Buddy Guy
1936年 7月30日、Louisiana 州の Baton Rouge から北西におよそ 80km、States Highway 61、84、167 と National highway 10 に囲まれた南北に長い矩形のほぼ中心に位置する綿花栽培地帯の農村 Lettsworth の、白人地主 Feduccia 家の農園で働く小作人(かつ木こり)、Sam Guy と Isabell Toliver の間に George Guy は生まれています。
どうやら Jelly Roll Morton などと同様に、父母は正式な婚姻関係にはなかったようで、ただこちらは母が別なオトコと結婚した、なんてこともなく、父と行動をともにしているところが違いますね。
いよいよ出産が近付いたとき、Sam Guy は二人の娘( George の二人の姉、Annie Mae と Fanny )に母を見ているように言いつけて、自ら馬をトバし、姉二人に George、さらにその後に生まれて来ることになる弟たち、Sam Jr.と Phillip もすべてとりあげることになる助産婦の Lucy Lewis を迎えにいったのだとか。

George Guy ─ 後の Buddy Guy によれば、「少なくとも、綿花のプランテーションをやろうってんなら、あのくらいそれに向いた土地はないよ。たまには旱魃で作柄が不良な年もあったけど、そんな時でも地主からは月に一樽の小麦粉と調理用のラードが支給され、飢え死にするよなことはなかったね」・・・
雇い主によってはもっと悲惨な生活を強いられていた黒人の小作農も多かったことを考えれば、彼のいた農園は「恵まれた」環境であった、と言うことが出来るかもしれません。
したがって幼い頃の彼は、白人農園主の息子などとも一緒に遊んでいたようで(さすがに、成長するにつれて疎遠にはなっていったようですが)、さほど人種の「壁」を意識してはいなかったようです。

さて、上に姉がいる、という「長男」によく見られるように、なかなか「甘ったれのゴネ男」クンだったようで、日曜日の「お出かけ」中でも、ちょっと気に入らないことがあると、ダダこねて道の真中だろうがどこだろうが構わず泣きわめき、要求が通るまでテコでも動かないっつー、かなりの「クソガキ」ぶりだったようでございますよ。
10才のときには早くも自分の銃を手に入れ、害獣駆除の名目で麝香鼠、アライグマ、フクロネズミなどを撃ち、それと釣りで得た魚が貴重な動物蛋白質ともなっていたそうです。
それが無ければ、一年で肉を口に出来るのはクリスマスだけだったと。

生活そのものは、朝、明るくなったら綿花を摘み始め、それが日没まで続く、というきわめて単調なもので、100 pounds の収穫に対して 2 ドル、という相場だったようです。
この 2 ドルという対価が不当に低いように思われるかもしれませんが、もっとヒドいとこでは、対価が、雨露をしのいでかろうじて寝られる小屋と、日々の(それも粗末な最低限の)食事だけ、なんて待遇が「当然のように」まかり通っていた時代があったし、いえ、この同時代にだって、ところによっちゃ「まだ」あったかもしれないことを考えればズイブン恵まれていたと言えるかもしれません。

さて、George クンはいくら手伝っても、それは両親の収入となるのですが、土曜日の朝だけは、どうやら他人の畑に忍び込んで「摘んできた」分(ん?それってドロボウじゃ?)を小遣いとして貰えたらしいですが、そーして稼いだおカネは殆ど、ナッシュヴィルの WLAC で Gene Nobles が DJ をしていた音楽番組を提供していた Tennessee 州 Gallatin の通販業者、Randy Wood の Randy's Record Shop から、一枚 69 から 79 セントの 78 回転のレコードを取り寄せることに費やされたようです。

ただ、実際に彼の家に電気が引かれたのは 13才か 14才のころだったと言いますから、それらの SP は当然、手巻きの蓄音器によって再生されていたのでしょう。
その電気も、それを引くために、一年がかりでカネを溜めて、よーやく一個の電球が部屋の真中にぶら下がるようになったそうですから、Radio や電蓄を買うとなると、容易なことではなかったと思います。

