Junior Wells
困ったことに、ワタクシ、ジュニア・ウエルズのヴォーカルは好きじゃあないんですよ。
あまりに自信ありげで、しかも実際そんだけのことはある「巧さ」が滲み出て・・・いえいえ、ボタボタと洩れ出て来てますでしょ?そこらの「過剰感」についていけんのですわ。で、さらに困ったことに、そんな彼の曲の「作り方」はケッコー好きなんでございますよ。

1934年の12月9日、Tennessee州 Memphisの John Gaston Hospitalでひとりのオトコのコが生まれました(って、なんで今日は「おハナシ」口調やねん?)。ご両親は Arkansas州 Marion近くの農場で働いておったそうな。
ジュニアは学校をズル休みしてソーダ・トラック(ってナニよ?なんて訊かないでちょーだい。ワシかて判りまへんがな。飲むほーのソーダなんだか、工業原料の苛性ソーダなのか、それもトラックってコトは積み込み?荷役?ううう、さっぱ判らん)のバイトして、一週間やって貰ったのがたった 1$50¢!それで質屋に行ってみたらハープが 2$なんで・・・ってエピソードはもうみなさまご存知でしょ?ところはウェスト・メンフィス、ジュニア 9才の時のおハナシでございます・・・
さて、12才ってハナシもあるんですよ、それ。

さて、まずは名前からです。
もちろん、Junior Wells として通用している部分にはなんの問題もありません。
少なくともブルース業界(?)ではジュニア・ウェルズと言えばこのひとだけです。
では彼の本名は?となると多少、事情が違ってきます。
ファースト・ネームは Amos。これはどうやらマチガイ無い。
ところが苗字のほうじゃ、なんでか Blakemoreってのと Blackmoreってのが入り乱れております。
ま、マチガイ無いところ、ってんで彼の墓碑銘を見てみたら、Amos Blakemore ですねえ。
「とんでも」な取り違えやら、ミスも多くってアテにならないので有名な All Music Guide では「やっぱり」Black〜になってますよ!
All Music Guideは他に資料が無い(なんてことも滅多に無いんですけどね)とき以外は参照しないこと!

さて、その過程でいろんなサイトの記載を見ていくうち、いちばん「ありそうな」本名(?)Amos Wells Blakemore を掲示してるとこがあって、そこでは彼の出生地を Tennessee 州 Memphis としておりました。
一方、1993年のインタビューでは
Where were you born and where did you grow up at

という質問にたいし
I grew up in Chicago. I'm from West Memphis, Arkansas.
・・・と、質問の主旨を理解してない答えをしてますねえ。
しかも、あくまでも from West Memphis、であって別に I was born in West Memphis, Arkansa...というように West Memphis で「生まれた」という表現が含まれた回答にはなって「おりません」。
一応、彼の墓碑銘ではその生地は Memphis, Tennessee となっております。
ただし、ここで重要なのは Arkansas 州 West Memphis ってのは「東京都」に対する千葉県・浦安のような存在である、ということです。そして Marion ってのが同じく行徳・・・え?そりゃ東京の住民じゃなきゃ判らん?
だはは、そりゃそうでしたねえ。でもまあ、実際は千葉県の浦安ってとこにあるのに TOKYO Disney Land っての、誰も不思議に思わないでしょ?
そのくらい Memphis と West Memphis は密接な「距離」にある、ってこと。
ですから、いささか不謹慎ながら、「どっちだっていいじゃん!」とも言えるワケで・・・
少数派ではありますが、その生地を Arkansas 州 West Memphis としているものもありますが、それも裏付けとなる確実な資料があってのことではなく、前述のインタビューから来ているのではないか、と思われます。

