Chuck Berry
Chuck Berryこと Charles Edward Anderson Berryは、Antioch Baptist Churchの司祭であった父 Henryと、学校の先生であった母 Marthaの最終的には 6人生まれることになる子供たちの 3番目として、1926年10月18日、Missouri州 St. Louisの Goode Avenue(現在は名前が変わり、Annie Malone Driveとなっているようですが) 2520番地で生まれています。
ちょうどこの辺りはセント・ルイスのダウンタウンの北西に隣接した、およそ 9×5ブロックのエリア(西は Taylor Avenue、北を St. Louis Avenue、東は Sarah Street、南は Martin Luther King Driveに至る一帯)で、The Villeと呼ばれ、この地区の中にあっては、当然、貧富の差はあっても、相互の結束が存在し、生活面や、子供の教育、しつけなどに関しても、一種の共同体的な連携を持った黒人のコミュニティとして、日々の暮しを支えてくれていた、と言いますから、当時の都市の中にあっては例外的な場所だったようです。
そのような(当時のアメリカの黒人としては)恵まれた環境で育った彼は Simmons Grade Schoolから Sumner High Schoolに進みますが、そこはミシシッピー以西では「初の」黒人のための高等学校であり、その卒業生の中には、後の Tina Turnerも含まれるとか。

その高校在学中に、彼は芸能活動(?)の第一歩を記したらしく、1941年の All Men's Review(ってのがなんなのかは尋かないでちょうだい。ワシにも判らん!)ってので Jay McShannのConfessin' the Blues を歌って喝采を浴びていたらしいのです。
しかし、当時の彼は、音楽以外にもやりたいことがあって、それは、いとこの Harry Davisの影響で、父の(聖職者に、という)期待は裏切るけど、「写真」への熱中でした。
しかし、彼のそのような夢も、1944年、仲間と Kansas Cityまでドライヴ、と決めこんだそのクルマが強奪されたものであったため、彼らは途中、警察に捕まり、Missouri州 Jefferson近くの Algoaにある少年鑑別所で 10年を送ることとなって消えてしまいます。このため、せっかくの Sumner High Schoolも卒業することは出来ませんでした。
資料では、そのクルマを彼らが強奪したものかどうか、には言及されておらず、単に放置されていたクルマを勝手に乗りまわしていたものか、そのヘンがちと不明です。

その Algoa時代にはゴスペル・グループに所属し、また、どうやら短期間ではあったらしいのですが、ボクサーも経験しているようです。
1947年、彼の 21才の誕生日に 10年という期間をそれでも大幅に短縮して、ようやく Algoaから開放されると、翌年には Themetta Suggsという女性と結婚し、Fisher Bodyという(たぶん自動車の)組みたて工場で働き始めますが、同時に the Poro Schoolというところで「ヘア・ドレッサー」としての職業訓練を受け、さらにフリーの写真家としての仕事と、父の仕事の補佐、その上に、ふたたびミュージシャンとしての活動までも始めているようで、ある意味、失われた三年を取り戻そう、と必死だったのかもしれません。

1952年のニュー・イヤー・イヴに、彼はピアニストの Johnnie Johnsonが率いるスモール・コンボに誘われて参加します(ドラムが Ebby Hardyだった)。ここに彼が加わったことにより、バンドの音はポピュラリティを獲得し始めたらしく、このバンドの人気は次第に Ike Turnerや Albert Kingに肩を並べるほどになりました。
そしてついにシカゴに上り、Chessの Leonard Chessに辿りつき、Willie Dixonによる検分を受けることとなったのですが、そこでIda Red (仮題)という曲を Willie Dixonが気にいって、バンドとして来るように、と指示します。
こうして Johnnie Johnsonのピアノ、Ebby Hardyのドラムに Willie Dixon自らがベースで参加して録音された曲が、あのMaybellene となったのでした。

