Frank Frost
Frank Frost は1936年の 4月15日、Arkansas 州の Auvergne( alt. Augusta, Arkansas。Memphis の約 70 マイル西)で生まれています。
その家庭は音楽に縁があり、父は管楽器、母は鍵盤楽器を、ともにゴスペルの伴奏のために演奏していたようで、彼自身の最初の楽器も教会の合唱団に伴奏するピアノでした。
1951年、15才の時に彼は St. Louis に移り、そこでハープ・プレイヤーの Wiilie Foster のバンドにギタリストとして参加しています。
そこに現れたのが Sam Carr*で、父のとこにいてはコキ使われるだけだ、と思ったのか(?) St. Louis に移ってきて、自分のバンドを作ろうとしたようですが、フロントマンを必要としていた Sam Carr が目をつけたのが Frank Frost だった、っちゅうワケ。
「 Willie Foster にとっちゃ Frank Frost がそれほど必要、ってワケじゃなかった」のだそうで「だから彼を引き抜くのに後ろめたさは無かったねえ」とゆーイキサツで、この時から Frank Frost と Sam Carr の長〜いツキアイが始まります。

* ─Sam Carr は1926 年 4月17日、Mississippi 州の Friar's Point で「あの」 Robert Nighthawk の息子として生まれています。
彼はごく小さいときから父のバンドを通じて音楽に関わり、やがてはそのバンドでベーシスト兼ドライヴァーとして働くようになるんですが、ワシゃ、こんな人生イヤじゃ!とゆーことで(?)独り立ちを目指し St. Louis に行ったのでしょか。
出あったころの Frank Frost も Sam Carr もギターを弾いておったんですねえ、これが。
「 Frost よりは俺のほーがウマかった」だそうですが・・・ まあ、自分で言ってるだけですからねえ。こゆこというブルースマンはゴマンといます。ちゅうか、これこそブルースマン「らしさ」てな気までするくらいで!
ただし、この時期、Willie Foster のバンドではなく、父の Robert NightHawk のバンドで Frank Frost も一緒に演奏をしていた、としている資料もありますが、それは1960 年代のハナシでしょ。

その Willie Foster のバンドにいた時には、ジミー・リード・スタイルのハープを学んだそうですが、最も多くのことを学んだのはやはり Sonny Boy Williamson からだったようで、基本的にはサニー・ボーイ・スタイルだ、と自分では言ってますね。
でも、人柄の違いが「音」に出るのか、Frank Frost のハープははるかにシンプルでストレートで「暖かい」ような気がするんですが・・・1956 年から、割れたボトルのガラスで手に怪我をしてしまい、ギターを断念する1959 年まで、サニー・ボーイのギターを務めたそうですが、サニー・ボーイは彼にハープを教えて、まるで自分の息子であるかのように扱ってくれたそうです。
「彼についちゃイロイロ言う人もいるようだけど、俺にとっちゃ偉大な存在だ」

そして Frank Frost と Sam Carr のふたりは Mississippi 州に向かいます。
1960 年には Sam Phillips の International Records に初の吹き込みをしていますが、このときには契約関係にうとかったのか、「たった」 800 ドルが支払われただけだったとか。
そして1962 年にはギターに "Big" Jack Johnson**を迎えて吹き込み。

**"Big" Jack Johnson は1940 年 Mississipp i州 Lambert で生まれています。
Sonny Boy Williamson、Jimmy Reed、Robert Nighthawk から Carl Perkins までのサポートを行い、1961 年には Memphis の Sun Studio で初吹き込み( alt. 1964 年としている資料もあります)。
彼は1970 年代の晩期からは The Jelly Roll Kings のシンガー、ギタリスト&ベーシストとして活躍し、1980 年代に入ってからはソロ・アルバムもリリース、2002 年には日本にも来ています。
成功してからもデルタにとどまり、そこからツアーに出る生活を続けているとか。

その "Big" Jack Johnson を加えたバンドは Frank Frost and the Nighthawks と呼ばれていたようで、そのメンツでは1962 年にシングルとアルバム Hey Boss Man! を録音。
バンド名は Little Sam Carr and The Blues Kings になったりもしておりましたが、Jelly Roll Kings で落ちついたみたいです( 1978 年に、シカゴに本社のある Earwig Records に吹き込み)。
1966 年には Scotty Moore のプロデュースで Nashville で Jewel Records に「Things you do 」を含む 3 枚のシングルとアルバム一枚を吹き込み。「 Baby Scratch My Back 」はマイナー・ヒットになりました。
また、この Frank Frost、Sam Carr、Jack Johnson で構成されるトリオは Robert Nighthawk がデルタに来たときにはバッキングをしていたらしく、他にも B.B.や Little Milton、Johnnie Taylor、Albert King に Jimmy Reed などのデルタでのバッキング・バンドを務めています。
彼らはまたミシシッピー州内のジュークジョイントをめぐり歩いていますが、バンドとしての吹き込みは前述の通り1978 年の Earwig への Jelly Roll Kings 名までしばしお休み。あ、でも、ここでは Frank Frost は Farfisa オルガン(?)を弾いてます。