そうして手に入れた最初のレコードは John Lee Hooker の Boogie Chillen だったそうで、そのギターの音にシビレた彼は、自宅の入り口にドアとは別にある「虫よけのスクリーン」を張った枠に目をつけ、そこにワイアーを張って、ペンキの缶を共鳴胴として使うことを思いつきます。
その音は充分に彼を満足させるものだったようですが、おかげで湿地帯特有の雀ほどもあるデッカい「蚊*」が家中に侵入してしまい、父に大目玉を喰らったらしいですよ。

* 雀ほどもあるデッカい蚊 ─ いかにアメリカ南部の湿地帯といえども、蚊がそこまで巨大化するものであろうか?と調べてみた(ヒマ?)のですが、さすがに「最大のものでは 15mm に達することがある」との資料にまでは到達いたしましたが、たかが 15mm で「雀ほどの大きさ」とは言えませんよね、そりゃ。
となると候補に挙りそうなのは・・・そう!おなじみのガガンボでしょう。それだと「通常 64mm ほどにまで生育する」ってえ記述がありますよ。しかも最大では 100mm という個体も確認されている、と!
確かに、コドモだった Buddy Guy には「なんだって」デッカく見えた、っていう可能性はあるし、さらに釣りマニアの話に出てくる「自分が釣り損なったサカナのサイズ」は 年々デカくなる ってえケース同様、思い出話のなかで「徐々に巨大化」するケースだってあり得るけど、やはりねえ、ここは冷静に考えてみてもガガンボのほ〜じゃないのか、と・・・
あ、俗名は sparrow でこそないけど Mosquito Hawk だって。もっとハナシがデカい!

それでも、父はただ禁止するんじゃなく、どっかからアコースティック・ギターを調達してきてくれて、これからはそれを弾くように、と厳命したのでした。
しかし、あんまりウルサかったんでしょか、家族から苦情が出て、ギターは家の外で弾く、という決まりに従うしかなかったとか。
そーなんですよ、なまじアコースティックだと、かなり音がデカいですからねえ。
それも練習中でまだモノになってないギターなんぞ四六時中かき鳴らされた日にゃあ、いくら家族でも、いや、家族だからこそか、とてもガマンなぞ出来るもんやおまへん。
しかも、この時は日がな一日、バカのひとつ覚えよろしく Boogie Chillen ばっか練習してて、左手の指がそのフォームで固まりかけたそうですから、ホント家族にとっちゃあエラい災難だったことでしょう。

そんなジョン・リーにどっぷりだった彼っての、ちょっと想像出来ないかもしれませんが、それがこんな(って「どんな」じゃ?)ギタリストになっちゃうんだからオモシロいもんです。
そんな彼とエレクトリック・ギターとの出逢いってのもまたちょっと印象的なんですよ。どうってこと無いハナシ、と言っちゃえばそれまでなんですけどね。

どうやら Buddy Guy の少年時代ってのは、白人の子供たちと一緒になって遊んでいたようで、それは例えば農園主の Feduccia 家の息子 Craig だったり、雑貨屋の倅 Huey Arteigo などで、連れ立って乗馬を楽しんだり、野球したりしていたようです。
そんなある土曜日の朝、またしてもつるんでいたところに、クルマにギターと小さなアンプを積んだ男が現れました。
Buddy Guy は「これなに?」と、そのおっちゃんに尋いたところ、そいつ、Otis Hicks ─ つまり Lightnin' Slim は、「こりゃおめえ、エレクトリック・ギターだぁ」と教えてくれたそうです。
そしてそのギターで弾き始めたのが Boogie Chillen'!

