BIOGRAPHY2022-03-20T11:08:22+09:00blues-dataLife of Bluesman/gr.tExcite BlogFrank Frosthttp://bluesbio.exblog.jp/818550/2018-12-31T18:14:00+09:002017-04-26T16:17:17+09:002005-09-06T23:33:12+09:00blues-data未分類
その家庭は音楽に縁があり、父は管楽器、母は鍵盤楽器を、ともにゴスペルの伴奏のために演奏していたようで、彼自身の最初の楽器も教会の合唱団に伴奏するピアノでした。
1951年、15才の時に彼は St. Louis に移り、そこでハープ・プレイヤーの Wiilie Foster のバンドにギタリストとして参加しています。
そこに現れたのが Sam Carr*で、父のとこにいてはコキ使われるだけだ、と思ったのか(?) St. Louis に移ってきて、自分のバンドを作ろうとしたようですが、フロントマンを必要としていた Sam Carr が目をつけたのが Frank Frost だった、っちゅうワケ。
「 Willie Foster にとっちゃ Frank Frost がそれほど必要、ってワケじゃなかった」のだそうで「だから彼を引き抜くのに後ろめたさは無かったねえ」とゆーイキサツで、この時から Frank Frost と Sam Carr の長〜いツキアイが始まります。
* ─Sam Carr は1926 年 4月17日、Mississippi 州の Friar's Point で「あの」 Robert Nighthawk の息子として生まれています。
彼はごく小さいときから父のバンドを通じて音楽に関わり、やがてはそのバンドでベーシスト兼ドライヴァーとして働くようになるんですが、ワシゃ、こんな人生イヤじゃ!とゆーことで(?)独り立ちを目指し St. Louis に行ったのでしょか。
出あったころの Frank Frost も Sam Carr もギターを弾いておったんですねえ、これが。
「 Frost よりは俺のほーがウマかった」だそうですが・・・ まあ、自分で言ってるだけですからねえ。こゆこというブルースマンはゴマンといます。ちゅうか、これこそブルースマン「らしさ」てな気までするくらいで!
ただし、この時期、Willie Foster のバンドではなく、父の Robert NightHawk のバンドで Frank Frost も一緒に演奏をしていた、としている資料もありますが、それは1960 年代のハナシでしょ。
そして Frank Frost と Sam Carr のふたりは Mississippi 州に向かいます。
1960 年には Sam Phillips の International Records に初の吹き込みをしていますが、このときには契約関係にうとかったのか、「たった」 800 ドルが支払われただけだったとか。
そして1962 年にはギターに "Big" Jack Johnson**を迎えて吹き込み。
**"Big" Jack Johnson は1940 年 Mississipp i州 Lambert で生まれています。
Sonny Boy Williamson、Jimmy Reed、Robert Nighthawk から Carl Perkins までのサポートを行い、1961 年には Memphis の Sun Studio で初吹き込み( alt. 1964 年としている資料もあります)。
彼は1970 年代の晩期からは The Jelly Roll Kings のシンガー、ギタリスト&ベーシストとして活躍し、1980 年代に入ってからはソロ・アルバムもリリース、2002 年には日本にも来ています。
成功してからもデルタにとどまり、そこからツアーに出る生活を続けているとか。
その "Big" Jack Johnson を加えたバンドは Frank Frost and the Nighthawks と呼ばれていたようで、そのメンツでは1962 年にシングルとアルバム Hey Boss Man! を録音。
バンド名は Little Sam Carr and The Blues Kings になったりもしておりましたが、Jelly Roll Kings で落ちついたみたいです( 1978 年に、シカゴに本社のある Earwig Records に吹き込み)。
1966 年には Scotty Moore のプロデュースで Nashville で Jewel Records に「Things you do 」を含む 3 枚のシングルとアルバム一枚を吹き込み。「 Baby Scratch My Back 」はマイナー・ヒットになりました。
また、この Frank Frost、Sam Carr、Jack Johnson で構成されるトリオは Robert Nighthawk がデルタに来たときにはバッキングをしていたらしく、他にも B.B.や Little Milton、Johnnie Taylor、Albert King に Jimmy Reed などのデルタでのバッキング・バンドを務めています。
彼らはまたミシシッピー州内のジュークジョイントをめぐり歩いていますが、バンドとしての吹き込みは前述の通り1978 年の Earwig への Jelly Roll Kings 名までしばしお休み。あ、でも、ここでは Frank Frost は Farfisa オルガン(?)を弾いてます。
1990 年の Midnight Prowler を最後に Jack Johnson はバンドを去り、Frank Frost と Sam Carr の二人は相変わらずミシシッピー・デルタを廻り歩き続けたのでした。
1990 年代には Arkansas 州 Helena の Missouri Street 121 番地の古いビルにある Eddie Mae's Cafe を本拠地として周辺でギグをしていたりしていたのですが、1992 年に Robert Palmer のプロデュースで製作されたドキュメント、『Deep Blues』で採り上げられたことによって広くその存在を知られるようになりました。
また映画『Crossroad』の影響もあったのでしょう、Helena の彼のもとには若いハープ奏者が訪れて、どしたらそんなふうに吹けるのか?とか、ハープでイチバン大事なのはなんですか?などと尋きにくるそうですが、そんな時の彼の答えは、いつも決まってて、「そりゃ胃だべ。ここ(と胸をさす)から上で吹いちゃダメだあ」だそうです。
Joddy Williams がしばらくブルースから離れていて、再起を決意したとき、「(指は動かなくなっていたものの)ブルースはここ(アタマ)とここ(ハート)に残っていた」と言っていたのと真反対でオモシロいですねえ。「胸から上」じゃあアタマはもちろん、ハートも含まれてるワケですから。
また、お気に入りのハープのブランドやモデルはあるか?という質問も多いようですが、答えは「なんでもいい。」だそうです。ただ録音で多く使われているのは Marine Band の「 C」。
reserched by Othum: Blues After Dark]]>Otis Reddinghttp://bluesbio.exblog.jp/27715177/2018-12-16T23:28:00+09:002022-03-20T11:08:22+09:002018-12-16T23:28:59+09:00blues-data未分類
1939 年、Georgia 州 Macon で生まれ、Swift Creek と呼ばれるド田舎地帯でもっぱらバッテリーを電源とする Portable Radio(つまり、電気も引かれてないイナカっつーことでしょか?)でブルースや初期の R&B、アーティストとしては Bill Doggett や Bullmoose Jackson などを聴いて育った、という彼は 9 才の時、よくあるケースで、シガー・ボックスとゴム・バンドでギターを自作したのですが、(元々左利きなのか、それとも偶然そーなっただけかは資料からは判りませんでした)普通とは逆の向きに持ち始めたようで、それは姉からホントのギターを買ってもらった後もそのままだったようです。
その Johnny Jenkins が 1962 年に Atlantic に録音するために STAX のスタジオに現れました。
Georgia 州のローカルな放送局に出演していた Johnny Jenkins を最初に認めたのは、後に Macon で Capricorn Records を設立することになる Phil Walden かもしれません。
彼は Johnny Jenkins とそのバンド the Pinetoppers のブッキングも手がけるようになっています。
そして Phil Walden は自分の兄弟の Alan Walden とともにプロダクションのようなものを共同経営し、かつ Gerald というマイナー・レーベルの所有者でもあった Atlantic の南部担当の A&R マン Joe Galkin をつかまえ、なんとか STAX のスタジオで Johnny Jenkins と the Pinetoppers のインスト・ナンバー Love Twist を吹込ませることに成功したのでした(事実、この Love Twist はその Gerald からリリースされているようです)。
ただしその日の Johnny Jenkins はあまり調子が良くなかったのか、これはダメだ、ということで見切りをつけた時点で、およそ 30 分以上の余裕が出来たので、( Jim Stewart の回顧によれば)この吹き込みに立ち会っていた A&R マンの Joe Galkin は、Johnny Jenkins 一行の車を運転してきて、スタジオまでバンドの機材を運び、まるでローディのように見えたシャイで物静かな男、どうやら Johnny Jenkins のバンド the Pinetoppers のヴォーカリストで、お抱え運転手でもあった男に、「時間あるからキミも歌ってみる?」てなことを言ったんでしょか?男は、それじゃあ、ってんでレコーディングに臨み、しかし、最初に吹き込んだ曲はどうもイマイチとゆう感じだったのが、違うのはないのか?とゆうことで「自作の曲でよければ」と吹き込んだ二曲め⋯
These Arms Of Mine、歌ったのは Otis Redding。21 才の、まさに新しい才能が「シーン」に登場した瞬間でした。
この曲は 1962 年の 10 月に STAX の R&B のサブ・レーベルたる Volt からリリースされ、翌 1963 年の 3 月にはチャート・インしています(実際には A 面の Hey Hey Baby をプッシュしていたのに、ひとりの D.J. が盤を裏返して針を乗せてしまい、こっちの方がいいじゃないか!と「その気になった」と⋯)。
ただし、この曲は Otis Redding の初レコーディングではなかったようで、それは 1960 年の 7 月、Otis and The Shooters という名義で行われ、She's All Right という曲が録音されていますが、実質的には Johnny Jenkins の the Pinetoppers そのものだったようです。
また、厳密に言えば、実は These Arms of Mine は、Otis Redding にとっての「 STAX での初レコーディング」でもありませんでした。
実際にはその前の Pinetoppers の録音が不調に終り( Jim Stewart によると)バンドが機材を片付け始めてから Joe Galkin が、ちょっと彼にも歌わせてみよう、と言い出したとき、ピアノがもういなかったため、ギタリストでピアノなんて弾けない、という Steve Cropper をピアノに座らせてムリヤリ録音したのが Hey Hey Baby。
そ!栄光の Volt 103、These Arms of Mine のカップリングとなった曲だったのですが、それを聴いた Jim Stewart は「ダメだね、Little Richard そっくりじゃないか!Little Richard はひとりいれば充分だ!」という反応でした。
しかし Joe Galkin はさらに、バラードも歌うっていうからやらせてみようじゃないか、と・・・
どうやら、この Jim Stewart の証言を信じるとすると、Otis Redding が世に出るきっかけは、まったくもって、この Joe Galkin のインスピレーションによるものだったようです。
その後も Joe Galkin は Otis Redding のプロモーションに熱中し、周辺の放送局のスタジオにおしかけては、D.J.に対し、「このシングルをかけろ!今すぐかけろ!でないと、ウチ( Atlantic )が無償で提供してた全部のレコードを即座に引き揚げる!」と「脅し」をかけて歩いたそうですからスゴい!
Phil Walden が「オレが Otis Redding を世に出したんだ」などと吹聴しているようですが、この Joe Galkin が Jim Stewart を、そして Jerry Wexler や、その Phil Walden を説得したからこそ、そんなタワゴトも言っていられるんだ、ということをお忘れなく。
いやはや、いつの世にもこういう、なんでも自分の手柄にしちゃう手合いは絶えないものですねえ。
ところで、実はそうゆうストーリィとはまた違った証言もありまして、当初、Hey Hey Baby が A-side で、おそらくそのままだったら、さほど話題にもならず自然消滅して行きそうな運命だったものが Nashville の D.J.だった "John R." Richbourg のアドヴァイス、「これは B 面の曲の方が売れるぞ」の進言を受けて戦略を転換した、という Carol Cooper の記述も存在するんですねえ。
その証言を信じると、その John R. Richbourg の存在がなければ Otis の開花(?)もなかった可能性はあります。
Otis Redding(パスポートの記載では Otis Ray Redding Jr. )は 1941 年の 9 月 9 日、Georgia 州の州都 Atlanta からおよそ 200km 南、State Highway 520 沿いの Dawson で生まれました。
彼が 5 才の時に家族は Macon の the Tindal Heights Housing Project という(おそらくは、低所得者層のための供給住宅ではないかと思われますが)住宅地区に移っています。
彼の父は Robbins 空軍基地で働き、週末には the Vineville Baptist Church の牧師(キリスト教の各宗派における呼称の区別には詳しくないので、あるいは司祭、神父、などの方がふさわしいのかも?原資料でも preacher と minister の両方が使われてます)でもあったようです。
Otis はその教会の聖歌隊で歌い始めました。ただ、彼の少年時代、父は病に臥せっていたようですが。
その後 Bellevue という Macon 西郊の土地に掘っ立小屋みたいな家を建ててしばらく暮らしていますが、そこが火事で燃えてしまったため、ふたたび Tindal Heights に戻っています。
Ballad Hudson High School の第10学年で(日本でいう高 1 かな?)おそらく父の病気によって危機的な状況になっていた家計を助けるためにドロップ・アウトして Little Richard のバンド the Upsetters で働き(ある資料では、彼のステージ・ネームを Rockhouse Redding であった、と。ローディーや兼ドライヴァーあたりだったのでしょか?当時の写真では他のメンバーは楽器を手にしているなか、彼はマイク・スタンドを手にポーズをつけているものがあります)家には週 25 ドルを送っていました。
また、当時 Gladys Williams(このひとについてはよく判りません。地方の名士でしょか?お名前からすると女性のようですが)が主催していた Sunday night talent show(それが正式名称ではなさそうですが、賞金は 5 ドルでした)では 15 週連続で勝ち抜き、それ以上の出場を断られたのだとか。
このころのエピソードと思われるのですが、近所で「 Plantation Inn 」という(この Plantation Inn に関しては、当時の南部にあっては「一般名詞」だったのかもしれませんが、手持ちの辞書では該当する一般名詞としては発見できなかったため、一応、固有名詞扱いとしておきます。案外プランテーションに付随する簡易な宿の総称かもしれません)周辺住民に開放されたサロンを持っていた Claude Sims という人物は、15 才の Otis Redding から相談を受けているようです。
数々のアマチュア・コンテストや、アマチュアを出演させるショーなどに出まくっていた Otis も、それが結局はさほど金にはならず(賞金やギャラはゼロか、あっても僅かだったみたい)さほど生活の助けとはならないことに苛立ち、彼のサロンで毎週、金曜の夜にパフォーマンスをさせて欲しい、という申し出でした。
Sims はこれを了承し、これによって Otis Redding はそれまでのような一出演者ではなく、「自分のショー」を持つことが出来て、さらにスキルをアップさせていったのかもしれません。
1959 年には the Grand Duke Club で歌い始め、1960 年からは Johnny Jenkins and The Pinetoppers にヴォーカルとして加わり、その地方では有名だった D.J.の Hamp Swain によって、土曜日の朝に the Roxy Theater(後には the Douglas Theatre に)で行われていた『 Teenage Party 』タレント・ショーに出演したほか、バンドで南部一帯をツアーし始めます。
1960 年の 7 月には前述の The Shooters ─ 実質はおそらく The Pinetoppers をバックに She's Alright(あるいは She's All Right )/ Tuff Enough を録音。これはシングル Trans World 6908 として 1960 年10月にリリースされています。
続いては資料によって前後を逆にしているものもあるのですが、一応ここでは同じ 1960 年 7 月の録音ではないか?という推論を信じて Shout Bamalama ではなく Alshire 5082 としてリリースされた(ただしリリースのデイトが不明) Gettin' Hip / Gamma Lama、そして同じ 1960 ではないか?とされる The Pinetoppers をバックとした Shout Bamalama / Fat Girl をレコーディング。この録音は Confederate 135として 1960 年中にリリースされたようですが、同じマスターにオーヴァー・ダビングしたものが 1964 年に Bethlehem 3083 として、また 1968 年には King 6149 として再発されています。
