Jelly Roll Morton
Jelly Roll Mortonこと Ferdinand Joseph Lamontheは、1890年10月20日に New Orleansで生まれています。
父は Edward J. Lamonthe、母は Louise Monett(または Lemottあるいは Monettという教区記録もあり、多少の混乱があります)で、どうやら正式な婚姻によらない「子」だったようです。生まれてからおよそ四年間は Perdido Street 141& halfの実父の家で暮らしていました。
ところが母の Louise Monettは 1894年 2月 5日に William Moutonという、父とは別な男性と結婚してしまいます(ちなみにこの時と婚姻届け出に新婦は名前を署名していますが、新郎は「X」印だけで、おそらく文字を書けなかったのでは?と考えられます)。
ま、それはともかく、この結婚によって彼は実父と別れ、Frenchmen Street 1443の継父である William Moutonの一家と暮らし始めました。
しかし 1901年、継父の姓である Moutonを名乗っていた彼はその家を出て、South Robertson Street 2706にいた名付け親だった Laura Hunterと Eulalie Hecaudと暮らすようになります。Laura Hunterは当時 36才で 9人の子持ち!

やがて彼はピアノを学び始めるのですが、先生は Mrs. Momentだった、と彼は後に語っていますが、事実 Mrs. Rachel D. Momentという女性が当時 South Franklin Street 3231に居住していたことが住民台帳で確認されています。
また、もっと専門的な指導を、1904年の St. Louis Expositionでピアノ演奏部門で優勝したとされる Alfred Wilsonから受けました。
1906年 5月24日には、母の Louise Moutonが僅か 35才の若さで結核のため死亡しています。

1908年からの彼は南部諸州を回って歩くミンストレルズ・ショー、( Kersands Minstrel Companyが運営する)Billy Kersand's Traveling Minstrel Showや Fred Barrasso and McCabe's Troubadoursの一員として各地を巡り、そこでは Clarence Williamsや Brockie Johnny、Frazier Davis、Frank Rachel、George W. Thomas、Porter King、Tony Jackson、John Spikes、Benjamin (Reb) Spikes、Benson Moore、Baby Seals、Fred Washington、Prof. W. Roach、Ver Adams、Sid Isles、Jim Mills、Chilli Jim、Curtis Mosby、Butler May (String Beans)に Sammy Davisなどとの交流を持ったようです。
当時の彼の出番では Morton & Mortonというパッケージで、Rosa(あるいは Rosie)という女性とカップルでセットとなっていました。
およそ 1910年代の半ばあたりまでを、そのようなミンストレル中心の生活で送っていたようですが、1917年からはウエストコーストに移り、そちらで演奏を始めますが、それ以降は Rosa(あるいは Rosie)の名前が出てきてないんですねえ。ま、いいんですが。

1910年代末にはすでに San Franciscoでは「名士」といってよい有名人となっていた Jelly Roll Mortonは、Los Angelesの Paradise Gardenで Jelly Roll's Famous Creole Bandとしてトップにランキングされるほどになっています。
それ以前は紅灯街でピアノを弾くかたわら、スゴ腕のギャンブラー、いえいえ、イカサマ賭博師で暮らしてた、なんて言いますから、エラい違い。

そして 1922年からはウエストコーストを離れ、Chicagoに出て来ます。
彼のバンド、Red Hot Peppersでのレコーディングは、1923年12月13日から翌年のはじめにかけて行われていますが、個人としての録音はそれに先立つ 1923年 7月17日、Indiana州 Richmondの Gennett Records*で行われています。

*Gennett Records─ 1872年 Indiana州の Wayne郡庁舎がある街 Richmond市に流れついたピアノの職人が、その翌年に最初の一台を送り出しました。
当時の Richmondは人口およそ 10,000人ほどで、この新しい「ピアノ製造業者」は当初、様々な名称で呼ばれていたようですが、1878年に Jamesと Benjaminの二人の Starr氏の出資で the Starr Piano Co.を設立しています。
製造には傍を流れる Whitewater Riverの水力を利用していました。
Gennett一族は1893年にこの会社の経営に参加しています。
同社のピアノは Chicagoでの展示会で認められ、それを契機として、Benjamin Starrを社長に、Henry Gennettを財務担当重役に、という体制を整え、1906年にはすでに 600人の従業員を抱えるまでになっています。
1916年には蓄音器とレコード部門のために 6階建てのビルを建造し、1917年には the Starr Piano, Phonographそして Gennett Recordsが発足しました。
1920年代には放送にも進出しています。
Starr Pianoでは1928年に 15,000台のピアノと、手巻き動力の蓄音器 3,500台を売るほどになっており、同年の Gennettのマスターに加わった音源は実に 1,250と、Victorの 1,900にかなり迫るものでした。また、列車の通過によって度々レコーディングがストップされるため、Starr社の敷地内で南端に録音施設を移転しています(その日付は不明)。
1916年から1934年にかけて Gennett Recording Serviceの the Richmond studioではブルース、ジャズ、カントリー、他のエスニック系など膨大な数のレコーディングが行われました(1927年の 2月以降の電気的吹き込みを含みます。同社は地元のピアノ工場の敷地内と、それとは別に New Yorkにも録音スタジオを持っており、その自前のスタジオの他、借りたスタジオで録ったものも含め、New York録音のほうはかなりの高水準の製品となったのですが、Richmondで録音した方はあまり音が良くなかったようで、一部の資料では 20年ほど前のレヴェル、とまで酷評されております)。
有名なものとしては1922年の the Friars Society Orchestra(後の the New Orleans Rhythm Kings)や、この Jelly Roll Morton、King Oliver's Creole Jazz Band、Louis Armstrong、Lil Hardin。
1924年、 Bix Beiderbecke、 the Wolverines、 Bix and his Rhythm Jugglers( featuring Tommy Dorsey)、Hoagy Carmichael(の「Star Dust 」の最初のヴァージョン!)・・・そして、1925年あたりからは Blind Lemon Jeffersonや Charlie Patton、そして Big Bill Broonzyなどのブルースも吹き込まれています。
しかし「大恐慌」により、1929年には 75,000,000ドルだったレコード業界の市場は1930年には 18,000,000ドル、1931年にはついに 5,500,000ドルにまで縮小してしまいました。ここで Gennettをはじめとする小レーベルは業界から姿を消してしまうことになります。

Chicagoでの彼の録音には数多くの New Orleansのミュージシャンが関わっています。
Kid Ory、Barney Bigard、Johnny Dodds、Johnny St. Cyrに Baby Doddsなど・・・
1928年には New Yorkに移り、そこで 1930年まで Victorに吹き込んでいるのですが、面白いのは、New Yorkでも「別な」 the Red Hot Peppersを結成してるんですねえ。
そこには Bubber Mileyや Zutty Singletonがいた、とありますが、ズージャに暗いワタクシとしましては、ここらが身の引きどころ(?)でございましょ。
たぶんジャズからの視点でこの人を見たらまた、かなり違う人物像が描かれることになるのかもしれませんね。
その後もまた西海岸に戻ったりもしているのですが、1941年 7月10日、Los Angeles General Hospitalで死亡しました。具体的な死因については言及されておりません。



reserched by Othum: Blues After Dark


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by blues-data | 2005-09-08 20:36

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