Earl King
Earl Silas Johnson IV(!)は1934年 2月 7日、New Orleansで、7番目の子供として(その父もまた 7番目の子供だったようですが)生まれています。
彼の父は "Tuts" Washingtonにくっついてた(?)有名なピアニストだったらしいのですが、彼がまだ幼いうちに死んでいます。
母はがっしりした体格で "Big Chief"と呼ばれ、人種を超えて Constance Street 2834の Irish Channelで育ちました。
彼は子供時代、the Antioch Baptist Churchの合唱隊に参加し、隣り近所の仲間とゴスペル・グループも結成しています。
「教会での務めははたしたよ」 Off Beat誌に、この「 Trick Bag」が録音された Sea-Saint Studioで語っています。「でも14才になったとき Big Mary'sってとこで Smiley Lewisを聴いたんだよ。もちろん、そんなとこにいていいワケじゃないし、母からも禁じられてたんだけど、どうしても聴きたかったんだ。Salの店で Smileyを見たんだけど、そこにもひとりピアニストで Hold That Note Samって呼ばれてるのがいたな。」

ある日ギターを弾く友人の John Davisとふたりで街角でゴスペルを歌っていたところ、ひとりの男が近付いて来て「カネがほしかったらブルースを歌え。ゴスペルじゃカネにならんぞ」と言ったそうです。
その男は Victor Augustineと言って、 Dryades Streetに店を持っていました。そしてレコード会社のタレント・スカウトを知っているので興味があったら訪ねてくるように、と住所のメモを渡して去って行ったのです。
しばしためらった後、その住所を訪ねましたが、その建物には「 House of Hope-Dr. Mighty the Voodoo Man」とあり、中に入ると、誰かが弾くブギ・ウギ・ピアノの音が聞こえ、香が漂ってくるドアをノックすると、中は「まじないモノ」やらお香、蝋燭、預言書、フシギな水にレコードを売っているお店でした。
Earlが(まだ Kingにはなってないのじゃ)オーディションを受けに来た、と告げると、 Doc [Augustine](?)は二人をピアニストの Huey Smith!に引き合わせたのです。
Huey Smithは Earlに最初の仕事として、自分のグループのヴォーカリストとして Algiersのクラブで歌わせることにしました。
しかし、ヴォーカルのみ、という人材を雇い入れるほどの余裕は無かったため、Earlにギターが弾けるようになるよう奨めています。
このころ、Earlは週ごとに the Dew Drop Innと the Tiajuana 行われていたタレント・ショーに応募し、何度か優勝しています。
特にこの The Tiajuanaでは彼が様々なミュージシャンと出会う場となりました。
Ernie K-Doe、Billy Tate、Eddie Bo、Robert Parkerに Lloyd Price、そしてタレント・スカウトにも。
また彼のギターに大きく影響を与えた Guitar Slimもこの Tiajuanaで見ています。「ホントにギターに興味を持つようになったには Tiajuanaで Guitar Slimを見てからさ」

Earlにとっては Guitar Slimが彼に語ってくれたひとつひとつがとても重要な遺言となったようで、とかく陽気でおちゃらけたキャラクターと捉えられがちだった Guitar Slimの言葉の中の真実の響きに耳を傾けていた唯一のニンゲンだったのかもしれません。
特に、曲作りにおいて、心理的な側面から、聴衆が欲するところを掬い上げることの重要さ、また構成では一番より二番、二番より三番が「強く」なければいけない、などのノウハウを残してくれた、と Earl Kingは回想しています。

その後、1953年の 6月に彼は Savoyに「Have You Gone Crazy / Begging At Your Mercy 」を吹き込んでいますが、モチロンまだ Earl Johnson名義となっています。
しかし Savoyはこのシングルの売り込みに熱心ではなく(というのも、この時期 Huey Smithを優先していたから、と思われます)、彼のデビューは失速してしまいました。
つづいて彼がサインしたのが Guitar Slimの Specialtyで、そこでの初シングル「Mother's Love 」こそは、彼が Earl Kingに変わった記念すべき作品となったのです。
ただし、Specialtyの Art Rupeは King Earlと命名したハズだったのですが、ちょっとした手違い(印刷屋さんの植字工のカン違いだったとか・・・)から Earl Kingとして「印刷」されてしまったのでした。
このレコードが動き始め、Frank Painiaのブッキングで Alabamaと Texasのツアーを開始しています。ただ、「Mother's Love 」は「あまりにも」 Guitar Slim的だったため、売れるのは Guitar Slimのレコード、という現象が起こり、特にジューク・ボックスなどでは、「Mother's Love 」の演奏者の欄に「 Guitar Slim」と書かれるほどで、結局 Earl Kingはこのままではいかん、と別な途を探すことになります。

