Skip James
Nehemiah Curtis James は 1902 年 6 月21日(異説では 9 日)、Mississippi 州の州都 Jackson の北北東、およそ 30km の位置にある Bentonia 近郊の the Woodbine Plantation で生まれた、とゆーことになっていますが、一部の資料では、両親がいたのはそこであるが、実際の出産はそこから States Highway 49 を 24km ほど北に行ったところにある Yazoo City(ここで States Highway 49 は 49-West と 49-East に分かれて北上するようになり、West は Belzoni を経て Indianola を通過、一方の East は Tchula 経由で Blues Heritage Museum もある Greenwood を通り、やがて Tutwiler で再び East と West が合流して、「ただの」 49 号線となる)の「有色人種専用病院」で行われた、としています。
ま、いずれにしろ、彼が育ったのは the Woodbine Plantation だったワケですが、1907 年には、当時、密造酒の製造に手を染めていた彼の父(ひところ、牧師でもあった、っちゅう資料もありますが、そのよーな聖職者が、俗世間の悪に親しんでおったのでしょうか?)が妻子を残して、トツジョ「逐電」してしまいますが、おそらく、国税庁の地方税吏からの告発を前に「逃亡」したのではないか、という説もあります。
そのようにして父がいなくなりはしたものの、1912 年(これにも異説があって 1910 年とするものもあります)には、母が彼にギターを買い与えてくれています。
もしかすると、プランテーションにいた、ということで、経済的に破綻することなく、「それなりに」生活を続けることが出来たのかもしれません。
これが自立した家庭で、父親が突然「失踪」などしてしまったらかえって「悲惨」な結末になっていたかもしれず、ま、逆に考えれば、プランテーションにいりゃあ、死ぬことはない、なんて打算の上で妻子を残して逃げくさったのやもしれませんねえ。
もっとも、2ドル50セントのギターを買うにあたっては、潜伏していた父からのお金も混じっている、とする資料もありますから、そこらあんまりイージィに決めつけは出来ないのかもしれませんが。

彼にギターを教えてくれたのは Sataria Plantation の近くに住んでいた 5 才年上の Henry Stuckey で、Yazoo 2009 the Complete Early Recordings - 1930 にも収録された 8 小節からなる古謡(?)Drunken Spree も教えてくれた、とされています。
ところで、彼 Nehemiah Curtis James が "Skip" James と呼ばれるようになったのは彼がまだ 6 才のころに、その踊り方がちょっとユニークで、スキップをしているように見えたところから "Skippy" James と言われるようになったところから来ているそうですが、そのヘンについちゃあ異説もありそう。

1914 年には母が彼を連れて、前述した States Highway 49-East の Tchula と Greenwood の中間(かなり Greenwood 寄りで、その郊外とも言える 10km ほどのところ)にある Sidon に移っています。
なんだって、そんなヘンな(だってフツー、プランテーションを出たら、職を求めて「都会」に向かうのが一般的ですからねえ)とこに行ったのか、ってえと、そこに潜伏(?)してた父がいたかららしいんですよ。
母は、もいちど一緒に暮そう!と迫ったようですが、その話しはまとまらず、するうち、嫌気がさしたのか Nehemiah Curtis James は 1916 年、そっから家出(ま、はたして「家」と言えたかどーか?)してしまいました。
結局、母は Bentonia に戻り、1917 年にはそこに彼も戻ってきます。
母は彼を高校に通わせ、週末は Gooching Bros. の製材所で働くことになりました。
この時期に彼はいとこで学校教師でもあった Alma Williams からピアノの基本を学んでいます。
しかし、1919 年には高校をドロップ・アウトし、150km 近くも北上し、Jackson と Tennessee 州 Memphis とのほぼ中間地点(からちょっと西にズレてるけど)にある Ruleville(そっから 16km ほど西にある Cleveland との間には Dockery )近辺の道路工事現場に住み込んで働き始めました。
およそその後の 2 年間も彼はランバー・キャンプをはじめとするデルタ一帯の様々な現場を転々としたようです。

