King Curtis
まさに「不朽の名作」なんてコトバがぴったしくる曲、みなさんもダレがやってるナンて曲か?は知らなくても、おそらく一度は聴いたことがあるんじゃないでしょか?

Today’s special is "Memphis Soul Stew

と言うレストランのホール・マネージャーの口上よろしく、「Memphis Soul Stew」の作り方(?)の講釈タレて、そのたびにひととっつ楽器が増えてくアレです。

まずサイショは(最近のスラップ・ベースなんかに比べるととっても「素朴」だけど)ファンキーなベースのモノローグから始まります。ティーカップ半分のベースってやつね。そこに、1ポンドのドラム・・・ってとこで当然ドラムがフィル・インしてタイトなリズムを叩き始め、そこに小サジ 4杯の「茹でた」メンフィス・ギター、オルガンをひとつまみ加え、半パイントのメンフィス・ホーン・・・てな風に呼び込む毎にどんどん楽器が増えてしまいにゃ King Curtisがサックス・ソロを目一杯ブロウする、ってワケ。
これがカッコいいんですよ。たしかに「今」の音じゃあないんですが、こんなバックがいたら、もーそれだけで、ブルースの出来が二、三段階グレード・アップしちゃうなあ、って感じ?ま、バックだけ良くてもフロントがワタシじゃあハナシになりませんが。
この「Memphis Soul Stew」は1967年の 9月から11月にかけてチャート・イン、R&B部門で 6位まで上がりました。

さて、このような「楽器の呼び込み」とはちょと違う(なんせ、サイショは全員で音、出してるんですから)けど、これにヒントを得たんじゃないか?ってのが 1967年10月リリースのSly & the Family Stone Dance To The Music です。一旦はフル・メンバーで曲がスタートするのですが、「俺たちに必要なのはドラマーだ!ビートが要るんだ!」のかけ声とともに音がやみ、ドラムだけが残り、king Curtisよりさらにシンプルでインテンシティのあるビートを叩き出します。続いて「そこにちょっとばかりギターをつけ足したいな、ほら脚が動き出すだろ?」で、これまたシンプルながらトリッキィなギターが絡みつき、横から(?)登場するのは、お馴染み Larry Graham「ちょっとばかり低音を入れるぜ、ダンスが盛り上がるようにな」で、あのバリガリのベースが轟音を上げる。「俺のオルガン聴きたいだろ」でハモンドも鳴り始め、そしてホーン・・・う〜ん、ビートこそ違え、パターンは「まんま」やないけ。

ま、唯一の、っちゅうか最大の違いは、Sly & the Family Stone では「歌」がある、って点ですね。しかも、その歌ってのが「公民権運動」の流れを反映してる、ってとこでしょう。1967年の 7月にはデトロイトで黒人による暴動が発生、それはニューヨークにも飛び火して、アメリカのいくつかの都市では人種間の緊張が高まり、さらに、白人層の中でもヴェトナムでの戦役に対する疑問が「反戦運動」へと成長しつつあったその時に登場したこの「Dance To The Music 」は、特に黒人たちの支持を集め、チャートを駆け上がっていったのです。

と、いうコトを考えると King Curtisは、明らかに「旧体制」の中での音楽だ、と言えるかもしれません。それがダメだ、なんていうハナシじゃなく、人種差別に対する反感は当然あったハズなんですが、「それ」を曲にする、なんて発想は(イマで言う)「パンク」だったと思うんですよ。やはり、ミュージック・ビジネスの中でキャリアもあり、各レコード会社の「お偉いさん」とも親交があるミュージシャンと、ギラつくような野心と、社会に対する不満を抱えて、それを音楽として吐き出そう、としてるコワいもの無しの新人、の違いでしょうか?
ミゴトに相前後して世に出たこのふたつの楽曲は、熟成された「良質なもの」と、粗削りながらも「これから来るもの」との対比なのかもしれません。

King Curtisこと Curtis Ousleyは、1934年 2月7日に Texas州 Fort Worthで生まれました。
1940年代まで、彼はこの街で仕事をしてたって言いますが、どうも今のところ、彼がどのようにして音楽に関わるようになったのか、また、どうしてサックスに辿りついたのか、などを詳しくカイセツした資料に出会っていないため、やむを得ずそこはスっ飛ばしまして、と。
1950年、彼は Lionel Hamptonのとこで演奏を始め、1953年には New York Cityに移っています。そこではポップス、ソウル、ジャズなど広範囲の音楽に触れたようで、やがて King Curtis and The Noble Knights(後には The Kingpins)という自分のバンドを作り、1960年代に 3曲がトップ 40入りをはたしています。しかもそれはどれもインストナンバーでした。
同様にトップ 100では、1971年までに15曲がチャート・インしています。
セッションへの参加だけではなく、ジャズのミュージシャンと吹き込んだアルバム(ex. THE NEW SCENE OF KING CURTIS NEW JAZZ OJCCD198や Soul Meeting、どちらも Nat Adderley/ Wynton Kelly/ Paul Chambers/ Oliver Jacksonが参加。1960)もあり、タダの(?)セッションマンではない。
でも、ズージャはワタクシの守備範囲外なのでこれ以上のコメントは無しよん。

1971年の 8月13日、ニューヨークで暴漢に刺されて死亡。



reserched by Othum: Blues After Dark


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by blues-data | 2005-09-13 15:16

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