ところでその West Memphis と Memphis ですが、そのふたつをつなぐのは、まず 1892年の 5月12日に開通した Great Bridge at Memphis と呼ばれた The Frisco Bridge で、これは鉄道のための橋でした。
それを示唆する資料には出会っていないので確証はありませんが、それまでは両岸を渡船がつないでいたのでしょうか?
鉄道により、両岸の町の関係はさらに密接となり、そして The Harahan Bridge が 1916年 7月14日にその横に懸けられ、鉄道輸送はさらに加速されます。
しかし時代は徐々にモータライゼーションの世紀へと傾斜を始め、それに対応するためにその橋に木造(!)でトラス構造の車線が追加され、自動車用のレーンとして供用を開始したのでした。
そのレーンが完全な自動車専用で、歩行者を締め出していたのかもしれませんが、特にそのような記述には出会っていないため、歩いてでも渡れたのかもしれません。
ところがそのレーンは 1928年に、「木造」だったことが仇となり、列車の車輪とレールの間で発生した火花が原因で(と言われている・・・)火災を発生して、燃え落ちてしまい、それ以来、この The Harahan Bridge はまた鉄道専用にと戻ってしまいます。
すでに Amos Blakemore が Chicago に発ってしまった後の 1949年にはクルマで通行でき、「歩道部分もある」と明記された橋がようやく現れました。
1950年代に入って計画され、ルイジアナからシカゴまでを南北につなぐインターステイト 55、つまり日本流に言うと国道 55 号線(アメリカの国道は、基本的に奇数番号は南北をつなぐハイウェイで、偶数番号は東西に走る国道を表す)が開通して、北から West Memphis にぶつかって来た I-55 が東に向きを変え、Mississippi 川を渡るために利用しているのがその橋、Memphis-Arkansan Memorial Bridge です。
この Memphis-Arkansas Memorial Bridge の完成は 1949年の12月17日ですから、もちろん Amos Blakemore がこの橋の恩恵にあずかったハズはありませんね。

さて、となると、どーなんでしょ両方を結ぶのはもっぱら鉄道に頼っていたのでしょか?
ま、ひと駅ですから、気楽に行き来できたのかもしれません。
あるいは橋が完成した後でも、まだ渡船があったかもしれないし・・・
ザンネンながら 1940年代を通して West Memphis と Memphis 間の交流について具体的に記した資料には到達できなかったので、そこら、なんとも言えません。

てなことはともかく、両親は信心深かったんでしょか、「ブルースなんて悪い音楽じゃなく、ゴスペルに精進なさい」なんていう圧力下にあっても、Amos 少年は両親の目を盗んで West Memphis あるいは Memphis はたまたその両方?のストリートをウロつき、その道のローカル・ヒーローたちに影響されて「ブルース度」を高めて行く・・・
やはり親としてはブルースじゃなくゴスペルを、ってのが人情だったんでしょねえ。
ブルースマンなんてロクなのがいないんだから・・・なんての、確かに当たってる部分もあるし。
ところで、彼に影響を与えたローカル・ヒーローっての、これもいろんな名前が挙がっています。

これもインタビューで
When were you first introduced to the harmonica and by whom
という質問に
I was introduced to it by myself and I heard the original "Sonny Boy" coming in on the stero at Randy's Record Shop in Nashville.
I had heard "Muddy Waters" and people like that over this particular radio station.
と答えています。
by myself ってのは、だいたいみんなそー言うよな、っちゅう「お約束」みたいなもんですから、まあいいとして、ここでは Sonny Boy の名前を挙げていますね(だいたい、いつ Nashville におったんや)。
ただし、いろんなサイトでは、彼の奏法の分析やら本人以外の証言なども含めて勘案したものでしょうが、もっと広範囲なブルースマンの名前が挙がっています。

ただし、それらのブルースマンの影響は Pre-Chicago、つまりシカゴ以前の彼に対しては、その時代考証も考えなければならないとは思いますが。
インタビューでは彼の最初のハープは Arkansas で買った、と発言していますから、それは当然 West Memphis を指す、と捉えてよいでしょう。
15セントのハープを買い、シカゴに来るまでは Junior Parker から学んだとも言っています。また、それに関連して、Junior Parker の人脈から B.B. KIng や Howlin' Wolf、Big Walter との交流を挙げているサイトもありました。

母の後を追って(あるいは資料によっては「母とともに」としているものもあります)シカゴに来てからは特に Little Walter のプレイが印象的だったと語っているようです。
ところで、彼の「伝説」として、12才のときにハーモニカを買う金が足りなくて店から 50¢を踏み倒して持ちだし、裁判にかけられたものの、裁判官の前でハープを演奏してみせたら裁判官がその不足分を立て替えてくれた、なんてハナシがありますが、そのハナシの真偽のほど(と言うよりは「ディテール」かな)はともかくとして、それからも、すでに 12才のときには「かなり」ハープを「こなしてた」ってことを言いたかったのかも。
ただし、その一件がシカゴに出る直前なのか、シカゴに来てからなのか、を明記した資料には遭遇しておりません。
おそらくシカゴ以前では?てな気もいたしますが、ま、そのハナシじたい、全部「?」っちゅう気もしないではない・・・

