Esther Phillips
しっかしまあ、なんてゲンキのいい声なんでしょね。めちゃイキがいいです。
Esther Phillipsは 1935年12月23日の生まれですから、Johnny Otis Showのライヴの時はすでに 35才でございます。ま、若いみなさんからすりゃあ、35で Littleはねえだろー!なんて声もあがるかもしれませんが、なんせ、彼女、13才から活躍しておりまして、当時の呼び名がそのまま定着しておったのでしょうなあ。
Esther Mae Jonesとして Texas州の Galvestonに生まれ、まだ小さかったころから教会で歌うようになっていたようです。しかし彼女の両親が離婚し、Houstonで暮らす父と、Los Angelesの Watts地区で暮らす母の間を往復する生活になりました。
そして 1949年、彼女の姉が Johnny Otisのもとに連れてゆき、そこで、この 13才の少女の歌に感銘を受けた彼は、さっそくスタジオ入りして Modern Recordsに吹き込ませ、さらには自らのレヴュー「Johnny Otis Show」の一行に加えたのでした。この時から彼女には「Little Esther」の愛称が冠されるようになったのです。
そして、後に The Coastersとなる The Robinsの一員として「Double Crossin' Blues 」を入れ、この曲はミゴトにヒットしたのでした。1950年に R&Bチャートのトップにまで登りつめ、そーなると当然、後を追うように「Mistrustin' Blues 」、「Misery 」、「Cupid Boogie 」、「Deceivin' Blues 」と連続で送り出すこととなります。
しかし、ここでなまじヒットが出たのが良くなかったのか(?) Little Estherと Johnny Otisの仲がおかしくなり、結局、彼女は離れていってしまいます。
1954年には Houstonに戻り、父といっしょに暮らし始めていますが、薬物中毒が彼女の活動をしばしば中断させていたようです。
1962年、彼女は Kenny Rogersによって Houstonのクラブで歌っているところを「再発見」され、彼の兄弟の所有する Lenoxレーベルと契約をすることが出来ました。そしてこの時に、彼女は近くにあったガス・ステーションから名を取って Esther Phillipsと名乗るようになったのです。
ここで放った「Release Me 」はたちまち R&Bチャートのトップを獲得、さらにポップスとカントリーの両チャートでもトップ・テン入りを果たしました。
こうして第一線に復活した Esther Phillipsだったのですが、1963年には Lenoxが破産してしまい、そこで彼女は Atlanticへ変わります。

1965年に、イギリスのカブトムシのナンバーのリメイク「And I Love Him 」がもすこしでトップ・テンというとこまで行って、また注目され、この時は本家のお声がかりでイギリス公演にまで行ったハズです。
ただし Atlanticでは彼女をもう少しジャズ寄りの線で売ろうとしていたらしく、次のアルバムではそっちに押し切ったのですが、結局それは失敗だったようで、1967年には彼女との契約を切ってしまいました。
ここでまたしても薬物依存症が出たらしく治療に入ったようですが、1969年には Rouletteに何曲かを吹き込んでいます。
そして再び Los Angelesに行って Atlanticと再契約を果たしました。

1971年には Verveや後の CTIでお馴染みの Creed Taylorの Kuduレーベル(そ、CTIの子会社ねん)に吹き込み、「From A Whisper To A Scream 」が 1972年にかなりのヒットとなります。
この後も Kuduではアルバムを連発し、名声を獲得、数々のフェスティヴァルにも出演する活躍でした。
1975年の「What A difference a Day Makes 」というかなりのヒットもありましたが、1977年、彼女は Kuduを去り Mercuryに移籍します。
が、そこでの彼女はめざましいヒットを飛ばすことなく終わってしまいました。

1984年 8月 7日、彼女は Los Angelesにおいて肝機能不全並びに腎炎により死亡した、とされています。やはりその内臓はかなりの損傷を受けていたのでしょうね。50才を目前にしての早過ぎる死でした。



reserched by Othum: Blues After Dark


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by blues-data | 2005-09-06 22:26

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