1990 年の Midnight Prowler を最後に Jack Johnson はバンドを去り、Frank Frost と Sam Carr の二人は相変わらずミシシッピー・デルタを廻り歩き続けたのでした。
1990 年代には Arkansas 州 Helena の Missouri Street 121 番地の古いビルにある Eddie Mae's Cafe を本拠地として周辺でギグをしていたりしていたのですが、1992 年に Robert Palmer のプロデュースで製作されたドキュメント、『Deep Blues』で採り上げられたことによって広くその存在を知られるようになりました。
また映画『Crossroad』の影響もあったのでしょう、Helena の彼のもとには若いハープ奏者が訪れて、どしたらそんなふうに吹けるのか?とか、ハープでイチバン大事なのはなんですか?などと尋きにくるそうですが、そんな時の彼の答えは、いつも決まってて、「そりゃ胃だべ。ここ(と胸をさす)から上で吹いちゃダメだあ」だそうです。
Joddy Williams がしばらくブルースから離れていて、再起を決意したとき、「(指は動かなくなっていたものの)ブルースはここ(アタマ)とここ(ハート)に残っていた」と言っていたのと真反対でオモシロいですねえ。「胸から上」じゃあアタマはもちろん、ハートも含まれてるワケですから。
また、お気に入りのハープのブランドやモデルはあるか?という質問も多いようですが、答えは「なんでもいい。」だそうです。ただ録音で多く使われているのは Marine Band の「 C」。

Sam Carr は Frost より10 才年上なのですが、アスリートのようなカラダつきのせいか、実際の年齢より 2・30 才は若く見えるのに対し、晩年の Frost は車椅子での生活で、 1999 年の10月12日、Helena で死亡しました。


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# by blues-data | 2018-12-31 18:14
Cousin Leroy
Crossroad と聞くと、ほんとうのブルースを愛しておられるかたなら誰でも Robert Johnson のそれを思い浮かべますよね( え?E.C.? it's good, but not 'blues')。
あの Crossroad をどのように編曲あるいは歪曲したところで、かならずどこかに原曲の面影が残っているものでございます。
ところが、Cousin Leroy の Crossroad は違うみたいです。最初なんて例の I was a catfish・・・という一節に凄い似てるじゃあありませんか。もちろん、歌詞は違いますが。
悪魔との出会い、やりとり、ギターを仲立ちにした悪魔との取引など、たしかに Crossroad の伝説を歌ったものなのでございます。でも、どうやらベースとなっているのは Rolling Stone のほうでしょうが。
ただ、この録音は戦前じゃなく、1957 年の八月です。もはやそんな伝説なんて信じてる人間も減ってきてる頃、しかも大都会 New York での吹き込みです。
Cousin Leroy のヴォーカルにも、あまり緊迫感が見られないような気がするのは、そのような近代(?)の合理精神が黒人社会でも次第に浸透して来ていたせいである、などと言うのはいささか乱暴でしょうか。

バックのミュージシャンとして Jack Dupree(ピアノ)に Sonny Terry(ハープ)もクレジットされてはおりますが、聞こえますか?
ハープはかなり遠いところ(まるで隣のスタジオで演奏しているみたいな?)で鳴っているような気もしますが、ピアノはどうしても聞こえないのですが・・・
それどころか、最初、ソフトなトーンのギターにトレモロ・エフェクトをかけているように思った音ですが、これはハモンドの音じゃないのか?という疑いも出てまいりました。
ソロのところでは確かにギターが二本聞こえていますから Larry Dale のギターと、Gene Brooks のドラムは確実みたいです。でも、明らかにベースも入っているようですが、そのクレジットはありません。

全体にさすが New York という、ややモダンなテイストが感じられるような気がいたしますが、わたしだけでしょうか?
ただ、この唄い方、どこかで聴いたことあるなあ、と考えてみたら Johnny Guitar Watson だ!

Cousin Leroy の本名は Leroy Rozier ですが、例の Indiana 州 Richmond の Starr Piano Company による Gennett レーベルに、この'Crossroad'をはじめ、Match BoxHighway 41Catfishの4曲 など(など、というのは歯切れが悪いけれど、それが全部かどうか確認がとれてないので、断言できないのです)を吹き込んでおります。

後記;一部の資料ではまた別なレコード・レーベルからリリースされた、として以下のリストが掲載されていました。

Goin' Back Home / Catfish: GROOVE 0123: 1955
Highway 41 / Will A Matchbox Hold My Clothes: EMBER 1016: 1957
I'm Lonesome / Up the River: EMBER 1023: 1957
Waitin' At The Station / Crossroads: 1960

Lists by http://www.wangdangdula.com/

さらにまた別な資料では

String Beans( 2 take いずれも unissued )
Woke Up With The Blues
Sail On
VooDoo

もまた Cousin Leroy Rozier が吹き込んだ、としていましたが、そのリンク先は販売業者であり、在庫が無い現在ではその記述は見当たらず、これも確認はできていません。

