Piano Red
Piano Redこと William Lee Perrymanは 1911年10月11日、Georgia州の Hamptonで生まれました(19才も離れている兄の Rufus G.Perryman ─ 後の Speckled Redはここではなく 1892年10月23日、Louisiana州の Monroeで生まれています)。
男女四人づつ、計 8人の子供たちのひとりだったようですが、おそらく長男だったろうと思われる(なんでかってえと、一家を養うため、父と二人で「働きに出た」という発言が Piano Redのインタビューに残っているからでございます)兄の Rufus以外はちょっと資料が見つかりませんでした。
そのインタビューから彼自身の語る生涯を少し追ってみます。

1917年、彼がまだ 6才の時に一家は Hamptonから 32マイル離れた Atlantaに移りました。
それまでは Davidsonという主人のもと、農園で暮していたのですが、ある日、その主人が農園の黒人たちを「しばき倒す」ために作られた鞭(三つコブがある木の枝、というハナシもあります)を手に小屋の前に立ち、娘はどこだ!出せ!と怒鳴ったらしいんですな。
父は、「娘ってのは Sallyのことかね?なにをしたか知らないが、ワシの娘を叩かせるワケにはいかん。あいつを叩いていいのはワシと家内だけだ!」とやり返したそうです。
それを聞いた Davidsonは部屋の中に押し入ろうとしましたが、父が Smith & Wessonのロング・バレルの六連発リヴォルヴァーを手に、前に立ちはだかり、「もう一歩でも前に出たらあんたのカラダは二つに別れることになるぞ!」と威嚇した、という事件がありました。
もちろん、白人の農園主にそんなことをした黒人がそのままでいられるワケはなく、一家はそこを出て Atlantaへ移ったのでしょうね。
このエピソード自体は彼が 6才のときですから、Davidsonが手にしていたのが Wand─棍棒の類なのか、はたまた鞭だったのか、そして父が Davidsonに向けたのが S&Wのリヴォルヴァーなのかショットガンだったのかなど、多少の混乱が見られますが、それはたぶん後日、父が語って聞かせる「武勇伝」が日によって違ってたりしたせいかもしれません。
どうも、ワタクシとしちゃあ、白人の雇い主に「銃を向けて」、Atlantaに移住するくらいで済んだ、とはちと信じられないんですよ。
ひょっとして「銃を向けて」ってのは父の作った「おハナシ」であって、実際には「睨みあった」、くらいだったんじゃないか?ってえ気がするんですが・・・

その Atlantaでの生活は、父と、19才も年上の兄 Rufusがともに the Miracle Machine Shopというところに働きに出ることで支えられていました。
Rufusもやや弱視の傾向があり、近距離の視界しかきかないために出来る仕事は限られていたようですが、それでも家計の助けにはなっていたようです。
もうすでにその兄 Rufusは the Miracle Machine Shopの仕事に見切りをつけ、ハウス・パーテイなどでピアノを弾き、Speckled Redとして知られ始めていたようですが、ある日、母が、「あなたたちも兄さんのように弾けるようにならなくちゃね。ピアノを買おうと思うの」と言い出し、週に 1ドルの支払いで良い、というセールスマンをみつけ、そこで家には(もちろん新品ではないらしいけど) Gainesboroughのアップライト・ピアノが届けられ、母はその金を稼ぐため働きに出たのだそうです。

1921年には Rufusが Atlantaを出て Detroitに向かいました。
William Lee Perryman、つまり Piano Redが兄の消息を次に知ったのは、日記でも 2003年の 12月19日に採り上げたDirty Dozen を吹き込んだ、というニュースだったそうで、Atlantaを出て行ってから 8年目のこととなります。
この兄、Speckled Redが久しぶりに帰ってきたのは実に 1960年のことだったとか。
それも Piano Redがミュージシャンズ・ユニオンに依頼したことで、やっと連絡がついてのことだったようです。「弟さんがあんたを探しているよ」と組合から聞かされた兄は電話を掛けてきて、ひと月後やってきて、一ヶ月ほど家族と過ごしていきました。

家に来たピアノのおかげで William Lee Perrymanは「 Piano Red」になってゆくのですが、学校に通うかたわらパーテイ(ただし未成年なので、夜のお酒の出るパーテイではなく、日中のパーテイね)で金も稼ぐようになっていました。
家の中の家具をなるべく全部運び出して、みんなが充分ダンス出来るだけの広さを確保して演奏をするワケです。
当時 Atlantaにはギターを抱えて街頭でブルースを歌って生活していた Willie McTellや Barbecue Bob、Charlie Hicksに Buddy Moss、Curley Weaverなどのブルースマンがおり、そのときどきで招きいれて( 10セントから 25セントで来てくれた)一緒に演奏していました。

