Joe Turner
Joe Turnerは 1911年 5月18日、Missouri州の Kansas Cityで生まれました。
彼がまだ 4才のときに父親は鉄道の事故で死亡しており、以後、彼は祖母、母、姉などと暮していたようです。
そんな彼も教会での聖歌隊ばかりか、友人と一緒に街頭でも唄うようになっていたらしく、もしかするとこの時の経験が「声量」の面で影響しているのかもしれません。
十代ですでに大きなカラダをしてたせいでなんなくクラブにももぐり込めたようで、鉛筆で口ヒゲを描き込み、父の形見の帽子をかぶって、堂々とクラブで演奏しているバンドを聴きに通っていました。

当時の Kansas Cityのクラブに出ていたコンボは、ジャズよりもブルース寄りで、シンプルなビートと、親しみやすい構成を持ち、ある意味、ロックン・ロールの「前段階」的な傾向が強かったらしく、それがまた彼の音楽的バック・ボーンを為す一要素として定着して行ったのではないでしょうか。
やがて 1929年に、彼は the Sunset Cafeのバーテンダーという職にありつきますが、その時の彼はまだ十代です。そして、そこでハウス・ミュージシャンであるピアニストの Pete Johnson(同じく Kansas City生まれ。1904年ですから彼の 7才上、ということになります。1967年に死亡)と出逢いました。
機会があって、そのピアノに合わせてアップ・テンポのナンバーを歌ってみたのが好評だったため、この二人のコンビはすぐに「定番」化します。
そして 1936年、John Hammondが the Count Basie Bandを訪ねて Sunset Cafeに来た際に聴いた Joe Turnerの歌に感銘を受け、Count Basieのバンドと一緒に New Yorkに来るよう誘いましたが、ビッグ・バンドの前で唄うことに不安のあった Joe Turnerはその件については断りました。が、そのかわり、Pete Johnsonとのコンビではダメ?と Hammondに提案しています。こうしてこのコンビはその夏、New Yorkに滞在して the Famous Doorに出演したのでした。

1938年になると、ふたたび John Hammondからの誘いがあります。
今度は Benny Goodmanの番組Carmel Caravan への出演依頼で、さらにその年の 12月にカーネギー・ホールで行われた第一回のSpirituals to Swing コンサートにも出演することとなりました。
そのコンサート出演は成功し、すぐさま Vocalionが声を掛け、一週間後にはスタジオで初吹き込み(Roll 'Em Pete Goin' Away Blues )をしています。
翌年早々、Hammondは二人を the Cafe Society( New York Cityのナイトクラブ、Albert Ammons、Clarence Pinetop Smith、Gene Ammons、Meade Lux Lewisなどもここで演奏している)に連れていきましたが、そこでは Albert Ammonsと Meade Lux Lewisとも共演をするようになり、そこでレコーディングのプランがまた浮上しました。
1939年の 6月に Oran "Hot Lips" PageのバンドをバックにCherry Red 、そしてバンドの替わりに Albert Ammonsと Meade Lux Lewisが入った同じ曲、さらに Joe Turnerと Pete Johnsonの組み合わせでCafe Society Blues を吹き込んでいます。

ほとんどコンビのようにして活動していた Joe Turnerと Pete Johnsonですが、もちろんそれぞれが個人的に活動もしていたようで、例えば Pete Johnsonは、Chicagoで Harry James Bandをバックに、Chicagoで「歌って」もいますし、Benny Carterと Coleman Hawkinsも在籍していた Varsity Sixと Varsityレーベルに吹き込んでいます。
1940年には Deccaと契約し、"Hot Lips" Pageのバンドをバックに 4曲ほど吹き込んでいます。このときのPiney Brown Blues は 400,000枚を売り上げる大ヒットとなりました。Deccaは "Hot Lips" Page以外にも the Freddie Slack Trioや Willie Smith、Art Tatumなどをバックにつけて Joe Turnerのレコーディングを行っています。

1941年には彼はハリウッドに出向き、Duke EllingtonのJump For Joy というレビューに出演し、さらに西海岸一帯で公演し、結局、数年間、ウエストコーストに住み続けたのでした。1942年には Willie Bryantのショウの一員として Meade Lux Lewisと組んでツアーに参加し、さらに NBCの放送にも出演しています。
1944年には Joe Turnerと Pete Johnsonに Albert Ammonsを加えてツアーを開始し、また Deccaと New Yorkの National Recordsにもレコーディングを行いました。
この Nationalで吹き込んだ中のJohnson And Turner Blues Esquireマガジンによって Male Vocalist in an All-American Jazz Band部門の銀賞を受けています(金賞は Louis Armstrongでした)。

ってことで判るよに、かなりジャズに傾いてる存在、とも言えるんじゃないでしょか。
出てくる名前も、ジャズ畑の人脈ゾロゾロですからねえ。

第二次世界大戦の展望が開けたところで、一時停滞していたレコード製作も盛り返しはじめ、この時期、Joe Turnerは Deccaと National Records(この National Recordsについてはまだ調べておりません。手元の資料では National Music Lovers Recordsっていう 1920年代に New Yorkでダンス・ミュージックのレコードを 8枚で 3ドルという価格で通信販売していた、たぶん別なレコード会社しか判りませんでした)に吹き込みをしており、Johnson And Turner Blues が Silver Awardを獲得したことは上で書きましたが、二年間に及ぶ Nationalへの 11枚のレコーディング中、まともに売れたのはそれではなく、My Gal's A Jockey だけだったようです。
そこから 1949年のStill In The Dark までは、いわば低迷期とでも言うべきパっとしない数年間を送りました。
その間、彼は Stag Records( San Francisco)や Los Angelesの Deetoneや Swingtime( Playboy Thomasや Lloyd Glennなどがレコーディングしているレーベル)、Houstonの Freedomなどのレーベルに吹き込んでいるのですが、唯一のヒットと言えるのが1949年に FreedomからリリースされたStill In The Dark のチャート入りでした。しかし、全国配給網を持たないマイナー・レーベルの限界で、すぐにチャートから消えてしまっています。
一時期住んでいた New Orleansから彼は北部に移動し、Lowell Fulsonや Pee Wee Craytonといったギターをバックにクラブなどで演奏をしていました。

