William Earl Branch は Illinois 州の、Chicago からは Lake Michigan を右に見て 50km ほど北上したところにある町、Great Lakes の湖岸沿いに 137 号線を北に辿った Waukegan 地区の Naval Hospital で 1951 年10月 3 日に、最終的には 4 人となる一家の子供たちの一番最初の子として生まれています。 しかし、彼がまだ 4 才の時に一家は Los Angeles に移ったようで、そこで育ったと言ってもよいのではないでしょうか。 Naval Hospital =つまり海軍病院ですね。そこで生まれた、とゆーことは、父が海軍の軍属だったのでしょうか?もしそうなら、その後の西海岸への移転も、そちらの基地に転属された結果なのかもしれません。 南部や中西部あたりからウエスト・コーストへ、という移動は「ありがち」ですが、通常、シカゴ( Great Lakes は実質上、シカゴの文化・商業圏内にあります)から「わざわざ」西海岸へ、という流れは考え難いですからねえ。 とは言え、それについて言及している資料には出会っておりませんので、これはあくまでも推論の域を出ませんが(・・・という点について某江戸川区民から有力な情報が寄せられました。それによると Billy Branch のお父さんはやはり海軍の軍属で、軍楽隊のメンバーだったそうです。そのお父さんは、かって日本の佐世保にもいたことがあるそうで、そこで活動していたバンドの名前は「赤玉ボーイズ」だった、と。そのせいか Billy Branch も日本に来ると必ず赤玉ポートワインを買い求めるのだとか。先日の青森でも部屋と楽屋に常備していたそうです)。 その彼が最初にハープを持ったのは 10 才である、としている資料もありましたが、1997 年の Steven Sharp によるインタビューでは 11 才の時だ、と語っています。 そして Los で初めて聴いたブルースについては Wolfman Jack(本名 Robert Weston Smith、1939,1,21-1995,7,1。1958 年から 1966 年にかけて Texas 州 Del Rio から国境を越えたスグ、Mexico は Coahuila 州 の Ciudad Acuña にあった送信出力 250KW という AM ステーション XERF で D.J. を勤め、西部諸州から条件次第ではアメリカ国内の大半のリスナーに音楽を届けた伝説的な人物。映画アメリカン・グラフィティにも出演)の放送あたりからではないか、と答えていますが、さほど強烈な印象ではなかったようです。当時、家族もブルースを特に聴取する習慣も無かったらしく(もっとも、後で判ったらしいのですが、彼の母はシカゴで生まれ育っただけあって、若いころにはブルースがかなり好きだったそうです)、ケッキョク彼の Los Angeles 時代は、ブルースとはあまり縁の無い生活だったようです。 その彼が 17 才の時に Chicago に来て、とは言ってもほとんど「ブルース」というものの知識も無かったらしいのですが、高校の上級生になったとき、ちょっとした研究発表をすることとなり、そこで「革命」というテーマに沿ってジミ・ヘンドリックスなどを採り上げ、それはクラスではおおいにウケたらしいのですが、それを監修する立場の教師からは、「ブルース」についての言及がありましたが、その頃の彼はまだブルースに意識のピントを合わせてはいなかったようです。 当時の彼の音楽との関わりですが、まずは祖母が買ってくれたオルガンや父の Magnus Chord Organ( 25 鍵で、どうやら基本的には Cheap な Plastic 製の Toy Instrument で、Worth about 15$、つまりイマで換算すると 2000 円くらいで買えるオモチャのオルガンってことになりますか?画像は http://www.combo-organ.com/whatisit.htm で。Vox Jaguar などの、This is a combo organ に対比して、This is not 側の筆頭にシンセなどを従えて登場してるのが笑えます)などで Knock On Wood や I'll Be There を弾いて遊んでおり、さらにピアノのある知人のところではそれも弾きまくっていた、と言いますから、音楽的な下地は充分にあった、と言えるのではないでしょうか。 