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Lee Dorsey
Irving Lee Dorseyは 1926年12月24日、Louisiana州 New Orleansで生まれています。ただし、それからアメリカ軍兵士の時期を経た後、Kid Chocolateというリング・ネームを持つボクサーとして 1955年までリングに上がっていたらしい、ってゆーとこまでの間の情報は完全に欠落しております。どの資料でも「ブランクのまま」。

1955年に New Orleansの R&B系の D.J.として活躍していた「 Ernie The Whip」の所有する自動車の車体修理工場で働き口を見つけてボクサーを引退しております。
そのガレージで働いている間に地元のレコード・プロデューサーが彼を Cosimo Matassaのスタジオ( 1950年代と1960年代にはクレッセント・シティ唯一のと言ってよいレコーディング・スタジオとして、New Orleansの音楽を支えたスタジオ。当時、最強のハウス・バンドを擁していた。そのメンバーは、サックスの Lee Allenと Alvin "Red" Tyler、ドラムの Earl Palmerと Charles "Hungry" Williams、ギターでは Justin Adamsと Ernest McLeanが詰め、ピアノが Huey Smithに Edward Frank、ベースに Frank Fields、といったメンバーで、Fats Dominoや Smiley Lewis、Little Richardに Lloyd Price、そして Shirley & Leeなどのバッキングを務めていました)に連れていった、となっていますが、なんで目をつけたのかは手元の資料では不明でございます。

彼は最初、Joe Banashakの Instant labelや Rex labelに吹き込みをしていますが、それらは注目を集めることもなく終ったようです。そんな彼が ABCから出した最初のシングル「Lottie Mo 」はちょっとしたローカル・ヒットとなり、それが Furyとの契約を導いた、としている資料もあります。ただそのリリース年が判らないのはナゼ?

ところですぐに彼のバックに the A.F.O.( All For One)bandがつくようになります。このバンドは Allen Toussaintのピアノ、Roy Montrellのギター、Chuck Badieのベース、Alvin "Red" Tylerのサックス、John Boudreauxのドラムからなり、その効果はテキメン?「Ya Ya 」は Furyからリリースされると 1961年の 8月にはチャートに初登場、そこから 19週にわたってチャートに居据わり、最高位が R&Bチャートでは当然 1位!ポップス・チャートでも 7位にまで昇りつめています。
ただし、それでソク彼がラクな暮らしが出来るようになったか?というと、そーでもなかったようで、(どうやら彼には養わないといけない自分以外に 10人の家族を抱えていたようですから)車体修理工場の仕事から足を洗うことはできなかったようです。

1965年には Lee Dorseyは Amy labelから「Ride Your Pony 」をリリース。たちまちチャートを駆け上がり始め、R&Bチャートの 7位、ポップス・チャートでは 28位にまで到達します。
そこからの彼はチャート・インするナンバーを連発します。R&B 5位、Popsチャート 8位の「Working In A Coal Mine 」に続いては、「 Holy Cow」に、これまた有名な「Get Out Of My Life Woman 」(このヘンは 40を超えるアーティストにカヴァーされてるとか)・・・

ただし、振り返って見れば、彼の栄光はこの時がピークだった、と言うこともできるでしょう。
その後の「Everything I Do Gone Be Funky (From Now On) 」は、実質的に彼の最後のヒットだったかもしれません。その間、Allen Toussaintによってギターに Deacon John Moore、ドラムでは Zigaboo Modeliste( http://www.zigaboo.com/ )が投入されたりしており、1970年代に入ってからは Polygramに Allen Toussaint作の「Yes We Can 」(アルバムのタイトル・チューンでもあります)を入れていますが、チャートは 46位と、ようやくベスト 50に割り込んだ程度で終っております。
しかも皮肉なことにこの「Yes We Can 」は後に the Pointer Sistersによって「大ヒット」になっちゃうんですねえ。

Holy Cowが収録されている New Orleans Jazz & Herritage Festivalと同じ 1976年には(ちょっと、どっちが先か?は判りません) Southside Johnny And The Asbury Dukesにゲストとして参加しています。彼自身の最後のアルバムは Allen Toussaintのプロデュースによる Night People で、1977年、ABCからリリースされました。
1979年の Jazz Festivalにはモーターサイクルでの事故のせいで車椅子で登場しておりました。しかし、その翌年の The Clashの北米ツアーにはサポーティング・アクトとして同行しています。

あと少しで彼の 60才の誕生日だったのですが、1986年の12月 1日、New Orleansで死亡しました。肺気腫だったそうです。



reserched by Othum: Blues After Dark


by blues-data | 2005-09-13 17:40

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