1962 年のこの These Arms Of Mine は Johnny Jenkins and The Pinetoppers 録音用のセッティングを流用したものだったようですが、それが R&B の大ヒットとなり、1961 年に新設された STAX のセカンド・レーベル Volt を大いに潤したことにより、それ以降は STAX のハウス・バンドたる Booker T. and The MG's がフルにサポートをすることとなりました。
These Arms of Mine は Hey Hey Baby をカップリングとして STAX のサブ・レーベル Volt から、シングル Volt 103 として発売されました(もちろん当初は Hey Hey Baby が A サイドで、These Arms of Mine は B サイドだったワケですが)。この録音が彼の生活も、そして STAX というレコード会社の運命をも「変えた」と言ってよいのかもしれません。These Arms of Mine は 地域を超えて広がり、全米 R&B チャート 20 位、Pop チャート 85 位を記録。
続いて 1963 年 6 月24日に録音された That's What My Heart Needs( Volt 109。R&B チャート 27 位。カップリングは Mary's Little Lamb )は同年 6 月に(という点に、録音から発売までの期間が「短すぎる」として録音の時日に疑問を呈する向きもおられます。確かにほぼ一週間ってのはちと短いですが、それ以外の準備がすべて整ったスタンバイ状態にあったとしたら「不可能ではない」とは言えるのかも? )Volt 109 としてリリースされています。
さらに同年 9 月26日に録音、とされる Pain In My Heart( Volt 112。Pop チャート 61 位。カップリングは Something Is Worrying Me )も、発売が 9 月、という資料から考えれば、もしかしてそれって録音日時ではなく、リリースした日時じゃないのか?というギワクが当然のよに出てきます。
ただねえ、どーもコトはそうカンタンではないようで、話が進んでくにつれて、さらに驚愕の事実が⋯(ってのはちとオーヴァーですが)
Rhino の The Definitive Otis Redding Rhino R2 / R4 71439 に付属した(良く出来た)ブックレットによれば、次に録音されたのは 1964 年の 1 月16日、Security( Volt 117。Pop チャート 97 位。カップリング; I Want to Thank You )で、しかしこのシングルは、その後の 1964 年 2 月 6 日に録音された Come to Me( Volt 116。Pop チャート 69 位。同 Don't Leave Me This Way )の 2 月中の発売に先を越され、4 月24日に発売となっています(ただし、記録上ではそのリリース日時を 1964 年 1 月 1 日としている資料も散見され、そこら「きりのいい」とこで 1 月 1 日にしてしまったのかもしれません。現に、 Security「も」収録した彼にとっての初アルバム Atco 33-161 Pain In My Heart も 1964 年 1 月 1 日リリースとアナウンスされており、そんなことタイム・マシンでも無きゃ「不可能」でしょう。この「 1 月 1 日」ですが、 Sly and the Family Stone のアルバムでも遭遇し、他の資料と整合しないので困ったものでした。
なお、アルバム Pain In My Heart にはシングルとしてはリリースされていないナンバーも収録されており、Stand By Me / You Send Me / I Need Your Lovin' / Louie Louie / Lucille の各曲についてはその録音日時などを示唆する資料がいまだ発見できていません。
なお、http://www.bsnpubs.com/ によれば、当初のアルバムはモノラルだったものを 1968 年の再発時にステレオ化した、とありました。また同サイトではそのリリースを 1965 年としております)。
ところで、実際の録音がいつだったのかまったく記録が無く、しかもそれが収録されたアルバムがかなり後のものであるために、余計、その時期が判らない、ってものもあります。
その音から推測して 1963~1964 年あたりではないか、とされるのが Little Ol' Me と Don't Be Afraid of Love の 2 曲で 1992 年のアルバム Remember Me で初めて世に出ています。
そして、その Little Ol' Me までは(ただし That's What My Heart Needs を除く。また最初の She's All right と Gettin' Hip は不明)かっての彼の雇い主 Johnny Jenkins がバックでギターを弾いておりました(ってとっから逆算すると、Little Ol' Me もかなり早い時期、ということになります)。
続いてのシングルは 1964 年 9 月 9 日に録音され、なんとこれまた一週間も経ってない 9 月15日に発売された Chained and Bound( Volt 121。Pop チャートの 70 位をマーク。カップリングは Your One and Only Man )で、きっちりした日付が残っているところを見ると、やはり、そんな短期間でリリースできる態勢が出来ていた、ってことでしょうか?後加工が多い現代では考えられないスピードですねえ(なんて言っていられるのも今のうち⋯)。
この 1964 年にはもう一枚、Mr. Pitiful( Volt 124。R&B チャート 10 位、Pop チャート 41 位。カップリングは R&B 18 位、Pop チャート 74 位、というボス・サイド・ヒットとなった That's How Strong My Love Is )を 12月28日に録音して、12月30日には発売!!
もう、言うこともありませんね。二日でマスターからカッティングしてメタル・マスターを作り、そっからプレス・マザーを起こす。そしてスタンピング、っちゅう一連の流れを考えるとプレス・テスト盤くらいは作れるかもしんないけど、「発売!」なんて言うにゃあ市場に最低でも一定の量が供給されてる必要がありますよね?
とかく「XX日に発売、ってことにしとけ」っちゅう「いーかげん」な会社だったのか、あるいは「神業」でもって、たった二日で市場に出すことはおろか、なんと録音時日より「前に」市場に出すという「奇跡」まで起こせたんでしょか? STAX は・・・
明けて 1965 年 1 月20日には、後に The Great Otis Redding Sings Soul Ballads Volt 411 として 1965 年 3 月にリリースされたアルバムに収録されることになる For Your Precious Love などのレコーディングを開始しています。
そのアルバムの収録曲は That's How Strong My Love Is / Chained and Bound / Woman, Lover, A Friend / Your One and Only Man / Nothing Can Change This Love / It's Too Late / For Your Precious Love / I Want to Thank You / Come to Me / Home In Your Heart / Keep Your Arms Around Me / Mr. Pitiful。
そしてその 4 月19日には「あの」I've Been Loving You Too Long ( To Stop Now )が録音されました( Volt 45-126 ─ ここ以降、シングルはシリアルの前に 45- を、アルバムでは 33- を付して区別させていただきます。─ カップリングは I'm Depending On You )。R&B チャート 2 位!Pop チャートでも 21 位まで登った Otis Redding にとって生前の最大のヒットです。
続いて 7 月 9 日には、これまた R&B チャートでは 4 位まで、Pop チャートでも 35 位をマークした Respect( Volt 45-128。カップリングは 7 月27日に録音される Ole Man Trouble )と、同じく R&B チャート 4 位、Pop チャート 31 位を記録した Satisfaction( Volt 45-132。カップリングは Any Ole Way )、さらに、こちらは後に Volt 45-149 として、1967 年の 4 月27日に、「ライヴ録音の」 Shake の B 面としてリリースされることになる You Don't Miss Your Water も同じ日に録音されたようです(また、この日か、あるいは Ole Man Trouble と一緒か「?」ですが Cupid もこのあたり)。
さらに、シングルとしてリリースはされていませんが 1965 年 9 月15日にリリースされたアルバム Volt 33-412 Otis Redding Sings Soul に収録された Change Gonna Come / Down In the Valley / Shake( Shake ならシングルで出てるじゃん!とお思いの方もおられるでしょうが、シングルの Shake はライヴを録音したもので、別な音源)もレコーディングされています。
まず 1962 年に録音された These Arms of Mine が「本格的に」売れ始めた 1963 年から、次々とチャート・インするヒット曲を連発したおかげで、発売元の STAX / Volt はモチロン、Otis Redding 本人にも「充分な」金額が届くようになり、それをもって 1965 年に Otis は夢のひとつを実現しています。
それは生活することに追われ、苦しかった少年時代にはまさに適わぬ夢であった「自らの牧場を持つこと」、それを実現したのでした。
1965 年、Round Oak に念願だった牧場を持ち、そこを Big "O" Ranch と名付ける・・・
Volt 33-411 Otis Redding: Sings Soul Ballads
Volt 33-412 Otis Redding: Otis Blue / Sings Soul
Volt 33-413 Otis Redding: The Soul Album
Volt 33-414 Mad Lads: In Action
Volt 33-415 Otis Redding: Complete & Unbelievable ~
Volt 33-416 Otis Redding: Live In Europe
Volt 33-417 Bar-kays: Soul Finger
Volt 33-418 Otis Redding: History of Otis Redding
Volt 33-419 Otis Redding: The Dock of the Bay
次のレコーディングは 1965 年の 11月 5 日で、I Can't Turn You Loose と Just One More Day( Volt 45-130 )。I Can't Turn You Loose は R&B チャートで 11 位をマークし、カップリングの Just One More Day も R&B チャートの 15 位、Pop チャートでは 85 位という両面ヒットとなりました。
1966 年になると、まず 5 月 3 日に My Lover's Prayer をレコーディング( Volt 45-136。R&B チャート 10 位、Pop チャート 61 位。カップリングは Don't Mess With Cupid )
そして 8 月 2 日には Good To Me / Cigarettes and Coffee / Chain Gang / It's Growing をレコーディングしていますが Good To Me 以外はシングルとしては発売されず、Volt 33-413 The Soul Album( 1966年 4 月 1 日発売ってことに「なっている」けど、モチロンんなワケはない)に収録されています。
その The Soul Album には他に Just One More Day / Nobody Knows You ( When You're Down And Out ) / Scratch My Back / Treat Her Right / Everybody Makes A Mistake / Any Ole Way / 634-5789 が収録されています。
Good To Me だけは 8 月30日に録音された Fa-Fa-Fa-Fa-Fa ( Sad Song )の B-side にもなって Volt 45-138 として同年 9 月 7 日にリリースされています。
Fa-Fa-Fa-Fa-Fa ( Sad Song )は R&B チャート 12 位、Pop チャート 29 位にまで達しました。
あと、Rhino のブックレットでは、おそらくこのあたりの録音ではないか?としてるのが 1992 年 4 月19日にリリースされたアルバム、STAX 33-8572: Remember Me に収録された I'm Coming Home ですが、これをこの時期、と特定したコンキョは Rhino が提示していないため、なんとも・・・
9 月13日には
I'm Sick Y'All : Volt 45-141/ 1966.11.14
Sweet Lorene : Volt 45-157/ 1968. 1. 8
Day Tripper
Try A Little Tenderness : Volt 45-141/ 1966.11.14
などが録音され、その前の Fa-Fa-Fa-Fa-Fa などと一緒にアルバム Complete & Unbelievable...The Oris Redding Dictionary of Soul っちゅうスゴいタイトルの Volt 33-415 として 10月15日にリリースされています。
その収録曲は上記以外に Tennesse Waltz / My Lover's Prayer / She Put the Hurt On Me / Ton of Joy / You're Still My Baby / Hawg For You / Love Have Mercy。
Try A Little Tenderness は R&B チャートの 4 位、Pop チャートの 25 位を記録しています。
他に Stone っちゅうワケ判らんレーベルから 1976 年に Volt 側に「無断(?)」でシングルで出された You Left the Water Running と、こちらは STAX 33-8572: Remember Me に収録された Trick Or Treat の 2 曲が 1966 年の録音「らしい」のですが、そのデートは不明なようです。
また、"Things Go Better With Coke" でお馴染みのコカ・コーラの CMソング A Man and A Woman というのも吹込んでいるらしいのですが、Rhino の資料で見る限り、それは結局オン・エアされていないようなんですねえ。もしかすると、彼の不慮の死がその背景にはあったのかもしれませんが・・・
翌1967年の 1 月18日と 19日にかけてレコーディングが行われ、そこでは
New Year's Resolution ( with Carla Thomas ) : STAX 45-244/ 1968. 1.24
Tramp ( with Carla Thomas ) : STAX 45-216/ 1967.4.13/ R&B-#2, Pop-#26
の 2 曲が Carla Thomas とともに吹込まれ、そして Volt ではなく STAX からリリースされています( Tramp のカップリングは Tell It Like It Is。New Years~については後述)。
続いて 1 月20日以降は
Open the Door: Volt 45-163/ 1968. 4. 8 ( The Happy Song の B 面となる)
Knock On Wood ( with Carla Thomas ) : STAX 45-228/ 1968. 7.28/ R&B-#8, Pop-#30
Lovey Dovey ( with Carla Thomas ) : STAX 45-244/ 1968. 1.24/ R&B-#21, Pop-#60
I Love You More Than Words Can Say : Volt 45-146/ 1967. 3.21/ R&B-#30, Pop-#78
Let Me Come On Home : Volt 45-146 ─ つまり上の曲の side-B
などが録音されています。
ところで、Rhino の CD ボックス・セットの三枚目のアタマには 1967 年に録音されたらしい Otis Redding のスピーチ(?)が収録されており、それは、自分が学校を中退していることから、学校に通うことの大切さを説き、ドロップ・アウトしないように、っちゅうものなんですねえ。
確かにどしても学校が肌に合わない、なんてんじゃなく、生活苦から通えなくなった身としては、いっそう学校教育の欠落がコタエたことでしょう。
事実、初期の Barkays では、まだ就学中のメンバーがおり、Otis は彼らがきちんと学業を「まっとう」できるよう、活動をその時間に合わせて融通し、「まるで彼らの父親のようだった( by Zelma Redding )」そうですから。
ここら、アメリカン・フットボールの精神(?)とも似通ったものを感じますね。
勉強なんて落第せん程度でいいから、っちゅーか、多少アタマ悪くても「いいタマを投げる」なんてピッチャーがいたら「推薦入学」で入れちゃう「どっかの国の野球の強い私立高校」なんかとは大違いで、チームのコーチは選手達に A クラスの成績を要求し、それが達成できなければレギュラー落ち、という「スポーツ馬鹿じゃない」メンバーでチームを構成していく⋯
いえね、日本もかくあるべきだ、なんて言う気はさらさらおまへん。
でも、そういう世界もあるんだ、ということは覚えといてもいいんじゃないでしょか。
ところで、この1967年の 2 月には、なんと「次のクリスマス用に」 Merry Christmas, Baby と White Christmas の 2 曲が録音されているんですねえ。
しかし・・・
この 2 曲が A/B 面のカップリング・シングルとなった Atco 45-6631 は結局、1968 年の 10月23日に発売されることとなったのでした。
そして、こちらは 2 月13日、と日付もハッキリしてる録音で、
Glory of Love : Volt 45-152/ 1967. 6.30/ R&B-#19, Pop-#60
Tell the Truth : Atco 33-333/ 1970. 7. 1
Slippin' and Slidin' : Atco 33-333
などが録音され、それと同じ日付か、あるいは別な日か不明ですが(たぶん別?)