そして、それはハープにも活かされている、と思うのですがいかがっしょ? Kenny Neal との I Just Keep Loving Her でのソロを聴いていますと、ハープには素人のワタクシの耳には「経過音」など、それまでの通常のブルース・ハープではあまり使わない音が時折り紛れ込んでいるように感じられるのですが、そのヘンはえどすりちゃまから後ほど御教唆いただけるやもしれません。 と、ここで、とある方からの投稿を紹介いたしましょ。消印からするとどうも江戸川区にお住まいのようなのですが・・・ ─ これは個人的な意見ですが、ビリーのハープのフレーズが「個性的」なのは、キャリー・ベルからの影響が大きいと思っています。 Buster Benton の "Lonesome For a Dime" のオリジナルにはキャリー・ベルが参加していますが、80年代に入ってからのヨーロッパ録音にはビリーが参加しています。 これを聞き比べると、かなり影響を受けているのが分かります。 1穴から10穴まで(実際は9.10穴はほとんど使いませんが)目一杯使いこなすフレージングです。 そして、その奏法を遡っていくと、ビッグ・ウォルター・ホートンにたどり着きます。 戦前からストリート・ミュージシャンをやっていただけあって、色々なタイプの曲に対応できるテクニックを身につけていますよね。 メキシコ民謡の"La Cucaracha"なんか典型的な例です。 "Walking by Myself"のバッキングなんか、例えばリトル・ウォルターなんかでは絶対に出てこないフレーズです。 6.7.8穴辺りを多用するのが三者に共通する特徴です。 もっともその底辺には、多くの戦前ハーピストがいるんですが。 う~ん、なんという素晴らしい分析!このように実際のハープの音を理解しておられるこの説にはとても説得力があります。きっとハープの達人であろう、と思われるのですが、いったいどなたなんでしょうね? ところで、シカゴでは父とその後妻と思われる「継母」と一緒に暮らし始めた、といいますから、そこらイロイロと事情があったんでしょうねえ。 その彼が 1969 年の Grant Park のフェスティヴァルに出会い、(当時はブルースについて詳しくはなかったため、記憶は多少あやふやらしいのですが) Junior Wells やマディ、さらに Big Mama Thornton に Koko Taylor などの音楽に触れ、Chicago Circle キャンパスの建築を専攻していた孤独でやや鬱屈していた生活に落ち込みかけていた彼の心に響いてくるものを感じ、家に帰って、当時フィルム現像(&同時プリントか?)の景品として貰ってたジョン・メイオールのアルバムを引っ張り出し、それに合わせてハープを吹くようになった、と答えています。 もっともその頃にはハープを曲のキーに応じて替える、ということを知らずに苦労したらしいのですが。 そんな彼がやがてサウスサイド(の 35 番街と King ストリートのとこ、と「言ってる」と思うんだけど、現地を知らないので推測でげす)で Rahsaan という男に出会い、彼のハープは「ブルースではない」と告げられ(!・・・やっぱりねえ。メイオールじゃあ)、Sonny Boy や Little Walter の存在を教えられることになったようで(酒を呑むことも教えられたみたいですが)、これが大きな転機だったのかもしれません。 やがて彼は Five Stages というとこに連れて行かれ、そこでマディを見たようですが(なにやら Otis Spann の追悼のような催しだったらしい)、そこでは目の前で Rahsaan がハープを持ってステージに乱入(?)するさまを見て、ハーピストはあらゆる機会を逃さないようにしなきゃイカンのだな、と学んだみたい(ってえとこが、ちとスラング混じりの会話文なもんで、ちとその内容には自信がおまへん。WEB 翻訳じゃワケ判らんタワゴトにされちゃうし・・・)。 やがて彼は Junior Wells の義理の息子だった Lucius Barner と知りあいます。そしてその Lucius が彼を Theresa's に連れていってくれて、Junior Wells は二人を見て「入ってよし」と言ってくれたそうです。 またその後、彼がよく聴きに行ったのが Short Stuff(ハープの Jim Liban と、キーボードの Junior Brantley からなる Wisconsin のバンド。あまり詳しくはないのですが、1970 年代から 1980 年代に活躍してたらしい、白人のブルース系ロックのバンド?)で、彼らの出てたノースサイドのクラブ Alice's Revisited では Carey Bell、Charlie Musselwhite の演奏にも触れています。 