ところで、数々のツッコミ(?)やら討論で記載が出来上がっていく、ということになっている Wikipedia の Junior Wells の項では、彼が母に連れられて( Alt. 母を追って)シカゴに出てきた時期を 1948年としています。
しかし、おおかたの Junior Wells の Biography を扱った「個人サイト」では、「ほとんど」口裏を合わせたように 1946年としていますが、それは「 12才のときだった」ということから考えると、生年が 1934年ですから、とーぜん 1946年になる、ということのようですが、そこら、どちらに信をおくか、は難しいところでしょう。
一般的には「本人がそう言っている」というのはかなり「強固な」証言となりそうなところです。しかし、それがゼッタイと捉えていいものかどうか(特に Screamin' Jay Hawkins なんてえホラ吹きにつきあって鍛えられたせいも多少あるとは言え)、いささか疑念のあるところではございます。
たとえば、みなさまにしたところで、小年期あるいは少女期の「転居」など(ま、日本では義務教育が「徹底」してますから、学校との絡みで記憶は補強できるので「有利」ではありますが)正確に「いつ」だったのか、思い出すことが出来るでしょうか?
自分では覚えているつもりでも、親戚との集まりなどでその話題になって、カン違いを正された、なんていう経験はないでしょうか?
ま、それと一緒にすな!てのも当たってるでしょうが、どうもワタクシ、本人がそう言ってるから、ってだけじゃ信じられない、っちゅう「ねじ曲がった」性格になってしまってるようなんですわ。

というワケで、ここではいちおう墓碑銘の刻印を信じて Memphis で生まれ、その後 Arkansas 州 West Memphis にもいたことがあり(もしかするとどっちにも出没してた?)、そこから 1946年、あるいは 1948年にシカゴに移った、というのを仮採用しておくことといたしましょ。

そしてシカゴでの彼は(ところで、いつ頃から彼が Junior Wells として「存在」するようになったのかについて触れている資料には、今のところまだ遭遇してませんねえ)Louis と Dave の Myers 兄弟とともに演奏するようになるのですが、そこらを、当初、彼も含めたトリオで the Little Chicago Devils として発足し、すぐに the Three Deuces、さらにそれが the Three Aces となり多少は名が知られてきたところで、そこに Fred Below が加わったことで the Aces となった・・・とゆう、もっとも詳しそう(?)な資料や、1950年に Louis と Dave の Myers 兄弟がサウスサイドでのハウス・パーティで演奏するために行ったオーディションにパスし、the Deuces が生まれた、としているものもあります。
Fred Below 以降は同じですけどね。
また、違う資料では、彼は 14才あたりから(つまり 1948年ですね)すでに仕事として演奏しており、その最初の場が C & T Lounge での Louis & Dave Myers との演奏だった、と。
また別な資料では Fred Below が加わって「ただの」the Aces になったのを 1950年、としています。
・・・てなとこを総合すると、どうやら Myers 兄弟と始めたのが、シカゴに来てすぐ(?)の 1948年、そして 1950年には Fred Below も加わって the Three Aces から the Aces となった、てなとこでしょか。

