Kid Thomas
1962年 9月29日、 Booker T. & the M.G.sのナンバー、Green Onion が Popsチャートの 3位、R&Bチャートの 1位を獲得していますが、そのメイン・フレームをGreen Onion から「いただいている」と言って差し支えない Kid Thomasの Willow Brook Bluesがその数年後に吹込まれています。
同じようにインストで、ただし、こちらは当然、彼のハープをメインに、バックには Joe Bennettのワウも多用したクセのあるギターを配し(ピアノは Lloyd Glenn)、それでも、メインとなるテーマはモチロンGreen Onion とは違っておりますから、「ちゃんと」別な曲になってはいますが、実際、このGreen Onion スタイル、ってのは少なくともブラック・ミュージックをちったあカジったことがあるひとなら、誰でもソク演奏できちゃいそな、「常識化した」普及度がありますから、このパターンを採用すればウワモノ、つまり歌やリード楽器(あ、ここで言う「リード」って、クラリネットの発音原理になってる「リード」じゃなく、ソロとったり、メイン・テーマを演奏する楽器、っちゅうイミね)で個性を出せばソク一曲出来ちゃうワケでございます。
あのパターンの上で、なんだったら ♪You gotta help me・・・って始めてもいいし(細かいとこじゃ違うんですけどねん)、この曲みたいに、また違う曲想で一曲仕上げることも出来るんですねえ。

この Willow Brook Blues、1968年か 1969年の、おそらく Los Angeles録音で、たぶん彼が射殺された後の1970年にリリースされたものと思われます。

Kid Thomasこと Louis Thomas Wattsは、1934年( alt.1935) 6月20日、Mississippi州 Sturgisで生まれています。
その彼が 7才の時に彼の両親、Virgieと VT(とあるので、そのとおり記しておきますが、どっちが母でどっちが父やら・・・それに人名で VTって?)に連れられて Chicagoに移ってきます。
そのシカゴに来てから始めたものか、あるいはそれ以前からか、は判明しませんでしたが、Little Willie Smithってえブルースマンからハープを習っていたようです。
1950年代に入るころには Cadillac Babysや、今ではその名前さえ定かではないような幾つかのクラブなどでハーピストとしての仕事もしていました。
やがて彼の姿は Elmore Jamesや Bo Diddley、そして時にはマディのステージ周辺でも見られるようになり、特に Little Walterがよくあるように「呑み過ぎて」使いものにならなくなった時など、彼が代理を務めたこともあった、といいます。

ただ、そのままでは彼に対する「業界(?)」の扱いが一向に変わらない、と悟ったのか、1955年にはレコードだ!レコードを出すっきゃない!と決意したものらしく(この、レコードを出してるかどうか?は業界内では「かなり重要」であるらしく、事実、もっとも多い紹介ってのが「XXX Recording Artist!! Mr.~」ってヤツでございます。XXXのとこにはレコード会社の名前が入るんですが、モチロンそれにはそれの「序列」ってもんがあるんでしょうなあ)いきなり King-Federalを訪ねて単刀直入に「レコード出したいんだけど」とやったらしい。
普通なら、ナニ言ってんのコイツ?顔洗って出直してきな!なんて門前払いになりそなもんですが、そのアキレるほどのノー天気ぶりに圧倒されちゃったのか、つい(?)Syd Nathan( 1904,4,27-1968,5,5。King Recordsのオーナーでもあったが、他にもそれに呼応したよな Queenや DeLuxe、Federalに Glory、Bethlehemに Audio Lab、Beltoneなどのレーベルも持っていた)の下で A&Rマンとして働いていた Ralph Bassを紹介してしまった!

Ralph Bassは一方的にまくしたてる彼に辛抱強く付きあったあげく、オーディションをやってやるから、バンドで来い、と言ったのでした。そこで Little Willie Smithをドラムに据えて、ギターには(おそらく) Elmore James、そしてピアノという陣立てで再度襲来し、ウルフ・スタイルのナンバーと、もう一曲はなんと「あの」 Screamin' Jay HawkinsからいただいたThe Spell ってのをやった、というんですが、時系列から言うと、Screamin' Jay Hawkinsの最初の「世に出なかった」I Put A Spell On You が Philadelphiaの Reco-Art Studioでレコーディングされたのが 1955年の11月のはじめ、そして、世に出た「あの」I Put A Spell On You が New Yorkで録音されたのが 1956年の 9月12日ですから、このThe Spell 云々ってのはそれ以降のハナシになりますね。
結局この時のテイクは Federal 12298というシングルでリリースされたようです。

さて、ミゴト Federal Recording Artistとなった彼はシアワセになれたでしょうか?
そ、みなさまもうすうすお判りになっているとおり、レコードを出した、ってだけじゃ「あ、そう」で終っちゃうのですよ。それが「ヒット」すると扱いも変わるんですがねえ。
セールス・プロモーションをガンバってもダメなものはダメ。
一方の Screamin' Jay Hawkinsときたら「あんなの」でガンガン売れてるってのにさ。