やがて Peachtree Streetにも演奏しに行くようになりましたが、それは白人を聴衆にする、ということでした。招かれて行った先でカントリーのバンドの合間に演奏して、いつもならそれだけ稼ぐには三、四日ほどかかる 10ドルを、たった 10分で手にしたのです。
1931年にはその Dancelandというカントリー・ミュージックのクラブや、Howell Mill Roadにあったカフェで週に三度演奏するようになっていました。
1933年には Georgia州 Augustaで Blind Willie McTellとともに Callowayとかいう男のレーベル、Bocalionやら Cotillionやらいう・・・あ、Vocalionかもしんねえ、なんてかなりアヤしい記憶ながら、一曲につき 10ドルをもらって 10曲を吹き込んでいるのに、結局「リリースされなかった」!もし、これが出ていれば晴れて彼の初録音の栄誉*を手に入れていたのですが。

Dixie Jazz Houndsというバンド名で North Carolina州の Brevardで毎週金曜に演奏し、さらに Georgia州の Hawkinsville、Thomasville、Griffin、Macon、Eastmanといった小さい街も廻っていたようです。
そんなとき、Atlantaの Decatur Streetにあった the Hole in the Wall Clubで演奏していたときに、Central Record Shopの Mr. Youngがそれを聴いて、「俺が売ってるレコードよりいいじゃないか!」と言ってくれて、RCAの配給部門の Sam Wallaceも連れてきて聴かせてくれたのでした。
Sam Wallaceは「音楽に詳しいワケじゃないので(なんたって製作じゃなく販売部門ですからね)、よく判らないが、ワタシはこうゆうの好きだな」と言ってくれて、二週間後には製作担当の Steve Sholesを Atlantaに送り込んでくれたのです。
かくして1950年 7月25日に地元の放送局 WGSTでオーディションが行われ、そこで吹き込まれた Rockin' With Redと Red's Boogieは持ち帰られて Victor 22-0099となった・・・でも、違うストーリィも伝わっていて、それによると、Steve Sholesは彼を Nashvilleの Methodist Film Commissionビルにあった RCAのスタジオに連れて行った、というんですが、Methodistとあるとおり、宗教関係に縁の深いところなんで、彼が売春宿について歌った曲を始めたもんで、RCAも立ち退きを求められた、なんてハナシが英文ライナーには記されております。ま、レコーディング・データとしては WGSTとなっていますので、Nashvilleでの件はこれとは別口だと思います。
もっとも Steve Sholesも録音はしたものの、「ワタシはカントリーなら判るが、この手の音楽はよく判らないんだよ。」と言ってたそうですから、もう少し「判る」ひとに聴いてもらおう、として Nashvilleに連れて行ったんでしょうか?

* ─ さて、彼のインタビューでの発言ですが、「外から」の証言とはちと「整合しない」部分もございます。
例えば Blind Willie McTellと二人で始めたバンド(?) the Dixie Jazz Houndsの録音の件ですが、McTellのマネージャーだった W.L. Calawayのセッティングで Augustaのモーテルで、1936年の 6月と 7月、Vocalionに行われたレコーディングでは数曲が吹き込まれた、とされています。
ま、それはともかく、1933年だか 1936年だか定かではございませんが、カンジンのその録音、結局リリースされてないんですよ。どころか、そのマスター(おそらくダイレクト・カットされたメタル・マスターだと思うんですが)も完全に紛失してしまったようです。
結局、Piano Redの初のレコードは Rockin' with Redと Red's Boogieになったのですが、この録音については、当時 Atlantaには「録音スタジオ」なんてものは無く、放送局のスタジオしか無かったから WGSTで行われたもののようです。