Wikipedia のレコード・レーベルの項目で見る Gennett は「1948 年以降、その活動はきわめて低調になった」という記載がありますので、録音はしたものの、そのソースを他社に提供したものか、あるいは、この頃の Gennett では、他社からのプレス業務だけを請け負っていた、とする資料もありますから、そのような縁で流されたものかもしれません。
どちらにしても、そのへんの資料は( Gennett についての資料は「皆無ではない」のですが、その場合でも、以下に述べる他のスターたちに埋没し、Cousin Leroy の名前が出てくることはありません)いまだ発見できていないのでなんとも言えませんが。


ついでに、この Gennett に吹き込んだ他の方々も紹介いたしますと、あの Pee Wee もPoppa StoppaDedicating the BluesCalifornia WomanHuckleboogieCrayton Specialを録音し、さらに Bo Diddley、Little Walter、John Brim、Johnny Shines、J.B.Hutto、Otis Span、Billy Boy Arnold、Lowell Fulson、Roscoe Gordon・・・などなど、けっこう凄い顔ぶれでしょ?

1955 年と 1957 年の 2 度のセッションで録音されたナンバーが、その Gennett に収録されているようです。
ただし、オリジナルは Gennett じゃなかった可能性も?
例えばHighway 41など、Ember 1016 として 45r.p.m.のシングルとしてリリースされております。また Ember からは他にも 1023 としてI'm lonesome も出てますしね。

この Cousin Leroy、どうやら、まったく資料が見当たらず、その出身地すら判りません。
しかし、とある New York のニュース・コラムにこんな記事を発見いたしました。

JAN. 22 2004 ─
ホームレスには安住の地無し
赤貧、洗うがごとき Georgia でのかっての生活ですら、屋根の下で起居していた Leroy Rozier さんだが、ブロンクスの片隅ですでに 50年を過ごしている・・・
NOTICE: If the name of "Nipponia nippon" was included in the thing which translated this sentence, the translation software is SHIT!


なんだかいまひとつ、なにが言いたいのか判らない短いセンテンスしか発掘できなかったのが残念ですが、この Leroy Rozier さんというのが Cousin Leroy だとすると(ブロンクスで 50年以上も、というのも符合するし)、Georgia 州の出身ということになりますね。

もちろん、この Rozier さんがその Rozier さんと同一人物だ、という証拠はなにひとつございません。

さて、2012年になって
http://blindman.fr.yuku.com/topic/44118#.UJPTfBzl5ak
というフォーラムにおいて Cousin Leroy は 2008 年に亡くなっていた、という記載がありました。ただ、現在のところ、そこ以外のルートで同様の記述には出会っておりません・・・


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# by blues-data | 2012-11-02 23:39
Gloria Hardiman
Gloria Hardiman は、Mississippi 州、Yazoo City 出身のようですがそこで生まれたのかどうか、またその生年月日も判りません。
まだ小さいころから木箱の上に上がって教会のコーラスに加わっていた、と言われていますが、その彼女が六歳のときに、牧師(宣教師?)だった父がシカゴに移って、サウスサイドで新しい教会を作り、それにともなって家族は Yazoo City を後にしているようです。
もちろん、シカゴのその教会でも彼女は歌い続けていたようで、やがて彼女の歌は教会のなかだけに留まらず、Chicago はもちろんのこと、Atlanta や Kansas City などの都市のブルースクラブ、さらには、Nebraska 州や南北「両」Carolina 州、そしてカナダやヨーロッパにまでその音楽活動の場を広げて行きました。
1980年代には "Meet Me With Your Black Drawers On" というヒットにも恵まれていますが、それ以前にロイ・ブキャナンのヴォーカリストとして "Why Don't You Want Me" というナンバーですでにメジャー・デビューを果たしていた、と言えるのかもしれません。
ただしそのアルバムは「ギター・おたく」には人気があったものの、その手のファンにとっては彼女の歌など「どうでもいい」ものだったのかもしれませんね・・・
その意味で、"Meet Me With Your Black Drawers On" が重要な作品であったことは確かでしょう。
ただし、そのほぼ五年後、Professor's Blues Review を率いる Professor こと Eddie Lusk の 1992年の早過ぎる死亡によって、いったんブルース・シーンから姿を消していましたが、 Myspace の本人のページによれば、1995年に、Chicago 第35区の Vilma Colom 市会議員のもとで働くようになり、1997年、Spaulding and Schubert 地区の理事長(委員長?原文では president )に選出され、1999年には the Spaulding and Schubert Community Center の建設に際し彼女はその運営に関与するようになり、 5 才から18 才までの子供たちのためのアフター・スクール・プログラムを管轄するようになりました。
そのアフター・スクール・プログラムには音楽も含まれていますから、その部分では「ふたたび」音楽に関わりを持つようになった、と言えるのかもしれません。
かって彼女をヴォーカリストとして迎えたこともある Steve Freund の 2004年 6 月のインタビューでは音楽活動に復帰した、という発言があるのですが、それがこのアフター・スクール・プログラムでの音楽セクションでの活動なのか、それともクラブシーンなどへの復帰も意味するのかは不明ですが、現状ではライヴ・スケジュールなどのリストでの登場は検索しても出て来ないので、かってのような商業的な意味での音楽シーンへの噴きではない可能性も強そうです。
現在、そのような地域に根ざした活動に力を注いでいるようなので、ブルース・シーンへの復帰はカンタンではないのかもしれませんが、なんとか戻ってきてくれないかなあ。たった二曲しか聴いたことないけど、かなり気に入ってます。
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# by blues-data | 2012-03-16 10:15
Etta James
とってもシンプルな二つのコード、Aと Bmの間をゆっくりと「さすらう」その様が、まるで「はかない一婁の望み」と「やはりダメかも、という暗い予感」の間で揺れ動く彼女の心を表しているかのように思えて、息が詰まるような「切なさ」を感じさせる名曲 I'd Rather Go Blind。
1967年、Muscle Shoalesで録音されたこのナンバーは、いささかセンチメンタルに過ぎる、と言えなくもないですが、ま、曲の内容からいっても、このウェットさ、そしてヘヴィーさは必然だったのでしょう。