Willie Dixonはさっそく人気 D.J.の Alan Freed*に依頼してヘヴィー・ローテーションを組んでもらい、この曲はたちまちミリオン・セラーとなって行きます。

*Alan Freed─本名 Albert James Freed、1921,12,15-1965,1,20。生まれたのは Pennsylvania州 Johnstown近郊らしいのですが 12才の時に一家は Ohio州 Salemに移っています。
高校では Sultans of Swingというバンドを結成し、トロンボーンを吹いていました。
1942年には Pennsylvania州 New Castleの WKSTで放送の仕事につき、続いて Ohio州 Youngstownの WKBNではスポーツ・キャスターとなり、以後、1945年には WAKR(同州 Akron)で次第に音楽番組の采配で注目を浴びるようになります。
1951年には彼の呼びかけたコンサートにキャパの二倍の聴衆がおしかけてゲートを破壊する騒ぎも起きており、これを史上初の「ロック・コンサートだ!」なんていうひともおりますが、はて?
この後も圧倒的なリスナーの支持によって、彼の音楽業界に対する影響力は増大していったのですが、1958年にまたしても Boston Arenaでの乱闘事件があって、彼の評価が下がり始めたときに、追い討ちをかけるように表面化したのが 1959年11月の、有名な「ペイオーラ・スキャンダルでした。
これ以降、彼は相変わらず M.C.の仕事や、D.J.としての仕事を続けてはいるのですが、1962年に金銭トラブルで失脚し、California州 Palm Springsに隠棲するようになったらしいのですが、もはや酒のために廃人同様だった、とも言います。
彼の死因は肝硬変に食道周辺の静脈瘤などからの大量の出血だったそうです。

─さて、Chessから依頼されたシングル、Chuck BerryのMaybelle を自分の番組で二時間連続(!)でかけ倒した Alan Freedの功績もあって、Maybelle のセールスは 100万枚を超え、とーぜん R&Bチャートの No.1、全体でも 5位にまで駆け上がったのでした。
ところで、この曲の版権所有者として、Alan Freedの名がクレジットされており、だから必死こいてヘヴィ・ローテーションにハゲんだんだ、という説がありますが、たぶんホントでしょ。
おそらく、そこらは Leonard Chessと彼の間に「密約」が取り交わされていたハズ。
それによって Chuck Berryの取り分が「おおいに」減じられたことは疑いなく、この一件と、さらにもひとつ、初期のロード・マネージャー Teddy Reigが「上がり」をくすねていたことに気付いたこともあって、彼はそれ以降、「他人は信用出来ない」という哲学を根底に据えたように思われます。ま、おかげで対人関係において様々なトラブルもあったようですが。

1956年の 5月にはRoll Over Beethhoven が Hot 100の 29位に上がりましたが、続くThirty Days No Money Down Too Much Monkey Business You Can't Catch Me などは明らかに「失速気味」で、最初のヒットであるMaybelle を凌駕する作品はなかなか生まれませんでした。
しかし 1957年 3月にリリースされたSchool Days はチャート 5位まで登りつめ、それによって、その年だけでも、一挙に 240ヶ所でのワン・ナイト・ショーの仕事が転がり込んで来たのです。
以後、ほぼ 2年半に渡って彼の送り出すヒットの数々─1957年のOh Baby Doll ( 57位)、Rock and Roll Music ( 8位)、1958年のSweet Little Sixteen ( 2位!)、Johnny B. Goode ( Goodじゃないぞ!8位)、Carol ( 10位)、Sweet Little Rock and Roller ( 47位)、Merry Christmas Baby ( 71位)、1959年のAnthony Boy ( 60位)、Almost Grown ( 32位)、Back in the USA ( 37位)、ただし例外もあって、1958年のBeautiful Delilah だけは Hot 100に入ることが出来ませんでした。─が、さらにはそれらと並行して Alan Freedの手によるフィルム、Rock, Rock, Rock ( 1956)、Mr. Rock and Roll ( 1957)、Go, Johnny, Go ( 1959)と連動して、彼の人気を不動のものとして行きました。

ところで、1959年のBack in the USA ( Chess 1729)、このシングルの B-Sideに収録されていたナンバーこそが Memphis, Tennesseなのでございます!

