双発のビーチクラフト機はようやく Wisconsin に向かって飛び立ったのでした。
Co-pilot 席には Otis Redding が座り、その Otis のすぐ後ろで背中合わせに Ben Cauley は後ろ向きの席についています。
あまり眠っていなかった Bar-Kays のメンバーはそれぞれの座席で眠り始め、Ben Cauley もいつのまにか眠ってしまったそうですが、機体の異常な振動で目がさめ、乱気流だろうか?と思ったものの、サックスの Phalon を見ると、窓の外を見て「 Oh, Nooo! 」と言ったので、なに?どうした!とシート・ベルトを外して立ったところで機体は水面におよそ 35 度の角度で突っ込み(もちろん、そんなこと、中にいる乗員に判るワケはないので、おそらく後からいろいろな証言を聴いて出来上がったイメージだと思いますが)、そこで一瞬、意識を失ったようですが、シート・クッションをフロートがわりにしてなんとか浮上した、と。
この時点では確か、あと二人ほど(キーボードの Caldwell とドラムの Cunningham )が水面に顔を出していたように記憶しているようなのですが、そのとき Caldwell が「助けてくれ」と言ったのに「がんばれ!」と答えたものの、それっきりだったようです。
Cauley 自身も額を強く打っており、左脚には裂傷が出来ていました。
救助された彼には当初、「他に生存者はいない」ことが隠されていたようですが、ついに彼の病室に検死官が訪れ、「君はラッキーだったよ」と言った後で顔を背け、「君はただひとりの生存者だ」と告げたのでした。
Cauley は強いショックを受け、しばらくコトバが出てこなかったそうです・・・
Johnny Jenkins はこの事故を知って、どう思ったのでしょうか?

皮肉にも彼の最期に吹込んだシングルとなってしまった The Dock of the Bay はこの悲劇によってさらに注目され、R&B およびポップスの両チャートで 1 位になるという、彼にとっての最大のヒットとなるのです。

そして最後のレコーディングの各曲のリリースに際し、Otis Redding の死後に発売が決定されたものは、The Happy Song を除き、それまでの Volt ではなく、「すべて」 Atco からシングルとしてリリースされたのでした。
Otis Redding の死後、本来ならば彼自身が立ち会って行う、オリジナル・トラックに対する後処理は、主に彼ともっとも長く楽曲に関する作業を共にしてきていた Steve Cropper が、彼ならきっとこうしたハズだ、という「 Otis Sound 」をフルに尊重して行ったそうです。
それとはまた少し違う話ではありますが、今回、Rhino のブックレットに寄せられた回想の中で、もっとも謙虚であったのが Steve Cropper のものでした。その機会があったらぜひ読んでみてください。
そこには真の RESPECT を感じます・・・

ここで彼の「シングル」を時系列を追って並べておきます。やはり 1960年代の Otis にはそれが一番ふさわしいような気がしますので。
1960 ─
10. ? : She's All Right / Tuff Enough : Trans World 6908/Finer Arts 2016
?. ? : Gettin' Hip / Gamma Lama : Alshire 5082
?. ? : Shout Bamalama / Fat Gal : Confederate 135/Orbit 135

1962 ─
10. ? : These Arms of Mine / Hey Hey Girl : Volt 45-103

1963 ─
6. ? : That's What My Heart Needs / Mary's Little Lamb : Volt 45-109
9. ? : Pain In My Heart / Something Is Worrying Me : Volt 45-112

1964 ─
2. ? : Come To Me / Don't Leave Me This Way : Volt 45-116
4.24 : Security / I Want To Thank You : Volt 45-117
6. ? : Shout Bamalama ( over-dubbed) / Fat Gal : Bethlehem 3083
9.15 : Chained and Bound / Your One and Only Man : Volt 45-121
12.30 : That's How Strong My Love Is / Mr. Pitiful : Volt 45-124

1965 ─
4.19 : I've Been Loving You Too Long / I'm Depending On You : Volt 45-126
8.15 : Respect / Ole Man Trouble : Volt 45-128
11. ? : I Can't Turn You Loose / Just One More Day : Volt 45-130

1966 ─
2.15 : Satisfaction / Any Ole Way : Volt 45-132
5.12 : My Lover's Prayer / Don't Mess With Cupid : Volt 45-136
9. 7 : Fa-Fa-Fa-Fa-Fa / Good Tome : Volt 45-138
11.14 : Try A Little Tenderness / I'm Sick Y'All : Volt 45-141

1967 ─
3.21 : I Love You More Than Words Can Say / Let Me Come On Home : Volt 45-146
4.27 : Shake ( Live) / You Don't Miss Your Water : Volt 45-149
6.30 : Glory of Love / I'm Coming Home : Volt 45-152

1968 ─
1. 8 : Dock of the Bay / Sweet Lorene : Volt 45-157
4. 8 : The Happy Song / Open the Door : Volt 45-163
6.14 : Amen / Hard To Handle : Atco 45-6592
9. 3 : I've Got Dreams To Remember / Nobody's Fault But Me : Atco 45-6612
10.23 : White Christmas / Merry Christmas, Baby : Atco 45-6631
11.11 : Papa Got A Brand New Bag / Direct Me : Atco 45-6636

1969 ─
1.30 : A Love Question / You Made A Man Out of Me : Atco 45-6654
4.28 : Love Man / Can't Turn You Loose : Atco 45-6677
7.15 : Free Me / Higher & Higher : Atco 45-6700
11.20 : Look At the Girl / That's A Good Idea * Atco 45-6723

1970 ─
3.11 : Demonstration / Johnny's Heartbreak : Atco 45-6742
7. 7 : Give Away None of My Love / Snatch A Little Piece : Atco 45-6766