もう終ったのが判る
それはあなたが彼女と語りあっているのを見たときから
わたしの魂の奥底で「泣いてもいいのよ」と声がする
それはあなたが彼女と連れだって店を出ていくのを見たとき
ああ、もういっそ目が見えなければよかったのに
あなたがこうしてわたしの前から去って行くのを見るくらいなら・・・



彼女の本名は Jamesetta Hawkinsと言います。その Jamesettaを Johnny Otisが 1950年代半ばに前後に分割し( James + etta)それを前後入れ替えてステージ・ネームとしたものが Etta Jamesというワケ。
1938年 1月25日に Los Angelesで生まれました。
母の名は Dorothy。でも父については、明らかではありません。そのヘンの彼女の出生にまつわるストーリィについては The HEART of SOULというサイトの http://www2.tba.t-com.ne.jp/mtdy/etta.htm でとても詳しく採り上げておられますので、もしよろしかったら、そちらもどうぞ。

さて、それはともかく、その彼女は僅か 5才にしてゴスペル歌唱の才能を発揮していたそうですから、これは「天才」と言ってもいいでしょう。
Saint Paul Baptist Churchで歌う彼女は、すぐに、その声量や表現力の豊かさから注目を浴び、the Echoes of Edenという聖歌隊に属するからわら、James Earle Hines( MSNの Etta James Bio.からジャンプする James Earle Hinesは「まったく別人のジャズ・ピアニスト Earl Hines」!Professor James Earle Hinesはゴスペル・グループ the Goodwill Singersを率いる「声楽」のひと)の指導を受け、その才能を開花させています。

1950年には San Franciscoに移り、女性三人からなるグループ、the Creolettes(クレオールの女性形を複数にしたもの)を結成し、ハンク・バラードのWork With Me Annie に対するアンサー・ソング、Roll With Me Henry を吹き込みます。
これに注目した Johnny Otisによって、この曲はThe Wallflower と改題され、1955年に実に 4週にわたって R&Bチャートの首位を独占したのでした。同時に Jamesettaから Etta Jamesへの(ときには間に Peachを挟んで、Etta "Peach" Jamesとも呼ばれたようですが)改名もなされています。
つづいて同じく Modernに吹き込まれたGood Rockin' Daddy も R&Bチャートの 6位まで上り、彼女の知名度は猛烈な勢いで上昇いたしました。

また、このころには Johnny Otis御一行様とのツアーにも出ており、当時の Bo Diddleyや Little Richard、Nappy Brownに Johnny "Guitar" Watsonなどとも共演していたようです。
結局、Modern Recordsとの関係は 1958年まで続きました。

1960年に彼女は Chessのサブ・レーベル、Argoと契約し、すぐさまかなりな勢いで吹き込みを開始します。当時のボーイ・フレンドだった the Moonglowsのリーダー Harvey FuquaとのデュエットやAll I Could Do Was Cry などが次々にチャート入りする状態で、Leonard Chessはさらに彼女の音に工夫を凝らし、オーケステレーションを導入したり、あるいはゴスペルに振ってみたり、ついには 1963年の Nashville、New Era Clubでのライヴ・アルバムRock the House までリリースし、彼女の絶頂期とも言えるひと時代を作り上げたのでした。

そして 1967年、また別なポテンシャルを求めて Rick Hallの Fame Studioに入った彼女が生み出したのがTell Mama と、この曲、I'd Rather Go Blindだったのです。

それから後のことなども、前述の The HEART of SOULに詳しくアップされております。いささかドラマチック過ぎる(?)あたりは、そちらにお任せいたしましょ。