I've Got Dreams To Remember : Atco 45-6612/1968. 9. 3/R&B-#6, Pop-#41
Hucklebuck
なども録音されていますが、Hucklebuck というのは例の「学校をドロップ・アウトしないように」呼びかけるキャンペーンのための V/A アルバムに収録されたものでした。
I've Got Dreams To Remember のカップリング曲は Nobody's Fault But Mine。
この 1967 年は Otis Redding のヨーロッパ・ツアーのライヴ録音が生まれた年でもあります。
3 月のヨーロッパ公演から
Respect / Can't Turn You Loose / I've Been Loving You Too Long / My Girl / Shake / Day Tripper / Satisfaction / Fa-Fa-Fa-Fa-Fa / These Arms of Mine / Try A Little Tenderness
などが Volt 33-416 Live In Europe として 1967 年 7 月10日にリリースされています。
ヨーロッパでライヴ・レコーディングされた Shake ですが、これは以前に述べたように 1967 年 4 月27日、シングル Volt 45-149 として You Don't Miss Your Water をカップリングに発売され、R&B チャート 16 位、Pop チャート 47 位を達成しています。
その発売に先駆けて 4 月 8~10 日には
Good To Me
Mr. Pitiful
Just One More Day
I'm Depend On You
Ol' Man Trouble
Any Ole Way
Your One and Only Man
Chained and Bound
Papa's Got A Brand New Bag
Security
A Hard Day's Night
などが別なライヴで録音され、1982 年に Rhino からリリースされた Otis Redding Recorded Live: Previously Unreleased Performances としてリリースされているようです( Atlantic 33-19346。1982 年 3 月)。
1967 年には、もうひとつのライヴ、Monterey International Pop Festival もまた彼にとっては重要なマイル・ストーンとなりました。
およそ、ソウルあるいは R&B というものにはほぼ馴染みがない、当時のコトバで言う「ヒッピー」が大半を占めるその聴衆たちは Otis Redding にとっては、まったく未知の世界との遭遇だったかもしれません。
そこでは Shake / Respect / I've Been Loving You Too Long / Satisfaction / Try A Little Tenderness が収録され、Reprise 33-2029 Historic Performances Recorded At The Monterey International Pop Festival として 1970 年 8 月にリリースされています。
このアルバムはご存知のように同じ Monterey International Pop Festival での Jimi Hendrix と背中合わせのアルバムとなっていることから、多くの(普通なら Otis Redding の歌に触れる機会など無さそうな)ロックのファンにも買われて、彼の歌がより広い範囲に浸透することになった、と言うことが出来るかもしれません。
Otis Redding にとって 1967 年は、ヨーロッパ・ツアーや the Monterey International Pop Festival などで、実に華やかな年でもありました。
Otisのツアーでバッキングを務める the Bar-Kays にまで Soul Finger というヒットが生まれています。
そして 11 月には
The Happy Song ( Dum-Dum): Volt 45-163/1968. 4. 8/R&B-#10, Pop-#25
Hard To Handle: Atco 45-6592/1968. 6.14/R&B-#38, Pop-#51
Amen: Atco 45-6592/1968. 6.14/R&B-#15, Pop-#36
Gone Again: STAX 33-8572 Remember Me/1992. 4.19
I'm A Changed Man: Atco 33-289 Love Man/1969. 6.20
Direct Me: Atco 45-6636/1968.11.11/C. with Papa Got A Brand New Bag
Love Man: Atco 45-6677/1969. 4.28/R&B-#17,Pop-#72
Free Me: Atco 45-6700/1969. 7.15/R&B-#30,Pop-#103
Look At the Girl: Atco 45-6723/1969.11.20
That's A Good Idea: ↑ / ↑
Pounds And Hundreds: STAX 33-8572 Remember Me/1992. 4.19
Johnny's Heartbreak: Atco 45-6742/1970. 3.11
The Match Game: Atco 33-333 Tell the Truth/1970. 7. 1
A Little Time: ↑ / ↑
( Sittin' On ) the Dock of the Bay: Volt 45-157/1968. 1. 8/R&B-#1, Pop-#1
を録音しています。
Otis Redding と The Bar-Kays が乗り込んだ双発のビーチクラフト機は Wisconsin 州 Madison の、周囲およそ 21km、最も深いところで 22.6m という Lake Monona に墜落し、天空にひときわ輝いていた大きな星は失われてしまったのでした。
この事故によって Otis Redding とともに、バック・バンド the Bar-kays のメンバー、Ron Caldwell、Carl Cunningham、Phalin Jones、Jimmy King も死亡してしまいます。
─双発のビーチクラフト機が 12 月の凍える冷たい水の中に墜落した事故から、ただひとり生き残った the Bar-Kays のトランぺッター Ben Cauley は奇跡的に救出され、その後 1989 年の血栓症の危機も乗り越えたのですが、その彼の証言によれば、一行は金曜の夜は Nashville で Vanderbilt の学生のためのライヴを行い、翌土曜夜は Cleveland でのライヴ。
睡眠不足のまま翌日、 1967 年12月10日の日曜日の早朝に空港に集まったのは、ほぼ半日を費やしてそこから Wisconsin 州の Madison に飛び、その夜のライヴに出演することになっていたからでした。
パイロットの Richard Fraser、Otis Redding、その付き人の Matt Kelly に the Bar-Kays のメンバー 5人が搭乗したところで、バッテリーの不調からか、エンジンの始動がうまく行かず、地上クルーの助けを借りてプロペラを回してもらうクランキングでエンジンを掛けたそうですが、そのこと自体は低温によるバッテリーの性能低下であって、それがそのまま「墜落事故」に直結するような「強い」原因となりうるものとは思えません(ま、かといってゼッタイに原因とはなり得ない、とも言えませんが)。
そのようないきさつの後、双発のビーチクラフト機はようやく Wisconsin に向かって飛び立ったのでした。
Co-pilot 席には Otis Redding が座り、その Otis のすぐ後ろで背中合わせに Ben Cauley は後ろ向きの席についています。
あまり眠っていなかった Bar-Kays のメンバーはそれぞれの座席で眠り始め、Ben Cauley もいつのまにか眠ってしまったそうですが、機体の異常な振動で目がさめ、乱気流だろうか?と思ったものの、サックスの Phalon を見ると、窓の外を見て「 Oh, Nooo! 」と言ったので、なに?どうした!とシート・ベルトを外して立ったところで機体は水面におよそ 35 度の角度で突っ込み(もちろん、そんなこと、中にいる乗員に判るワケはないので、おそらく後からいろいろな証言を聴いて出来上がったイメージだと思いますが)、そこで一瞬、意識を失ったようですが、シート・クッションをフロートがわりにしてなんとか浮上した、と。
この時点では確か、あと二人ほど(キーボードの Caldwell とドラムの Cunningham )が水面に顔を出していたように記憶しているようなのですが、そのとき Caldwell が「助けてくれ」と言ったのに「がんばれ!」と答えたものの、それっきりだったようです。
Cauley 自身も額を強く打っており、左脚には裂傷が出来ていました。
救助された彼には当初、「他に生存者はいない」ことが隠されていたようですが、ついに彼の病室に検死官が訪れ、「君はラッキーだったよ」と言った後で顔を背け、「君はただひとりの生存者だ」と告げたのでした。
Cauley は強いショックを受け、しばらくコトバが出てこなかったそうです・・・
Johnny Jenkins はこの事故を知って、どう思ったのでしょうか?
皮肉にも彼の最期に吹込んだシングルとなってしまった The Dock of the Bay はこの悲劇によってさらに注目され、R&B およびポップスの両チャートで 1 位になるという、彼にとっての最大のヒットとなるのです。
そして最後のレコーディングの各曲のリリースに際し、Otis Redding の死後に発売が決定されたものは、The Happy Song を除き、それまでの Volt ではなく、「すべて」 Atco からシングルとしてリリースされたのでした。
Otis Redding の死後、本来ならば彼自身が立ち会って行う、オリジナル・トラックに対する後処理は、主に彼ともっとも長く楽曲に関する作業を共にしてきていた Steve Cropper が、彼ならきっとこうしたハズだ、という「 Otis Sound 」をフルに尊重して行ったそうです。
それとはまた少し違う話ではありますが、今回、Rhino のブックレットに寄せられた回想の中で、もっとも謙虚であったのが Steve Cropper のものでした。その機会があったらぜひ読んでみてください。
そこには真の RESPECT を感じます・・・
ここで彼の「シングル」を時系列を追って並べておきます。やはり 1960年代の Otis にはそれが一番ふさわしいような気がしますので。
1960 ─
10. ? : She's All Right / Tuff Enough : Trans World 6908/Finer Arts 2016
?. ? : Gettin' Hip / Gamma Lama : Alshire 5082
?. ? : Shout Bamalama / Fat Gal : Confederate 135/Orbit 135
1962 ─
10. ? : These Arms of Mine / Hey Hey Girl : Volt 45-103
1963 ─
6. ? : That's What My Heart Needs / Mary's Little Lamb : Volt 45-109
9. ? : Pain In My Heart / Something Is Worrying Me : Volt 45-112
1964 ─
2. ? : Come To Me / Don't Leave Me This Way : Volt 45-116
4.24 : Security / I Want To Thank You : Volt 45-117
6. ? : Shout Bamalama ( over-dubbed) / Fat Gal : Bethlehem 3083
9.15 : Chained and Bound / Your One and Only Man : Volt 45-121
12.30 : That's How Strong My Love Is / Mr. Pitiful : Volt 45-124
1965 ─
4.19 : I've Been Loving You Too Long / I'm Depending On You : Volt 45-126
8.15 : Respect / Ole Man Trouble : Volt 45-128
11. ? : I Can't Turn You Loose / Just One More Day : Volt 45-130
1966 ─
2.15 : Satisfaction / Any Ole Way : Volt 45-132
5.12 : My Lover's Prayer / Don't Mess With Cupid : Volt 45-136
9. 7 : Fa-Fa-Fa-Fa-Fa / Good Tome : Volt 45-138
11.14 : Try A Little Tenderness / I'm Sick Y'All : Volt 45-141
1967 ─
3.21 : I Love You More Than Words Can Say / Let Me Come On Home : Volt 45-146
4.27 : Shake ( Live) / You Don't Miss Your Water : Volt 45-149
6.30 : Glory of Love / I'm Coming Home : Volt 45-152
1968 ─
1. 8 : Dock of the Bay / Sweet Lorene : Volt 45-157
4. 8 : The Happy Song / Open the Door : Volt 45-163
6.14 : Amen / Hard To Handle : Atco 45-6592
9. 3 : I've Got Dreams To Remember / Nobody's Fault But Me : Atco 45-6612
10.23 : White Christmas / Merry Christmas, Baby : Atco 45-6631
11.11 : Papa Got A Brand New Bag / Direct Me : Atco 45-6636
1969 ─
1.30 : A Love Question / You Made A Man Out of Me : Atco 45-6654
4.28 : Love Man / Can't Turn You Loose : Atco 45-6677
7.15 : Free Me / Higher & Higher : Atco 45-6700
11.20 : Look At the Girl / That's A Good Idea * Atco 45-6723
1970 ─
3.11 : Demonstration / Johnny's Heartbreak : Atco 45-6742
7. 7 : Give Away None of My Love / Snatch A Little Piece : Atco 45-6766
1971 ─
1. 5 : I've Been Loving You Too Long / Try A Little Tenderness : Atco 45-6802
1972 ─
10.23 : My Girl / Good To Me : Atco 45-6907
あと、1976年には White Christmas が再発され、他に例のアンカヴァー・シングル(?) Stone 209、You Left the Water Running / The Otis Jam ってのがリリースされたようです。
また、本文中ではあまりトレースしてませんでしたので、ここで挙げておきますが、Otis と Carla Thomas のデュエットによるシングルは
1967 ─
4.13 : Tramp / Tell It Like It Is : STAX 45-216
7.28 : Knock On Wood / Let Me Be Good To You : STAX 45-228
1969 ─
4. 2 : When Something Is Wrong With My Baby / Ooh Carla, Ooh Otis : Atco 45-6665
があります。
]]>Jonny B. Gaydenhttp://bluesbio.exblog.jp/27714097/2018-12-16T10:09:00+09:002018-12-16T10:40:11+09:002018-12-16T10:09:48+09:00blues-data未分類
いちおう、なんてのもまた無責任な物言いですが、MySpace でもそれが記載されてないからで、本人の表明だったら「間違いなく」それで行くんですが・・・
さて、それはともかく、彼は十人の子供たちの上から二番目だったらしく、兄は祖母(たぶん母方のと「思う」。ただし確証無し)と暮らし、それ以外の九人は母と暮らしていたようです。
というのも、実は父というのが、彼が成人する前に家を出て行ってしまい(その原因については不明です)、それもあってか自分の下の弟や妹たちの生活のために「稼ぐ」必要があって、結局、高校も中退したらしく、母は「ほんとうはちゃんと卒業して欲しかった」らしいけど本人はそのことをあまり気にはしてないみたい。
ところで、いなくなってしまった父ですが、彼としては自分の音楽的な資質というのは、ハーモニカを演奏していた、というその父から受け継いだのではないか、と考えているようですね。
高校に入った妹二人のうち一人はサックス、もう一人がクラリネットでブラスバンドのメンバーになったそうですから、案外、おんなじリード楽器(そう、ブルース・ハープもサックスもクラリネットも、発音原理は「リード(舌片)」の振動ですからねえ)ってことでは、その妹たちのほうが彼のベースよりは父に「近い」のかも・・・
当時の暮らしは「とても貧しくてレコード・プレーヤーを買うカネなんて無かった」ため、彼はもっぱらラジオから流れてくる音楽に集中していたそうです。
したがって、彼が影響を受けた、としているベーシストは多岐に渡り、様々なジャンルにまたがっており、ブリティッシュ・ロックにポップス、おなじみ(?)のスタンリー・クラークやマーカス・ミラーも含まれていますが、ワタクシ個人としてはその名前を彼自身が挙げているリストのなかに発見して嬉しかったのが、やはり Larry Graham と Jack Cassidy でしょう。
そこにもうひとり Scott LaFaro も挙げられてたらカンペキ(なにが?)なんですが・・・
なんたって、ワタクシの好きなベーシスト(そう、あくまでも「好きなベーシスト」ですからね。サイコーのベーシスト!なんて言ってるんじゃないのでそこらお間違いなく!)と言えば
Larry Graham
Scott LaFaro
Jack Cassidy
という三人を真っ先に挙げておりますが、実はその他に
ルイズルイス加部にベーサーM 、そしてこの Johnny B. Gaydenも加えた六人が「ワタクシのベース宇宙(オーヴァーな!)」を「満たしてくれている」住人のみなさまなのでございます。
てなことは置いといて・・・
1953年の生まれということは、Sly & the Family Stone の一連のヒットが次々とチャートに登場し始めたころには15才だったワケで、彼が名前を挙げている Larry Graham のベースも、その時点で聴いたものか、あるいはそれ以降、Graham Central Station でか、はたまたスライの音を後年、聴いたものかまでは判りませんが、こうして名前が挙っているだけで嬉しいな。
某バイオグラフィーによると彼がベースを始めたのが12才、とありましたから、もしそれがホントだとすると、 Larry Graham も「特別な興味を持って」聴いていたのかもしれません。もっとも、そのバイオではスライの「ス」の字も出てきてませんでしたが。
彼自身の MySpace での自己紹介では、最初の「エレクトリック・ベース」を手に入れたのが12才か13才のとき、としています。
友人たちでプレイを楽しむうち、それはバンドとなり、The Current と名乗っていたそうな。
やはりラジオから流れてくるいろんな音楽に影響を受けていたが、基本は「ブルース寄り」ではあったようです。そして当時の音楽について語っているなかにスライの名前も出ては来ていますが、そこでは「バンドとしての」スライの音について言及はしていても Larry Graham というベーシストには触れてはいません。
もっとも、当時の音すべてがミックスされて自分のベースが出来上がった、とは言っていますから後になって「そっか~あのベースは Larry Graham っていうのか」なんて意識した(そう、意識してなきゃリストに挙げるワケないですからね)のかもしれません。
あ、ワタクシ個人が「 Larry Graham 好き」なもので、やたらそこばっか気にしてますが、「ベース研究家(?)」からしたら、「重要なのはそこじゃな~い!」なんて突っ込まれるのかもしれませんけどね。
1960年代に彼がもっぱら聴いていた局、WCFL、WWLS、WVON などから流れてくる当時のヒット曲にかなり影響を受けていたようですが、それでもやはり基調となっていたのはブルース寄りの音だったとは言えるかもしれません。
そのへんについては彼自身の MySpace で語られていますから、直接そちらへどうぞ。
その Johnny B. Gayden の運命を「大きく」変えたのは Alligator の存在かもしれません。
まず彼が「プロの世界」に接近した第一歩となったのは Son Seals のベースとして一緒にツアーもしていた時期でしょう。それが 1973年から、と言われています。
そして「縁あって」Alligator Records の Bruce Iglauer と出会うことになり運命が変わった、と・・・
この時期の彼は Son Seals の他に、ファンク系や R&B のバンドにも出入りしていたようです。
その多彩な技を Bruce Iglauer が認めてなのかどうかは定かではないのですが、ともかく彼の都合が合いさえすれば、可能な限り、Alligator Recording Artists たちのベースとして起用され始めたようで、そして「あの」Albert Collins のベースとして指名されたのが1978年と言われています。
当時レコード・ストアで働いていた(いわゆる Day Job ってヤツでしょか?)彼のとこに訪ねてきた Bruce Iglauer は「もし興味があるようだったら Albert Collins と一緒にやらないか?」と・・・
彼はもちろん承諾し、実際には翌1979年 9 月の(リハも無し!の)ギグが最初になりました。
実にその時点から彼の「栄光」はスタートした、と言ってもいいかもしれません。
そりゃ Son Seals 時代の彼のベースだって「パっとしない」なんてことはないんですけど、こ~言っちゃあ悪いけど、Albert Collins とは「格」が違い過ぎるんですよね。
つまり、純粋に「ブルースとして、どう」って基準で考えたら、両者はそれぞれに個性を持ってはいるものの、さほど優劣みたいなものは「無い」と言うこともできます。
しかし、純粋なブルース・マニア以外の、ブルース系ロック(?)なども含むその周辺領域という膨大なマーケット・ゾーンで考えたら Son Seals は「問題外」なワケで、その意味でも彼がそこを離れて(ま、タマにまた戻って一緒にやったりもしてますけど) Albert Collins との活動をメインにしたからこそ、現在の彼がある、と言えるでしょう。あのままだったら果たして・・・
]]>Otis Rushhttp://bluesbio.exblog.jp/1067197/2018-10-01T20:31:00+09:002018-10-01T20:31:13+09:002005-09-22T22:31:32+09:00blues-data未分類
ただ、ひとつの資料だけは、それを Philadelphia ではなく、同じ地区ではあるものの、その周囲の Neshoba 郡内のいづこかである、としてありました。
なかなか「あり得る」センかなあ?という気もしたのでございますが、その同じ資料だけは Otis Rush の誕生年を 1935年、としているのですよ。そこで判断に迷ったのですが、Otis Rush 本人と親交のある江戸川スリムさまからの情報によりますと、ナゼか 1934年というのが定説となっているようですが、正しくは 1935年である、とのことで、そーなるとやはり生まれたところも Neshoba が正しいのかもしれません。
実際には Neshoba 郡の郡都が Philadelphia なワケですから、判りやすく言うためにその名前を出した可能性もありそうですね。
この場所は人種差別の「本場(?)」 Alabama 州にかなり近いだけあって、1964年にあった黒人の教会への放火事件を調査に来た公民権運動の活動家 Andrew Goodman、Mickey Schwerner、James Chaney の三人が 6月21日に殺害されるという事件が起きて(映画 Mississippi Burning の元ネタ)、2005年になって「やっと」現在 80才になる Edgar Ray Killen というオトコが犯人として逮捕されました。41年もたって!