1971 ─
1. 5 : I've Been Loving You Too Long / Try A Little Tenderness : Atco 45-6802

1972 ─
10.23 : My Girl / Good To Me : Atco 45-6907

あと、1976年には White Christmas が再発され、他に例のアンカヴァー・シングル(?) Stone 209、You Left the Water Running / The Otis Jam ってのがリリースされたようです。

また、本文中ではあまりトレースしてませんでしたので、ここで挙げておきますが、Otis と Carla Thomas のデュエットによるシングルは
1967 ─
4.13 : Tramp / Tell It Like It Is : STAX 45-216
7.28 : Knock On Wood / Let Me Be Good To You : STAX 45-228

1968 ─
1.24 : Lovey Dovey / New Year's Resolution : STAX 45-244

1969 ─
4. 2 : When Something Is Wrong With My Baby / Ooh Carla, Ooh Otis : Atco 45-6665
があります。



# by blues-data | 2018-12-16 23:28
Jonny B. Gayden
この Johnny B. Gayden、1953年に Chicago で生まれているようですが、いちおう11月 1 日が誕生日と言われています。
いちおう、なんてのもまた無責任な物言いですが、MySpace でもそれが記載されてないからで、本人の表明だったら「間違いなく」それで行くんですが・・・
さて、それはともかく、彼は十人の子供たちの上から二番目だったらしく、兄は祖母(たぶん母方のと「思う」。ただし確証無し)と暮らし、それ以外の九人は母と暮らしていたようです。
というのも、実は父というのが、彼が成人する前に家を出て行ってしまい(その原因については不明です)、それもあってか自分の下の弟や妹たちの生活のために「稼ぐ」必要があって、結局、高校も中退したらしく、母は「ほんとうはちゃんと卒業して欲しかった」らしいけど本人はそのことをあまり気にはしてないみたい。
ところで、いなくなってしまった父ですが、彼としては自分の音楽的な資質というのは、ハーモニカを演奏していた、というその父から受け継いだのではないか、と考えているようですね。
高校に入った妹二人のうち一人はサックス、もう一人がクラリネットでブラスバンドのメンバーになったそうですから、案外、おんなじリード楽器(そう、ブルース・ハープもサックスもクラリネットも、発音原理は「リード(舌片)」の振動ですからねえ)ってことでは、その妹たちのほうが彼のベースよりは父に「近い」のかも・・・

当時の暮らしは「とても貧しくてレコード・プレーヤーを買うカネなんて無かった」ため、彼はもっぱらラジオから流れてくる音楽に集中していたそうです。
したがって、彼が影響を受けた、としているベーシストは多岐に渡り、様々なジャンルにまたがっており、ブリティッシュ・ロックにポップス、おなじみ(?)のスタンリー・クラークやマーカス・ミラーも含まれていますが、ワタクシ個人としてはその名前を彼自身が挙げているリストのなかに発見して嬉しかったのが、やはり Larry Graham と Jack Cassidy でしょう。
そこにもうひとり Scott LaFaro も挙げられてたらカンペキ(なにが?)なんですが・・・
なんたって、ワタクシの好きなベーシスト(そう、あくまでも「好きなベーシスト」ですからね。サイコーのベーシスト!なんて言ってるんじゃないのでそこらお間違いなく!)と言えば
Larry Graham 
Scott LaFaro 
Jack Cassidy  
という三人を真っ先に挙げておりますが、実はその他に
ルイズルイス加部にベーサーM 、そしてこの Johnny B. Gaydenも加えた六人が「ワタクシのベース宇宙(オーヴァーな!)」を「満たしてくれている」住人のみなさまなのでございます。

てなことは置いといて・・・
1953年の生まれということは、Sly & the Family Stone の一連のヒットが次々とチャートに登場し始めたころには15才だったワケで、彼が名前を挙げている Larry Graham のベースも、その時点で聴いたものか、あるいはそれ以降、Graham Central Station でか、はたまたスライの音を後年、聴いたものかまでは判りませんが、こうして名前が挙っているだけで嬉しいな。
某バイオグラフィーによると彼がベースを始めたのが12才、とありましたから、もしそれがホントだとすると、 Larry Graham も「特別な興味を持って」聴いていたのかもしれません。もっとも、そのバイオではスライの「ス」の字も出てきてませんでしたが。
彼自身の MySpace での自己紹介では、最初の「エレクトリック・ベース」を手に入れたのが12才か13才のとき、としています。
友人たちでプレイを楽しむうち、それはバンドとなり、The Current と名乗っていたそうな。
やはりラジオから流れてくるいろんな音楽に影響を受けていたが、基本は「ブルース寄り」ではあったようです。そして当時の音楽について語っているなかにスライの名前も出ては来ていますが、そこでは「バンドとしての」スライの音について言及はしていても Larry Graham というベーシストには触れてはいません。
もっとも、当時の音すべてがミックスされて自分のベースが出来上がった、とは言っていますから後になって「そっか~あのベースは Larry Graham っていうのか」なんて意識した(そう、意識してなきゃリストに挙げるワケないですからね)のかもしれません。
あ、ワタクシ個人が「 Larry Graham 好き」なもので、やたらそこばっか気にしてますが、「ベース研究家(?)」からしたら、「重要なのはそこじゃな~い!」なんて突っ込まれるのかもしれませんけどね。