2012年 1月20日、彼女は永眠しました。

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# by blues-data | 2012-01-25 11:39
Maxwell Street Jimmy Davis
1925年、Mississippi 州 Clarksdale 生まれ。本名は Charles Thomas なので、これはもうほぼ「改名」に近いかも。
初録音は Sam Phillips の Sun に 1952年 8月、Cold Hands / 4th and Broad を実名の Charles Thomas 名義で行っています。この録音は Chess と JIm Bulleit の Bullet レーベルに売られています。ただし、売られはしたものの発売には至らず、未発表のままとなっていますが。
1964年には二曲を吹き込み、それは Testament に収録されて発売されたそうです(未確認)。また初のフル・アルバムは 1965年に Elektra から。
その他 Takoma や Sonet などにも収録された曲があるようですが、オーストリアの Wolf からの Chicago Blues Session Volume 11( 1989年)が知られているようです。この Wolf といい、Sonet といい、どちらかと言うとヨーロッパでむしろ人気のあるブルースマンだったのかもしれません。
ただ、彼の場合、その活躍の場はレコードよりも、もっぱら Maxwell Street での路上ライヴにあったようですが。
Chicagoに出て来る以前には Silas Green や Rabbit Foot Minstrels で各地を旅し、1946年には Detroit、その後また各地を旅して、結局は Chicago に落ちつき、以後、生涯の殆どをそこで過ごしました。
一時期、Maxwell Street に小さなレストランを開いたこともあったようですが、それでも路上でのパフォーマンスは続けていたようです。
1995年12月28日、心臓発作で死亡。




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# by blues-data | 2009-11-16 20:20
Eddie Bo
Eddie Bo として知られる Edwin Joseph Bocage が New Orleans の Algiers* で生まれたのは、1930年の 9月20日のことでした。

* ─ Algiers: New Orleans の、Mississippi 川がメキシコ湾に注ぐ河口の南側(現地では West Bank と称するようですが)に位置する。この「アルジェ」という名前そのものは、おそらくフランス領だった期間の名残(ご存知でしょうが、1830年にフランス軍がアルジェリアを占領するために上陸した「最初の」地点が、同国の首都であった Algiers =アルジェでした。以後、アルジェリアはフランスの海外県として 1962年の独立まで支配されることとなる・・・ )と思われますが、一説ではアルジェリアでの戦闘から帰還した兵士たちが、洋上から New Orleans に接近していく際に、その地区の海からの眺めがアルジェにとてもよく似ていたから、以後、そう呼ばれるようになった、とも言われています。

Eddie Bo の家族はミュージシャンとして知られる数々の名前を輩出していますが、表向き(?)の「昼の」職業としては、船大工だったらしい先祖に始まり、煉瓦職人、大工、石工という数々の建築関係の仕事に就いていたようです。
そのような Day jobs のかたわら、夜ともなると彼のいとこ(ほんとうに「いとこ」の場合もあるが、アメリカ黒人たちの言う cousin は、単に「血縁」がつながっている、という意味でも使われている場合が多いらしいので注意)である Henry**、Charles*** に Peter**** などは「音楽」の世界で重要なプレゼンスを発揮する存在でもありました。

** ─ Henry Clay Bocage は 1894年の 3月に(日付は判りませんでした)Algiers 地区で生まれ、一部の資料では Henry、Charles、Peter の三人が兄弟である、としているケースもありますが、大半は Henry だけが(兄弟のように育ったかもしれないけど)「いとこ」である、としています。
Armand Piron( Armand John "AJ" Piron: ヴァイオリン奏者。1888-1943。1912年には Olympia Orchestraを率いていた。初期の Clarence Williamsのビジネス・パートナー)の Piron's New Orleans Orchestra では、トランペットの Peter Bocage とともにバンジョー奏者として在籍していた。没年不明・・・

*** ─ Charles Leopard Bocage は 1900年 1月14日に New Orleans の Algiers 地区で生まれています。Charles と Peter は「兄弟」で、Henry は「いとこ」とされていますが、Henry も兄弟同然にして育った、と。
Charles も吹奏楽器をこなしたのかもしれませんが、バンジョー、ギターのプレイヤーとして、あるいはヴォーカリストとして知られているようです。Armand Piron の楽団のあと、兄である Peter Bocage が始めた Peter Bocage and The Creole Serenaders でも一時バンジョー奏者として在籍していました。
1963年11月 4日死亡。