黒人が白人を殺した場合には「どんなことをしてでも」犯人を探し出すのでしょうが・・・
Living Blues の 1996年の記事によれば、どうやら彼の生まれた家庭では父親が収入の面で「頼りにならず」兄弟姉妹がそれぞれに働いて母を助けていたもののようです。
彼が最初に覚えた楽器はハープで、ギターは 8才から、などと言われておりますが、その背景には Baptist 教会でのコーラスの経験や、時にはギターでその伴奏をつけたことによって、基本的なギターの技術を習得した、としている資料もあります。
また資料によってはこの時期の彼はラジオから流れてくる様々な音楽(そこには C&W も含まれていた、と)に影響されて音楽への意欲を持つようになった、としているものもありました。
また彼の歌唱力はこの時代に培われた、という見方も出来るでしょう。
また、そもそも、彼がギターを右利き用のままで左向きで弾き始めた件についての信頼するにたる情報はどうやら見当たらず、おそらくゴスペルの場で、そこにあったギターをなんとか弾こうとしてそのままで覚えたものではないか、と思うのですが、モチロンそれは憶測に過ぎません。
その彼が Chicago に出たのが 1948年(一部には 1949年としている資料も)とされていますが、そもそもは姉(先に Chicago に出ていた、ということから「姉」では?と推測しているもので、ハッキリ Elder という表現があるワケではないので注意してください。英語では姉か妹かがまったく判らないのですが、そこら向こうの研究者「ども」はどー思ってるんだ、いったい!)の Elizabeth を Chicago に訪ねたところ、音楽好きな Otis のために案内してくれたのが Zanzibar で、そこではマディのバンドに Little Walter、Jimmy Rogers の演奏に触れて、すっかり魅せられてしまい、そのまま Chicago でミュージシャンになることを決意した、としているサイトもあります。
ただし、かと言って Chicago に出てきただけで誰でもがミュージシャンとして暮らして行ける訳でもなく、この Otis Rush も当初はいろいろな職を経験したようで、石炭を積載した貨車からの荷下ろしの仕事(を行う馬を御する仕事だ、ということですが)のようなハードな労働に従事し、夜ともなれば、あちこちのブルース・クラブに足を運んでいたようですね。
そして彼は、まず Kay のギターを手に入れて練習を開始したようです。
そのような努力の末、1950年代の前半には、彼のギターはひとつの個性として完成に近づいた、と言えるのかもしれません。
1953年、彼が Kay のギターで練習しているのを聴いた Club Alibi のオーナーは、彼にソロで出演するように声をかけてくれたのでした。したがって彼の最初のギグは、ギタリストとしてギグに参加したものだったようです。
しかし、そのような形での活動はやはり彼の本意ではなかったようで、じきに自らのバンドを結成しようと動き始めました。
むろん、その時点ではまだ Day Job 無しで喰って行けるほどの稼ぎとはならず、昼の仕事と並行することとなっていたようですが、そのバンドではギターよりも、むしろヴォーカリストとしてのスキルをアップさせたのではないでしょうか。
Little Otis という芸名(?)が使われ出したのもこの頃と思われます。
そんなある日、Otis は Dave & Louis Myers 兄弟の Four Aces に加わって(そこら「臨時」だったものか、あるいはオーディションみたいなものだったかはちと判りませんでした。またこれが 1956年、つまり Cobra と契約したその直前だったのか、あるいはもっと前のことなのか、については確実な資料に辿り着くことができませんでした)東 47番街の 708 Club で演奏していたところ、居合わせた Willie Dixon と Cobra のレーベル・オーナー Eli Toscano の目に止まったらしく、結局 Willie Dixon の「プッシュ」もあって 1956年には Cobra と契約が成立し、そこで吹込まれて初のヒットとなった I Can't Quit You Baby が生まれています。
ここに新しいスター Otis Rush が誕生したのでした。
そのまま Cobra では都合 8枚のシングルをリリースしています。
Cobra 5000 I Can't Quit You Baby / Sit Down Baby : 1956
Cobra 5005 Violent Love / My Love Will Never Die : 1956
Cobra 5010 Groaning the Blues / If You Were Mine : 1957
Cobra 5015 Love That Woman / Jump Sister Bessie : 1957
Cobra 5023 Three Times A Fool / She's A Good 'Un : 1958
Cobra 5027 It Take Time / Checking On My Baby : 1958
Cobra 5030 Double Trouble / Keep On Loving Me, Baby : 1958
Cobra 5032 All Your Love ( I Miss Loving ) / My Baby's A Good 'Un : 1958
Eli Toscano の失墜及びその直後の不可解な死から Willie Dixon を追うように Chess に移った Otis でしたが、そこでは
Chess 1751 So Many Roads, So Many Trains / I'm Satisfied : 1960
Chess 1775 You Know My Love / I Can't Stop, Baby : 1960
のシングルがリリースされたのみで、後に Albert King とのコンビ・アルバム Door to Door という形で出て来ただけです。
そこでは上の 4曲の他に So Close、All Your Love も収録されています。
Cobra での厚遇(?)に比べ、この Chess では Otis Rush が正当に評価されていたとは言い難く、続いて DUKE と契約。
DUKE 356 Homework / I Have to Laugh : 1962
というこれまた名曲を残すのですが、他に Don't Let It End This Way と This Mean Old World の二曲を吹込んでいるようですが、ともにリリースされた形跡は無いようです。
ステージとしてはこの頃には Madison & Homan の Curley's Twist City などに出演していたようで、特に Cobra からの一連のリリースによって彼の知名度はかなり高くなっていました。
1965年には Vanguard に吹込んだ 5曲: Everything's Going to Turn Out Alright / It's A Mean Old World / I Can't Quit You Baby / Rock / It's My Own Fault が V/A Chicago / The Blues / Today! vol.2 Vanguard 79217-2(リリースは 1966年)に収録されています。
そして 1966年には American Folk Blues Festival のツアーの一員としてヨーロッパに渡っています。
このときの 10月16日の Berlin での録音では All Your Love / My Own Fault の二曲が(ウチのはアナログ・ディスク) Fontana からディストリビュートされた GRAVURE UNIVERSELLE 885 431 BY AMERICAN FOLF BLUES FESTIVAL '66 に収録されています。
ただし、このアルバムに関する限り、Junior Wells の Checkin' on My Baby と A Tribute To Sonny Boy Williamson 、Big Joe Turner の Flip, Flop and Fly と Roll'em Pete にギターで参加しています。
この時の録音でも他の編集による Amiga 855114 では All Your Love 一曲だけとなり、その vol.2 たる Amiga 855126 では It Takes Time と My Own Fault が収録されています。
おそらく、その American Folk Blues Festival での演奏が強い印象を与えたのではないかと思うのですが、ブルームフィールドとグラヴェナイツ(でいいのかな?発音)は Otis を Atlantic のサブ・レーベル Cotillion に導き、そこで Alabama 州 Muscle Shoals で吹込まれたのが 1969年の Mourning in the Morning( Cotillion 82367 )でした。
そこでは「あの」オールマンがギターとして参加したことばかりがとかく語られるようですが、もうひとりのギター、Muscle Shoals のサウンドの確立に貢献した Jimmy Johnson も参加していたことを忘れてはいけません。
収録曲は
Me / Working Man / You're Killing My Love / Feel So Bad / Gambler's Blues / Baby, I Love You / My Old Lady / My Love Will Never Die / Reap What You Sow / It Takes Time / Can't Wait No Longer
かわって 1970年には Otis Rush は Capitol とアルバム 5枚の契約を結びます。
そして、それにしたがって 1971年 2月に San Francisco に赴き、そこで録音したのが Right Place, Wrong Time( Hightone HCD 8007 など)。
Tore Up / Right Place, Wrong Time / Easy Go / Three Times A Fool / Rainy Night In Georgia / Natural Ball / I Wonder Why / Your Turn To Cry / Lonely Man / Take A Look Around
このアルバムは本来、Capitol からリリースされる予定だったのですが、結局、Bullfrog が市場に出すまでは Capitol の倉庫で眠り続けることとなったものです。
そんな状況でしたから Capitol での「 5枚のアルバム」などすべて「ちゃら」だったようで、結局彼の次のレコーディングは 1974年の Black & Blue まで待たねばなりません。
しかし、その間にひとつ重要なトピックを。
1972年 9月10日に白いボデイに鼈甲柄のピックガードという右利き用の Fender Jaguar を抱えて Ann Arbor Blues & Jazz Festival のステージに登場した Otis Rush はたしか 5曲ほどを演奏(なかには Stormy Monday も含まれる)したハズなのですが、そのときの録音からは、ただ一曲、Gambler's Blues のみが Atlantic SD 2-502 Ann Arbor Blues & Jazz Festival 1972 に収録されました。
1974年11月26日にはフランスの Black & Blue にレコーディング。これは後に Evidence ECD 26014 としてリリースされた Screamin' and Cryin'です。
Looking Back / You're Gonna Need Me / It's My Own Fault / I Can't Quit You Baby / Every Day I Have the Blues / A Beautiful Memory / I Got News For You / I Can't Quit You Baby(最後の二曲は CD 化するにあたってボーナス・トラックとして加えられたもの)
続いては 1975年 4月29日(お誕生日だ!)と 5月29日に録音された Delmark DE 638 Cold Day in Hell。
これはまた、やたら長い曲が多いアルバムで
Cut You Loose / You're Breaking My Heart / Midnight Special / Society Woman / Mean Old World / All Your Love / Cold Day in Hell / Part time Love / You're Breaking My Heart ( alt. take )/ Motoring Along
別テイクじゃないほの You're Breaking My Heart など 8分を超える作品になっています。
そして 1975年には日本を訪れ、そこでのライヴ( 7月20日と 29日のステージ)から録音された 12曲
Will My Woman Be Home Tonight - Blue Guitar
Everyday I Have the Blues
I Can't Quit You, Baby
Crosscut Saw
Looking Back - Take A Look Behind
Chitlin' Con Carne
I've Got News For You
Mean Old World
All Your Love - I Miss Loving
So Many Roads
Gambler's Blues
Three Times A Fool
が Delmark DE 643(日本では TRIO PA-3086 ) So Many Roads: LIVE IN CONCERT としてリリースされています。
この音源は後に、曲順を入れ替え、Crosscut Saw / Chitlin' Con Carne / I've Got News For You の三曲を「落とされて」 Vivid Sound VSCD 052 Blues Live! として再発されました。ジャケットのデザインも違うのでうっかりダマされないよにね。
一説ではこの時の来日で奥さんのマサキさんと知り合われたらしいのですが、そこらは江戸川スリムさまのほーが詳しそう。
続いて 1977年にはヨーロッパ・ツアーにおいて二枚のアルバムが生まれています。
まずは 10月 9日、フランスの Nancy でのステージを Isabel(仏)がレコーディング。
Cut You Loose
All Your Love
You're Breaking My Heart
I Wonder Why
Feel So Bad
Society Woman - Love Is Just A Gamble
Crosscut Saw
I Can't Quit You Baby
I'm Tore Up
Looking Back
の 9曲が納められた LIVE IN EUROPE(この時はジャケットの画像を見ると、日本での Fender Jaguar ─ 白ボディに鼈甲のピックガードではなく、同じ白ボディながらローズウッド指板の Stratocaster ─ ただし PU とツマミは黒っぽい、を使っているようです)が Evidence ECD 26034 としてリリースされています(もちろん「おフランス」国内では Isabel レーベルで出てるハズ)。
その翌週と言ってよい 10月の15・16の両日にはスウェーデンの Stockholm に赴き、そこの Decibel Studio で録音した
You Got Me Runnin'
Little Red Rooster
Whole Lot of Lovin'
It's Got To Be Some Change Made
You Been An Angel
You Don't Have To Go
Troubles Troubles
I Miss You So
Hold Your Train
Same Old Blues(ただしこの曲では Otisではなく、ドラムの Jesse Lewis Green がヴォーカル)
が Sonet SNTF 756 TROUBLES TROUBLES としてリリースされました。
ただしこの音源は後に Alligator の手に渡り、そこではキーボードの Lucky Peterson がオーヴァー・ダブされ( Little Red Rooster だけは Allen Batts がピアノで参加)、また収録された曲も異なり
Hold That Train(曲名が微妙に変更されてますね)
You've Been An Angel
Little Red Rooster
Troubles, Troubles
Please Love Me
You Don't Have To Go
Got To Be Some Changes Made
You Got Me Running
I Miss You So
となって、さらにアルバム・タイトルも LOST BLUES となって Alligator ALCD 4797 としてリリースされました。
この Alligator によって行われた「後処理」については Otis に無断で行ったものらしく、その成果(?)については賛否両論があるようです。
この件は 1990年代に入ってからのことなのですが、それ以前、おそらく 1980年代に入るあたりに、彼のレコード会社、あるいはレコード産業そのものに対する「不信感」はかなり強まっていたようで、それが彼をしてレコーディングの機会から遠ざけたのだ、とする分析をしているサイトもあります。
その彼の久しぶりのアルバムは 1985年 9月15日に San Francisco Blues Festival のステージをライヴ録音したもので Blind Pig BP 73188 TOPS としてリリースされました。収録曲は
Right Place, Wrong Time
Crosscut Saw
Tops
Feel So Bad
Gambler's Blues
Keep On Lovin' Me Baby
I Wonder Why
の 7曲。
翌年の 1986年 7月 9日には Montreux Jazz Festival に出演し、このときのライヴはラジオでも放送されたため、そのエア・チェックかと思われる海賊版が存在します。それによると演奏した曲目は
I Wonder Why
Lonely Man
Gambler's Blues
Natural Ball
Right Place, Wrong Time
Mean Old World
You Don't Love Me
Crosscut Saw(ここからクラプトンが加わる)
Double Trouble
All Your Love
で、この後 Luther Allison を迎えてそのナンバー Natural Man を演奏したあと、みんなで Caldonia という構成だったようです。
その同じ年、つまり 1986年の冬には日本を訪れ、12月12日、東京公演をライヴ・レコーディングしたのが P-Vine PCD-1960 BLUES INTERACTION: Live In Japan 1986 With Break Down で、そのタイトルで判るようにブレイク・ダウンを中心にウィーピング・ハープ妹尾、チャールズ清水などの日本人ミュージシャンによるバッキングで行われています。収録曲は
Introduction - Tops
All Your Love - I Miss Loving
Please, Please, Please
Killing Floor
Stand By Me
Lonely Man - I'm A Lonely Man
Double Trouble
Right Place, Wrong Time
Got My Mojo Working
Gambler's Blues
の 10曲。最後の Gambler's Blues は実に 10分に達する長さ!