1960年代に彼がもっぱら聴いていた局、WCFL、WWLS、WVON などから流れてくる当時のヒット曲にかなり影響を受けていたようですが、それでもやはり基調となっていたのはブルース寄りの音だったとは言えるかもしれません。
そのへんについては彼自身の MySpace で語られていますから、直接そちらへどうぞ。
その Johnny B. Gayden の運命を「大きく」変えたのは Alligator の存在かもしれません。
まず彼が「プロの世界」に接近した第一歩となったのは Son Seals のベースとして一緒にツアーもしていた時期でしょう。それが 1973年から、と言われています。
そして「縁あって」Alligator Records の Bruce Iglauer と出会うことになり運命が変わった、と・・・
この時期の彼は Son Seals の他に、ファンク系や R&B のバンドにも出入りしていたようです。
その多彩な技を Bruce Iglauer が認めてなのかどうかは定かではないのですが、ともかく彼の都合が合いさえすれば、可能な限り、Alligator Recording Artists たちのベースとして起用され始めたようで、そして「あの」Albert Collins のベースとして指名されたのが1978年と言われています。
当時レコード・ストアで働いていた(いわゆる Day Job ってヤツでしょか?)彼のとこに訪ねてきた Bruce Iglauer は「もし興味があるようだったら Albert Collins と一緒にやらないか?」と・・・
彼はもちろん承諾し、実際には翌1979年 9 月の(リハも無し!の)ギグが最初になりました。
実にその時点から彼の「栄光」はスタートした、と言ってもいいかもしれません。
そりゃ Son Seals 時代の彼のベースだって「パっとしない」なんてことはないんですけど、こ~言っちゃあ悪いけど、Albert Collins とは「格」が違い過ぎるんですよね。
つまり、純粋に「ブルースとして、どう」って基準で考えたら、両者はそれぞれに個性を持ってはいるものの、さほど優劣みたいなものは「無い」と言うこともできます。
しかし、純粋なブルース・マニア以外の、ブルース系ロック(?)なども含むその周辺領域という膨大なマーケット・ゾーンで考えたら Son Seals は「問題外」なワケで、その意味でも彼がそこを離れて(ま、タマにまた戻って一緒にやったりもしてますけど) Albert Collins との活動をメインにしたからこそ、現在の彼がある、と言えるでしょう。あのままだったら果たして・・・

ま、どこぞの国の、オールド・スタイルの化石みたいなブルースしか聴かない(認めない?)ファンダメンタリストどもにとっては、あまり興味も無い存在かもしれませんが、「現在も活きている、しかも変化し続けているほんとうのブルース」にとって、なくてはならない貴重なベーシストです。


# by blues-data | 2018-12-16 10:09
Otis Rush
多くの資料では、Otis Rush が生まれたのは 1934年の 4月29日、場所は Mississippi 州の Philadelphia としています。
ただ、ひとつの資料だけは、それを Philadelphia ではなく、同じ地区ではあるものの、その周囲の Neshoba 郡内のいづこかである、としてありました。
なかなか「あり得る」センかなあ?という気もしたのでございますが、その同じ資料だけは Otis Rush の誕生年を 1935年、としているのですよ。そこで判断に迷ったのですが、Otis Rush 本人と親交のある江戸川スリムさまからの情報によりますと、ナゼか 1934年というのが定説となっているようですが、正しくは 1935年である、とのことで、そーなるとやはり生まれたところも Neshoba が正しいのかもしれません。
実際には Neshoba 郡の郡都が Philadelphia なワケですから、判りやすく言うためにその名前を出した可能性もありそうですね。
この場所は人種差別の「本場(?)」 Alabama 州にかなり近いだけあって、1964年にあった黒人の教会への放火事件を調査に来た公民権運動の活動家 Andrew Goodman、Mickey Schwerner、James Chaney の三人が 6月21日に殺害されるという事件が起きて(映画 Mississippi Burning の元ネタ)、2005年になって「やっと」現在 80才になる Edgar Ray Killen というオトコが犯人として逮捕されました。41年もたって!
黒人が白人を殺した場合には「どんなことをしてでも」犯人を探し出すのでしょうが・・・

Living Blues の 1996年の記事によれば、どうやら彼の生まれた家庭では父親が収入の面で「頼りにならず」兄弟姉妹がそれぞれに働いて母を助けていたもののようです。
彼が最初に覚えた楽器はハープで、ギターは 8才から、などと言われておりますが、その背景には Baptist 教会でのコーラスの経験や、時にはギターでその伴奏をつけたことによって、基本的なギターの技術を習得した、としている資料もあります。
また資料によってはこの時期の彼はラジオから流れてくる様々な音楽(そこには C&W も含まれていた、と)に影響されて音楽への意欲を持つようになった、としているものもありました。
また彼の歌唱力はこの時代に培われた、という見方も出来るでしょう。
また、そもそも、彼がギターを右利き用のままで左向きで弾き始めた件についての信頼するにたる情報はどうやら見当たらず、おそらくゴスペルの場で、そこにあったギターをなんとか弾こうとしてそのままで覚えたものではないか、と思うのですが、モチロンそれは憶測に過ぎません。

その彼が Chicago に出たのが 1948年(一部には 1949年としている資料も)とされていますが、そもそもは姉(先に Chicago に出ていた、ということから「姉」では?と推測しているもので、ハッキリ Elder という表現があるワケではないので注意してください。英語では姉か妹かがまったく判らないのですが、そこら向こうの研究者「ども」はどー思ってるんだ、いったい!)の Elizabeth を Chicago に訪ねたところ、音楽好きな Otis のために案内してくれたのが Zanzibar で、そこではマディのバンドに Little Walter、Jimmy Rogers の演奏に触れて、すっかり魅せられてしまい、そのまま Chicago でミュージシャンになることを決意した、としているサイトもあります。
ただし、かと言って Chicago に出てきただけで誰でもがミュージシャンとして暮らして行ける訳でもなく、この Otis Rush も当初はいろいろな職を経験したようで、石炭を積載した貨車からの荷下ろしの仕事(を行う馬を御する仕事だ、ということですが)のようなハードな労働に従事し、夜ともなれば、あちこちのブルース・クラブに足を運んでいたようですね。
そして彼は、まず Kay のギターを手に入れて練習を開始したようです。
そのような努力の末、1950年代の前半には、彼のギターはひとつの個性として完成に近づいた、と言えるのかもしれません。
1953年、彼が Kay のギターで練習しているのを聴いた Club Alibi のオーナーは、彼にソロで出演するように声をかけてくれたのでした。したがって彼の最初のギグは、ギタリストとしてギグに参加したものだったようです。
しかし、そのような形での活動はやはり彼の本意ではなかったようで、じきに自らのバンドを結成しようと動き始めました。
むろん、その時点ではまだ Day Job 無しで喰って行けるほどの稼ぎとはならず、昼の仕事と並行することとなっていたようですが、そのバンドではギターよりも、むしろヴォーカリストとしてのスキルをアップさせたのではないでしょうか。
Little Otis という芸名(?)が使われ出したのもこの頃と思われます。