**** ─ Peter Edwin Bocage は 1887年 7月31日に Algiers 地区で生まれています。
そこでの彼はまず最初にヴァイオリンの演奏から始まって、マンドリン、ギター、バンジョーと弦楽器をこなし、さらにはトランペットなどの吹奏楽器に辿り着いたようですが、やはり最も評価されたのは、そのトランペッターとしての功績だったようです。
10代ですでに父とともに近所のパーティなどで演奏をしていたようですが、すぐに Storyville 界隈のさまざまなグループでも演奏に加わるようになりました。20代になると自ら率いる the Superior Orchestra をスタートさせ、コルネットには Bunk Johnson を据えています。
その後、自身も 1910年には Frankie Dusen の Eagle Band にヴァイオリン奏者として参加し、さらに数多くのバンドを経験し、その間に出会った多くのミュージシャン ─ Buddy Bolden、Freddie Keppard、King Oliver、Louis Armstrong たちの音楽に触れ、さらにスキルをアップさせて行ったのではないでしょうか。1923年には再び Piron's New Orleans Orchestra に復帰し、Clarence Williams の助力で実現した New York での吹き込みで、彼自身の作になる Bouncing Around が Okeh 40021-A として、さらに Columbia には Bright Star Blues( 99-D )と Sad Bustin' Blues( 14007-D )の二曲、さらに Victor には Mama's Gone, Goodbye( 19233-A )、New Orleans Wiggle(19233-B )の二曲が、そしてその二年後、New Orleans に戻って録音された Red Man Blues(19646-A )、その別テイク(19646-B)が、これも Victor に残っています(このときのメンバーには、バンジョーの Charles Leopard Bocage も参加していました。
その後、保険業務の仕事を始めたりもしていますがやはり楽団から離れることはせず、1960年代に入って Riverside からアルバム『 Loves-Jiles Ragtime Orchestra/Creole Serenaders 』などもリリースしています。
1967年 7月31日、New Orleans で死亡。


さて、本題に帰って Eddie Bo です。
Algiers 地区と、9th Ward と呼ばれる、コミュニティとしても機能し、住民による「ある種の自治活動」によってひとつの文化圏を形成していた、とも言われる地区(余談ですが、「あの」ハリケーンではかなりな被害を受けたようですけど)で成長したようですが、なにしろ身内に Henry、Charles & Peter というミュージシャンがいたワケで、そんな環境に影響を受けないワケはなく、おそらくそのスタートは、かなりジャズに接近した位置から始まったのではないでしょうか。
また、それらのいとこたちばかりではなく、彼の母からしてが、あの Professor Longhair みたいなピアノを弾いていたそうですから、それも彼の音楽的素養の一部を形成したのかも。

高校( Booker T. Washington High School )を卒業後、軍務に就いていますが、生年から追って行く限りすでに第二次世界大戦は終結していたハズなので、おそらく実戦の経験をすることなくブジに(?)除隊したものと思われます。
New Orleans に帰ってきた彼は Grundwald School of Music に入学し、そこでは理論的な裏付けとなる音楽理論などの他、あらためてピアノを学び直しているようで、その当時の彼は、ロシアの有名なクラシックのピアニスト、Vladimir Horowitz に傾倒していたようで、一方では Art Tatum や Oscar Peterson にもココロ動かされていたようで、そのへんは ボキャブラリーの豊富さにつながって行くのかも。
もっとも、意外とブルースのミュージシャンとの交流も多かったようで、LaSalle Street の Dew Drop Inn などで演奏していたようです。
もっとも、やはり基本はジャズだったようで、 Spider Bocage Orchestra( Spider Bocage ってのは 彼の当時の「芸名」だったようです)という名前のジャズの楽団も率いていました。
しかし、現実モンダイとして、ジャズは「カネになる」とは言い難かったようで、もっとカネになると思われる R&B にシフトし、Earl King や Guitar Slim、Lloyd Price に Ruth Brown、さらに Big Joe Turner に the Platters などのサポートとしてツアーを経験もしています。

また Eddie Bo は、およそ半世紀にわたる音楽活動を通じ、かなりな数の楽曲を作り、かつリリースしてきました(彼の初レコーディングは 1955年の ACE への吹き込み)。
そしてプロデューサーとして Irma Thomas に Robert Parker、Art Neville、Chris Kenner などに関わっていますが、彼の楽曲で有名なものとしては、1961 年の 彼自身の初の(そこそこ?)ヒットとなったナンバー
Check Mr. Popeye に続く曲、I'm Wise が Little Richard によって Slippin' & Slidin' として大ヒットしています。
他にも Etta James には My Dearest Darling、Tommy Ridgley には In the Same Old Way を提供しました。
やがて 1969 年には自作のナンバー Hook and Sling で R&B チャートの 13位にまで到達。
このあたりには「ニュー・オーリンズ・ファンク」というジャンルに属すると見られるようになっていたようです。
彼がレコーディングしたレーベルはさすがに多岐に渡り
ACE / APOLLO / ARROW / AT LAST / BLUE-JAY / BO-SOUND / CHECKER / CHESS / CINDERELLA / NOLA / RIC(なんと、Eddie Bo は家業?の大工の腕を活かし、ここのスタジオの建設にも関わったのだそうです)/ SCRAM / SEVEN B / SWAN など

となっています。1950年代から、実に半世紀の長さに及ぶ彼の音楽活動ならでは、でしょうね。
もっとも、彼とても、常に音楽シーンの第一線にとどまっていられたワケではなく、 1970 年代には一時、ミュージック・シーンから姿を消したかのように思われたこともあったのですが、二枚のアルバム、"Another Side of Eddie Bo"、"Watch for the Coming" で帰ってきました。
1980年代以降の彼は、Dirty Dozen Brass Band とともにレコーディングしたり、Willy DeVille と共演したりと活動の場を広げ、ブルースしか判らん、というかたでも、それなら知ってる!と言いそうな(え?知らんて?)Raful Neal とも共演してるんですよね。

ところで、あのハリケーンですが、ちょうど彼がパリにツアーに出ている間に自宅やスタジオが「やられて」しまったそうで、帰ってきた彼はさっそく得意な建築技術でもって、「自力で」修復したそうです。いいなあ、そうゆう腕がある、ってのは!