こちら、海外では Castle や Sequel というレーベルからリリースされているようですが、そのタイトルも BLUES INTER〜が省略され、ただ Live In Japan 1986、となっているようです。
1992年にはイギリスの London で行われた A Celebration to the Blues という企画のために Buddy Guy、Jimmy Rogers などとともに渡英し、その 1992年 6月28日には London の Hammersmith Odeon に出演し、(たぶん海賊版?) TOAST C-02 ってやつに
Natural Ball
Lonely Man
Blues Left Town
Gambler's Blues
So Many Roads( with Gary Moore )
が収録されているようです。
なお TOAST C-01 には Gary Moore の Blues Is Alright に Buddy Guy や Jimmy Rogers、Pop Stables とともに参加している模様。
そして 1993年、彼は Los Angeles に赴き、そこで「本格的な」スタジオ・レコーディングによるアルバム作りを行うことを計画しています。
かってないほどによく音を吟味し、Joe Sublett のテナー、Marty Grebb のバリトン・サックス、Darrell Leonard のトランペットからなる The Texacali Horns をバックに配し、キーボード陣も Mick Weaver、Ian McLagan、Bill Payne の三人が(同時にはそのうちの二人が)複数の楽器をオペレートする、というかってない緻密なプロデュースで 1974年に録音されたアルバム Phonogram PHCR-1248 AIN'T ENOUGH COMIN' IN は実に久々のスタジオ・レコーディングとしてリリースされています。
Don't Burn Down the Bridge
That Will Never Do
Somebody Have Mercy
A Fool For You
Homework
My Jug and I
She's A Good 'Un
It's My Own Fault
Ain't Enough Comin' In
If I Had Any Sense, I'd Go Back Home
Ain't That Good News
As the Years Go Passing By
ただしこれには日本盤限定(?)で If You Can't Do No Better が追加されているようで、つーことは日本のファンだけがトクしてる?
続いては 1998年に House of Blues からリリースされたアルバム Any Place I'm Going で、「ついに(?)」グラミー賞を獲得しています。
このアルバムでは Memphis Horn も起用し、さらにバックには女性のコーラスまでつく、っちゅう「デラックス版(?)」で、この仕上がりはロック系から彼のファンになったひとにはちょっと「ちゃう」かもしれません。
You Fired Yourself
Keep On Loving Me Baby
Part Time Love
I Got the Blues
The Right Time
Looking Back
Any Place I'm Going
Laughin' and Clownin'
Pride and Joy
Have You Ever Had the Blues
Walking the Back Streets and Crying
え?どっかで聞いたよなタイトルだ?
ま、さいわいこのアルバムなら、あちこちのネット・ショップで(僅か 30秒っつではありますが)試聴も出来ますので、ちゃんとチェックしてみてください。
この後、みなさまの記憶にも新しい 2004年の日本でのライヴのスケジュールが入り、本人もそれを楽しみにしていたようなのですが、その前の冬に脳梗塞に倒れ、歌うことも難しく、ギターもまったく弾けない状態となってしまいました。
しかし、本人のたっての希望で日本ツアーのみはキャンセルされることなく、マサキ夫人の助けで、また彼を迎えた友人たち、さらにステージは、まさに渾身のバック・アップを見せた Carlos Johnson などの助けを得て、奇跡的なステージを日本の聴衆にプレゼントしてくれたのです。
2005年 5月11日に Buddy Guy's Legend で行われた彼の誕生日パーティは実に多くのブルースマンやブルースファンにとって、徐々に快復に向かいつつある彼を目の当たりに出来た一日となったようです。そのあたりのことは BlueSlimの「アリヨの日記*」で読むことができます。
また同サイトには Otis Rush を応援するWe Love Otis Rushもオープンして世界中から Otis への熱い声援が集まってきていますので、興味のある方は是非どうぞ!
reserched by Othum: Blues After Dark
注!この下に表示されている広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり、当方は
その商品やサービスを「一切」推薦しているものではありません。
]]>Cousin Leroyhttp://bluesbio.exblog.jp/789126/2012-11-02T23:39:00+09:002020-05-03T22:17:11+09:002005-09-05T02:04:05+09:00blues-data未分類
あの Crossroad をどのように編曲あるいは歪曲したところで、かならずどこかに原曲の面影が残っているものでございます。
ところが、Cousin Leroy の Crossroad は違うみたいです。最初なんて例の I was a catfish・・・という一節に凄い似てるじゃあありませんか。もちろん、歌詞は違いますが。
悪魔との出会い、やりとり、ギターを仲立ちにした悪魔との取引など、たしかに Crossroad の伝説を歌ったものなのでございます。でも、どうやらベースとなっているのは Rolling Stone のほうでしょうが。
ただ、この録音は戦前じゃなく、1957 年の八月です。もはやそんな伝説なんて信じてる人間も減ってきてる頃、しかも大都会 New York での吹き込みです。
Cousin Leroy のヴォーカルにも、あまり緊迫感が見られないような気がするのは、そのような近代(?)の合理精神が黒人社会でも次第に浸透して来ていたせいである、などと言うのはいささか乱暴でしょうか。
バックのミュージシャンとして Jack Dupree(ピアノ)に Larry Dale(ギター)もクレジットされてはおりますが、聞こえますか?
ハープ( Sonny Terry らしい)はかなり遠いところ(まるで隣のスタジオで演奏しているみたいな?)で鳴っているような気もしますが、ピアノはどうしても聞こえないのですが・・・
それどころか、最初、ソフトなトーンのギターにトレモロ・エフェクトをかけているように思った音ですが、これはハモンドの音じゃないのか?という疑いも出てまいりました。
ソロのところでは確かにギターが二本聞こえていますから Larry Dale のギターと、Gene Brooks のドラムは確実みたいです。でも、明らかにベースも入っているようですが、そのクレジットはありません(蛇足ながら 1955 年の録音ではベースに Sid Wallace というクレジットはあります)。
全体にさすが New York という、ややモダンなテイストが感じられるような気がいたしますが、わたしだけでしょうか?
ただ、この唄い方、どこかで聴いたことあるなあ、と考えてみたら Johnny Guitar Watson だ!
Cousin Leroy の本名は Leroy Rozier ですが、例の Indiana 州 Richmond の Starr Piano Company による Gennett レーベルに、この 'Crossroad' をはじめ、Match Box、Highway 41、Catfishの 4 曲 など(など、というのは歯切れが悪いけれど、それが全部かどうか確認がとれてないので、断言できないのです)が収録されておりますが、本来は GROOVE や EMBER に吹き込まれたものが流れたのかもしれません。
Lonesome Bedroom / 41 Highway: recording July 1, 1955 New York; GROOVE unissued-with Champion Jack Dupree, piano/ Larry Dale, guitar/ Sid Wallace, bass/ Gene Brooks, drums
Goin' Back Home / Catfish: July 1, 1955 New York; GROOVE 4G-0123
-players same as above
Highway 41 / Will A Matchbox Hold My Clothes: recording 1957 New York; EMBER 1016
-players Gene Brooks on drums
I'm Lonesome / Up the River: recording 1957 New York; EMBER 1023: 1957
-players same as above
Waitin' At The Station / Crossroads: recording August 1957; Herald 546
Lists by https://www.allaboutbluesmusic.com/cousin-leroy/
さらにまた別な資料では
String Beans( 2 take いずれも unissued )
Woke Up With The Blues
VooDoo
Crossroads
Rollin' Stone
もまた Cousin Leroy Rozier が 1957 年の 8 月に New York で吹き込んだ、としていましたが、Ember と Herald のどちらからも発売されなかった、とされています。
ついでに、この Gennett に吹き込んだ他の方々も紹介いたしますと、あの Pee Wee もPoppa Stoppa、Dedicating the Blues、California Woman、Huckleboogie、Crayton Specialを録音し、さらに Bo Diddley、Little Walter、John Brim、Johnny Shines、J.B.Hutto、Otis Span、Billy Boy Arnold、Lowell Fulson、Roscoe Gordon・・・などなど、けっこう凄い顔ぶれでしょ?
1955 年と 1957 年の 2 度のセッションで録音されたナンバーが、その Gennett に収録されているようです。
ただし、オリジナルは Gennett じゃなく、Groove( RADIO CORPORATION of AMERICA、つまり RCA )や Ember/ Herald が「本来の」オリジナル・シングルのリリース元じゃないでしょうか。
例えばHighway 41など、Ember 1016 として 45r.p.m.のシングルとしてリリースされております。また Ember からは他にも 1023 としてI'm lonesome も出てますしね。
なお、彼の Will A Matchbox Hold My Clothes と Highway 41、そして出所不明な Charles Walker Slop ゆう三曲(?)が Flyright LP 4706 NEW YORK CITY BLUES に収録されているそうです(未確認)。
他には Moonshine とゆうレーベルのコンピレーション二枚にも合わせて三曲が収録されているみたい。
この Cousin Leroy、どうやら、まったく資料が見当たらず、その出身地すら判りません。
しかし、とある New York のニュース・コラムにこんな記事を発見いたしました。
For Homeless, No Bed of Roses
January 21, 2004 7:00 PM By Ray Sanchez
Even in the grinding poverty of his native Georgia, Leroy Rozier enjoyed a roof over his head.
And throughout his more than 50 years as a super in the Bronx, Rozier always had his own place.
Then, suddenly, on a cold November night in the 88th year of his life, he was sleeping on the subway.
"It feels kind of funny and strange," Rozier was saying yesterday in the dining concourse at Grand Central Terminal. "Nobody wants to help you."
It was nearly 1 a.m., the restaurants were closed and there was nothing to eat in the concourse. Workers feverishly polished the marble floors of the 91-year-old landmark, which would spring back to life within hours.
Homeless men and women rushed to the restrooms. The most desperate stood before mirrors washing their bedraggled hands and faces.
"I have all this age on me," Rozier said. "Where do I go?"
Yesterday morning, 38,657 New Yorkers woke up in city shelters, the highest number since records were started two decades ago. Of them, 8,859 were homeless single adults, the highest count since 1991. There were 16,493 children in the shelters, twice as many as the average daily census for much of the 1990s.
But Rozier is among the uncounted homeless who live in the streets, subways and vacant buildings.
Despite efforts by both Mayor Michael Bloomberg and Police Commissioner Ray Kelly to erase them from the city, their ranks are growing at an alarming rate. The number of homeless families has increased by 108 percent in the past five years, according to the Coalition for the Homeless.
"You're safer on the street than in a shelter," said Rozier, echoing a complaint common among the homeless.
As temperatures dipped below freezing early yesterday, the subway became a sprawling dormitory of lost souls.
Around midnight, several homeless men kept warm taking the short shuttle、lower East Side ride between Times Square and Grand Central. They went back and forth the whole night.
About 2:30 a.m. on a subway platform beneath the Lower East Side, four homeless men, bundled in layers, slept on a wood bench. Another man, carrying plastic bags and muttering incoherently, videotaped them.
At 3:18 a.m., an A train pulled into the last stop at 207th Street in Inwood carrying 18 homeless men and women sleeping in the different cars. The doors opened, the conductor announced the final stop and the homeless just sat there awaiting the next leg of their journey.
A little over a year ago, the city had sought to criminalize homelessness.
High housing costs, low-paying jobs and the economic impact of the 2001 terrorist attacks drove record numbers of people into the streets.
The NYPD increased the number of officers who worked with the homeless and shifted its policy of assisting the homeless into shelters and offering them social services to arresting them. Many were jailed overnight.
A cop named Eduardo Delacruz, a 10-year veteran, became an unwitting symbol of the new policy when he refused an order to arrest a homeless man in November 2002. "I won't arrest an undomiciled person," said Delacruz, who was first suspended without pay and, later, banished to desk duty in East New York.
In April, the city agreed to settle a lawsuit that accused the police department of deliberately singling out homeless people for arrest. The suit had been filed by the advocacy group Picture the Homeless Inc. and the New York Civil Liberties Union. The suit cited sharp increases in the number of arrests of homeless people.
