Buddy Moss
Eugene "Buddy" Mossは、1914年、あるいは 1906年の 1月26日に生まれたと言われています。この二つの年月の間には実に 8年もの「開き」があるのですが、その後の年代との整合性を考えると、1914年とするほうにやや分があるようにも思われますが、それとてもゼッタイとは言い切れないようです。
続いて、彼の生まれた場所ですが、Georgia州であることはマチガイ無いのですが、同州の Warren郡 Jewelとするもの、Hancock郡とするもの、の二つが挙がっています。12人の子供のひとりとして小作農の家に生まれたようで、そこでまず独学でハーモニカを吹き始めたようです。彼がまだ 4才の時に家族が移り住んで、結局ほぼ 10年間そこで過ごすこととなった Augusta周辺のハウス・パーティなどでまだ子供ながら演奏をするようになっていました。

そして、1928年には彼の姿は Atlantaの街頭で見られるようになっております。
1975年に Robert Springerのインタビューに答えて、自分のハープについて「誰の影響でもない」と断言しています。
「ただ、ひとの演奏はよく聴いたよ。聴いて聴いて聴きまくったんだ」
Atlantaでの彼はすぐに Curley Weaverや Robert "Barbecue Bob" Hicksの注意を惹き、やがて一緒に行動するようになります。Buddy Mossがレコーディング上に名を刻んだ最初が 16才で the Georgia Cotton Pickersの一員として Curley Weaverと Barbecue Bobと一緒に録音したものでした。時は 1930年12月 7日、Atlantaの the Campbell Hotelで Columbiaのために吹き込んだ「I'm On My Way Down Home 」、「Diddle-Da-Diddle 」、「She Looks So Good 」、「She's Comin' Back Some Cold Rainy Day」の 4曲です。
Curley Weaverと Barbecue Bobのギターに Buddy Mossのハーモニカでした。

その 3年後、1933年の 1月に彼自身の録音が New Yorkで the American Record Companyに行われました。伴奏者には Fred McMullenと Curley Weaverがついて「Bye Bye Mama 」、「Daddy Don't Care 」、「Red River Blues 」の 3曲を吹き込んでいます。
その 3年の間に彼はギターも習得していました。しかもそれは片手間なものではなく、かなり本格的なもので、もはや Curley Weaverのライヴァルとも言えるほどのレヴェルだったようです。
彼は Barbecue Bobとよく共演していましたが、その Barbecue Bobが 1931年10月21日に死んでしまってからは、新しい相棒として Blind Willie McTellを選び、Atlanta周辺のパーティなどで演奏をするようになっています。
それでも、研究者は Blind (Arthur) Blakeの名を挙げる場合がありますが、後年、彼は自分のギターについて、実際に影響を与えていたのは Barbecue Bobだった、と言明しているようです。

1933年 1月のセッション(6曲)では the Georgia Browns( Moss、Weaver、McMullenそして女性シンガーの Ruth Willis)としてのセッションも行っており、この時には彼はハープを担当しています。

彼自身の録音は ARCと協力関係にある様々なレーベルから売り出され、1933年の 9月中旬にはその好調なセールスによって New Yorkに戻り、Curley Weaverと Blind Willie McTellとともに再度吹き込みをしています。
その後も Curley Weaverの伴奏で数々の吹き込みをしていますが、同時期、彼の方でも Curley Weaverや Blind Willie McTellのためのバッキングを務める、という関係でした。

それらの録音はけっこう売れたので、また 1934年の夏にはセッションが New Yorkで行われています。そこでは伴奏者なしのソロが録音されましたが、それだけ彼の名義のものが( Weaverや McTell名義のものよりも)よく売れた、ということになります。
1935年の 8月には彼の一曲あたりのギャラが 5ドルから 10ドルへと倍増しています。録音が無いときの彼は Atlantaで Weaverや McTellと演奏をしていたようですが、この年、New Yorkのスタジオに表れた彼は新しいパートナー Josh Whiteを連れて来ています。二人は 15曲ほどを吹き込みました。恐らくそのままで行っていたら、彼はかっての僚友にして顧問でもあり、師匠でもあった Curley Weaverを凌ぐ存在となるハズでした・・・

多くが語られず、いまだにその真相は明らかにされてはいないのですが、Buddy Mossは彼の妻を殺害した、との嫌疑で拘引され、裁判の結果「有罪」と裁定されて、刑務所に収監されてしまったのです。
しかし、表面に表れていない真相があるのではないか、という疑いは消えず、刑務所内での素行も良く、仮釈放しても「危険は無い」と保証するスポンサーからの働きかけなどによって、1941年に彼は社会に復帰します。
そのスポンサーとは Elon College(これと彼の関係はちょっと判りませんでしたが)と、もう一方は Sonny Terryと Brownie McGheeだったそうです。

1941年の 10月、彼と Sonny Terryと Brownie McGheeは New Yorkに向かい、Okeh/Columbiaに吹き込んでいます。その中からは 3曲だけがリリースされました。その直後の12月 7日、ハワイの米海軍艦隊が奇襲を受け、アメリカも第二次世界大戦の渦中に置かれることとなり、シェラックも戦時統制物資に指定されたために、その後のリリースはストップしてしまったのです。

Mossは Richmond、Virginiaや Durham、そして North Carolina周辺で演奏をし続けていたようです。1950年代には Curley Weaverと Atlantaで演奏をしていましたが、すでに音楽は彼の生業ではなくなっていたようで、タバコ農園で働いたり、トラック・ドライヴァー、さらにはエレヴェーターのオペレーターなどをしていたようです。
その合間に演奏はしていたものの、彼はすでに忘れ去られた存在だった、と言えるでしょう。

1964年、彼はかっての相棒、Josh Whiteが Atlantaの Emory Universityでコンサートを開くことを知り、楽屋を訪ねたのでした。これによって彼の運命は変わります。アトランタ・フォーク・ミュージック協会の後援を受けることになり、さらにその上部組織であるワシントンの the Folklore Societyによって、公演の機会が増え、さらに Nashvilleにおいて Columbia labelに録音することになったのです(ただし未発売)。
1966年 6月10日に Washington D.C.で行われたコンサートはライヴ・レコーディングされ、後に Biograph labelからリリースされています。1969年には the Newport Folk Festivalにも出演、1970年代には West Virginiaでの the John Henry Memorial Concertや the Atlanta Blues Festival、そして the Atlanta Grass Roots Music Festival in 1976にも出演しています。

Buddy Mossが死んだのは 1984年の10月でしたが、正確な日付は残っていません。



reserched by Othum: Blues After Dark


[PR]
by blues-data | 2005-09-03 09:02

[ BACK to BIO-INDEX ]