そんなある日、Otis は Dave & Louis Myers 兄弟の Four Aces に加わって(そこら「臨時」だったものか、あるいはオーディションみたいなものだったかはちと判りませんでした。またこれが 1956年、つまり Cobra と契約したその直前だったのか、あるいはもっと前のことなのか、については確実な資料に辿り着くことができませんでした)東 47番街の 708 Club で演奏していたところ、居合わせた Willie Dixon と Cobra のレーベル・オーナー Eli Toscano の目に止まったらしく、結局 Willie Dixon の「プッシュ」もあって 1956年には Cobra と契約が成立し、そこで吹込まれて初のヒットとなった I Can't Quit You Baby が生まれています。
ここに新しいスター Otis Rush が誕生したのでした。

そのまま Cobra では都合 8枚のシングルをリリースしています。

Cobra 5000 I Can't Quit You Baby / Sit Down Baby : 1956
Cobra 5005 Violent Love / My Love Will Never Die : 1956
Cobra 5010 Groaning the Blues / If You Were Mine : 1957
Cobra 5015 Love That Woman / Jump Sister Bessie : 1957
Cobra 5023 Three Times A Fool / She's A Good 'Un : 1958
Cobra 5027 It Take Time / Checking On My Baby : 1958
Cobra 5030 Double Trouble / Keep On Loving Me, Baby : 1958
Cobra 5032 All Your Love ( I Miss Loving ) / My Baby's A Good 'Un : 1958

Eli Toscano の失墜及びその直後の不可解な死から Willie Dixon を追うように Chess に移った Otis でしたが、そこでは

Chess 1751 So Many Roads, So Many Trains / I'm Satisfied : 1960
Chess 1775 You Know My Love / I Can't Stop, Baby : 1960

のシングルがリリースされたのみで、後に Albert King とのコンビ・アルバム Door to Door という形で出て来ただけです。
そこでは上の 4曲の他に So Close、All Your Love も収録されています。

Cobra での厚遇(?)に比べ、この Chess では Otis Rush が正当に評価されていたとは言い難く、続いて DUKE と契約。

DUKE 356 Homework / I Have to Laugh : 1962

というこれまた名曲を残すのですが、他に Don't Let It End This Way と This Mean Old World の二曲を吹込んでいるようですが、ともにリリースされた形跡は無いようです。
ステージとしてはこの頃には Madison & Homan の Curley's Twist City などに出演していたようで、特に Cobra からの一連のリリースによって彼の知名度はかなり高くなっていました。

1965年には Vanguard に吹込んだ 5曲: Everything's Going to Turn Out Alright / It's A Mean Old World / I Can't Quit You Baby / Rock / It's My Own Fault が V/A Chicago / The Blues / Today! vol.2 Vanguard 79217-2(リリースは 1966年)に収録されています。
そして 1966年には American Folk Blues Festival のツアーの一員としてヨーロッパに渡っています。
このときの 10月16日の Berlin での録音では All Your Love / My Own Fault の二曲が(ウチのはアナログ・ディスク) Fontana からディストリビュートされた GRAVURE UNIVERSELLE 885 431 BY AMERICAN FOLF BLUES FESTIVAL '66 に収録されています。
ただし、このアルバムに関する限り、Junior Wells の Checkin' on My Baby A Tribute To Sonny Boy Williamson 、Big Joe Turner の Flip, Flop and Fly Roll'em Pete にギターで参加しています。
この時の録音でも他の編集による Amiga 855114 では All Your Love 一曲だけとなり、その vol.2 たる Amiga 855126 では It Takes Time と My Own Fault が収録されています。

おそらく、その American Folk Blues Festival での演奏が強い印象を与えたのではないかと思うのですが、ブルームフィールドとグラヴェナイツ(でいいのかな?発音)は Otis を Atlantic のサブ・レーベル Cotillion に導き、そこで Alabama 州 Muscle Shoals で吹込まれたのが 1969年の Mourning in the Morning( Cotillion 82367 )でした。
そこでは「あの」オールマンがギターとして参加したことばかりがとかく語られるようですが、もうひとりのギター、Muscle Shoals のサウンドの確立に貢献した Jimmy Johnson も参加していたことを忘れてはいけません。
収録曲は
Me / Working Man / You're Killing My Love / Feel So Bad / Gambler's Blues / Baby, I Love You / My Old Lady / My Love Will Never Die / Reap What You Sow / It Takes Time / Can't Wait No Longer