1957年には Irving Feldのブッキングした全国 75の都市でのコンサート・ツアーも行われます。これは単発の仕事としてのワン・ナイト・スタンドとは異なり、各種スタッフからバッキング・メンバーまでをトータルでパッケージングした大掛かりなもので、これこそが「全国的スター(?)」の証なのですなあ。
1958年には新参の Buddy Hollyを迎え、Big Beat ツアーを行っています。ただし、このツアーは例によって Alan Freedが一枚噛んでいたワケですが、Freedが Jerry Lee Lewisをも、ツアーに加えたことで、きしみが生じ始め、ついには Bostonでの公演中に客席で対立するファン同士が乱闘し始め、州警察が介入する、という事態が発生してしまいました。
この時、取り調べの際に誘導され、Freedは Chuck Berryの言動に、暴力を誘うようなものがあった、と発言したことにより、彼と Freedの縁は切れることになります。

それに先立つ 1957年の 4月、彼は Missouri州 St. Louisの 50kmほど西北西に位置する Wentzvilleに 30エイカーほどの土地を買い、翌1958年の春には自分のクラブ、Club Bandstandも St Louisの劇場地区にオープンさせました。
しかし、このクラブの周辺は富裕な白人層の生活圏であったため、官憲が閉鎖を命じるチャンスとなる「スキャンダルの発生」を待つ状態でもあったのです。

その機会は 1959年の 12月に訪れました。
彼は公演先の Texas州 El Pasoで Janice Escalantiという Arizona州 Yumaから来たアメリカ先住民族(いわゆるインディアンですな)の少女と出会ったのですが、彼女を Club Bandstandで働かせることになって St. Louisに呼んだのですが、二週間後、彼女は地元のホテルから Yumaの警察に帰りたい、と助けを求めました。
これが「道徳に反する目的で、未成年の女性を州境を越えさせた」とかゆう(?)罪に該当したらしく、二審では三年の刑期と罰金 1万ドルが課せられてしまったのです。
1962年 2月19日、彼は収監されました。

その不在中の 1963年 3月、彼のSweet Little Sixteen は the Beach Boysにカヴァーされ、あのあまりにも有名なSurfin' USA となったのです。
さらにイギリスでも the Rolling Stonesが彼のCome On Carol などをカヴァー。そして彼がようやく赦免される 1963年10月18日の直前には、ロンドンの Palladiumでマッシュルーム・カットの四人組がこれもまた彼のRock and Roll Music Roll Over Beethhoven で場内を湧かせていたのでした。
本人がまだ獄中にあったこの時期に、彼の(カヴァーも含む)楽曲はイギリスのチャートを賑わしていたワケです。

いわばオリジネイターである彼にとって、それらのカヴァーは「幸運」だった、と言えるでしょう。1964年の 2月から 1965年の 3月にかけて、Nadine ( 23位)、No Particular Place To Go ( 10位。この曲はイギリスでの彼の最大のヒットとなり、1964年夏にチャートの 3位まで上がりました)、You Never Can Tell ( 14位)、Promised Land ( 41位)、と復帰後の彼は順調にヒットを出して行くのですが、Top 100にはいったのは、Dear Dad ( 95位)が Chessでの最後となります。

1960年代半ばからのブリティッシュ系への流れ、さらに西海岸からのサイケデリック・サウンドなどの勃興に伴い、従来のアメリカン・ミュージックが変化していく時期を迎え、彼の周辺もまたその波に洗われてゆくことになったのでした。



reserched by Othum: Blues After Dark


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by blues-data | 2005-09-04 00:00

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