そんな彼も 2009年 3月18日に、心臓発作により死亡いたしました。


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# by blues-data | 2009-04-11 18:40
Oett "Sax" Mallard
Roosevelt Sykes の Delmark での Feel Like Blowing My Horn でバッキングしているサックス・プレイヤー、Oett "Sax" Mallard。
そのサックス・ソロなんて、それだけで充分「聴いた」っつう実感があるほどのもんだし・・・などと紹介したほど、けっこうプレゼンスがあります。
純粋なブルース畑のひと、とは言い難いとこですが、A.C.リードなんかより「サックスとして」素晴らしい!って気がいたします。

Oett M. Mallard(ミドル・ネームの「M」がなんの略かは不明です)は、1915年 9月 2日、Chicago で生まれています(ただし異説もあり、それでは10月 2日、と)。
Chicago Defender紙によれば、彼は 6才にして早くもショッピング・バッグを売ることでカネを稼ぎ始めた、のだそうですがホントでしょか?10才では靴磨きに転向したんだって。
それはともかく、彼が音楽を始めたのは、これもそーとー早かったらしく、僅か16才で自分のサックスを手に入れてるんですよ。まだ高校在学中でしたが、すでに Captain Walter Dyett っつーバンド・リーダーのもとで音楽を学んでおったようですね。
かって、この日記の他のブルースマンのとこで、サックスを欲しがるムスコにハープを与える、なんてえハナシが出てきておりましたが、それもムリはないのでございまして、楽器として、最低の基準をクリアする製品っての、サックスだとメッチャ高いんですよ。
お馴染みの Sears なんて通販で買ったよなワケ判らんメーカーのギターでエグいブルースを演奏するおっちゃんが、ディープ・サウスのジューク・ジョイントにゃイッパイいそうですが、そのギターの値段のおよそ 10倍以上するのがザラで、ハープだったらそりゃもー 100本は買えちゃいます。
ムスコがいきなり、とーちゃん、ポルシェ買ってよ!なんて言うのと同じくらい(あ、当時の南部の標準的な黒人の家庭のバヤイね)、そりゃもーテメエなに考えてやがる!てなクラスの楽器だったのですなあ。

しかし、コツコツと貯めたおカネのおかげでか、自前で楽器を揃え(!)、ブジ高校も卒業出来たようで、すぐさま、彼は「クラスメイトだった」 Nat "King" Cole とともに、2年半に及ぶアメリカ国内およびカナダまでまわるツアーに出ています。
この時期、それらのツアーを打ったプロモーター Miller Lyle の娘が Sax Mallrd の妻となったのでございました。
・・・というのは「あの」All Music Guide のバイオによるものなのですが、さて、Miller Lyle?その Biography のその名前のリンクで飛ぶ先は「 2003年にアルバムをリリースした Lyle Miller 」であって、そんなプロモーターの紹介なんぞ、これっぽっちもされておりません。第一、その Miller Lyle っての、おそらく Miller & Lyles* のことなんじゃないの?

* ─ Miller & Lyles; 1887年 4月14日、Tennessee 州 Nashville 生まれのコンポーザーかつシンガーの Flournoy E. Miller と、1883年 7月28日、Tennessee 州 Jackson 生まれでこれもソングライターかつヴォードヴィリアンの Aubrey Lyles が「組んで」Miller & Lyles として Shuffle Along などの興行を打っており、1932〜1933年にも再編している。

また Nat "King" Cole は 1919年の生まれで、4年も違うふたりが「クラスメート」になどなるものでしょうか?
All Music Guide ではプロモーター Miller Lyle がツアーの一行のメンバーたちからは「嘘つきミラー( Miller Lyin' )」と呼ばれており、ギャラを払わないので有名だったから、Sax Mallard はその腹いせに彼の娘を奪って妻にした、などと書かれてますが、さて、どこまで信用して良いものやら?
ココロあるブルース・エンスージャストたちの間では All Music Guide は「ウソ・誤記・事実誤認」だらけ!っちゅうことで有名ですからね。
ちなみに「信頼できそうな」サイト、http://home.earthlink.net/~v1tiger/saxmallard.html によれば、Shuffle Along に加わっていたことは記載されていますが、Nat Cole も、娘を奪ってきた、なんてハナシも載っておりませんでした・・・