かわって 1970年には Otis Rush は Capitol とアルバム 5枚の契約を結びます。
そして、それにしたがって 1971年 2月に San Francisco に赴き、そこで録音したのが Right Place, Wrong Time( Hightone HCD 8007 など)。
Tore Up / Right Place, Wrong Time / Easy Go / Three Times A Fool / Rainy Night In Georgia / Natural Ball / I Wonder Why / Your Turn To Cry / Lonely Man / Take A Look Around
このアルバムは本来、Capitol からリリースされる予定だったのですが、結局、Bullfrog が市場に出すまでは Capitol の倉庫で眠り続けることとなったものです。
そんな状況でしたから Capitol での「 5枚のアルバム」などすべて「ちゃら」だったようで、結局彼の次のレコーディングは 1974年の Black & Blue まで待たねばなりません。
しかし、その間にひとつ重要なトピックを。
1972年 9月10日に白いボデイに鼈甲柄のピックガードという右利き用の Fender Jaguar を抱えて Ann Arbor Blues & Jazz Festival のステージに登場した Otis Rush はたしか 5曲ほどを演奏(なかには Stormy Monday も含まれる)したハズなのですが、そのときの録音からは、ただ一曲、Gambler's Blues のみが Atlantic SD 2-502 Ann Arbor Blues & Jazz Festival 1972 に収録されました。

1974年11月26日にはフランスの Black & Blue にレコーディング。これは後に Evidence ECD 26014 としてリリースされた Screamin' and Cryin'です。
Looking Back / You're Gonna Need Me / It's My Own Fault / I Can't Quit You Baby / Every Day I Have the Blues / A Beautiful Memory / I Got News For You / I Can't Quit You Baby(最後の二曲は CD 化するにあたってボーナス・トラックとして加えられたもの)
続いては 1975年 4月29日(お誕生日だ!)と 5月29日に録音された Delmark DE 638 Cold Day in Hell
これはまた、やたら長い曲が多いアルバムで
Cut You Loose / You're Breaking My Heart / Midnight Special / Society Woman / Mean Old World / All Your Love / Cold Day in Hell / Part time Love / You're Breaking My Heart ( alt. take )/ Motoring Along

別テイクじゃないほの You're Breaking My Heart など 8分を超える作品になっています。

そして 1975年には日本を訪れ、そこでのライヴ( 7月20日と 29日のステージ)から録音された 12曲
Will My Woman Be Home Tonight - Blue Guitar
Everyday I Have the Blues
I Can't Quit You, Baby
Crosscut Saw
Looking Back - Take A Look Behind
Chitlin' Con Carne
I've Got News For You
Mean Old World
All Your Love - I Miss Loving
So Many Roads
Gambler's Blues
Three Times A Fool

が Delmark DE 643(日本では TRIO PA-3086 ) So Many Roads: LIVE IN CONCERT としてリリースされています。
この音源は後に、曲順を入れ替え、Crosscut Saw / Chitlin' Con Carne / I've Got News For You の三曲を「落とされて」 Vivid Sound VSCD 052 Blues Live! として再発されました。ジャケットのデザインも違うのでうっかりダマされないよにね。
一説ではこの時の来日で奥さんのマサキさんと知り合われたらしいのですが、そこらは江戸川スリムさまのほーが詳しそう。

さらに 1976年には Wise Fool's Pub で、これも Delmark のためにライヴ・レコーディング。この音源はおよそ 30年後の 2005年11月にようやく発売される。

続いて 1977年にはヨーロッパ・ツアーにおいて二枚のアルバムが生まれています。
まずは 10月 9日、フランスの Nancy でのステージを Isabel(仏)がレコーディング。
Cut You Loose
All Your Love
You're Breaking My Heart
I Wonder Why
Feel So Bad
Society Woman - Love Is Just A Gamble
Crosscut Saw
I Can't Quit You Baby
I'm Tore Up
Looking Back

の 9曲が納められた LIVE IN EUROPE(この時はジャケットの画像を見ると、日本での Fender Jaguar ─ 白ボディに鼈甲のピックガードではなく、同じ白ボディながらローズウッド指板の Stratocaster ─ ただし PU とツマミは黒っぽい、を使っているようです)が Evidence ECD 26034 としてリリースされています(もちろん「おフランス」国内では Isabel レーベルで出てるハズ)。
その翌週と言ってよい 10月の15・16の両日にはスウェーデンの Stockholm に赴き、そこの Decibel Studio で録音した
You Got Me Runnin'
Little Red Rooster
Whole Lot of Lovin'
It's Got To Be Some Change Made
You Been An Angel
You Don't Have To Go
Troubles Troubles
I Miss You So
Hold Your Train
Same Old Blues(ただしこの曲では Otisではなく、ドラムの Jesse Lewis Green がヴォーカル)

が Sonet SNTF 756 TROUBLES TROUBLES としてリリースされました。
ただしこの音源は後に Alligator の手に渡り、そこではキーボードの Lucky Peterson がオーヴァー・ダブされ( Little Red Rooster だけは Allen Batts がピアノで参加)、また収録された曲も異なり
Hold That Train(曲名が微妙に変更されてますね)
You've Been An Angel
Little Red Rooster
Troubles, Troubles
Please Love Me
You Don't Have To Go
Got To Be Some Changes Made
You Got Me Running
I Miss You So

となって、さらにアルバム・タイトルも LOST BLUES となって Alligator ALCD 4797 としてリリースされました。
この Alligator によって行われた「後処理」については Otis に無断で行ったものらしく、その成果(?)については賛否両論があるようです。

この件は 1990年代に入ってからのことなのですが、それ以前、おそらく 1980年代に入るあたりに、彼のレコード会社、あるいはレコード産業そのものに対する「不信感」はかなり強まっていたようで、それが彼をしてレコーディングの機会から遠ざけたのだ、とする分析をしているサイトもあります。
その彼の久しぶりのアルバムは 1985年 9月15日に San Francisco Blues Festival のステージをライヴ録音したもので Blind Pig BP 73188 TOPS としてリリースされました。収録曲は
Right Place, Wrong Time
Crosscut Saw
Tops
Feel So Bad
Gambler's Blues
Keep On Lovin' Me Baby
I Wonder Why