そんな彼にチャンスが転がり込んできたのは、いささかタナボタめきますが、Count Basie Bandから Jimmy Rushing( 1903.8.26 - 1972.6.8、Oklahoma City、1935年から Count Basieのバンドのヴォーカルを務め、1950年に独立後、自らのスモール・コンボと、また Benny Goodmanや Buck Claytonのバンドとも仕事をしている)が独立したことにより、その穴を埋めることになったからでした。
当時、Atlantic Records( 1947年、在米トルコ大使の息子であった Ahmetと Nesuhiの Ertegun兄弟によって設立された独立系レーベル。1953年に Jerry Wexlerをプロデューサーとして迎えたことにより大きくブレイクする)は Joe Turnerに興味があったようで、探していた矢先、New Yorkの Apolloにでかけた Ahmetは Count Basie Bandのヴォーカルとして歌っていた彼を発見し、さっそく一年契約という形で Atlantic Recordsへのレコーディングを実現させました。

ここで Ahmetが賢明だったのは、彼の歌を、これまでのありきたりなジャズ系のナンバーから、より若い消費者層にターゲットを絞った R&B的な音造りで仕上げた点でしょう。
1951年 4月19日(つまり、まだ Jerry Wexlerはいません)、Van "Piano Man" Walls and His Orchestraをバックに吹き込まれた 4曲のうちChain Of Love は発売されるやたちまちチャートを駆け上がり、R&B部門の最高 2位に 4週連続でとどまり、実に 25週間、チャートに居続けたのでした。
このヒットによって一躍有名になった彼は Atlanticが仕立てたCavalcade of Blues ツアーや、Helen Humesとのツアーなども行うようになります。

続いて(まだChain Of Love が在位中に!)発売された同じセッションからのThe Chill Is On も R&Bチャートの 3位まで登りました。
また Atlanticは Joe Turnerのマイナー・レーベル時代の作品も 1952年 1月に Van "Piano Man" Wallsのバッキングで新たに収録しなおしてSweet Sixteen を発売、これもそこそこヒットさせています。
以後、同年 9月にはDon't You Cry を、1953年の春にはHoney Hush を吹き込み、これは発売されるや R&Bチャートを上昇し、実に 1位を 8週間にわたって独占したのでした(蛇足ながら、その 1位を替わって奪い取ったのが Guitar SlimのThings That I Used To Do )。続いて Chicagoで 10月に行われたセッションで吹き込まれたのが Oke-She-Make-She-Pop でした(このときのバッキングは、ピアノが Johnny Jones、ギターはなんと Elmore Jamesで、ベースが Jimmy Richardson、ドラムは Red Saunders。ブラスでは Sonny Cohn-tp、Grady Jackson-ts、Mack Easton-bsとなっています。プロデュースは当然 Jerry Wexler)

続いては同年 12月に New Yorkで録音されたナンバーShake, Rattle And Roll はチャート 1位を獲得し、さらに「六ヶ月間も」チャートに居続けています。
この曲はご存知のよに Bill Haley and the Cometsによってカヴァーされ「ワールド・ワイド」なヒットとなるのでございますよ。
その後もヒットは続き(Flip, Flop And Fly も!)そこらいちいち羅列すんのもメンドーなくらいですが、Jerry Wexlerと Nesuhi Ertegunはここで、かっての Joe Turnerの相棒、Pete Johnsonともいちど組ませる、という企画をスタートさせ、そのコンビでの吹き込みや、1958年の Newport Jazz Festivalへの出演、さらにはJazz At The Philharmonic (いわゆる JATPですな)のヨーロッパ・ツアーにも参加するなど、またひとつの時代を築き挙げました。

ただし、1950年代の終焉とともに彼の商業的収穫期は終りつつあり、彼の最後のヒットと言えるナンバーは、「あの」 King Curtisをサックスに迎えたJump For Joy でしょう。
それでも 1960年にはアルバム Big Joe Rides Againをレコーディングし、ここではギターに Jim Hallを迎え、サックスに Coleman Hawkinsを配して、よりジャズ色の強いものでしたが、Atlanticはこれを最後に彼との契約を打ち切ったのでした。

そこからの彼は、むしろジャズ系の場で活動を続け( The Five-Four Ballroom、The Birdland、Monterey Jazz Festivalなど)ますが、1966年には American Folk Blues Festivalのツアーに Pete Johnsonとともに参加し、1967年には Spirituals To Swingにも出演、さらに 1969年には Johnny Otisと接触し、そのショウに参加し始めることとなります。

1970年代の彼は Johnny Otis Showの一員として演奏するかたわらフランス・ツアーの折りに現地のレーベル Black and Blueにレコーディング、またふたたび Count Basieのバンドで唄ったものを Pabloにも残しました。
1972年には妻に先立たれていますが彼はすぐに再婚しています。
1973年には Trojan Recordsに、その翌年には LMIに、1977年には Spiveyにそれぞれレコーディングをしていますがこのころには彼の健康状態が徐々に悪化し始めていたのかもしれません。
やがて卒中と糖尿病によって車椅子での生活を強いられるようになり、1985年の11月24日に死亡しました。

その葬送で歌ったのはもちろん Pete Johnsonでした。



reserched by Othum: Blues After Dark


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by blues-data | 2005-09-10 08:21

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