こんな行き詰まった日常にブレイク・スルーは訪れないのか?なんて彼が思ってたかどーかは「?」だけど、いささかヤケになって安食堂で 1ドル98セントのチキン定食をガっついてるときに、フと耳に入ってきたのが Kansas州 Wichitaからヒッチ・ハイクで辿りついたらしき二人の会話でした。
そこで天啓を受けた(?)彼はその二人に話しかけ、このシカゴでいっちゃんのライヴが聴けるとこはどこだべ?ってのに、そりゃムロン Cadillac Babysさ、と吹き込み、おまけに、ワシが案内してやる、と連行しちゃいました。
もちろん、そこで見せたのは自分のバンドのリハーサルでございます。
カンドーした二人が、こんなショーをおらたちの街で出来ねえべか?と言うもんですから、そこはもう渡りに船、オレだったらこんくらい出せば行ってやってもいいぜ、なんて親切に教えてさしあげた、と。

少しして彼のもとに手紙が届き、そこには Wichitaの Sportsmans Loungeでライヴをやって欲しいというオファーが書かれておりました。やったね!
ただ、この時、彼にはクルマが無かったため、そのころ彼がちょっとした仕事をもらったりしていた、ある牧師さんとこの 1949年型 Buickを無断で借りて(ってフツー、これは「盗んで」と言うよなあ) Wichitaにむかったのでした。
が、アクはホロビる。バンドはひょんなことから仲たがいして空中分解、おまけに Buickまでが「おシャカ」になってしまいましたとさ、因果応報ってヤツでございますな。

それでもおめおめとシカゴに帰ってきた彼を牧師が待っていて、「なあ、ワシの Buickを知らんか?お前が出発した日に消えてるんだが・・・」、どうやら最後まで「知らないよボク」で通しちゃったみたいですが。
それでも懲りずに、その一ヶ月後、また Wichitaに新しいバンドを組んで向かったのですが、今回は 1947年製の Dodge DeSotoのステーション・ワゴンを調達しております。そのトレッドも擦り減ってツルツルになったタイヤで Ozark Mountain越えをしたそうですから、ま、いい度胸というか、無謀と言うか。
その Dodge DeSotoはバンドの専属車としてオール・ペイントされ、彼の名前がデカデカと書かれていたのですが、そいつで走ってると、みんながミョーに注目することに気付いたドラマーが「?」と思ってよく見たら、なんと Kid Thomasと書くべきところを「o」を忘れちゃって、Kid Thmasとなってたんだって。それを発音すっと「キッド・サム・アス」になって、ケツに親指のガキ(?)ってイミになるもんで、みんなギョっとしてたみたい。おバカですねえ。

1956年あたりは Hound Dog Taylorとも行動をともにしてたようですが、この頃に彼のヘア・スタイルはトンデモなものになったみたい。そして類は友を呼ぶ、ってヤツでしょか、偶然の出会いを通して Little Richardと知りあい、これがまた彼の音楽にもかなりの影響を与えることとなりました。
結局 1958年まではシカゴから「例の」 Wichitaから Colorado州 Denverあたりまで演奏に出かける、というスタイルで、シカゴでは Magic Samや Otis Rushともステージを分けあったりもしています。

おそらく 1959年には Los Angelesに移っていたようで、そこでは Modern Recordsの A&Rマンをしていた George MottolaによってYou Are An Angel を吹き込むことが出来ました。このときのバンドの構成は、ギター二本にドラムというものだったようです。
そして彼の名を残すこととなったRockin' This Joint Tonight も録音されました。

その後 Murielレーベルに Tommy Louis and the Rhythm Rockers名義でThe Hurt Is On (カップリングはI Love You So )を吹き込みましたが、ほとんど放送には乗らず、パっとしなかった(ただし南部ではプロモもしてないのに割りと売れたんだって)ようです。
次いで Cenco Recordsのオーナーと出会ったのをキッカケにそこにも吹き込んでいます。
ここではYou Are An Angel のリメイクと、Willow Brook Bluesが録音され、これは後に Cenco 115として 1970年にリリースされた、とされていますが、この Cencoという会社そのもは間もなく立ちゆかなくなったらしく、その姿を消してしまいました。

この頃の彼はヨーロッパ、それも特にイギリスでの「ブルース・ブーム」を知って、イギリスに行きたい、てなことを言ってたようですが、現実は、ケッキョクまだ音楽だけでは食べて行けず、ビヴァリー・ヒルズの豪邸のお庭で芝の手入れをするお仕事もしておりました。
今日も今日とて芝の手入れを済ませ、仕事に使ってるバンで帰途についた彼の前に自転車に乗った少年が「飛び出して」来て・・・
この事故そのものについては「無罪」とされたのですが、この時にモンダイとなった彼の運転免許証について弁明するために裁判所に向かった彼を、死亡した少年の父親が待ちうけていて「射殺」してしまったのです。

白人が圧倒的に優勢な陪審員による裁判では、この父親の殺人行為を「無罪」としてしまいました。

もし、これが逆だったら、つまり黒人少年を轢き殺した白人を黒人が「射殺」しようものなら、警察が出てくるまでもなく、自警団に狩り出され、裁判など受けるいとまもなく(受けても「死刑」に決まってますが)惨殺されてしまうでしょう。
これが 1970年のアメリカです。そして今だって・・・



reserched by Othum: Blues After Dark


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by blues-data | 2005-09-12 22:29

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