Short Stuff の Jim Liban は、彼をステージに招き上げてくれた最初のプレイヤー(正確には「のひとり」)で、他にも Lefty Dizz、Junior Wells、Buddy Scott などが彼のブルースへのスタートをサポートしてくれたそうです。 やがて彼の通っていた学校でライヴがあったりすると、仲間の学生たちが「 Billy をステージに!」と騒いでくれるようになり、その仲間たちはまたクラブにも来てくれるようになっていきました。 そんな時、ハープ・プレイヤーの Little Mack が WVON に出てたときに「俺は世界一のハーピストさ。ハープで俺に勝とう、ってえヤツはいるかい?誰の挑戦でも受けるぜ」と言ったのを受けて実際に挑戦し、Little Mack は負けを認めなかったものの、居合せた Jim O'Neal や Bruce Iglauer には確実にその存在を認められることになったのです。 そのころの彼はどうかすると、学校にも行かず朝っぱらから楽器が出来るとなれば(たとえそれがチューバやフルートであろうと)自宅でジャム・セッションを繰り広げていたそうで、家族にとっちゃエラい迷惑だったでしょうね。 そして学校で知りあった Sarah という秘書が Willie Dixon の秘書業務を行っていると知った彼は、その電話番号を手に入れ、自分を売り込んで、会う約束をとりつけています。 ちょうどハンク・アーロンがベイブ・ルースの本塁打数を抜いたことを記念したナンバーを吹き込むリハに行った彼はさっそくハープを吹き、Chess のスタジオに明日、来るように、と言われたのでした。 その時のメンツは Lafayette Leake、Buster Benton、Clifton James そして Willie Dixon で、Carey Bell が不在だったらしいんですね。あ、ヴォーカルは McKinley Mitchell。 さて、1975 年に the Green Bunny Club で行われた「自称ハープ世界一」の「生ける伝説」 Little Mac Simmons とのハーモニカ・バトルで、Little Mac をリングに沈めるまではいかなかったけど、圧倒的な「判定勝ち」をおさめた Billy Branch が、いよいよ Willie Dixon に認められ、Chess のスタジオで行われた、彼にとっての初吹き込みですが、本人は「 I still got a few of those 45's. It was on Yambo Records. "The Last Home Run."」とインタビューで語っているのですが、一部の資料で「 Barrelhouse Records 」である、としているものもあります。そんな年代まで Barrelhouse Records ってあったんだっけ?(彼自身の記憶では、その裏面は Big Walter Horton をフィーチュアしたAll Star Boogie だったのではないか?ってことです。ううむ、あくまでも野球ネタで通したのねん) これ以降、いわば「見習い」みたいな存在で Willie Dixon のグループに関わり、ギグやツアーにも同行していましたが、ある時、本来の(?)ハーピストである Carey Bell が「ヤメたい」と言い出し、「あとはお前がやれ」と Billy Branch に託して去っていったらしいんですねえ。 その時から彼は正式なメンバーとしてモマれることになるのですが、それに関して Lafayette Leake のことを懐想しています。 Lafayette Leake ― この人は正当に評価されていないけど、隠れた天才だよ。 実はとてもダイナミックな人間なんだ。いっつもハワイアン・プリントのシャツを着ててね、傍らにはツブれた帽子を置いて、ジっと座ってるんだ。 一切の感情を押し殺したように同じ表情でさ、まわりがフザけてても微笑むこともしないんだよ。 まるで偉い教授かなんかみたいにね。 ところが、彼は実際に「教授」だったんだよ。彼は理論もマスターしてて、ピアノを教えていたのさ。いや、それどころか、Carey Bell に聞いたんだけど、彼はハープについても Carey Bell にハープの理論を教えてくれたし、実際に吹いてみせた、と言うんだな。 だから、俺のことも放っておくワケはない。 「おい、Big Walter みたく 5 度の音を半音下げてみろ」とか「それと 3 度も半音下げろ」とね。 俺は「は?ナニそれ?」てなもんだよ。(ここで「半音下げる」ってのは、もしかすっと「ベンド」・・・あれ?「チョーク」っていうんだっけ?