Wilbert Harrison
Wilbert Harrisonと言えば Kansas City!
一瞬、ファッツ・ドミノを思わせる 5度から 4度に落ちてくる R&Rっぽいピアノ(もちろん、テンポはゆったりしてますが)で始まり、I’m goin’ to Kansas City, Kansas City here I come ・・・というお馴染みの歌がケッコー落ち着いたトーンで染み込んでくるんですが、間奏では一転、Jimmy Spruillのハイ・テンションかつトレブリィでハードなギターが「かき回し」、ヴォーカルの抑えたトーンと対照的です。
案外そのクールな印象の歌との対比も面白いし、一種の「ご当地ソング」ですから、聴く側も勝手にその「カンサス市」についてのイメージを膨らませられる部分もあったのか、ビルボードでは、初登場100位から 6週間をかけて、1959年5月18日には遂に「1位」まで昇りつめています(翌週も1位)。
ただ、その Kansas Cityの原曲は Little Willie Littlefieldの K.C. Loving で(もち、「K.C.」ってのは「Kansas City」ね)、このカヴァーのヒットによって、原作者、Jerry Leiber/Mike Stollerの著作権料など、金銭トラブルもあったようですね。なまじヒットするとこれだもんなあ。
ついでながら Kansas Cityでトンがったギターを聴かせてくれる Jimmy Spruillは同年、Little Jimmy Spruillの名で Kansas City March なんてのを Fireに入れてます(『N.Y.Wild Guitars』 P-VINE PCD-2359に収録)。

Wilbert Harrisonはその後、Let’s Work Togetherなんてそこそこヒットした曲もありますが、ポップ・チャートの上では、ま、キョクタンに言っちゃうとミゴトな「一発屋」だった、つーことになるんでしょね。ま、アメリカじゃ、二発屋(?)ってことで「A Two-Hit Wonder」なんて言われてるよーですが。

Wilbert Harrisonは1929年の1月5日(6日としている資料もあります)North Carolina州の Charlotteで生まれました(28人家族だったとか!)。
成長の過程で触れていたのはスピリチュアル/ゴスペルからヒルビリー/カントリーとかなり幅広かったようで、そのあたりが彼の音楽的な指向性を左右しているように思われます。
1946年に入った海軍をブジ(?)1950年に Miamiで除隊し、その周辺で音楽活動を始めているのですが、カリプソをベースにした傾向だったそうです(!)。
それがマイアミのプロデューサー Henry Stoneの目にとまり、Rockin’という彼のレーベルにデビュー・シングル This Woman of Mineを吹き込み、Rockin’ 526としてリリースされました(カップリングは The Letter)。
ワタシは聴いたことがないのですが、その曲では既に、後の「Kansas City」に使われているのと実に良く似たメロディが登場しているのだそうです。
でも、その頃すでにオリジナル、Little Willie Littlefieldの K.C.Loving はリリースされてたワケでしょ?じゃあ、やはり、ウェストコースト・スタイルだったオリジナルを、そのスタイルにコンヴァートしたことによって大ヒットにつながった、ってワケなのかな?
この頃には、あのハリー・ベラフォンテの「Calypso Man」なんてのもカヴァーしてた、ってゆーから、にゃるほど、「並み」のブルースマンとはそーとーちゃいますね。

やがて New Jersey州の Newarkに移り、Savoyの上層部が迷ってるうちに、偶然、プロデューサーの Fred Mendelsohnの目にとまり、Terry Fellのカントリー系のキャッチーなカバー「Don’t Drop It」から始めて、Savoyにいくつかのセッションを録音していますが、1954年から1956年にかけて、当時の New Yorkのトップ・クラスのセッション・メンバー;アレンジャーの Leroy Kirkland(記憶の良い方なら覚えておられるかもしれませんが、「あの」Screamin’ Jay Hawkinsの作品でも顔を出しておりますぞ)、サックスに Buddy Lucas、ギターには Mickey Bakerと Kenny Burrellっちゅう「豪華メンバー」を揃えたにも「かかわらず」ヒットにはつながらなかったのねん。

そして1952年に Bobby Robinsonが所有する Furyに吹き込んだ Kansas City(Fury 1023)が大ヒットし、R&Bとポップスの両チャートで成功するのですが、実はその時点ではまだ Savoy(その経営者 Herman Lubinskyがその少し前に姿をくらましていたとはいえ)との契約が「有効」であったため、そのヒットがトラブルの原因となってしまったワケです。

1960年代の後半にはワンマン・バンド・スタイルで演奏していたらしいのですが、1969年に出した Let’s Work Together(Sue 11)が R&Bチャートの 2位、ポップ・チャートの17位、という久々のヒットになっており、それも入れて「A Two-Hit Wonder」と言われてるようですが、それを重視しないひとは「A One-Hit Wonder」と、やはり「一発屋」扱いでございます。
その後、一時期ウェストコーストに行ったりもしてたようですが、1994年10月26日やはり North Carolina州の Spencerで死亡しました。



reserched by Othum: Blues After Dark


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by blues-data | 2005-12-20 15:48

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