Sugar Boy Williams( Jody Williams)
Sugar Boy Williamsこと Joseph Leon "Jody" Williamsは、1935年 2月 3日、Alabama州で生まれています。ザンネンながら、それ以上詳しい出生地の資料は発見出来ませんでした。Chicagoには 6才の時に来ている、とありますから、モチロン自分の意志じゃあなく、家族が揃って北上してきたものと思われます。時あたかも第二次世界大戦にアメリカもひきずり込まれることになる Pearl harborがその年の12月 7日に控えているワケなんで、その後どのよーな少年時代を過ごしたんでしょね?イロイロ資料を漁ってみたのですが、その時期に触れた記述が見当たらないんですよ。
いつも、こーやってそのブルースマンのおイタチ・・・じゃなかった生い立ちを追ってって、イチバン面白いのがその辺りなんですが。
どうやってデビューしたのか、そのブレイク・ポイントが「知りたい」ワケです。
したがって、デビューもハタし、だんだん有名になってって、次々アルバム出すコロのハナシはあましキョーミが無い、っちゅーか薄れちゃってるんですよ。ま、うすうす感づいておられる方もおられるでしょうが、BLUES日記でもその辺は手を抜いてます。
だからこの Sugar Boy Williamsこと Jody Williamsみたく、どーやってギター弾くようになったのか?どうやって弾けるようになったのか?なんてえトコがドカっと脱落してるとヒジョーにサビシいざます!

ま、それはともかく、1951年には Chicagoの街頭で Bo Diddleyと一緒に演奏していたそうです。
計算ではまだ16才ってことになりますね。それが1950年代の中頃には、その Bo Diddleyの初期のナンバーのセッションに参加してもいますが、彼の名がブルース・シーンで「知られる」ようになったのは、やはりウルフのバンドに一時在籍していたことが大きいでしょう。
そこで彼が関わったナンバーとしては、Forty Four Evil Who Will Be Next が挙げられます。ただし、ウルフのバンドにあっては、後から登場した Hubert Sumlinにその座を譲っているのは皆様ご存知のとおり。
Hubert Sumlinはインタビューで、「ウルフが紹介してくれて、( Jody Williamsに対し)『こいつ(つまり Hubert Sumlinね)にイロイロ教えてやれ』って言ってくれて、Jody Williamsはオレにギターの弾き方とかを教えてくれるんだが、どれももう知ってるコトか、オレのほーが知ってるようなもんだった」、だそうでございます。
ま、そこら、ブルースマンはみんな(は語弊があるか?)ホラ吹きだから、このハナシもどこまでホントだか判りゃしませんがね。
それでも1950年代後半から1960年代の前半にかけて、Chess、VeeJay、Cobra、そして Mercuryなどのレーベルにサイドマンとしての仕事を残しています。
Billy Boy Arnoldの I Wish You Would 、Jimmy Rogersの One Kiss 、そして前述の Bo Diddleyとは Who Do You Love I 'm Looking For A Woman をレコーディング。
そのようなサイドメンとしての仕事とは別に、1955年には Little Papa Joeとして Looking for My Baby を、1957年には Little Joe Lee(この Leeってのは Leonから来てるんでしょーか?)として例の Lucky Louと You May、さらに1960年には Little Girlと Five Long Yearsを Argoに Sugar Boy Williamsの名前で吹き込んでいます。
この最後の二曲は Red Lightnin'の When Girls Do It に収録された、っつーワケ。

でも、彼はそんな自分の音楽的素養にギモンを持ったのか(一説では Otis Rushに特徴的なリックを盗まれ、さらに Micky Bakerにも彼が Billy Stewartのために作ったリックを盗用されて、このビジネスにすっかり嫌気がさした、としてる資料もありますが)、『Red Lightning』と名付けられた1962年製 Gibson ES-345TDをケースにしまい込み、ベッドの下に押し込んだまま、コピー・マシーンの Xerox社のエンジニアとしての生活を選んだのです。
こうして彼は James Walkerに言わせれば「シカゴ・ブルースの失われた環( the missing link in Chicago Blues)」となったのでございますよん。

月日は流れ、その間に彼は家族との生活を確立し、シカゴのサウスサイドに家を買い、完全に音楽業界からは姿を消してしまいました。そのため、事情を知らないブルース・ファンは彼がすでに死亡しているもの、と思ったようです。
1994年に Xeroxの技術者としての仕事を退き、老後(?)の生活を考えたときに、ふたたび音楽に関わることを決意したようで、当時の彼のドラマーが保存していた1964年当時の録音テープを聴くことが出来た時、思わず「もう、こんな演奏は二度と出来ないのだ」と涙が止まらなかったといいます。しかし、彼は後にインタビューで「ブルースはここ(アタマ)とここ(ハート)にある。ただ手が衰えてしまっていた」と答えた通り、かなりな努力でスキルを取り戻すことに集中し、まずは当時の音を再現することを目標に練習を重ねました。
こうして彼は往時のプレイアビリティを復活させることに成功し、まず Netherlandのフェスティヴァルに出演し、ついには2001年の Chicago Bluesfestでのスタンディング・オヴェーションを味わうこととなりました。

その年の秋には彼とプロデューサーの Dick Shurmanはスタジオに入り、彼にとっての「初の」ソロ・アルバム Return of a Legendを製作しました。
実に 40年の年月を超えて Lucky Louや You Mayが蘇ったのです。
このアルバムには Sean Costello( b.1979, Philadelphia, Guitar & Vocal, Landslide Recording Artist)、Rusty Zinn( b.1970.4.3,Long Beach, CA. Guitar/Singer-songwriter, Alligator Recording Artist )、Tinsley Ellis( b.1957, Atlanta, "I'm a rock and roller who plays the blues,")、さらに古い馴染みの Billy Boy Arnoldまでがヴォーカルで参加しています。

現在はそのかっての職業のなせるワザか、エレクトロニクス系のガラクタ(?)に囲まれて、ハイド・パークのアパートに住んでいるようですが、2002年にはお馴染みのパーク・タワーのために来日しております。この時に抽選で見事にギターが当たった幸運な方が、なんと「ぶるうすまにあの巣」公開セッションに「二人も」揃ったのでございました。


reserched by Othum: Blues After Dark


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by blues-data | 2005-12-01 23:26

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