Willie Mabon
Blues After Darkの HPの Voodoo Cafeでもチョロっと Screamin' Jay Hawkinsによる I Don't Knowを取り上げておりますが、もしかすっと、みなさまに一番の馴染みは案外ブルース・ブラザースのかもしれませんね。

あるいは現在来日中の James Cottonか?ま、ワタクシあたりは 1977年12月12日の Eddie Taylor Live In Hirosakiにおける Oddie Payne Jr.の快演が印象的だったのでございますが、それはみなさま聴いておられないでしょから(ねっ?)、言ってもせんないこと。

ただし、この曲、この Willie Mabonがオリジナル、と思っておられる方も多いでしょうが、実は 1938年(諸説あって 1937年とするものから 1939年まで)に Cripple Clarence Lofton*によって吹き込まれたものをソースとしてリメイクされたものなのです。それはその歌詞を見たらどなたにもナットクいただけるハズ。ま、著作権法に触れそうなんでここには抜粋たりとも載せませんが、興味がおありのかたは http://www.luckymojo.com/bluesidontknowlofton.htmlをご覧になってください。

*Cripple Clarence Lofton─1887年 3月28日 Tennesse州 Kingsport生まれ。"Cripple"という(肢体障害者を意味する)のは生まれついての(あるいは出産時の事情から、とも言われる)脚の障害だったらしいのですが、それでも、彼は素晴らしいタップ・ダンサーでもあったそうで、ピアノを弾きながら脚で「踊り」、唄い、M.C.もこなし、スタンダップ・ジョークまでこなしていた、という多才なプレイヤーでもあったようです。
おそらくテント・ショウで鍛えられたと思われる彼のワザは 1920年代のシカゴにおいて早くも知られるようになっており、1930年代には Big Appleという名の自身のクラブを持つまでになっていました。
1940年代には Gennettや Vocalionなどにもレコーディングをしていますが、ブギウギ・ブーム(?)の終焉とともに早めのリタイアを決め込んで、1957年 1月 9日に脳血栓で死亡するまで Chicagoで余生を送った、とされています。


ま、それはさておき、一応、この Willie Mabonの I Don't Knowがあったればこそ(?)愛唱歌として数々のミュージシャンにも採り上げられるようになったのも事実でして、1952年10月、Chicagoで Parrotに吹き込んだこの曲は、同年11月に Parrot 1050(カップリングはWorry Blues 。後に Collectable COL 034587として市場に出回っているものはカップリングが Willie Mabonではなく、the MarathonsのPeanut Butter 。なお、蛇足ついでに、同時に吹き込まれた Willie MabonのSee Me Cry L.A.の二曲は結局リリースされなかったようです)としてリリースされるや、たちまち R&Bチャートの 1位を獲得し、そこから実に15週にわたってチャートに居続ける大ヒットとなったのでした。

Willie James Mabonは 1925年の10月24日、Tennesse州 Hollywoodで生まれていますが、もちろん映画マニアが真っ先に連想するであろう、あのハリウッドではございません( Hollywoodって、たしかアメリカ国内に 40ヶ所ほどあって、かなり「ありふれた」地名みたいです)。始めはハープやギターもやってた、と言う説もありますが、手のケガ(ドアに挟まれたとか)のせいでギターをあきらめた、なんて、ギターは弾けないけどピアノは弾ける、っつーケガっちゅうのは、一体どんなものなのかちょっと想像できませんねえ。
ともあれ、16才ではそうとうピアノが弾けるようになっていたらしく、1942年、一家で Chicagoに移り、それからハープも吹くようになった、という説もありまして、そこらかなりな「差」でございますが、ま、とりあえずは彼の演奏活動上でさほど「ハープ」が重要な位置を占めているワケでもないんで、どっちでもいっか?・・・なんて言うとハーピストのみなさまからお叱りを受けるかも。


ところで 1942年といえば、まさに第二次世界大戦の真っ最中でございます。
Willie Mabonも海兵隊として二年間の兵役を送ったとされてるのですが、除隊したのが 1945年、としている資料がございますので、大戦末期をなんとか無事に乗り切ったもののようです。また、ハープを Chicago以降、とする説では、この海兵隊としての二年間、おそらく、もっとも手軽に持ち運んで、どこででもエクササイズできた唯一の楽器としてハープと親しんだのだ、という考察も「一理ある」とは申せましょう。
Chicagoに戻ってきた彼は 1947年にギターの Earl Dranes**とともに the Blues Rockersを結成し 1949年には初録音をしています。また彼は単独でも J.O.B.に吹き込んでいるようですが、そちらは Apolloからリリースされたようです(未聴)。

**Earl Dranes─通常ギターとして知られ、1954年 8月 9日に吹き込まれた James Banister and his Comboの一員として参加したりもしていますが( James Banisterはドラマーでかつグループ・リーダー&ヴォーカリスト)、一連の Aristocratおよび Chessへの the Blues Rockersのレコーディングでは、Earl Dranes; Bassとなっています。
1949年のTrouble In My Home Times Are Getting Hard は Aristocrat 407として、また翌1950年 3月 5日に録音されたWhen Times Get Better (たぶん前年のTimes Are Getting Hard に対するセルフ・アンサー・ソング?)とBlue Rocker's Bop は Aristocrat 415として、Little Boy, Little Boy My Mama's Baby Child は Chess 1531としてそれぞれリリースされています。その時のメンバーは、ヴォーカルが James Watts、ピアノはモチロン Willie Mabonで、ギター Eddie El、ベースとして Earl Dranes、そしてドラムは Dizzy Pittsあるいは Duke Tideとなっています。

また、James Banister and his Comboのこの Statesへのレコーディング・セッションにはハーピストの Alfred "Blues King" Harrisも参加していますが、普段 James Banisterはハープではなくサックスを入れていたそうです。

また、資料によっては Lazy Bill Lucasも the Blues Rockersに参加していた、としているものもありますが、少なくとも初期のレコーディング・データ上では彼の名は出てきていません。
ただし、クラブなどでの演奏には加わっていたのかもしれず(あるいはたまたま、資料に遭遇することが出来なかっただけ?)、それを否定するのは難しいでしょうが。

そして 1952年、Al Bensonの Parrotに吹き込んだこの I Don't Knowはすぐさま R&Bチャートのトップに躍り出て、そしてすぐにChessに売られました( AMGによればその 8週間後となってますが、当時の Checker 1050のシングルの一部に、Parrot 1050の「上に」Checkerのセンター・レーベルを「貼った」ものがある、と言われておりますから、実際にはもっと早い時期に売られたハズ。やはり AMGはあまりアテにならない!)。翌年には二匹目のドジョウを狙ったI'm Mad もそこそこヒットいたしております。
およそ、この時期の彼はソング・ライターとしての才能を発揮していた、と言うことが出来るでしょうが、面白いことに the Blues Rockers時代のスタイルとは決別し、バンドにギターをいれてないんですね。
やがて 1956年に Leonard Chessが亡くなると彼は Federal Recordsに移籍。以後 Mad、Formal、USAといったレーベルを渡り歩きましたが、この期間にはローカルなセールスをたまに上げたものもありましたが、さしたる活躍はしていません。


その彼も 1972年に Parisに移住し、以後 1985年( 1986年としている資料もあります)4月19日に死亡するまで、主にヨーロッパを安住の地として演奏活動も行っていた、と言います。


reserched by Othum: Blues After Dark


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by blues-data | 2005-12-31 20:24

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