おそらくその直後かと思われるのですが、まだ未成年で、本来ならばクラブには出入りできないハズの Junior Wells は知りあいの警官が付き添って(?)くれて、経営者に「こいつはミュージシャンなんだ」、と保証してくれたおかげで、マディのグループが演奏していた Ebony Lounge に入ることが出来た、と語っています。
休憩中にその警官がマディに近寄り、ちょっとコイツにハープをやらせてみちゃくれないだろかと言うと、ワシはかまわんが、ウチにはハープがいるからなあ、ヤツ( Little Walter!)に尋いてみなくちゃあ、と立ち上がって、Little Walter のとこに行って話しかけ、Little Walter が、ん?どいつが?てなことを言ったらしく、マディが Wells を指差すと、え?あんなチンケなヤツかい?と。
ま、それでも彼のアンプとマイクを貸してくれて、それで演奏したら、70ドルくらい(本人のインタビューでは集まったチップの総額を 70 から 75ドル、としていましたが、別な資料では 45ドル、となっており、この額に関しては、他人が云々したものとは思えないので、おそらく本人が「かってはその額を語っていた」のではないか?つまり時代が進むとともに多少イロをつけたのではないのか?という疑惑をつい持ってしまうのですが、もちろん、どこにもそれを裏付けるような証拠があるワケではございません)のチップが集まったとか・・・ま、これが(たぶん)きっかけとなって、後にマディがツアーに出るときに、体調を崩していた Little Walter に代わって同行することになったようで・・・
この後、また Little Walter はマディと一緒に演奏もしたようなのですが、その関係は急激に破綻し(それには Little Walter の身持ちの悪さをマディが嫌った、というネガティヴなものと、1952年に Juke がヒットして独立を考えた、というポジティヴなものの二種類の説明が併立してるようですね)、マディはこんどは本格的に Wells をハープの座に据えることを考えたようで、結果的に、マディのバンドと the Aces とで、Little Walter と Junior Wells を「交換」した、という形になったようです。
これが 1953年のことで、以来 Aces は Little Walter のヒットにちなみ the Jukes と名を変えることとなり、Wells は 1955年までをマディのもとで過ごすこととなる・・・ってのが事実関係としては言えるようですが、Little Walter がマディのとこを、自分でヤメたのか、それともクビになったのか、なんてとこで Junior Wells の存在をあまり過大に捉えないほうがいいかもしれません。

そして 1953年と 1954年にはもう彼自身の名義で State Records に吹き込みも経験しているようなのですが、そこでのナンバー Eagle Rock にちなみ(と言うより Jukes では契約上マズい、ってことでの「偽名」かも)例の the Aces が Eaglerocks としてバックに参加し、また後に彼の代表作となった Hoodoo Man Blues の原型もこのときに既に吹き込まれておりました。
また、その内容が彼の不名誉になることであるせいか、おそらくその直後と思われる陸軍に徴兵されていたときの軍務離脱行為についての詳しい説明は発見できませんでした。
戦時下での離脱ではないのでさほどは重大視されなかったのかもしれません。
その軍務を離脱してきた1955年に結婚してる奥さんの名前は Zearline McBeck。え?どーでもいい?

しかし Junior Wells が「全力疾走(?)」を開始するには、ひとつの個性との結合が必要だったのかもしれません。
それは言うまでもなく、ギターの Buddy Guy の存在です。
それ以前にもすでに彼の代表作とも言える Messin' With the Kid、そして Little By Little を Mel London の Chief に Earl Hooker などを 1960年に録音はしていましたが、やはり彼にとっては非常にコントローラブルでありながら、充分なスキルを併せ持った Buddy Guy とのセットが「もっともよく」その魅力を発揮できたのではないでしょうか。
その Buddy Guy との出会いについては、インタビューでは、Buddy Guy がまだ Baton Rouge の高校に在学中に、その高校で見た、としていますが、その後、Buddy Guy が 1957年に Baton Rouge から Chicago に出てきて、1958年に、ちゃんと会った、ということのようです。
そこで吹き込んだのが Delmark への Hoodoo Man Blues でした。

しかし一方では「純」ブルースから踏み出した、James Brown の You're Tuff Enough による R&B チャートでの活躍は、とかく純粋主義者が多いシカゴ・ブルース・マニアたちの受けいれられるものではなかったようで、たいていのサイトではそのヒットについては「黙殺」するか「無視」することになっておるようです。

1997年の春、彼は、リンパ系の癌と診断され、手術や治療を受けていましたが、秋には、その治療のための処置中に心臓の発作に襲われて昏睡状態に陥り、翌 1998年には、回復の見込みも無いことから、医師団は延命治療の放棄を決断、生命維持装置を取り外しました。
そして 1月15日にそのまま意識が戻ることなく還らぬひととなっています。
彼が世界にその姿を「最後に」見せたのは皮肉にも、彼の死後に封切られた映画「 Blues Brothers 2000 」のなかで、だったのです。
シカゴの 71番街の葬儀会場では、棺の中にロイヤル・ブルーのスーツで装った彼の遺体とツバ広の帽子、さらには全部のキーを揃えたハープ一式と Tanquerayのジン一本が入れられ、葬送の曲は Billy Branch、Sugar Blue、そして Harmonica Hindsという三人のハーピストによって奏でられたのでした。



reserched by Othum: Blues After Dark


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by blues-data | 2005-09-12 21:45

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