Jimmy Lee Robinson
Billy Boy Arnoldと同じように、Chicagoで生まれ(1931年)その後もずっとこの街に腰を落ちつけてきた Jimmy Lee Robinson(ブルース界のピカソだって?なんじゃそりゃ)は、Halsted Streetの家に近い有名な青空マーケットの Maxwell Streetで、まだマディが来る前に Big Bill Broonzyや Robert Nighthawkのようにギターを弾き始めています。
彼より 4才年下の Billy Boy Arnoldは Maxwell Streetにはあまり縁が無かったみたいですが、Jimmy Leeには、とっても大事な場所だったんですね。
彼の曾祖父の Mose Jenkinsは奴隷として生まれ「water boy」として働いて(つーても、その Water Boyってのがイマイチよく判らないんですが、水のかい出し人足、あるいは灌漑用のポンプの代わりに「人間で」水を運ばせたんかいのう?)ましたが、奴隷解放後は巡回牧師の御者となったようで、Jimmy Leeはその曾祖父と祖母と一緒に Maxwell Streetを歩いたキオクがあるようです。
Mose Jenkinsは 91才で1935年に死んでいますから Jimmy Leeはせいぜい 4才になったかどうか?ってとこですが、ま、いわゆる「三つ児のタマシイ・・・」ってヤツですかね。Moseの娘 Celia( Jimmy Leeの祖母ですが)の母は Choctawインディアンだったそうで、Jimmy Leeにはインディアンの血も 1/8くらい入ってるワケかな。
彼は半分インディアンの血が入った祖母の Celia(Little Mama)と、祖父の Elijah Jackson( Big Daddy)の老夫婦と一緒にいる時間が長かったようですが、両親は Almor Smithと Emma Robinsonといって、父の Almorは建設作業員だったようです。
ただ、母の Emmaには Jack Palmer(共産主義者であり、また 20年代にアメリカ南部のスピリチャル・ソングを一般に紹介したシンガー、Paul Robesonの友人でもあった)という別な男(!)がいて、そちらとの間に生まれた子供、Eddie Lee Robinsonという異父兄弟がいます。ややこしいのねん。

1948年には、彼にとって重要な意味を持つ出会いがありました。
それは有名な Eddie Taylorとのもので、以来 1952年まで、シカゴのクラブで一緒に演奏したりしてたようです。
1952年には福祉事務所の前で会った(!)Freddie Kingと The Every Hour Blues Boysっちゅーのを結成しとります。これも4年間続いてますが、後に Freddie Kingは自分の最初にして最も影響を与えられたギターのセンセだった、と回想してますよ。
その後も彼がギターあるいはベースとして共演した顔ぶれとして Little Walter、Shakey Jake、St.Louis Jimmy、Al Smith(Midnight Special)、Howlin’ Wolf、Eddie Taylor、Elmore James、Jimmy Rogers、Sunnyland Slim、Jimmy Reedに Magic Samと、実に多岐にわたります。
たとえば Little Walterでは、1957年の「Ah’w Baby」でリード・ギターを、1958年の「The Toddle」ではリズム・ギター、おまけに1958年の「Confessin the Blues」ではベースを弾いてる!

彼自身がバンド・リーダーとなった吹き込みは、おそらく1959年、あるいは1960年と思われる Bandera Recordsへの「Lonely Traveller」と「All My Life」(資料によっては、もう一曲あった、としているものもありますが、その曲名などのデータも無く、真相は不明でげす)で、後者などはジョン・メイオールによって ’60年代と’80年代の二度にわたってカヴァーされとりますよん。そのヘンも Billy Boy Arnoldと共通してますなあ。ただ、この二人の交流ってのは、どの文献でも出てきてないんで、どうも、接点が無かったみたい。

1965年には American Folk Blues Festivalの一員としてヨーロッパに渡り、その存在を知られるようになります。
’70年代にはウルフとの仕事なども経験しているのですが、その後、母の死から彼の下降線が始まり、’80年代には、シカゴ教育委員会に雇われた警備員や大工、タクシー運転手などとなって、ほぼシーンから姿を消していたようなもんだったんですが、ジョン・メイオールのカヴァーが「効いた」?のか、’80年代末からは The Ice Cream Menとゆうグループに請われて活動を再開、ついには Delmarkが復活に乗り出し(?)1994年にアルバム Lonely Travellerをリリース(ただしレコーディングは曲データでお判りのよに 1992年)したのでございます。
その後、彼自身のプロデュースで Amina Recordsに Guns, Gangs and Drugs (1996)と Maxwell Street Blues (1998)を、さらに APO Recordsからは1998年に吹き込んだ Remember MeAll My Life ( 2001)」がリリース。どちらも高い評価を受けたのでありました。

で、忘れちゃならないのが、彼の Maxwell Street Market保存運動でしょ。
彼にとっては揺籃の処所であり、音楽の切磋琢磨の場であり、数々の憶い出にあふれるこの場所が取り壊されよう、というときに反対運動に立ち上がり、その活動はマスコミ( Discovery Channelや、新聞では the New York Times、the Chicago Sun-Timesに the Chicago Tribune)にも取り上げられています。
しかし彼の 81日間にも及ぶカラダを張った抵抗運動もむなしく、ケッキョクそこはカンゼンにサラ地にされ、the University of Illinois at Chicago(UIC)のキャンパスを拡張するために転用されてしまいました。
そのことを歌ったブルース「Maxwell Street Tear Down Blues(1997)」は、とーぜん Aminaの Maxwell Street Bluesに収録されています。

晩年の彼は健康にヒジョーに気を遣い、美酒美食にふけることなく、菜食生活と運動の重要性を語ってたそーなんですが、そんなにしてても、骨癌が悪化し、最後はそれを悲観したのか、行方をくらましてしまい、後に、とある駐車場で彼自身のクルマのなか、おそらくは自ら頭部を撃ち抜いたとおもわれる拳銃とともに発見されたのでした。
2002年の 7月6日。71才でした。



reserched by Othum: Blues After Dark


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by blues-data | 2005-09-09 00:50

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