の 7曲。
翌年の 1986年 7月 9日には Montreux Jazz Festival に出演し、このときのライヴはラジオでも放送されたため、そのエア・チェックかと思われる海賊版が存在します。それによると演奏した曲目は
I Wonder Why
Lonely Man
Gambler's Blues
Natural Ball
Right Place, Wrong Time
Mean Old World
You Don't Love Me
Crosscut Saw(ここからクラプトンが加わる)
Double Trouble
All Your Love

で、この後 Luther Allison を迎えてそのナンバー Natural Man を演奏したあと、みんなで Caldonia という構成だったようです。

その同じ年、つまり 1986年の冬には日本を訪れ、12月12日、東京公演をライヴ・レコーディングしたのが P-Vine PCD-1960 BLUES INTERACTION: Live In Japan 1986 With Break Down で、そのタイトルで判るようにブレイク・ダウンを中心にウィーピング・ハープ妹尾、チャールズ清水などの日本人ミュージシャンによるバッキングで行われています。収録曲は
Introduction - Tops
All Your Love - I Miss Loving
Please, Please, Please
Killing Floor
Stand By Me
Lonely Man - I'm A Lonely Man
Double Trouble
Right Place, Wrong Time
Got My Mojo Working
Gambler's Blues

の 10曲。最後の Gambler's Blues は実に 10分に達する長さ!
こちら、海外では Castle や Sequel というレーベルからリリースされているようですが、そのタイトルも BLUES INTER〜が省略され、ただ Live In Japan 1986、となっているようです。

1992年にはイギリスの London で行われた A Celebration to the Blues という企画のために Buddy Guy、Jimmy Rogers などとともに渡英し、その 1992年 6月28日には London の Hammersmith Odeon に出演し、(たぶん海賊版?) TOAST C-02 ってやつに
Natural Ball
Lonely Man
Blues Left Town
Gambler's Blues
So Many Roads( with Gary Moore )

が収録されているようです。
なお TOAST C-01 には Gary Moore の Blues Is Alright に Buddy Guy や Jimmy Rogers、Pop Stables とともに参加している模様。

そして 1993年、彼は Los Angeles に赴き、そこで「本格的な」スタジオ・レコーディングによるアルバム作りを行うことを計画しています。
かってないほどによく音を吟味し、Joe Sublett のテナー、Marty Grebb のバリトン・サックス、Darrell Leonard のトランペットからなる The Texacali Horns をバックに配し、キーボード陣も Mick Weaver、Ian McLagan、Bill Payne の三人が(同時にはそのうちの二人が)複数の楽器をオペレートする、というかってない緻密なプロデュースで 1974年に録音されたアルバム Phonogram PHCR-1248 AIN'T ENOUGH COMIN' IN は実に久々のスタジオ・レコーディングとしてリリースされています。
Don't Burn Down the Bridge
That Will Never Do
Somebody Have Mercy
A Fool For You
Homework
My Jug and I
She's A Good 'Un
It's My Own Fault
Ain't Enough Comin' In
If I Had Any Sense, I'd Go Back Home
Ain't That Good News
As the Years Go Passing By

ただしこれには日本盤限定(?)で If You Can't Do No Better が追加されているようで、つーことは日本のファンだけがトクしてる?

続いては 1998年に House of Blues からリリースされたアルバム Any Place I'm Going で、「ついに(?)」グラミー賞を獲得しています。
このアルバムでは Memphis Horn も起用し、さらにバックには女性のコーラスまでつく、っちゅう「デラックス版(?)」で、この仕上がりはロック系から彼のファンになったひとにはちょっと「ちゃう」かもしれません。
You Fired Yourself
Keep On Loving Me Baby
Part Time Love
I Got the Blues
The Right Time
Looking Back
Any Place I'm Going
Laughin' and Clownin'
Pride and Joy
Have You Ever Had the Blues
Walking the Back Streets and Crying

え?どっかで聞いたよなタイトルだ?
ま、さいわいこのアルバムなら、あちこちのネット・ショップで(僅か 30秒っつではありますが)試聴も出来ますので、ちゃんとチェックしてみてください。

この後、みなさまの記憶にも新しい 2004年の日本でのライヴのスケジュールが入り、本人もそれを楽しみにしていたようなのですが、その前の冬に脳梗塞に倒れ、歌うことも難しく、ギターもまったく弾けない状態となってしまいました。
しかし、本人のたっての希望で日本ツアーのみはキャンセルされることなく、マサキ夫人の助けで、また彼を迎えた友人たち、さらにステージは、まさに渾身のバック・アップを見せた Carlos Johnson などの助けを得て、奇跡的なステージを日本の聴衆にプレゼントしてくれたのです。
2005年 5月11日に Buddy Guy's Legend で行われた彼の誕生日パーティは実に多くのブルースマンやブルースファンにとって、徐々に快復に向かいつつある彼を目の当たりに出来た一日となったようです。そのあたりのことは BlueSlimの「アリヨの日記*」で読むことができます。
また同サイトには Otis Rush を応援するWe Love Otis Rushもオープンして世界中から Otis への熱い声援が集まってきていますので、興味のある方は是非どうぞ!