As part of the settlement, the department sent out new directives offering guidance on how officers should carry out their duties. The practice of arresting the homeless merely for being homeless was halted.
In November, when Rozier lost the single room he rented in Harlem, he packed a bag and moved to the subway. He isn't your typical wanderer. "I don't drink, don't smoke, and I don't do drugs," he said.
He eats where he can and collects a modest Social Security check that arrives at a post office box each month.
"I don't sleep at night," he said, adding that he spends nights riding the No. 6 train or resting on a bench at the Grand Central subway station. "I sleep in the day."
Rozier said he was awaiting word from the city on an application for subsidized housing. "I just hope everything is going to be all right for me,"
he said.
His only family is a daughter in Macon, Georgia, where he was born in 1915.
"I got no people here," he said.
Asked if he considered himself homeless, Rozier said no with a smile. "I just can't get a bed to go to," he said.
reserched by Othum: Blues After Dark
]]>Gloria Hardimanhttp://bluesbio.exblog.jp/17536024/2012-03-16T10:15:00+09:002012-03-16T10:39:06+09:002012-03-16T10:15:52+09:00blues-data未分類
まだ小さいころから木箱の上に上がって教会のコーラスに加わっていた、と言われていますが、その彼女が六歳のときに、牧師(宣教師?)だった父がシカゴに移って、サウスサイドで新しい教会を作り、それにともなって家族は Yazoo City を後にしているようです。
もちろん、シカゴのその教会でも彼女は歌い続けていたようで、やがて彼女の歌は教会のなかだけに留まらず、Chicago はもちろんのこと、Atlanta や Kansas City などの都市のブルースクラブ、さらには、Nebraska 州や南北「両」Carolina 州、そしてカナダやヨーロッパにまでその音楽活動の場を広げて行きました。
1980年代には "Meet Me With Your Black Drawers On" というヒットにも恵まれていますが、それ以前にロイ・ブキャナンのヴォーカリストとして "Why Don't You Want Me" というナンバーですでにメジャー・デビューを果たしていた、と言えるのかもしれません。
ただしそのアルバムは「ギター・おたく」には人気があったものの、その手のファンにとっては彼女の歌など「どうでもいい」ものだったのかもしれませんね・・・
その意味で、"Meet Me With Your Black Drawers On" が重要な作品であったことは確かでしょう。
ただし、そのほぼ五年後、Professor's Blues Review を率いる Professor こと Eddie Lusk の 1992年の早過ぎる死亡によって、いったんブルース・シーンから姿を消していましたが、 Myspace の本人のページによれば、1995年に、Chicago 第35区の Vilma Colom 市会議員のもとで働くようになり、1997年、Spaulding and Schubert 地区の理事長(委員長?原文では president )に選出され、1999年には the Spaulding and Schubert Community Center の建設に際し彼女はその運営に関与するようになり、 5 才から18 才までの子供たちのためのアフター・スクール・プログラムを管轄するようになりました。
そのアフター・スクール・プログラムには音楽も含まれていますから、その部分では「ふたたび」音楽に関わりを持つようになった、と言えるのかもしれません。
かって彼女をヴォーカリストとして迎えたこともある Steve Freund の 2004年 6 月のインタビューでは音楽活動に復帰した、という発言があるのですが、それがこのアフター・スクール・プログラムでの音楽セクションでの活動なのか、それともクラブシーンなどへの復帰も意味するのかは不明ですが、現状ではライヴ・スケジュールなどのリストでの登場は検索しても出て来ないので、かってのような商業的な意味での音楽シーンへの噴きではない可能性も強そうです。
現在、そのような地域に根ざした活動に力を注いでいるようなので、ブルース・シーンへの復帰はカンタンではないのかもしれませんが、なんとか戻ってきてくれないかなあ。たった二曲しか聴いたことないけど、かなり気に入ってます。
彼女の本名は Jamesetta Hawkinsと言います。その Jamesettaを Johnny Otisが 1950年代半ばに前後に分割し( James + etta)それを前後入れ替えてステージ・ネームとしたものが Etta Jamesというワケ。
1938年 1月25日に Los Angelesで生まれました。
母の名は Dorothy。でも父については、明らかではありません。そのヘンの彼女の出生にまつわるストーリィについては The HEART of SOULというサイトの http://www2.tba.t-com.ne.jp/mtdy/etta.htm でとても詳しく採り上げておられますので、もしよろしかったら、そちらもどうぞ。
さて、それはともかく、その彼女は僅か 5才にしてゴスペル歌唱の才能を発揮していたそうですから、これは「天才」と言ってもいいでしょう。
Saint Paul Baptist Churchで歌う彼女は、すぐに、その声量や表現力の豊かさから注目を浴び、the Echoes of Edenという聖歌隊に属するからわら、James Earle Hines( MSNの Etta James Bio.からジャンプする James Earle Hinesは「まったく別人のジャズ・ピアニスト Earl Hines」!Professor James Earle Hinesはゴスペル・グループ the Goodwill Singersを率いる「声楽」のひと)の指導を受け、その才能を開花させています。
1950年には San Franciscoに移り、女性三人からなるグループ、the Creolettes(クレオールの女性形を複数にしたもの)を結成し、ハンク・バラードのWork With Me Annie に対するアンサー・ソング、Roll With Me Henry を吹き込みます。
これに注目した Johnny Otisによって、この曲はThe Wallflower と改題され、1955年に実に 4週にわたって R&Bチャートの首位を独占したのでした。同時に Jamesettaから Etta Jamesへの(ときには間に Peachを挟んで、Etta "Peach" Jamesとも呼ばれたようですが)改名もなされています。
つづいて同じく Modernに吹き込まれたGood Rockin' Daddy も R&Bチャートの 6位まで上り、彼女の知名度は猛烈な勢いで上昇いたしました。
また、このころには Johnny Otis御一行様とのツアーにも出ており、当時の Bo Diddleyや Little Richard、Nappy Brownに Johnny "Guitar" Watsonなどとも共演していたようです。
結局、Modern Recordsとの関係は 1958年まで続きました。
1960年に彼女は Chessのサブ・レーベル、Argoと契約し、すぐさまかなりな勢いで吹き込みを開始します。当時のボーイ・フレンドだった the Moonglowsのリーダー Harvey FuquaとのデュエットやAll I Could Do Was Cry などが次々にチャート入りする状態で、Leonard Chessはさらに彼女の音に工夫を凝らし、オーケステレーションを導入したり、あるいはゴスペルに振ってみたり、ついには 1963年の Nashville、New Era Clubでのライヴ・アルバムRock the House までリリースし、彼女の絶頂期とも言えるひと時代を作り上げたのでした。
そして 1967年、また別なポテンシャルを求めて Rick Hallの Fame Studioに入った彼女が生み出したのがTell Mama と、この曲、I'd Rather Go Blindだったのです。
それから後のことなども、前述の The HEART of SOULに詳しくアップされております。いささかドラマチック過ぎる(?)あたりは、そちらにお任せいたしましょ。
2012年 1月20日、彼女は永眠しました。
]]>Maxwell Street Jimmy Davishttp://bluesbio.exblog.jp/11593477/2009-11-16T20:20:00+09:002010-07-01T12:43:00+09:002009-11-16T20:20:53+09:00blues-data未分類
初録音は Sam Phillips の Sun に 1952年 8月、Cold Hands / 4th and Broad を実名の Charles Thomas 名義で行っています。この録音は Chess と JIm Bulleit の Bullet レーベルに売られています。ただし、売られはしたものの発売には至らず、未発表のままとなっていますが。
1964年には二曲を吹き込み、それは Testament に収録されて発売されたそうです(未確認)。また初のフル・アルバムは 1965年に Elektra から。
その他 Takoma や Sonet などにも収録された曲があるようですが、オーストリアの Wolf からの Chicago Blues Session Volume 11( 1989年)が知られているようです。この Wolf といい、Sonet といい、どちらかと言うとヨーロッパでむしろ人気のあるブルースマンだったのかもしれません。
ただ、彼の場合、その活躍の場はレコードよりも、もっぱら Maxwell Street での路上ライヴにあったようですが。
Chicagoに出て来る以前には Silas Green や Rabbit Foot Minstrels で各地を旅し、1946年には Detroit、その後また各地を旅して、結局は Chicago に落ちつき、以後、生涯の殆どをそこで過ごしました。
一時期、Maxwell Street に小さなレストランを開いたこともあったようですが、それでも路上でのパフォーマンスは続けていたようです。
1995年12月28日、心臓発作で死亡。
reserched by Othum: Blues After Dark
注!この下に表示されている広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり、当方は
その商品やサービスを「一切」推薦しているものではありません。
]]>Eddie Bohttp://bluesbio.exblog.jp/10028593/2009-04-11T18:40:00+09:002012-01-19T21:40:02+09:002009-04-11T18:41:24+09:00blues-data未分類
* ─ Algiers: New Orleans の、Mississippi 川がメキシコ湾に注ぐ河口の南側(現地では West Bank と称するようですが)に位置する。この「アルジェ」という名前そのものは、おそらくフランス領だった期間の名残(ご存知でしょうが、1830年にフランス軍がアルジェリアを占領するために上陸した「最初の」地点が、同国の首都であった Algiers =アルジェでした。以後、アルジェリアはフランスの海外県として 1962年の独立まで支配されることとなる・・・ )と思われますが、一説ではアルジェリアでの戦闘から帰還した兵士たちが、洋上から New Orleans に接近していく際に、その地区の海からの眺めがアルジェにとてもよく似ていたから、以後、そう呼ばれるようになった、とも言われています。
Eddie Bo の家族はミュージシャンとして知られる数々の名前を輩出していますが、表向き(?)の「昼の」職業としては、船大工だったらしい先祖に始まり、煉瓦職人、大工、石工という数々の建築関係の仕事に就いていたようです。
そのような Day jobs のかたわら、夜ともなると彼のいとこ(ほんとうに「いとこ」の場合もあるが、アメリカ黒人たちの言う cousin は、単に「血縁」がつながっている、という意味でも使われている場合が多いらしいので注意)である Henry**、Charles*** に Peter**** などは「音楽」の世界で重要なプレゼンスを発揮する存在でもありました。
** ─ Henry Clay Bocage は 1894年の 3月に(日付は判りませんでした)Algiers 地区で生まれ、一部の資料では Henry、Charles、Peter の三人が兄弟である、としているケースもありますが、大半は Henry だけが(兄弟のように育ったかもしれないけど)「いとこ」である、としています。
Armand Piron( Armand John "AJ" Piron: ヴァイオリン奏者。1888-1943。1912年には Olympia Orchestraを率いていた。初期の Clarence Williamsのビジネス・パートナー)の Piron's New Orleans Orchestra では、トランペットの Peter Bocage とともにバンジョー奏者として在籍していた。没年不明・・・
*** ─ Charles Leopard Bocage は 1900年 1月14日に New Orleans の Algiers 地区で生まれています。Charles と Peter は「兄弟」で、Henry は「いとこ」とされていますが、Henry も兄弟同然にして育った、と。
Charles も吹奏楽器をこなしたのかもしれませんが、バンジョー、ギターのプレイヤーとして、あるいはヴォーカリストとして知られているようです。Armand Piron の楽団のあと、兄である Peter Bocage が始めた Peter Bocage and The Creole Serenaders でも一時バンジョー奏者として在籍していました。
1963年11月 4日死亡。
**** ─ Peter Edwin Bocage は 1887年 7月31日に Algiers 地区で生まれています。
そこでの彼はまず最初にヴァイオリンの演奏から始まって、マンドリン、ギター、バンジョーと弦楽器をこなし、さらにはトランペットなどの吹奏楽器に辿り着いたようですが、やはり最も評価されたのは、そのトランペッターとしての功績だったようです。
10代ですでに父とともに近所のパーティなどで演奏をしていたようですが、すぐに Storyville 界隈のさまざまなグループでも演奏に加わるようになりました。20代になると自ら率いる the Superior Orchestra をスタートさせ、コルネットには Bunk Johnson を据えています。
その後、自身も 1910年には Frankie Dusen の Eagle Band にヴァイオリン奏者として参加し、さらに数多くのバンドを経験し、その間に出会った多くのミュージシャン ─ Buddy Bolden、Freddie Keppard、King Oliver、Louis Armstrong たちの音楽に触れ、さらにスキルをアップさせて行ったのではないでしょうか。1923年には再び Piron's New Orleans Orchestra に復帰し、Clarence Williams の助力で実現した New York での吹き込みで、彼自身の作になる Bouncing Around が Okeh 40021-A として、さらに Columbia には Bright Star Blues( 99-D )と Sad Bustin' Blues( 14007-D )の二曲、さらに Victor には Mama's Gone, Goodbye( 19233-A )、New Orleans Wiggle(19233-B )の二曲が、そしてその二年後、New Orleans に戻って録音された Red Man Blues(19646-A )、その別テイク(19646-B)が、これも Victor に残っています(このときのメンバーには、バンジョーの Charles Leopard Bocage も参加していました。
その後、保険業務の仕事を始めたりもしていますがやはり楽団から離れることはせず、1960年代に入って Riverside からアルバム『 Loves-Jiles Ragtime Orchestra/Creole Serenaders 』などもリリースしています。
1967年 7月31日、New Orleans で死亡。
さて、本題に帰って Eddie Bo です。
Algiers 地区と、9th Ward と呼ばれる、コミュニティとしても機能し、住民による「ある種の自治活動」によってひとつの文化圏を形成していた、とも言われる地区(余談ですが、「あの」ハリケーンではかなりな被害を受けたようですけど)で成長したようですが、なにしろ身内に Henry、Charles & Peter というミュージシャンがいたワケで、そんな環境に影響を受けないワケはなく、おそらくそのスタートは、かなりジャズに接近した位置から始まったのではないでしょうか。
また、それらのいとこたちばかりではなく、彼の母からしてが、あの Professor Longhair みたいなピアノを弾いていたそうですから、それも彼の音楽的素養の一部を形成したのかも。
高校( Booker T. Washington High School )を卒業後、軍務に就いていますが、生年から追って行く限りすでに第二次世界大戦は終結していたハズなので、おそらく実戦の経験をすることなくブジに(?)除隊したものと思われます。
New Orleans に帰ってきた彼は Grundwald School of Music に入学し、そこでは理論的な裏付けとなる音楽理論などの他、あらためてピアノを学び直しているようで、その当時の彼は、ロシアの有名なクラシックのピアニスト、Vladimir Horowitz に傾倒していたようで、一方では Art Tatum や Oscar Peterson にもココロ動かされていたようで、そのへんは ボキャブラリーの豊富さにつながって行くのかも。
もっとも、意外とブルースのミュージシャンとの交流も多かったようで、LaSalle Street の Dew Drop Inn などで演奏していたようです。
もっとも、やはり基本はジャズだったようで、 Spider Bocage Orchestra( Spider Bocage ってのは 彼の当時の「芸名」だったようです)という名前のジャズの楽団も率いていました。
しかし、現実モンダイとして、ジャズは「カネになる」とは言い難かったようで、もっとカネになると思われる R&B にシフトし、Earl King や Guitar Slim、Lloyd Price に Ruth Brown、さらに Big Joe Turner に the Platters などのサポートとしてツアーを経験もしています。
また Eddie Bo は、およそ半世紀にわたる音楽活動を通じ、かなりな数の楽曲を作り、かつリリースしてきました(彼の初レコーディングは 1955年の ACE への吹き込み)。
そしてプロデューサーとして Irma Thomas に Robert Parker、Art Neville、Chris Kenner などに関わっていますが、彼の楽曲で有名なものとしては、1961 年の 彼自身の初の(そこそこ?)ヒットとなったナンバー
Check Mr. Popeye に続く曲、I'm Wise が Little Richard によって Slippin' & Slidin' として大ヒットしています。
他にも Etta James には My Dearest Darling、Tommy Ridgley には In the Same Old Way を提供しました。
やがて 1969 年には自作のナンバー Hook and Sling で R&B チャートの 13位にまで到達。
このあたりには「ニュー・オーリンズ・ファンク」というジャンルに属すると見られるようになっていたようです。
彼がレコーディングしたレーベルはさすがに多岐に渡り
ACE / APOLLO / ARROW / AT LAST / BLUE-JAY / BO-SOUND / CHECKER / CHESS / CINDERELLA / NOLA / RIC(なんと、Eddie Bo は家業?の大工の腕を活かし、ここのスタジオの建設にも関わったのだそうです)/ SCRAM / SEVEN B / SWAN など
となっています。1950年代から、実に半世紀の長さに及ぶ彼の音楽活動ならでは、でしょうね。
もっとも、彼とても、常に音楽シーンの第一線にとどまっていられたワケではなく、 1970 年代には一時、ミュージック・シーンから姿を消したかのように思われたこともあったのですが、二枚のアルバム、"Another Side of Eddie Bo"、"Watch for the Coming" で帰ってきました。
1980年代以降の彼は、Dirty Dozen Brass Band とともにレコーディングしたり、Willy DeVille と共演したりと活動の場を広げ、ブルースしか判らん、というかたでも、それなら知ってる!と言いそうな(え?知らんて?)Raful Neal とも共演してるんですよね。
Oett M. Mallard(ミドル・ネームの「M」がなんの略かは不明です)は、1915年 9月 2日、Chicago で生まれています(ただし異説もあり、それでは10月 2日、と)。
Chicago Defender紙によれば、彼は 6才にして早くもショッピング・バッグを売ることでカネを稼ぎ始めた、のだそうですがホントでしょか?10才では靴磨きに転向したんだって。
それはともかく、彼が音楽を始めたのは、これもそーとー早かったらしく、僅か16才で自分のサックスを手に入れてるんですよ。まだ高校在学中でしたが、すでに Captain Walter Dyett っつーバンド・リーダーのもとで音楽を学んでおったようですね。
かって、この日記の他のブルースマンのとこで、サックスを欲しがるムスコにハープを与える、なんてえハナシが出てきておりましたが、それもムリはないのでございまして、楽器として、最低の基準をクリアする製品っての、サックスだとメッチャ高いんですよ。
お馴染みの Sears なんて通販で買ったよなワケ判らんメーカーのギターでエグいブルースを演奏するおっちゃんが、ディープ・サウスのジューク・ジョイントにゃイッパイいそうですが、そのギターの値段のおよそ 10倍以上するのがザラで、ハープだったらそりゃもー 100本は買えちゃいます。
ムスコがいきなり、とーちゃん、ポルシェ買ってよ!なんて言うのと同じくらい(あ、当時の南部の標準的な黒人の家庭のバヤイね)、そりゃもーテメエなに考えてやがる!てなクラスの楽器だったのですなあ。
しかし、コツコツと貯めたおカネのおかげでか、自前で楽器を揃え(!)、ブジ高校も卒業出来たようで、すぐさま、彼は「クラスメイトだった」 Nat "King" Cole とともに、2年半に及ぶアメリカ国内およびカナダまでまわるツアーに出ています。
この時期、それらのツアーを打ったプロモーター Miller Lyle の娘が Sax Mallrd の妻となったのでございました。・・・というのは「あの」All Music Guide のバイオによるものなのですが、さて、Miller Lyle?その Biography のその名前のリンクで飛ぶ先は「 2003年にアルバムをリリースした Lyle Miller 」であって、そんなプロモーターの紹介なんぞ、これっぽっちもされておりません。第一、その Miller Lyle っての、おそらく Miller & Lyles* のことなんじゃないの?
