Yank Rachell
James "Yank" Rachellは 1910年 3月16日に Tennessee州 Brownsville郊外の農場で暮らしていた George Rachellと Lula Taylorの間に生まれました。

彼がまだ 8才の時に母は仔豚を渡し、育てるように、と言いつけたそうですが、近所の住人が自宅の前で弾いていたマンドリンに魅せられてしまった Yank Rachelはどうしてもそれが欲しくなり、かといって持ち主の言う「 5ドル出すんなら譲ってもいいよ」の条件に応えられるワケもなく、結局、飼育を任されていた件の仔豚と「引き換え」にマンドリンを手に入れたのでした。マンドリンを手に家に帰った彼は、それを知った母が取り乱すサマに驚いた、といいます。
しばし嘆き騒いだ後で「今度の秋には家族みんなで豚肉のご馳走を食べるけど、あんたはマンドリンを食べなさい」とはまた気が利いてますね。
そうまでして手にいれたマンドリンですが、元々マンドリンはアパラチア系や、ヒルビリー系など、ヨーロッパ周辺諸域の白人の民俗音楽とのほうが親和性があり、黒人でのプレイヤーは稀でしたから、とうぜん彼にその弾き方を教えてくれるようなひともおらず、もっぱら独学で「つまびいて」おったもののようです。
しかし、遂に一筋の光明が!(あれ?「光明」に一筋はヘンか?)それは 7月20日の日記でも採り上げた Hambone Willie Newbernでした( 1929年に「Rollin' and Tumblin' 」を初めて録音した、つまり録音として残した最初のブルースマンという意味であり、彼が作ったかどうかは別のモンダイ。Hambone Willie Newbernは、1899年に、ミシシッピ州、あるいはアーカンソー州あたりで生まれたのではないか?と言われていますが、名が知られるようになった頃にはテネシー州 Brownsville周辺にいたようです。よろしかったらおヒマなおりなんぞに 7月20日付の日記もご参照くださいませ)
Hambone Willie NewbernはYank Rachelにマンドリンを教えてくれて、彼に欠けていたマンドリンに関する知識なども教えてくれたようです。以来、彼らは連れ立って Brownsville周辺のハウス・パーティなどで演奏もしたようですね。


続いて知りあったのが、これも当時 Brownsvilleにいた Sleepy John Estesで、こちらともツルんで演奏したり、一緒に遊んだりもしたようで、その友情は 1977年の Eatesの死まで続きました(あの Hammie Nixonと知りあったのもこの時期と言われています。その後 Estesと Hammie Nixonはコンビで第1回のブルース・フェスティヴァルのために日本にまで来るワケですが)。
彼らはジャグ・バンドのようなカタチをとって Tennesseeから南部諸州にかけて、聴衆が白人であろうと黒人であろうと演奏してまわったようです。1920年代の中頃、このトリオ(つまり Yankに Estesそして Hammie Nixonね)は Memphisに河岸を変え、さらにパワー・アップして行きますが、やはりそれには Memphisという環境が寄与していたことでしょう。
Handy Parkを手始めに、後にはピアノの Jab Jonesと James "Yank" Rachel、John Estesのトリオで「 Three J's Jug Band」を結成し、クラブなどで演奏もするようになりました。

1929年、The Three Jsは Victorに吹き込むチャンスを掴んでいます。その時の「Broken-Hearted, Ragged and Dirty Too 」の出来が良かったので、すぐさま Victorは同年の 9月と10月に計 5曲を追加することとなりました。「Divin' Duck Blues 」をはじめ、それらのレコードはケッコウ売れたみたいで、さらに翌年の 5月にも録音するはこびとなったほどです。なお、この時の録音ではバックにハープの Noah Lewisが参加しています( Noah Lewisは1895.9.3、Tennessee州 Henning生まれ。Memphisに移り Gus Cannonの Cannon's Jug Stompersの一員となる。グループでは1927年の Paramountが初録音となる。後に「Going to Germany 」で脚光を浴びるものの「大恐慌」の波に飲み込まれてしまう。極度の貧困の中、1961年 2月 7日、凍傷から来る壊疽によって死亡した)


でも、この状態も大恐慌によって終り、( Estesは Chicagoに出て行き Deccaや Bluebirdへの吹き込みを続けますが) Yank Rachelは Brownsvilleに戻っています。農業をして、あるいは L&N Railroadで働き、数年を過ごしました。また、この間に彼は結婚して家庭も築いています。それでも、ちょっと小金が必要になった時など、近所のハウス・パーティなどで演奏して稼いだりはしてたようですが。

そして John Lee "Sonny Boy" Williamsonと一緒に演奏するようになったのも、この二人だと「稼ぎ」がいいからだったようです。"Sonny Boy"は Jacksonにいて、二人は週末ごとに Jacksonか Brownsvilleで演奏していたようですが、この二人は友人として、息も合っていたのではないでしょうか。1938年に一緒に Chicagoで Bluebirdに録音し、お互いの名義のレコードに、それぞれバッキングをつけています。
この二人の共演関係は 1948年の "Sonny Boy"の突然の死まで続きました。

ただし、この時期は Yank Rachelはまだ Brownsvilleにいて(後に、まず St.Louis、さらに Indianapolisまでは来ていた、という資料もありますが・・・)、録音の時に Chicagoに出てくる、という状態だったようです。というのも、彼には前述のとおり「家庭」があり、おまけに奥さんの健康が優れなかったため、あまり頻繁に家を空けられない、という事情があったようです。
その「連れあい」が 1961年、天に召されてからは、Indianapolisに居を移し、積極的に演奏に、またレコーディングに、と活動を開始したのでした。

後年、彼の古い友人である Sleepy John Estesが Brownsvilleで「生きている」のを再発見されるや、Yankはすぐに Estes & Hammie Nixonとのチームを再結成し、コーヒー・ハウスやコンサート、フェスティヴァルにも出演するようになって行きました。

一方で Yank Rachelはソロとしての活動もしており、遠くヨーロッパにまで足を伸ばしています。また1970年代には J.T.Adamsや Shirley Griffithとストリングス・バンドとしての活動や Blue Gooseなどへのレコーディングもしていますが、1977年の Estesの死に際し、彼の音楽への意欲はどうやら大きく削がれてしまったようで、その後も時おり演奏の場に出てくることはあったようですが、レコーディングも散発的になり、the Slippery Noodle Innの準レギュラーではあるものの、極まれにローカルなミュージシャンのアルバムに顔を出す程度となっていました。

「 James "Yank" Rachel、Indianapolis在住のブルースマン、1997年 4月 9日に死亡。87才でした」

え?マンドリンのことに殆ど触れてねえな、って?そら仕方おまへん。いかに雑食性のワタクシでもマンドリンについてのウンチクは持ち合わせとりませんのじゃ。 2本づつ 4組み、8本の弦で、って位は知ってますが、調弦は?なんて尋かれてもヴァイオリンと同じよな 5度上タイプなのか、はたまたギターみたいな 4度上なのかも判りません。かすか〜な記憶じゃヴァイオリン・タイプだったよな気もするけど(っつーか、ちょっとネットで調べりゃ判るんですがね。ま、だからキョーミあるひとは自分で調べてねん)、定かじゃないっす。


reserched by Othum: Blues After Dark


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by blues-data | 2005-12-31 20:44

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