そのような熱い支持とファンたちの祈りも届かず、2018年の 9 月29日、彼は帰らぬひととなりました。
ありがとう Otis、あなたを知ってさらにブルースが好きになったんだよ。

R.I.P. Otis...

reserched by Othum: Blues After Dark


注!この下に表示されている広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり、当方は
その商品やサービスを「一切」推薦しているものではありません。






# by blues-data | 2018-10-01 20:31
Cousin Leroy
Crossroad と聞くと、ほんとうのブルースを愛しておられるかたなら誰でも Robert Johnson のそれを思い浮かべますよね( え?E.C.? it's good, but not 'blues')。
あの Crossroad をどのように編曲あるいは歪曲したところで、かならずどこかに原曲の面影が残っているものでございます。
ところが、Cousin Leroy の Crossroad は違うみたいです。最初なんて例の I was a catfish・・・という一節に凄い似てるじゃあありませんか。もちろん、歌詞は違いますが。
悪魔との出会い、やりとり、ギターを仲立ちにした悪魔との取引など、たしかに Crossroad の伝説を歌ったものなのでございます。でも、どうやらベースとなっているのは Rolling Stone のほうでしょうが。
ただ、この録音は戦前じゃなく、1957 年の八月です。もはやそんな伝説なんて信じてる人間も減ってきてる頃、しかも大都会 New York での吹き込みです。
Cousin Leroy のヴォーカルにも、あまり緊迫感が見られないような気がするのは、そのような近代(?)の合理精神が黒人社会でも次第に浸透して来ていたせいである、などと言うのはいささか乱暴でしょうか。

バックのミュージシャンとして Jack Dupree(ピアノ)に Larry Dale(ギター)もクレジットされてはおりますが、聞こえますか?
ハープ( Sonny Terry らしい)はかなり遠いところ(まるで隣のスタジオで演奏しているみたいな?)で鳴っているような気もしますが、ピアノはどうしても聞こえないのですが・・・
それどころか、最初、ソフトなトーンのギターにトレモロ・エフェクトをかけているように思った音ですが、これはハモンドの音じゃないのか?という疑いも出てまいりました。
ソロのところでは確かにギターが二本聞こえていますから Larry Dale のギターと、Gene Brooks のドラムは確実みたいです。でも、明らかにベースも入っているようですが、そのクレジットはありません(蛇足ながら 1955 年の録音ではベースに Sid Wallace というクレジットはあります)。

全体にさすが New York という、ややモダンなテイストが感じられるような気がいたしますが、わたしだけでしょうか?
ただ、この唄い方、どこかで聴いたことあるなあ、と考えてみたら Johnny Guitar Watson だ!

Cousin Leroy の本名は Leroy Rozier ですが、例の Indiana 州 Richmond の Starr Piano Company による Gennett レーベルに、この 'Crossroad' をはじめ、Match BoxHighway 41Catfishの 4 曲 など(など、というのは歯切れが悪いけれど、それが全部かどうか確認がとれてないので、断言できないのです)が収録されておりますが、本来は GROOVE や EMBER に吹き込まれたものが流れたのかもしれません。

Lonesome Bedroom / 41 Highway: recording July 1, 1955 New York; GROOVE unissued
-with Champion Jack Dupree, piano/ Larry Dale, guitar/ Sid Wallace, bass/ Gene Brooks, drums

Goin' Back Home / Catfish: July 1, 1955 New York; GROOVE 4G-0123
-players same as above

Highway 41 / Will A Matchbox Hold My Clothes: recording 1957 New York; EMBER 1016
-players Gene Brooks on drums

I'm Lonesome / Up the River: recording 1957 New York; EMBER 1023: 1957
-players same as above

Waitin' At The Station / Crossroads: recording August 1957; Herald 546

Lists by https://www.allaboutbluesmusic.com/cousin-leroy/

さらにまた別な資料では

String Beans( 2 take いずれも unissued )
Woke Up With The Blues
VooDoo
Crossroads
Rollin' Stone

もまた Cousin Leroy Rozier が 1957 年の 8 月に New York で吹き込んだ、としていましたが、Ember と Herald のどちらからも発売されなかった、とされています。

Wikipedia のレコード・レーベルの項目で見る Gennett は「 1948 年以降、その活動はきわめて低調になった」という記載がありますので、録音はしたものの、そのソースを他社に提供したものか、あるいは、この頃の Gennett では、他社からのプレス業務だけを請け負っていた、とする資料もありますから、そのような縁で流されたものかもしれません。
どちらにしても、そのへんの資料は( Gennett についての資料は「皆無ではない」のですが、その場合でも、以下に述べる他のスターたちに埋没し、Cousin Leroy の名前が出てくることはありません)いまだ発見できていないのでなんとも言えませんが。


ついでに、この Gennett に吹き込んだ他の方々も紹介いたしますと、あの Pee Wee もPoppa StoppaDedicating the BluesCalifornia WomanHuckleboogieCrayton Specialを録音し、さらに Bo Diddley、Little Walter、John Brim、Johnny Shines、J.B.Hutto、Otis Span、Billy Boy Arnold、Lowell Fulson、Roscoe Gordon・・・などなど、けっこう凄い顔ぶれでしょ?

1955 年と 1957 年の 2 度のセッションで録音されたナンバーが、その Gennett に収録されているようです。
ただし、オリジナルは Gennett じゃなく、Groove( RADIO CORPORATION of AMERICA、つまり RCA )や Ember/ Herald が「本来の」オリジナル・シングルのリリース元じゃないでしょうか。
例えばHighway 41など、Ember 1016 として 45r.p.m.のシングルとしてリリースされております。また Ember からは他にも 1023 としてI'm lonesome も出てますしね。
なお、彼の Will A Matchbox Hold My Clothes と Highway 41、そして出所不明な Charles Walker Slop ゆう三曲(?)が Flyright LP 4706 NEW YORK CITY BLUES に収録されているそうです(未確認)。
他には Moonshine とゆうレーベルのコンピレーション二枚にも合わせて三曲が収録されているみたい。

ただし、1957 年の録音のあと、Champion Jack Dupree はヨーロッパ進出のために抜け、それを機に Leroy Rozier は「ようやくサンケタの人口」と言われる Chester に戻って 1973 年までは演奏したりもしていたようですがなんらかの罪によって収監されたところを「脱出」し、ふたたびニューヨークに逃げ込んで「地下生活者」となったもののようでございます。

この Cousin Leroy、どうやら、まったく資料が見当たらず、その出身地すら判りません。
しかし、とある New York のニュース・コラムにこんな記事を発見いたしました。

For Homeless, No Bed of Roses
January 21, 2004 7:00 PM By Ray Sanchez

Even in the grinding poverty of his native Georgia, Leroy Rozier enjoyed a roof over his head.
And throughout his more than 50 years as a super in the Bronx, Rozier always had his own place.