・・・のことかもしれません) 彼はまるで哲学者みたいだったなあ。みんなにポンと「議論のタネ」を投げ出して、みんながそれについてワイワイやってるのを、プラトンかソクラテスが弟子たちの議論を見守るように見てて、そんな時には、われわれの言ったことに笑ってたっけ。 個人的には Big Walter Horton とツルんでいた時期があったようですね。インタビューではそのことについて、また他のハーピスト、Carey Bell や、Jimmy Reed、さらにこれもまた不当に低く評価されている Buddy Scott などについても語っています。 しかし、そのインタビューで印象的なのは、Willie Dixon について語っている部分です。 黒人にとってのブルースとは?さらに、アメリカにとってブルースとは?そして我々(アフリカ系黒人)は何故「ここ」にいるのか?それらのことをよく考えるようになったのは、まさに Willie Dixon の薫陶があってのことだ、というのが良く理解できます。 そして、彼自身が学童たちにブルースを教える活動を始めた際に、その Willie Dixon から受け継いだ「我々は何者であるのか?ブルースとはなにか?ブルースになにが出来るのか?」を、その活動の基本に据えたのは当然だった、と言えるでしょう。 このインタビューは英文であるため、より正確なニュアンスを感じていただくためにも、辞書片手にでも、是非チャレンジしていただきたい、と思います。Willie Dixon が Billy Branch に託した、とても大事なことが沢山そこにはありますから。 URL は http://www.bluesmusicnow.com/branch80bc.html です。 その Willie Dixon の All-Stars に正式に加入( 1979 年)する前にはまた他のブルースマン、Lefty Dizz に Junior Wells、James Cotton、Jimmy Walker、Sammy Lawhorn に Johnny Littlejohn などとの交流を重ねて行たらしいのですが、中でも Jimmy Walker とは、ピアノの Pete Crawford を加えた the Jimmy Walker Trio として Gilmore's に出演し、後になって Steve Patterson(別名 Twist Turner )を加え、さらにベースの Steve Milewski も加えてクラブで演奏し、人数で分けると 7・8 ドルにしかならないギャラは、全員でなんか呑むとたちまち消えて無くなったけど、そこで演奏出来ただけでもうゴキゲンだった、と(どーやら「 pass-the-hat money 」と言ってますから、チャージじゃなく「投げ銭」方式のギャラだったみたい)。 1979 年に Willie Dixon の All-Stars に Carey Bell の後釜として入ったものの、それなりの苦労もあったようで、まず、彼には自分のアンプってものが無く、そこであてがわれたのが Sears Silvertone(つまり Silvertone の製品を通販 No.1 の Sears が扱った OEM )で、彼はそのアンプを形容するのに「 Shittiest 」とゆう最上級の( Shit→クソっ!Shitty→クソったれな?Shittiest→最上級?でも実際には辞書に無いよな気がすんだけど)賛辞を捧げておりますが、ギターの Buster Benton のギター・アンプはおよそ出力 300W なのに、そいつときたら 30W くらいで、それで負けないように吹きまくるもんだから口がボロボロになっちまったそうでございます。 でも、それよりツラかったのは、行く先々で、Carey Bell はどうした?どうして Carey Bell じゃないんだ?と言われることだったようです。 しかし、Willie Dixon はクラブのオーナーをいつも説得し、彼を使い続けてくれました。 彼のような未経験な、しかし将来性のある若いメンバーを育て上げることを使命としていたのでしょう。 さいわい Billy Branch は前述のように、伝説的存在と言ってもよいような蒼々たる顔ぶれと交流していたこと、さらには「あの」 Magnus Chord Organ からピアノまで弾きまくっていた、というキーボード経験が彼のハープのポテンシャルを高めていったのではないか?