Eddie "Cleanhead" Vinson
自分のサブ・ネームに「ツルっ禿げ」をつけるあたりが実に Bald(ありのままの、っちゅうイミですが他に「禿げた、無毛の」ってイミもあり!)じゃあございませんか。

1917年の12月18日、Eddie(たぶんまだその時は "Cleanhead"じゃなかったハズですが) Vinsonは Texas州 Houstonで生まれています。あ、そうそう、ホントかどうかは定かじゃおまへんが、縮れ毛を「直毛」にするためのアルカリ性薬液が原因で Bald Headになったのだ、とする資料も存在いたします。
ま、それはともかくとして、彼の両親はともにピアニストで、おかげで彼も早くから音楽に親しんでいたのかもしれません。子供のときからアルト・サックスを吹いており、まだ学校に通っていた少年でありながら、すでにローカルなバンドの「リーダー」を務めていたっちゅうからスゴいです。しかも学校の休みには Chester Booneのバンドとともにツアーまで行っているんですぜ。
1935年、彼は学校を卒業し、当然そのままバンドのフル・タイム・メンバーとなったのでございます。後にバンドの枠組みがそのまま Milton Larkinのバンドにスライドした(この点では異説があり、Chester Booneのバンドと Milton Larkinのバンドを「まったく別にもの」としている資料もあります。ま、そのヘンはホンカーに詳しい、とあるスジからサジェスチョンが入るのを期待して、と)後もメンバーとして残り、そのバンドでは T-Bone Walker(これについては前身の Chester Booneのバンドで、であるとする資料もあります。なんせ、ワタクシ、T-Boneについては追い掛けたことがございませんので、どっちが整合性があるのか判断できません)とも一時一緒にやったことがあるようですが、しかし、さらに「重要」なのは、次の二人、Arnett Cobbと Illinois Jacquetでございましょう。
えー、みなさま「ホンカー」ってご存知?え〜と、ご存知ない方は、ktateさんの『ブルース用語辞典』をご参照くださいませ。URLはこちら→ http://www.ayu.ne.jp/user/ktate/Blues/Whos_who/What_that2.htm#word-ho

1930年代の後半、Milton Larkinのバンドにはこんなツワモノ(うぷぷ)が揃っておったのですねえ。そしてバンドのツアーで知りあった Big Bill Broonzyは彼に唱法を教えてくれたといいます。そして Jay "Hootie" McShannのオーケストラの Charlie Parkerとの交流(1941年)などを経て、これも1941年、Cootie Williamsによって見出された Eddie Vinsonは、New Yorkの Duke Ellingtonの新しいオーケストラに参加することとなり、1942年の 4月にそこで Okeh Recordsへの初吹き込み(「When My Baby Left Me 」 with Cootie Williams Orchestra)をしています。
続いて 1944年には Hit Recordsに、1945年には Capitol Recordsにも吹き込みをしていますが、その間に短編映画(?未確認のため詳細不明です)Film-vodvil no 2 (1943年)にも出演しているそうです。
1945年の末ころには自分のビッグ・バンドを立ち上げて Mercury Recordsに録音もしています。ただ、Mercuryでの録音ではビッグ・バンドではなく、小編成のバンドで行っていたようですが。
この時期の彼のヒットについては前述の http://homepage1.nifty.com/bluesknk/cdindexe.html をご覧になってくださいませ。

1948年のユニオンの破綻以後、彼は King Recordsに吹き込みを開始しています。しかし、Kingは彼のレコードのセールスに関してあまり熱心とは言い難く、ケッキョク彼は Mercuryに舞い戻っています。1950年代の中期に、一時 Cootie Williamsの小編成のバンドに在籍もしましたが、1957年からは Count Basieのオーケストラとともにツアーをしています。この時オーケストラから選抜した小編成のメンバーで King傘下の Bethlehem Recordsに録音( Back In Town)をしました。
ここで彼はいったん Houstonに引きこもる(?)のですが、1961年、Cannonball Adderleyに「再び」見出されて the Adderley brothersとともに Riverside Recordsに Back Door Bluesを録音、以後、1988年 7月 2日に心臓の発作で死を迎えるまで、ジャズとブルースの両面で数々のフェスティヴァルへの出演やアルバムの製作(そのレーベルも Black & Blue、Bluesway、Pablo、Museに JSPと多岐に渡ります)で活躍し続けたのでした。この Johnny Otis Showと関わるようになったのは、1960年代の前半からで、1970年の the Monterey Jazz Festivalにおけるライヴ(つまり「今日のブルース」で採り上げた「これ」でげすな)が彼の「健在」を広く知らしめた、と評価するひともいます。
1970年代に入ると彼はヨーロッパでも良く知られた存在となって行きました。

1988年の7月2日、なんらかの持病かあるいは急性の症状かも不明ですが、それに対する化学療法をロス・アンジェルスで受けている最中に心臓の発作で死亡しています。

彼の死後、あらためて 1961&1962年の Cannonball Adderleyとの録音をまとめたアルバムが Landmarkから発売されています( with Cannonball Adderley: Cleanhead & Cannonball 1961, 1962 recordings)。



reserched by Othum: Blues After Dark



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by blues-data | 2005-09-05 14:38

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