Then, suddenly, on a cold November night in the 88th year of his life, he was sleeping on the subway.

"It feels kind of funny and strange," Rozier was saying yesterday in the dining concourse at Grand Central Terminal. "Nobody wants to help you."
It was nearly 1 a.m., the restaurants were closed and there was nothing to eat in the concourse. Workers feverishly polished the marble floors of the 91-year-old landmark, which would spring back to life within hours.
Homeless men and women rushed to the restrooms. The most desperate stood before mirrors washing their bedraggled hands and faces.
"I have all this age on me," Rozier said. "Where do I go?"

Yesterday morning, 38,657 New Yorkers woke up in city shelters, the highest number since records were started two decades ago. Of them, 8,859 were homeless single adults, the highest count since 1991. There were 16,493 children in the shelters, twice as many as the average daily census for much of the 1990s.

But Rozier is among the uncounted homeless who live in the streets, subways and vacant buildings.
Despite efforts by both Mayor Michael Bloomberg and Police Commissioner Ray Kelly to erase them from the city, their ranks are growing at an alarming rate. The number of homeless families has increased by 108 percent in the past five years, according to the Coalition for the Homeless.
"You're safer on the street than in a shelter," said Rozier, echoing a complaint common among the homeless.
As temperatures dipped below freezing early yesterday, the subway became a sprawling dormitory of lost souls.

Around midnight, several homeless men kept warm taking the short shuttle、lower East Side ride between Times Square and Grand Central. They went back and forth the whole night.
About 2:30 a.m. on a subway platform beneath the Lower East Side, four homeless men, bundled in layers, slept on a wood bench. Another man, carrying plastic bags and muttering incoherently, videotaped them.
At 3:18 a.m., an A train pulled into the last stop at 207th Street in Inwood carrying 18 homeless men and women sleeping in the different cars. The doors opened, the conductor announced the final stop and the homeless just sat there awaiting the next leg of their journey.
A little over a year ago, the city had sought to criminalize homelessness.
High housing costs, low-paying jobs and the economic impact of the 2001 terrorist attacks drove record numbers of people into the streets.
The NYPD increased the number of officers who worked with the homeless and shifted its policy of assisting the homeless into shelters and offering them social services to arresting them. Many were jailed overnight.
A cop named Eduardo Delacruz, a 10-year veteran, became an unwitting symbol of the new policy when he refused an order to arrest a homeless man in November 2002. "I won't arrest an undomiciled person," said Delacruz, who was first suspended without pay and, later, banished to desk duty in East New York.
In April, the city agreed to settle a lawsuit that accused the police department of deliberately singling out homeless people for arrest. The suit had been filed by the advocacy group Picture the Homeless Inc. and the New York Civil Liberties Union. The suit cited sharp increases in the number of arrests of homeless people.
As part of the settlement, the department sent out new directives offering guidance on how officers should carry out their duties. The practice of arresting the homeless merely for being homeless was halted.

In November, when Rozier lost the single room he rented in Harlem, he packed a bag and moved to the subway. He isn't your typical wanderer. "I don't drink, don't smoke, and I don't do drugs," he said.
He eats where he can and collects a modest Social Security check that arrives at a post office box each month.
"I don't sleep at night," he said, adding that he spends nights riding the No. 6 train or resting on a bench at the Grand Central subway station. "I sleep in the day."
Rozier said he was awaiting word from the city on an application for subsidized housing. "I just hope everything is going to be all right for me,"
he said.
His only family is a daughter in Macon, Georgia, where he was born in 1915.
"I got no people here," he said.
Asked if he considered himself homeless, Rozier said no with a smile. "I just can't get a bed to go to," he said.

この Leroy Rozier さんというのが Cousin Leroy だとすると(ブロンクスで 50年以上も、というのも符合するし)、Georgia 州の出身ということになりますね。

もちろん、この Rozier さんがその Rozier さんと同一人物だ、という証拠はなにひとつございません。

さて、2012年になって
http://blindman.fr.yuku.com/topic/44118#.UJPTfBzl5ak
というフォーラムにおいて Cousin Leroy は 2008 年に亡くなっていた、という記載がありました。

そして 2017 年にたどり着いたサイト
https://www.allaboutbluesmusic.com/cousin-leroy/
によれば、1925 年 9 月30日、Georgia 州 Dodge 郡の Chester で生まれ、2008 年の 2 月26日、New York の Manhattan で 82 才で死亡しているとのことで
顔写真(https://www.wirz.de/music/cousinle/grafik/cousinleroy.jpg)まで載ってました。
その記述によればチェスターで「なにかやらかして」投獄されたが「逃亡」し、ニューヨークに潜伏していたのではないか、ということまで書かれておりますねえ。
さて、ニューヨークの地下生活者、Leroy Rozier さんがその Leroy Rozier だとすると年齢が符号しませんね。
よって「別人である」とするのもアリですが、逃亡者ゆえに同定されないために十歳サバを読んでいたのではないか?などと思い切りの悪いワタクシはヒソカに思っておるのでございますよ⋯




reserched by Othum: Blues After Dark


# by blues-data | 2012-11-02 23:39

[ BACK to BIO-INDEX ]