* ─ Miller & Lyles; 1887年 4月14日、Tennessee 州 Nashville 生まれのコンポーザーかつシンガーの Flournoy E. Miller と、1883年 7月28日、Tennessee 州 Jackson 生まれでこれもソングライターかつヴォードヴィリアンの Aubrey Lyles が「組んで」Miller & Lyles として Shuffle Along などの興行を打っており、1932〜1933年にも再編している。
また Nat "King" Cole は 1919年の生まれで、4年も違うふたりが「クラスメート」になどなるものでしょうか?
All Music Guide ではプロモーター Miller Lyle がツアーの一行のメンバーたちからは「嘘つきミラー( Miller Lyin' )」と呼ばれており、ギャラを払わないので有名だったから、Sax Mallard はその腹いせに彼の娘を奪って妻にした、などと書かれてますが、さて、どこまで信用して良いものやら?
ココロあるブルース・エンスージャストたちの間では All Music Guide は「ウソ・誤記・事実誤認」だらけ!っちゅうことで有名ですからね。
ちなみに「信頼できそうな」サイト、http://home.earthlink.net/~v1tiger/saxmallard.html によれば、Shuffle Along に加わっていたことは記載されていますが、Nat Cole も、娘を奪ってきた、なんてハナシも載っておりませんでした・・・
次いで彼は Kenny McVey 楽団に入り、Colorado 州 Denver の Tivoli Terrace から毎日放送されていた 30分番組二本に関わって行き、1936年には Lionel Hampton に彼のアレンジメントを買ってもらっています。
そこから Chicago に戻った彼はミュージシャンの連盟に加盟しました( 1937,Aug.5 )。この時期から第二次世界大戦までの間に Fats Waller、the Deep River Boys、the Original Ink Spots、the Andy Kirk Band、the Mary Lou Williams Quartet などを経験して行きますが、一時的には Duke Ellington にも顔を出しておりました。
1942年には Chicago で 12名編成のバンドのメンバーとなっています。
このバンドはドラマーの Floyd Campbell(1901-1993 )によって率いられ、Indiana 州 South Bend や Indianapolis から Wisconsin 州の Milwaukee あたりを中心に演奏活動を行っていました。当時のメンバーは Louis Ogletree-tp、Louis Alahard(資料によっては Acerhart としているものもあります)-tp、Al Wynn-tb、Herman Barker-as & ts、Oett "Sax" Mallard-as & cl、Al Washington-ts、Nat Walker-p、Les Corley-eg、Earnest Smith-b、Floyd Campbell-d、Carrol Tucker-voc. となっていますが、Floyd Campbell の、より小さなクラブなど向けの小編成のコンボの方には入っていないようです。
続いては Duke Ellington and his Orchestra に参加し、1943年 4月 3日、New York、Hurricane Restaurant での Take the "A" Trainなど(スェーデンの Azure LP 431 )で録音を残しています。(ま、Take the "A" Trainだけで、他に Rarities 56、Jazz Anthology JA5124 に別テイクもあるんですが)
第二次世界大戦での軍務を終えた1946年には Chicago の Armand "Jump" Jackson のコンボのメンバーとなり 2月~ 8月には Roosevelt Sykes のバックとしてレコーディングしています(本来は RCA Victor、そして Columbia への録音だったようですが、現在では Document BDCD 6048 などに収録されています。ただし、前述の All Music Guide では、"Jump" Jackson のコンボとして、ではなく「 Roosevelt Sykes and his Original Honeydrippers のメンバーとして録音に参加」としています)。同年には Tampa Red や Big Bill Broonzy(この 1946年末には Big Bill Broonzy's Rhythm Band のメンバーとして Columbia に I Can Fix It と Old Man Blues を吹き込み ─ Columbia #37502。なお、この Rhythm Band のメンバーは他に Johnny Morton-tp./ Bill Casimir-ts./ Charles Belcher-pf./ Ransom Knowling-b./ Judge Riley-ds. ) とも吹き込んでますが Aristocrat に接近し、それが Chess へのルートをつけたのかもしれません。また、Roosevelt Sykes が Specialty に The Blues Man 名義(!)で吹き込んだ際にも参加。
1947年には "Jump" Jackson のコンボとして Melrose Colbert、Arbee Stidham、Andrew Tibbs、Washboard Sam、さらにまた Big Bill Broonzy や Roosevelt Sykes のバッキングをこなし、さらに Eddie Boyd や Dinah Washington、Rosetta Howard などとセッション、また Dave Young のオーケストラのサポートに入って Dinah Washington の Mercury への吹き込みにも参加。
この 1947年にはその年末に「初めて自分名義での」レコーディングも行っています。Aristocrat への The Mojo と Let's Love Again の二曲で、ヴォーカルは Jimmy Bowman でした。
1948年には、ヴォーカルを Andrew Tibbs に変え He's Got Her And Gone( Aristocrat #1106 )を録音。バッキングでは同年の The Dozier Boys( She Only Fools With Me / St. Louis Blues ─ Aristocrat #3001 )、1949年の Grant Jones の Coral への、Arbee Stidham と Eddie Penigar の RCA Victor への、各吹き込みを行い、1950年には Al Benson の TV 番組のためのスタジオ・バンドにも参加しています。
1951年元旦、新生 Checker レーベルから Osie Johnson をヴォーカルに立てた自己名義のシングル、Slow Caboose / Let's Give Love A Chance ─ Checker #750 をリリース。( alt. ただしこのリリースは 1952年としている資料も存在し、ほとんどの資料では Checker レーベルそのもののスタートを 1952年としています。http://home.earthlink.net/~v1tiger/saxmallard.html がこれを 1951年としている理由については「不明」)
1952年の暮れ近くには Chance Records に Big Bertha と Lou Blackwell のバッキングで録音に参加。同様にバッキングとしては 1953年の Mitzi Mars の Roll 'Em / I'm Glad ─ Checker #773、The Coronets の Nadine / I'm All Alone ─ Chess #1549 と Baby's Coming Home / Should I? ─ #1553 も行っています。
その後も Guitar Slim、Earl Hooker とも共演してますし、数々のブルースのレコーディング・セッションに関わりました。
1970年の Delmark への King Kolax や Fred Below のバッキングが「公式には」レコーディングの最後のデータとなっています。
ただ、そのサックス・プレイは、かなり洗練されたテイストを持ち、クォリティも高いのですが「いわゆる」ホンカーたちのようなインパクトには欠け、聴く者の「血を沸かす」よりは「耳を傾けさせる」傾向の方が強いように思いますね。モチロン悪いことじゃないんですが。
その彼は晩年、Chicago Federation of Musicians の運営に関わっていたようですが 1981年の Blind John Davis のラジオ出演時に共演したのが最後に録音された音となっているようで、1986年の 8月に 70才でこの世を去りました・・・
reserched by Othum: Blues After Dark
注!この下に表示されている広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり、当方は
その商品やサービスを「一切」推薦しているものではありません。
]]>Johnny Williamshttp://bluesbio.exblog.jp/8407766/2008-08-02T22:34:00+09:002010-06-23T15:43:21+09:002008-08-02T22:34:38+09:00blues-data未分類
その Money Taking Woman は Little Walter と Othum Brown の "I Just Keep Loving Her" と同様に「いわゆる」シカゴ・ブルースなどというスタイルが完成するのに先駆けた、まさにバンド・ブルースへの里程標として重要な意味を持つ録音、と捉えています。そして、その曲で、マンドリンの Johnny Young のバックでサポートしたのが Johnny Williams でした。
その Johnny Williams ですが、そんな「ありふれた」名前のせいか、ケッコー同姓同名がいるようで、ついに 2万人を超えた!と豪語する ktate さんのブルース人名辞典ではやはりドラマーやらピアニストにサックス・プレイヤーまで登場しておりました。
もちろん、ここで採り上げておるのは Vocal & Guitar の "Uncle" Johnny Williams で、「必ず(とまでは言わないけど、たいていは)」Maxwell Street の、という接頭辞がつきそうな人物でございます。
その Johnny Williams が生まれたのは Louisiana 州の Alexandria、1906年の 5月15日でした。
ただし、家族で移動したのでしょうが、彼が成長したのは、そこではなく、Texas 州の Houston や、Mississippi 州の Belzoni などの地域だったようで、そこで彼の叔父が一緒に演奏をしていたとされる Charlie Patton をはじめ、Jim Jackson や Howlin' Wolf などの演奏にも触れて、そのあたりで彼の方向性は決まったのかもしれません。
10才あたりですでにブルースを演奏するようになっていたようです。
そんな彼が Chicago に出てきたのが 1938年のことでした。
最初からその仕事に就いたものかどうかは判りませんでしたが、後に「縁」が出来る Planet と Marvel というマイナー・レーベル( Chester A. Scales: 1914-1997 のレーベル)があったノースサイド近辺の Sedgwick の Oscar Mayer のソーセージ工場に職を得て、毎週日曜は朝から Maxwell Street へでかけ、そこで共演者を探して、たとえば Johnny Young などとも出会ったものでしょう。
ただし、その初期にはそこに Snooky Pryor も加えたトリオで演奏することも多かったそうですが、1947年に ORA NELLE を所有する・・・なんて言うと実業家みたいですが、Bernard Abrams (自らの小さな電気店 Maxwell Radio, TV, and Record Mart の店舗の奥の一室をスタジオ代りに録音をしていたようで、一説では彼自身がそれほどブルースに興味があったワケではない、とも言われていますが、その動機はなんであれ、彼のおかげでプリ・バンド・ブルース期と言ってよい歴史の一コマが録音として残ったのですから、まことにありがたいことでございます)に声を掛けられて、録音に臨んだときには Johnny Young のマンドリンと二人のコンビとなっていました(ただしこのあたりの前後関係には多少の混乱もあるようで、最初は Johnny Young & Johnny Williams のコンビで、後に Snooky Pryor が加わった、としている資料もあるのですが、そこらは確認がとれませんでした。確かに録音史的には「それ」は正しいのですが、それ以前に街頭でやったことがない、と断言できるひとはたぶんどこにもいないでしょう)。
そして ORA NELLE 712 では、Johnny Williams がヴォーカルをとった Worried Man Blues が Aサイドとなったのですが、やはりワタシは Money Taking Woman のほーが・・・
その Johnny Williams は、1959年にブルース・ミュージシャンから「足を洗い」バプティスト教会にもっぱら身を置くこととなりました。1968年の Little Walter の葬祭を司ったのが Rev. Johnny Williams だった、と言われています。また 1975年の Hound Dog Taylor の葬儀では弔辞を読んでいます。
Maxwell street の伝説を生きた Uncle Johnny Williams は、2006年 3月 6日、ほぼ一世紀にわたる長い生涯を閉じました。
reserched by Othum: Blues After Dark]]>Ervin Charleshttp://bluesbio.exblog.jp/7061929/2008-01-08T10:51:00+09:002013-03-21T17:59:55+09:002008-01-08T10:46:21+09:00blues-data未分類
おそらく 10代の前半からすでに継父だった George Andrus から手ほどきを受け、ギターを弾くようになっていた、と言われますので、このアルバム、Alligator AL-4866 Lone Star Shootout での三人( Lonnie Brooks、Phillip Walker、そして Long John Hunter )よりも早い時点からスタートしていたことになります。
1952年には家族とともに Beaumont に移って Long John Hunter と同じ工場に務め、すぐにバンド、the Hollywood Bearcats をスタートさせています。メンバーはその Long John Hunter と義兄弟の Roy Stelly(ドラム。残りふたりが HouseRockers みたくギター二本でベース・パートとギター・パートを分担)。
ただし 1955年には Long John Hunter が El Paso に移るために抜けてしまったため、Ervin は Big Sambo こと Sam Young のバンド、Big Sambo and the Housewreckers に参加しています。ところが今度は Sam が西海岸に行ってしまい、そこで the Nite Riders と一緒にやるようになりました。
1960年代末ころに Sam Young が帰ってきたので Housewreckers を再開しますが Big Sambo という名前をやめ( Sambo とは、特に南米で、現地の被征服民であるインディオと、これまた使役のためにアフリカから奴隷として連れて来られた黒人との間に出来た混血をさす言葉として使われており、スペイン、あるいはポルトガル人を頂点とする人種的ハイアラーキィのなかでも「最下層」の賤民扱いを受けた層に対する「蔑称」という性格が強い。ちびくろサンボはインドを舞台とした童話であっても、「サンボ」を「非ヨーロッパ人」という意識で命名されているのであれば、それは「蔑称」である、ということで排斥の対象となった。当時の Sam Young あたりは黒人に対する「愛称」くらいに勘違いして名乗っていたのかも・・・)、Sam Young and the Soul Lovers という名前で活動を開始しています。