そのランバー・キャンプで働いている時に彼は初めて自分でも曲を作ったようで、それが Illinois Blues だ、と言われています。
週末ともなると彼はギターを携えて 10km ほど北の Charlie Patton や Tommy Johnson、そしてWilllie Brown なども活動していた Drew や、逆に 90km ほど南下する Louise や、その少し手前の Belzoni などの町の近くまで赴き、そこで演奏してチップを稼ぐ生活を送っていました。

1921 年には Tennessee 州 Memphis から北西に 70km ほどの Arkansas 州 Weona に移り、そこでもやはり木材関係のキャンプで働いています。
そしてそこで、Weona の東、16km ほどの同じ Arkansas 州 Marked Tree から来ていたピアニストの Will Crabtree に出合ったことが、その後の彼のピアノ奏法ばかりか、生き方にまで影響を与えたのかもしれません(本人はそう言っていたようですが)。

結局 Weona には 1923 年までいたようですが、なにやら、とある女を追って Memphis に出て、North Nichols Street にあった売春宿の専属ピアニストになったのでした。
しかし 1919 年から始まったアメリカの禁酒法(あ、禁酒法ってアメリカだけだと思ってるでしょ?実は Finland でも kieltolaki という名でそれが施行されておったのですねえ。ただ、アメリカより一年早い 1932 年に撤回されています。で、もっとも早くから施行していたのはカナダで、プリンス・エドワード島では 1900 からスタートし、もっとも遅かった Quebec はフィンランドやアメリカと同じ 1919 年から、となっています。しかも翌年には撤回され、そのためアンタッチャブルでお馴染みの Chicago に Michigan 湖を渡って「密輸」なんてハナシが出てくるワケです。一方のプリンス・エドワード島では終ったのももっとも遅く、1948 年!)が次第に売春業界(?)にも不況をもたらしたらしく、1924 年には売春宿を引き上げて Bentonia に帰ってきました。
以後、数年をそこで過ごすのですが、とりあえずは小作農になったものの、じきに「悪の道」に踏み込み、そこはやはりカエルの子はカエルっちゅうべきか、違法に製造されたり、密輸された酒類の密売で稼ぎ、女たちに宝石やら高価なドレスを買い与えてチヤホヤされていたようでございます。

ま、もっとも、そんなことばっかしてたワケじゃなく、例の Henry Stuckey とともに地元 Bentonia はもとより、Sidon に Jackson でも一緒に演奏し、練習し、ギターのウデを確実に上げていったのでした。
そうしてスリー・フィンガー・ピッキングをマスターした、とされていますが、それには Henry Stuckey のみならず、Charley Patton や Bo Carter にも影響を受けていたと思われます。
ただ、それによって完成された彼のスタイルを、E マイナー・オープン・チューニング(彼自身はそれを Cross-note tuning と呼んでいたとしていますが)とする資料と、一般の Vestapol、つまり通常の E オープンとしているものとに分かれています。
E マイナー・オープンだとすっと、Albert Collins みたいですねえ。
その独特の響きとファルセットのコンビネーションはやはり注目されたようで、Paramount Records のタレント・スカウト、H. C. Speir によって、Jackson の Farish Street 111 番地にあった Speir 自身のレコード・ショップでオーデションが行われ、その結果、Wisconsin 州 Grafton にあった Paramount のスタジオで 18 曲を録音(諸説あって、それを 17 曲である、とするもの、また 26 曲を録音したが、現在確認されているのは 18 曲だけである、としているもの・・・)した、と言われています。

その直後、父と再会したことがキッカケとなって、悪事から足を洗い、バプティスト教会の牧師となったらしく、父とともに Texas 州 Plano に赴き、1950 年代初頭に母が死んだことで Bentonia に戻って来ています(別な説では「大恐慌」によってレコードのセールスが止まり、充分なペイが行われなかったために、音楽を離れた、という見方も)。
しばらく聖職者としての生活を送っていたらしいのですが、1964 年にブルース・コレクターの John Fahey によって再発見され、Son House らとともに New Port Folk Festival に出演し、各地のカレッジでのライヴも行ったようです。
ただ、その束の間の栄光も長くは続かず、次第に彼の健康にはかげりが見え始め、1969 年10月 3 日には、ついにガンのために死亡しています。
Pennsylvania 州 Bala-Cynwyd の Mercon Cemetery に埋葬されたのでした。


reserched by Othum: Blues After Dark


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by blues-data | 2005-11-15 20:48

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