ところで、その白人の友人たちとの友情も 1950年代初頭の南部にあってはやはり維持することが難しかったらしく、18才になったころには、(親たちの意向もあって)自然に消滅していったのでした。
しかし、その二年後に彼が Baton Rouge に移ったとき、彼のために Welcome Party を開いてくれた中に、懐かしい Craig Feduccia がいたそうです。
Baton Rouge ではガソリン・スタンド(アメリカじゃ「ガス・ステーション」?)で働き、McKinley Senior High School の卒業を目指して学資を稼ぎ始めたのですが、母が発作で倒れ、弟の学費も稼がなければならなくなったために、彼自身は学校を辞めています。

どうやら経済的には恵まれてはいなかったのでしょうが、人の縁には恵まれていたと言えるのかもしれませんね。
少年時代の二人の白人の友人との交友ばかりではなく、彼が育った農園の主人にしたところで、もちろん人種差別は「当然のこと」としてあったでしょうが、もっとシビアなケースと比較すれば遥かに恵まれていた、と言って良いでしょう。
それらの経験が彼の基本的な性格をフレンドリーなものにしたのかもしれません。
ま、誰とは言いませんが、苦虫を噛みつぶしたような表情で、バックとも溶け込めず、仏頂面で演奏して青森の聴衆を面食らわせた「あのヒト」なんかとはまことに対照的、ってもんでございますよ。
さて、10代ですでに Baton Rougeのクラブで演奏もしてたようですね。Lightnin' Slimや Guitar Slim*がお気に入りだったようですが、1957年には Baton Rouge から Chicago に移っています。

カネに困ってた(二日間ナニも喰ってなかったらしい!)彼をあるひとが 708 Club に連れてってその夜の出演予定だった Otis Rush を説き伏せて替わりにステージに立たせてくれて、それでシゴトをゲットできた、っちゅう伝説がありますが、その真偽のほどはさだかではありません(店の表じゃあマディがチェリー・レッドの Chevy で待ってて、彼にサラミ・サンドを喰わしてくれて、アドヴァイスもしてくれた、とか)。やがてその演奏が Willie Dixon の目にとまり、彼が Chess と契約できるよう手はずを整えてくれたようです。
本来は Singer として契約していたようですが、その腕を買われて、Chess 専属のバッキング・ギタリストとして活躍するようになります。マディやウルフのレコーディングにも関わったのは皆様ご存知のとーり。
しかし Chess は彼が他のレーベルに属するアーティストのバッキングに参加するのを阻止しようとするので、Vanguard に移籍。
ここでの仕事は、っちゅーか、バディ・ガイ・フリークにとっちゃ、ここでの仕事「こそ」が彼の本領発揮!というところじゃないでしょか?ま、Chess でも、I Left My Blues In San Francisco のほーはまだいいんですが。

Vanguard での Hold That Plane なんて、かなりハマりましたねえ。This Is Buddy Guy とかも良かったし。そして1975年 3月、郵便貯金会館でワタシが初めてナマで触れたブルースマンが Buddy Guy だったのです(あ、前座に Johnny Shines がいたよーな気もしますが、「ほとんど」記憶にございません。ただ「早く終れ〜」って思ってたのだけ覚えてます。ジョニー・シャインズ・ファンの皆様ゴメン)。
んなワケで、Buddy Guy にはトクベツな思い入れがあるのでございますよ。
したがって、とみに最近の彼のステージングをバカにするよーな言辞が時おり、あちこちのサイトやら板やらで目にするようになってワタクシとしてはフクザツな思いを禁じ得ないのであります。
毎回おんなじだろが、一曲をキチンと最後までやんないかもしれないが Buddy Guy は Buddy Guy。あたしゃあ、あの嬉しそうに弾きまくる彼を見るだけでマンゾクなんで、そんなモンクたれるヤツは観に来るな!と言いたいざんす。
だいたいやね、Feels Like Rain を一緒に歌えないよなヤツはライヴ行かないほがいい、ってのが持論なもんで。


reserched by Othum: Blues After Dark


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by blues-data | 2005-09-03 08:57

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