そのバンドでは 1972年に初レコーディングした Funky Booty が地域限定ではあったけどかなりなヒットとなり、一気に知名度を上げた Soul Lovers はクラブ出演を増やしています。
1974年、Ervin は突然ダンプカーを購入して(!)Charles Trucking(日本で言うとこの「斉藤運送」みたいなもんか?)という事業に乗り出しました。
それでもバンドでの活動は並行していたようですが、1980年あたりから Sam の健康に翳りが見られるようになるとバンドでの活動は減速し、1983年の Sam の死亡でついに Soul Lovers は活動を停止してしまいました。
Ervin は 1985年にふたたび Nite Riders を招集し、活動を再開しています。
1997年のヨーロッパでのツアーの後、テキサスに戻った彼は、プロデューサーである Tary Owens に諮って、テキサスゆかりのブルースマンで作るアルバム Lone Star Shootout を提案したもののようです。
ただし Ervin Charles 自身は、そのアルバム Alligator AL-4866 Lone Star Shootout の録音に参加はしたものの、翌2000年の 4月 1日に、完成したこのアルバムを聴かずに亡くなってしまいました。
reserched by Othum: Blues After Dark]]>Long John Hunterhttp://bluesbio.exblog.jp/7061787/2008-01-08T09:48:00+09:002010-06-23T15:44:05+09:002008-01-08T09:48:41+09:00blues-data未分類
それによると彼の父は少しばかり( Lightnin' Hopkins みたいな)ギターを弾いたようで、ただ、その時はそれが彼自身にあまり影響を与えていないようです。当時は音楽といえば放送で流れてくる C&W が圧倒的で、Blue Moon over( of じゃなかったっけ?)Kentucky なんて曲を歌っていた、と。
ただしインタビューでは、ギターは自習した(ほとんど耳から覚えたものを)としているのですが、それが Arkansas の農園時代にすでに始めていたのか、あるいはそこを出てからのことだったのか、については言及しておりません。
ま、Arkansas では、父の弾くギターとラジオ以外、まったく音楽には触れていなかった、という発言はありますから、それ以降のことではないか、と思うのですが。
しかし、本人は 24才のときに農園を出た、としていますが、一部の資料では、彼が Texas 州 Beaumont(およそ Houston から 2時の方向に 100km弱はなれた Louisiana との「州境」に近い町)に来たのを 1947年としています。それが正しいとすると 16才で家を出たことになり、だいぶハナシが違いますねえ。そしてそこから彼のギターのキャリアが始まったのだ、と。
真相ははたしてどうだったのか(何度も言っておりますが、ワタクシ、Screamin' Jay Hawkins 後遺症のせいで、「本人がそう言ってる」なんてのを「はいはい」と素直には信じられない、っちゅー呪われたカラダになってしまったのでございますよ)多少は気になるところですが、まあ、はっきり言って、そこらはどっちでも彼の音楽性にとっちゃ、さほど重要ではないかも、っちゅう気もしますね。
ま、Alligator の Biography ではまたちょっと違ってて、ギターを始めたのが 22才のときから、としています。
で、なにはともあれ、1954年のこと、なにやら Texas box factory っちゅうから製函工場に勤めていたんでしょか、Beaumont には 1949年に出てきて、その工場での同僚であった Erving Charles に連れられて、これも Beaumont の Raven Club に行き、そこで観た B.B.の演奏に衝撃を受け(?)二人はバンドを結成しています。
ドラムには Charles の義兄弟の Roy Stelly を迎え、住んでいたのが Beaumont の Hollywood 地区だったことから the Hollywood Bearcats と名乗り、そのヘンでは有名なバンドとなり、Phillip Walker や Guitar Junior こと Lonnie「ええ仕事しまっせ、ぐふふ」Brooks、そして Lonesome Sundown などとも交流しておりました。ただし Long John Hunter は Beaumont から Houston に出てしまい、バンドでは後釜にサックスの James Young を入れて、さらにそのグループ名も Charles Sheffield をヴォーカルに迎えて the Nite Riders(ただし James Young をフロントにしたときは Big Sambo and Prince Charles )と変えて活動を続けて行く・・・
どうやら Long John Hunter の音楽的なセンスはすぐさまそのへんでは注目されるようになったらしく、早くも同年には Duke でシングル盤を吹き込んでいます。
Crazy Baby と She Used To Be My Woman のカップリングで、それがそのまま全国的なヒットにまでは至りませんでしたが、その売れ行きは、「音楽で喰っていく」ことを決意させるには充分な程度ではあったようで、1957年には彼はさらにいきなり 1000km以上も西(う~ん、さすがアメリカは広い!そんなに離れてても同じ州内とは・・・実際には Houstonからは 10時の方向になる)に向かって Texas 州 El Paso に移り住み、国境を超えて Mexico の町 Juarez の Lobby Bar に出演するようになり、本人が言うには「最初の 5年間は毎週 7日、次の 5年は週 5日演奏してた」
まあ、そこの客ときたら、「かなり」ものスゴいのばっかりだったようですが、そんな場で「鍛え」られたんでしょかね。
そんな場で演奏をし続けていることでも有名になってきた彼は、活動の幅を広げ(?)かなり多くのブルースマンのオープニング・アクトを努めたり、共演したりもしているようで、インタビューでは特に Albert Collins と Clarence "Gatemouth" Brown の名前を出しておりました。
1961年から 1963年までの間に Long John Hunter は Yucca レーベルにシングルを録音しています。それらはいずれもローカル・ヒットの域を出なかったようですが、本人は Juarez にいるかぎり最恵待遇を受けて「王様(?)」でいられたワケですから、あまりがっついていなかったんでしょう。
しかしその Juarez での彼の王国は Lobby Bar の閉店によって終わりを告げ、彼はふたたび El Paso に帰ってきました。
そのあたりから Texas 州の西半分をメインとしたブルース・サーキットを回るようになり、1985年には Boss レーベルに彼にとって初のアルバムを吹き込んでいるようですが、それのタイトルなどは不明です。
続いては Spindletop レーベルから 1993年にリリースした Ride With Me、これが Rolling Stone誌をはじめとする絶賛を浴び、一躍、彼は有名に・・・なりかけたとこで、なんとその Spindletop が倒産・・・
で、ケッキョク、彼が「まさに」世界に羽ばたくこととなったのが、Alligator の AL-4839、Border Town Legend だった、というワケでございます。
その前の Ride With Me もケッキョク後から Alligator によって再発されてはおるのですが。
あ、そうそう、Long John Hunter においてかれた(?)Erving Charles ですが、その後 Barbara Lynn のサポートをしたり、ジョニー&エドガーのウィンターズをサポートしたりと結構カツヤクしておりますが、その活動はあくまで Beaumont に軸足を置いており、1997年の Blues Estafette ではかっての仲間だった Long John Hunter、Lonnie「ええ仕事しまっせ」Brooks、PHillip Walker らと再結集しております。
reserched by Othum: Blues After Dark]]>Noble "Thin Man" Wattshttp://bluesbio.exblog.jp/7056994/2008-01-07T12:05:00+09:002010-06-23T15:44:28+09:002008-01-07T12:05:01+09:00blues-data未分類
サックスという楽器は黒人家庭にとっては「趣味で買う」には極めて高価な楽器ですから、だいたい息子がサックスを吹きたい!なんてダダこねても、それじゃまずこれからだな、なんて誤摩化してハープを与えとく、てな「高嶺の花」でございました。
ところがこの Noble Watts は幸運にも、ハイ・スクール・バンドでサックスと出会うことになります。
当初はピアノだったらしく、そこからヴァイオリン、トランペットと遍歴を重ね、最終的に落ち着いたのがテナー・サックスでした。
やがて Florida A&M(おそらく Agricultural and Mechanical、つまり農業工科大学)に進み、そこのマーチング・バンドでは Cannonball と Nat の Adderly 兄弟とも一緒に演奏していたそうです。
卒業後には R&B のバンド the Griffin Brothers に入り、次いで Paul "Hucklebuck" Williams(かって Jimmy Spruill も在籍してた)とともに初期のロックンロール・レビューのツアーの日々で Fats Domino や Chuck Berry などのバッキングを経験することとなりました。
またこの時期、数々のヒットとなった曲の録音に参加もしています。
1970年代には Apollo Theatre のハウス・バンドの一員としても活動していたようですが、なにか限界でも感じたのか 1983年には故郷の DeLand に戻り、地元でたまに演奏する、という生活だったらしいのですが、そんなプライヴェートなパーティでの演奏に目をとめたのが Bob Greenlee でした。
Noble "Thin Man" Watts の才能を認めた Bob Greenlee は 1987年に King Snake Studio で彼のカムバック・アルバムを制作しています( Alligator AL-4785; Return of the Thin Man )。
ご本尊たる Noble "Thin Man" Watts のかなり「じゃずぅい」なサックスは、イーストコースト・ジャズっちゅうよりは、むしろもっとポピュラーなテイストもあるのですが、それでもかなりジャズっぽいテイストは香っております。
なのに(?)そのバックでは「ジャズではゼッタイあり得ない」空間系のエフェクター(特にワタシの嫌いなコーラスとかね)をドたっぷりとかけたギターが堂々と存在を主張しているし、ベースだってランニング系のスケールは選んでますが、そのトーンは「明らかに」よくダンピングの利いたファンキーさに溢れてるし、ドラムもびしびし!とインテンシティを前面に出してる・・・この総合がまた意外と魅力的なのよねー。
そして Look Under the Wing での「がっついてない」ヴォーカル、いい味だしてますよ。
ブルース、そしてサックス、となると A.C. Reed!ってえのがブルース界の常識なのかもしれませんが、ワタクシ、彼のアルバムの紹介のとこでコクハクしたとーり、A.C. Reed にはどうも馴染めないんですわ。
もしかしてワタクシと同じよに感じる、なんて変わった方には、この Noble "Thin Man" Watts、本気でおススメいたします。ゼッタイこっちのほうが「いい」!
reserched by Othum: Blues After Dark]]>Phillip Walkerhttp://bluesbio.exblog.jp/7056502/2008-01-07T09:09:00+09:002010-06-23T15:44:54+09:002008-01-07T09:09:52+09:00blues-data未分類
Phillip が 8才になったときに一家は Texas 州 Port Arthur に移りますが Phillip が 12才になったころから父の健康が悪化し、家計は逼迫してきたようです。
そのため Phillip はそこで学校教育から「脱落」した・・・
1920年代には、母方の叔父たちはみんなバンドに参加していたようですが、1930年代には現役を離れ、それでも機会があるごとに集まっては楽器演奏を楽しんでいたらしく、さらに Clarence "Gatemouth" Brown がどうやら「親戚」だったようですねえ。
Second Cousin と phillipwalker.com では記しています。
おそらく学校に行かなく(行けなく?)なってヒマになったあたりではないかと思うのですが、次第に音楽に興味を持ちはじめ、しかしギターを買えるアテもなかったため、お馴染みの Cigar Box Guitar を自作しました。
ヒマさえあればそれを弾き、どんどん上達したもののようですねえ。
また変装したりして歳をごまかしてジューク・ジョイントやダンス・ホールにも「潜り込む」ようになり、そこで演奏している中に参加するようになったのが、まだ 15才の時だったそうで・・・
そこで知り合ったミュージシャンたちからも多くのシゲキをウケるとともに、その才能も認められるようになり、1952年には、Booted で R&B チャートを登りつめた Roscoe Gordon に認められ、そのレコーディングに参加しました。
おそらくこのあたりからではないか、と思うのですが、Lonesome Sundown との交流も生まれています。また同様に Lonnie Brooks や Long John Hunter、Ervin Charles といったミュージシャンとの交流から、彼のスタイルは醸成されていったのではないでしょうか。
続いて 1953年には Clifton Chenier が地方のクラブに出演していたときに彼を「発見」し、家族の了承を得て、ツアーに連れ出しました。
さらに Clifton Chenier の Specialty や Chess、Argo でのレコーディングに参加しています。
一方、彼自身は慢性の鼻炎に悩まされていたらしく、ツアーで立ち寄った Los Angeles では、その気候が良いのか、鼻炎の症状がかなり改善されることを知って、西海岸を住処としたい、と考えたようです。
1954年に内紛からバンドが解体した後も Clifton Chenier と二人で演奏活動を続け、これがまた彼のサイドマンとしてのスキルをさらにアップさせたのではないでしょうか。
その腕を買われて Little Richard、Etta James のバックも務めています。
1955年には Fats Domino と Little Richard、他にも Lowell Fulson や Percy Mayfield といったビッグ・ネームで組んだパッケージ・ツアーに加わり、全米を巡業しました。
ただし、そのような日々はそれなりに負担も大きかったようで、1959年にはウェストコーストに舞い戻り、そこで Ina Beatrice Gilkey という女性シンガーと組んで Bea Bopp というバンドを結成し 1963年には彼女と結婚。同年 AMC レーベルに録音もしています。また Model T. Slim や Eddie Taylor などのバッキングもしていました。
1973年には彼にとって初のソロ・アルバムとなる Bottom of the Top を Playboy レーベルに録音し、ここで「開花した」と言えるかもしれません。
ヒュー・ヘフナーの気まぐれみたいなこのレーベル自体は短命で終わっているのですが、原盤は Hightone に移り、1988年に再発されています。
ところで、同じ 1973年から翌年にかけて Phillip Walker は Chicago の WNIB-FM による Atomic Mama's Wang Dang Doodle Blues Show に出演し、シカゴ周辺でもその名が知られるようになりました。それが契機となって Bruce Bromberg の Joliet レーベルに吹き込まれたのが Someday You'll Have These Blues だったのです。
それが Alligator に売られ、AL-4715、Someday You'll Have These Blues となっています。
reserched by Othum: Blues After Dark]]>https://www.excite.co.jp/https://www.exblog.jp/https://ssl2.excite.co.jp/