Speckled Red
決して粗野というのではないけど、シルキー・スムースとはとても言えないゴツゴツしたテクスチュアの「ガリゴリ系(?)」の硬骨ピアノ・ブーギに乗せてちょっぴりいかがわしさを匂わせた、ぶっきらぼうな歌いっぷりがこれまたいい味を出しています。ピアノの「弾き語り」なんて言うと、もっとしっとりした情感を連想しがちでしょうが、ことブギウギ・ピアノではそんなコトは「ありえません」ねん。たったひとりで弾いて歌って、こんだけパワフルなんですから、これだったらランバー・キャンプとかの酔っ払いどもの騒音に勝てるかも。

Rufus G.Perryman(ミドル・ネームの「 G」がなにを略したものかは判りませんでした)は 1892年10月23日、Louisiana州の Monroeで生まれています。彼と彼の弟( William─1911年生まれ、Rufusとは 19才も離れている。兄弟は全部で 4人、他に姉妹が 4人いたらしい。父は Henry Perrymanで、Williamが生まれた時には一家は Georgia州の Atlantaから 32マイルほどの Hamptonにいた。しかし、姉妹の一人をかばって父が農園主に銃を向けたため、そこにはいられなくなり Atlantaに移っています。そして、すでに成人していた兄の Rufusと父の二人が働きに出ていたようです。その兄は 1921年に Detroitに発って行ったあと、まだ学校に行っている間からピアノ演奏でカネを稼ぐようになり、徐々に Atlantaでは知られた存在となって行ったようですが、そのピアノは兄の影響ではなく、Fats Wallerの影響なんだって。そして、もうすっかり「お馴染み」、Blind Willie McTell、Barbecue Bob、Charlie Hicks、Buddy Mossに Curley Weaverといったギタリストたちとも交流をするようになっています。1950年には初吹き込み、以後「You Got the Right String, Baby (But the Wrong Yo-Yo)」などをリリース。ついにはヨーロッパ・ツアーを行うまでになりました。1985年に死亡)は遺伝的な色素異常で、ともに黒人でありながら白い皮膚と「赤い」髪をしていたため、どちらも「〜 Red」という名を貰うこととなりました。彼は Speckled Red、弟のほうは Piano Redとして有名になります。

弟の Piano Redのインタビューによると、Rufusが Detroitに向かったのは 1921年となっていますが、1925年、とする資料もあります。
あ、そうそう、弟の Piano Redが生まれる前ですから、彼が知るハズのない点ですが、どうやら幼い時期を Detroitで過ごした、という資料もあります。それが、第一次世界大戦の間、Georgia州 Hamptonに「戻り」教会の足踏みオルガンを弾いていたのだ、と。
「戻り」とあるからには、それ以前にも Hamptonにいたことがあるのでしょうか?
はたして、そんなに頻繁に行ったり来たりなんて出来るもんでしょか?
もしかすると「前後」の記述に混乱があるのやもしれません。
それはさておき、1920年代の始めには Atlantaにいた、というのが弟のインタビューと符合いたします。そこからさらに Detroitに戻ったようですが、ただし、まだ音楽で喰ってはいなかったようで。
やがて南部諸州を放浪し始めたらしく、Jim Jackson(おそらく 1884年の生まれ。Mississippi州の、Memphisから 20マイルほど南の Hernandoという小さな町の農園で育ったようです。彼のギターは父から教わったようですが、Frank Stokesからも影響を受けているとされています。1905年にはシンガー、ダンサー、そしてギター・プレイヤーとして medicine showに雇われました。当時の medicine showは色々なエンターテイナーを雇い入れ、テントやワゴン─「フィフィ空を行く」でサーカスのメンメンが暮らしてたのがそれですねえ。え?選ぶ映画がコア過ぎる?─で生活をしつつ、各地を旅して、アルコール・ベースの強壮薬みたいなドリンクを売るためのショウをして歩くものです。1912年にはそこ以外にも Gus Cannonの Cannon's Jug Stompersで演奏したり、Hernando在住の相棒 Robert Wilkinsとも演奏をしたりしています。1915年からは the Silas Green Minstrels、あるいは the Rabbit Foot Minstrelsといった「ミンストレル・ショー」、さらに the Abbey Sutton showなどに参加し各地を巡っていました。彼の持ち歌は何百曲もあったそうですが、それはブルースだけではなく、バラッドやヴォードヴィルなど様々な内容だったようで、ブルースでは、「ごく初期の」プリミティヴなものが主流だったと言われております。旅に出ていないときには Memphisの Beale Streetあたりに出没し、前述の Gus Cannonを始めとして、Furry Lewisや、後に Memphis Jug Bandのギタリストとなる Will Shadeとも一緒に演奏をしていました。またクラブでは Pee Wee'sや Big Grundy's、そして時には the Monarch Clubにも出演しています。Speckled Redと一緒にやっていた、とされるのが、おそらくこの頃じゃあないか、と思うんですが・・・1927年にはタレント・スカウトの目にとまり、Paramount Recordと契約が成立しました。ただ、これをまとめたスカウトの H.C. Speirがその契約を Vocalion labelに「転売」してしまいます。結局、彼は1927年10月10日シカゴで、有名な Jim Jackson's Kansas City Blues, Parts 1 & 2 を吹き込んでいます。それは同年12月にリリースされ、大ヒットとなりました。Vocalionはとーぜん年が明けてスグ Kansas City Blues, Parts 3 & 4 他、全10曲を吹き込ませています。もう有名になった Jim Jacksonは、Memphisに居を構え、Victorなどが「出向いてくる」フィールド・レコーディングに神輿を上げるっちゅー活動になったようでございます。その時期のヒットは「I'm Wild About My Lovin' 」など。ただし、基本的に彼のスタイルは前世紀的なところがあり、新しいブルースとは異なった風合いを持ったものです。1929年には映画 Hallelujah! にも出演し、勢いがつきかけたところに「大恐慌」が到来し、それも失速してしまったのでした。彼の最後の録音は 1930年の 2月ですが、やがて故郷の Hernandoに戻り、ふたたびショーで各地を訪れたり、時には Memphisでも演奏をしたりしていたようですが、1937年には、Hernandoで死亡しています)と一緒に「仕事をした」とされています。1929年から1930年にかけて Brunswickに 10曲を吹き込み、1938年には Bluebirdにも 10曲を入れています。1950年代になってからは Tone/Delmark labelに録音しています。

The Dirty Dozensはランバー・キャンプでのバレルハウス・スタイルのナンバーで初吹き込みは 1929年と言われますが、12番目の悪弊を意味したところから「 Dirty Dozen」( Dozenってのはダース、つまり12でひとくくりでげしょ?)ってタイトルになってるらしいっす。
このデルマークのものは↓の URLで聴くことが出来ます。
http://www.delmark.com/delmark.601.htm

彼が死んだのは 1973年 1月 2日、St. Louisで、でした。



reserched by Othum: Blues After Dark


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by blues-data | 2005-11-17 21:38

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