Specialtyを離れた Kingは1955年に Johnny Vincentの新設した Aceに移籍。そして、この Aceでの Earl Kingの最初のリリースが「Those Lonely Lonely Nights 」なのです。まず地域的なヒットとなり、続いて「Well O Well O Well O Baby 」、「Weary Silent Nights 」、「Buddy It's Time To Go 」などがその後を追うカタチとなりましたが、もちろん「Those Lonely Lonely Nights 」を凌駕するほどのセールスには至っていません。
1959年に Aceを去る前に Jimmy Clantonの「Just a Dream 」を Earl Kingがプロデュースしたそうですが、1958年 7月21日に初登場 22位、以後 25-12-9-5-4位と登りつめ、3週 4位をキープしています。通算 15週間、チャートに姿を見せていました。
Clanton以外にも Huey Smithや Roland Stoneのプロデュースも行っていたようです。

Ace時代の彼は Cosimoのスタジオ( 1950年代と1960年代にはクレッセント・シティでの唯一と言ってよいレコーディング・スタジオとして、New Orleansの音楽を支えた Cosimo Matassaのスタジオ。当時、最強のハウス・バンドを擁していた。そのメンバーは、サックスの Lee Allenと Alvin "Red" Tyler、ドラムの Earl Palmerと Charles "Hungry" Williams、ギターでは Justin Adamsと Ernest McLeanが詰め、ピアノが Huey Smithに Edward Frank、ベースに Frank Fields、といったメンバーで、Fats Dominoや Smiley Lewis、Little Richardに Lloyd Price、そして Shirley & Leeなどのバッキングを務めていました)で、Johnnyと Daveの両 Bartholomewと出会っていますが、Johnnyの方は Cosimoによれば「ありゃプロデューサーっつうよりチア・リーダーだな」なんて評されております。
ま、それはともかく、Bartholomewは早速 Earl Kingのプロデュースに乗り出し、そこで生まれたのが1960年の「Come On ( Let the Good Times Roll) 」(alt.当初は「Darling Honey Angel Child 」のタイトルだったものが、別テイクの収録時 or 再発時にタイトルが変わったのではないか?という説もあります)、Bartholomewによれば、Earl Kingは非常に積極的に有益なアイデアを次々と提供したそうで、尊敬に値する才能だった、と。
この時期には Lee Dorseyにヒット、「Do Re Mi 」も提供しています。他にも Fats Dominoに「Hum Diddy Do 」、Berna Dean( Bernadine Washington)に「He's Mine 」などを提供しました。

1961年には「Trick Bag 」が発表されました。続いて1962年には「Always A First Time 」が出て、R&Bチャートの下位に顔を出しています。
しかしその Imperialは1963年に Liberty Recordsに身売りしてしまいました。これが New Orleansの音楽産業に与えたダメージはかなり大きかったようで、多くのミュージシャンが Detroitに流れ、Motownと契約をすることとなり、その中には Earl Kingも含まれていたのです。
しかし、この契約をアレンジした Joe Jonesと Barry Gordyの間で条件が折りあわず、彼は土壇場で契約を見送り、New Orleansに戻りました。そして Hot Lineレーベルをスタート、また彼の書いた Danny Whiteの「Loan Me Your Handkerchief 」、Johnny Adamsの「Part of Me 」、Willie Teeの「Teasing You 」、Dell Stewartの「Mr. Credit Man 」、そして Professor Longhairの「Big Chief 」が世に出ています。
ここでディストリビューションを Doverに任せたのですが、これがミゴトに Hot Lineともども失敗、ケッキョク彼はまた New Orleansを出て Capitolあるいは Motownのために仕事をしています。ま、この辺りから、ちょとワタクシのキョーミも薄れてきちゃってるんで、たしょーおざなりになっちゃいますが、カンタンに・・・
1972年には Allen Toussaintと Atlanticにアルバムを入れますが、Sea-Saint Studioのオリジナル・レーベル Kansuからシングル「Street Parade 」がリリースされ Mardi Grasの代表的な曲のひとつとなりました。このアルバムは時宜を失った1981年になってからイギリスの Charlyからリリースされました。

この New Orleans Jazz & Heritage Festival 1976は彼の1970年代における重要なマイルストーンと言えますが、その後スェーデンの Sonetレーベルに録音したアルバムや、他にも Wand Recordsや Black Topレーベルにも録音があり、1990年代には Sexual TelepathyHard River to Crossというアルバムを送り出し、高く評価されています。
2003年 4月17日、New Orleansで死亡。

彼の画像を見ると、ケッコー「ストラト」を使ってるのよねー。それも、ワリと低い位置に吊る、ってえ「正しい」 Stratocasterスタイルでヒジョーによろしい。



reserched by Othum: Blues After Dark


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by blues-data | 2005-09-05 13:28

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