と、ヒソカに思ってるんですが・・・ それとは別に 1977 年、Berlin Jazz Festival に Jim O'Neal が委任されてブルースの若手を送り出すことになり、13 人のメンバー( James Kinds、Dead Eye Norris、Bombay Carter、Harmonica Hinds、Vernon Harrington ─ は~い、記憶力のいい方は覚えておいででしょか?先日の Eddy Clearwater、彼のラスト・ネームも、初吹き込みをした Atomic-H のオーナーも、 Carey Bell も、そして息子の Lurrie Bell も、みんな Harrington の一族なんですねえ。で、この 1952 年 5 月21日 Chicago 生まれ、左利きのギターとして Johnny B. Moore のバンドにいたこともある Vernon も、これまた Eddy Clearwater のいとこでございます)が選出されたのですが、その中から、自然に Freddie Dixon をベースに、そしてギターについては Jim O'Neal の薦めで Lurrie Bell、そしてドラマーには Clifton James の息子、Garland Whiteside(なんで父子で姓が違うの?なんて尋かないでちょーだい。そこまで調べてるヨユーは無いざんす)でスタートした、このユニットこそが The Sons of Blues の出発点だったようです(ただし、レコーディングの時にはドラムがすでに Jeff Ruffin に替わっております)。 つまり Billy Branch 以外はみな、ブルースマンの息子だったため、Sons of Blues の名になったんですね。 Junior Wells の義理の息子(ホラ、ここにも息子)、Lucius Barner の作った曲、Tear Down the Berlin Wallがベルリンに行けなかった Lucius の代わりに現地で演奏されました。 アメリカに帰ってきてからは小規模なギグをこなし始めたようですが、そのさなかに Lurrie Bell がバンドを去ってしまいます。海外のツアーのスケジュールを進めようとしていた時だったので、急遽 John Watkins をギターに据え、また Vernon Harrington のとこでちょこっと出てきた Johnny B. Moore も一時いっしょにやってたこともあったようです。 John Watkins もまたやがてバンドを去り( because he was a leader himself.─ by Billy )メンバーはいくつかの変遷を経て行くことになるのですが、 http://www.joes-corner.de/chicago2002_billybranchartis.html では 2002 年 6 月のそのメンバーとして Billy Branch のヴォーカルとハープ、Sumito Ariyoshi(有吉 須美人)のピアノ、Nick Charles のベース、Calvin Kadakie Tucker のパーカッション、Mose Rutues Jr. のドラムとなっており、そのゲストとして John Primer( Voc.& Guit. )、Lenny Lynn( Voc. )、 Deroles( Voc. )、Ronnie Baker Brooks( Guit. Lonnie Brooks の息子)などと並んで、いま話題の Carlos Johnson も加わっています。 Alligator の The New Blueblood では J. W. Wilkins の Chi-Town Hustlers と Sons of Blues の合体(?)でThe Only Thing That Saved Me が収録されておりますが、ここでのヴォーカルは J. W. Wilkins で Billy Branch ではありません。 また、そこでのギターは Carl Weathersby(詳しくは、えどすりちゃまの http://www.kiwi-us.com/~slim/cweathersby.html でどうぞ)です。 2005 年の Billy Branch and the Sons of Blues はギターに日本人の丸山 実を入れて、7 月には青森で行われたブルース・フェスティヴァルに二夜連続で出演しています。 さらに翌2006年には同じメンバーで今度は三夜連続で出演しました。 同年末にはギターの丸山 実が「卒業」したもよう。 その商品やサービスを「一切」推薦しているものではありません。
by blues-data
| 2005-09-02 19:58
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