Curtis Jones
最初はギターだったのが、ピアノに転向した、というその来歴から来るものなのでしょか?ちょっとユニークなそのピアノ・プレイは時に「乱調」とも思える自由奔放なトリルやトリッキィなリフをちりばめてマイ・ペース(?)で進んで行きます。
どうなんでしょね?ピアニストからすると、こんなのどー思うんでしょ?「あ、スゲえ!」か「なんじゃこりゃ?」なのか・・・

これが収録された Delmark 605 Lonesome Bedroom Bluesでは、彼のヴォーカルについて、フィールド・ハラーあるいはアパラチア系(?)のマウンテン・ミュージックの影響も挙げてましたが、ワタクシ個人といたしましては、おそらくもっとパーソナルな要因のほが大きいよな気もいたします。

Curtis Jonesが生まれたのはミシシッピー河流域でも、アパラチア山系でもない Texas州 Naplesで、1906年 8月18日のことでした。
小作農たちの中に生まれ、他の多くの子供たちと群れて遊ぶ子供時代をスゴしたようですが、それも彼が「もう働ける」年頃になるまでの束の間だったようで、10代に入ってからの彼は小作農の理不尽な社会的位置に苦しんだ、とされています。冬など凍え死にしないのが不思議なくらいのボロ小屋に暮らし、生きてゆくのに最低限とも思える食生活など。しかし、それは当時のアメリカにおける黒人たちに不当に押し付けられた「一般的」な暮らしだったワケです。

彼がそこから脱出できたのは 1929年になってから、と言われています。
中西部から Kansas Cityを経て New Orleansに辿りつき、そこで彼は Lulu Stiggersという女性と知りあい結婚しました。
ついで北上し、Chicagoに入ったのが 1936年で、さっそく自分のバンドを作りサウス・サイドを中心に演奏活動を開始しています。
その彼が音楽出版業者兼タレント・スカウトだった Lester Melroseの目にとまり、Vocalionへのレコーディング・セッションがセットされ、Willie "Bee" Jamesのギターに Fred Williamsのドラム、という陣容でLonesome Bedroom Blues You Got Good Businessがリリースされています。
一説ではLonesome Bedroom Blues、妻に去られたことが原因で生まれたブルース、と言いますから、その時すでに別れてしまってたんでしょか?
そっからほぼ 5年ほどは同様なナンバーを大量に吹き込んでいますが、その中にHighway 51 Blues というのがあるのですが、それはまた「別な」曲でございます。今日のナンバーは Bluesのつかない、タダの Highway 51。

さて、レコーディング・セッションのとこで「?」と思った方もおられるかもしれませんが、彼のピアノ&ヴォーカルのバックはギターとドラムだけで、ベースがいないんですねえ。
どうやらそれは当時の彼のライヴでのスタイルでもあったようで、時にはペット&サックスとドラム、という構成だったり、ともかくベースのいない編成を選んでいます。
ここらで思い出すのはThe Cat のハモンド・プレイヤー Jimmy Smithですね。彼も自分のハモンド以外にはギター&ドラム、ってえ編成でございますよん。ま、ハモンドの場合はフットにベース鍵がありますから不要だ、ってのは判りますが、Curtis Jonesもその左手が充分に低音部を埋めてける自信があった、ってことでしょうか。

第二次世界大戦が始まったあたりから彼の録音の機会は減少し、ブルースマンにとっちゃあ毎度お馴染みの「 Day Job」につくハメになったようですが、1953年にはようやく DJの Al Bensonの Bronzeville Record Manufacturing Companyに録音の機会を得て、Parrot(それまで、コールマン・ホーキンスなどのジャズ寄りの音をリリースしており、Curtis Jonesは Parrot初のブルースマンでもありました)からリリースされています。ただし、それも彼を再度スター(?)にしてくれるものではありませんでした。

1958年になると New Jerseyにあった Prestige Bluesvilleと接触し、その結果、1960年には New Yorkでレコーディング・セッションが実現します。この時のバックはジャズのトリオにブルース・ギタリストを加えたものだったそうで、それがアルバム Trouble Blues( BVLP 1022)でした。
これが彼を再浮上させることとなり、以後、毎週火曜の Chicago、Blind Pigでのライヴやイリノイダイガクでのコンサートにつながってゆきます。
さらにヨーロッパにわたったのが 1960年代の前期で、そちらでも評価されるようになっていました。
1963年11月にはロンドンで Curtis Jones In Londonをレコーディング(このアルバムはまだ聴いていませんが Percy MayfieldのPlease Send Me Someone To Love も演っているそーです)、さらにその後二年間はモロッコを中心とした北アフリカに重点を置き、つづいては地中海つながり(?)でスペイン、ギリシャからフランスへ回り、1968年(あの Magic Samの年でげすよ)の American Folk Blues Festivalにも参加しました。そこからまた三年ほど今度はドイツにとどまり、ヨーロッパをベースにした演奏活動に集中しています。

1971年、彼はドイツで心臓発作で死亡し、その遺骸は Sozialgrabという墓地に埋葬されたのですが、誰も墓の維持費を払わなかったために 8年後、その墓はツブされ、新たな区画として販売されてしまったのでした。



reserched by Othum: Blues After Dark


[PR]
by blues-data | 2005-09-05 02:14

[ BACK to BIO-INDEX ]