そのレコードは 10月に発売されましたが、まず地域限定で Atlanta、New Orleans、そして Memphisで先行販売され、その売れ行きがかなり好調だったので全国でも発売したそうです。特に地元 Atlantaの WAOKの D.J.だった Zenas Sears( Piano Redと知り合った当時は WGSTでThe Blues Caravan という番組を持っていた白人の D.J.。後に WATLという局に移り、そこで手腕を発揮して経営者となるや、コールを WAOKに改め、R&Bをダイタンに増やしたのだそうです。やがて WAOKはネットの手を広げ、その先っちょが RCA Victorにまで届いたことで同社のレコードのリリースを積極的に番組で紹介することでコネ(?)を作っていったようです。また逆に Atlantaのミュージシャンを RCA側に紹介することもしていたらしく、そこで WAOKのスタジオで生演奏をしていた Piano Redも、彼の尽力で Atlantaのウエストサイドにあった Magnoria Ballroomでのライヴを収録したアルバムを RCA傘下の Grooveから出すことが出来たのでした)はいちんちじゅうかけてくれたそうで、彼が WAOKの社長になったときに Piano Redに毎日午後の一時間、生演奏でのショウ・タイムを与えてくれたのだとか。

それを追うように吹き込まれたのが The Wrong Yo Yo(これは Carl Perkinsによってカヴァーが Sunに吹き込まれてます)や Just Right Bounce、そして Laying the Boogieなどで、それが 1951年のことです。
およそ 1958年までは Victorに吹き込んでいるのですが、最後のアルバムは Nashvilleで、Chet Atkinsのプロデュースで(!)製作されました。

その後も Atlantaをベースとして(ときに録音を New Yorkで行うこともあったようですが)放送に、レコーディングにと活躍し、RCA Victorには 1958年まで吹き込みをしていますが、1959年(後述)には Checkerに Get Up Mareを、さらに Jaxというマイナー・レーベルにも 8曲を吹き込みをしていますが、そこでは彼のもうひとつの人格(?) Dr. Feelgoodという名前が使われております。

およそ世界で一番有名なイギリスのポップス・バンド(と言ったらイノチをふりしぼるようにしてポップスじゃない!ロック・バンドだ!とわめいていた知人もおりましたが)が演奏した Mr. Moonlightって曲は、彼らの初来日の TV放送でイントロみたくして流してたから、オヤジ&チャンジーのみなさんは知ってるかもね。
その Mr. Moonlightのオリジナルは、Piano Redが 1961年に作ったバンド、Doctor Feelgood and the Internsで、Curtis I. Smithと思われるギターのストロークをバックに、なかなかいいテンションで、でもちと粘っこく歌われてますが、実はこれ歌ってるのは Piano Redじゃあございません。この曲の作者、Roy Lee Johnsonでございます。

1959年、Checkerにシングル Get Up, Mareを録音、としている資料もありましたが、Checkerのディスコグラフィーではリリースが 1958年、カップリングは So Worriedとなっています。さらに Jaxというレーベルに 8曲ほど吹き込み、それが Doctor Feelgoodにつながって行きます。
ここで再び Zenas Searsが登場し、その紹介で Columbiaとの契約が成立します。
1961年、Columbiaのサブ・レーベル Okehからリリースされた "Doctor Feel-Good"(作は、バンドのギタリスト Curtis I. Smith)が例の Doctor Feelgood and the Interns(全員、白衣の医者の扮装でキメてたんだって!)のデビューとなりますが、その裏面に収録されていたのが Mister Moonlightだったのです。
結局、Doctor Feelgood and the Internsは Okehに 1966年まで吹き込みを続けました。
また WAOKでは 1967年までthe Doctor Feelgood Show が続いています。
ただし、Columbiaはあまり Doctor Feelgood and the Internsの売り込みには熱心ではなく、それに嫌気がさした彼はプロモーション・ツアーにヤル気を無くし、Atlantaの Muhlenbrink's Saloon( alt. Muhlenbrink's Tavern)に腰を落ちつけ、1969年から 1979年まで演奏を続けています。それでも 1980年代初頭にかけて何枚かのアルバムを録音し、さらには Carter大統領のプロジェクトの一環としてヨーロッパ・ツアーにもでかける、という生活を送りました。

タバコも酒もやらない彼でしたが、1984年、ガンと診断され、翌年の 7月25日に息を引き取りました。
Piano Redの死後に、Rockin' with Redを世界初の「ロックンロールのレコード」なんて言ったひともおるようですが、いかがなものか。
ま、確かに Rockin' with Redは Little Richard( 1957年、She Knows How to Rock のタイトルでリメイクし Specialtyに吹き込み)や Little Jimmy Dickens( Columbiaに吹き込み)、Jerry Lee Lewis( Sunだけど、たしかまだ収録されてないんじゃ?)なんかにカヴァーされてはいますけどね。



reserched by Othum: Blues After Dark


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by blues-data | 2005-10-09 03:56

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