次いで彼は Kenny McVey 楽団に入り、Colorado 州 Denver の Tivoli Terrace から毎日放送されていた 30分番組二本に関わって行き、1936年には Lionel Hampton に彼のアレンジメントを買ってもらっています。
そこから Chicago に戻った彼はミュージシャンの連盟に加盟しました( 1937,Aug.5 )。この時期から第二次世界大戦までの間に Fats Waller、the Deep River Boys、the Original Ink Spots、the Andy Kirk Band、the Mary Lou Williams Quartet などを経験して行きますが、一時的には Duke Ellington にも顔を出しておりました。
1942年には Chicago で 12名編成のバンドのメンバーとなっています。
このバンドはドラマーの Floyd Campbell(1901-1993 )によって率いられ、Indiana 州 South Bend や Indianapolis から Wisconsin 州の Milwaukee あたりを中心に演奏活動を行っていました。当時のメンバーは Louis Ogletree-tp、Louis Alahard(資料によっては Acerhart としているものもあります)-tp、Al Wynn-tb、Herman Barker-as & ts、Oett "Sax" Mallard-as & cl、Al Washington-ts、Nat Walker-p、Les Corley-eg、Earnest Smith-b、Floyd Campbell-d、Carrol Tucker-voc. となっていますが、Floyd Campbell の、より小さなクラブなど向けの小編成のコンボの方には入っていないようです。
続いては Duke Ellington and his Orchestra に参加し、1943年 4月 3日、New York、Hurricane Restaurant での Take the "A" Trainなど(スェーデンの Azure LP 431 )で録音を残しています。(ま、Take the "A" Trainだけで、他に Rarities 56、Jazz Anthology JA5124 に別テイクもあるんですが)
第二次世界大戦での軍務を終えた1946年には Chicago の Armand "Jump" Jackson のコンボのメンバーとなり 2月~ 8月には Roosevelt Sykes のバックとしてレコーディングしています(本来は RCA Victor、そして Columbia への録音だったようですが、現在では Document BDCD 6048 などに収録されています。ただし、前述の All Music Guide では、"Jump" Jackson のコンボとして、ではなく「 Roosevelt Sykes and his Original Honeydrippers のメンバーとして録音に参加」としています)。同年には Tampa Red や Big Bill Broonzy(この 1946年末には Big Bill Broonzy's Rhythm Band のメンバーとして Columbia に I Can Fix It と Old Man Blues を吹き込み ─ Columbia #37502。なお、この Rhythm Band のメンバーは他に Johnny Morton-tp./ Bill Casimir-ts./ Charles Belcher-pf./ Ransom Knowling-b./ Judge Riley-ds. ) とも吹き込んでますが Aristocrat に接近し、それが Chess へのルートをつけたのかもしれません。また、Roosevelt Sykes が Specialty に The Blues Man 名義(!)で吹き込んだ際にも参加。
1947年には "Jump" Jackson のコンボとして Melrose Colbert、Arbee Stidham、Andrew Tibbs、Washboard Sam、さらにまた Big Bill Broonzy や Roosevelt Sykes のバッキングをこなし、さらに Eddie Boyd や Dinah Washington、Rosetta Howard などとセッション、また Dave Young のオーケストラのサポートに入って Dinah Washington の Mercury への吹き込みにも参加。
この 1947年にはその年末に「初めて自分名義での」レコーディングも行っています。Aristocrat への The Mojo と Let's Love Again の二曲で、ヴォーカルは Jimmy Bowman でした。
1948年には、ヴォーカルを Andrew Tibbs に変え He's Got Her And Gone( Aristocrat #1106 )を録音。バッキングでは同年の The Dozier Boys( She Only Fools With Me / St. Louis Blues ─ Aristocrat #3001 )、1949年の Grant Jones の Coral への、Arbee Stidham と Eddie Penigar の RCA Victor への、各吹き込みを行い、1950年には Al Benson の TV 番組のためのスタジオ・バンドにも参加しています。
1951年元旦、新生 Checker レーベルから Osie Johnson をヴォーカルに立てた自己名義のシングル、Slow Caboose / Let's Give Love A Chance ─ Checker #750 をリリース。( alt. ただしこのリリースは 1952年としている資料も存在し、ほとんどの資料では Checker レーベルそのもののスタートを 1952年としています。http://home.earthlink.net/~v1tiger/saxmallard.html がこれを 1951年としている理由については「不明」)
1952年の暮れ近くには Chance Records に Big Bertha と Lou Blackwell のバッキングで録音に参加。同様にバッキングとしては 1953年の Mitzi Mars の Roll 'Em / I'm Glad ─ Checker #773、The Coronets の Nadine / I'm All Alone ─ Chess #1549 と Baby's Coming Home / Should I? ─ #1553 も行っています。
その後も Guitar Slim、Earl Hooker とも共演してますし、数々のブルースのレコーディング・セッションに関わりました。
1970年の Delmark への King Kolax や Fred Below のバッキングが「公式には」レコーディングの最後のデータとなっています。

ただ、そのサックス・プレイは、かなり洗練されたテイストを持ち、クォリティも高いのですが「いわゆる」ホンカーたちのようなインパクトには欠け、聴く者の「血を沸かす」よりは「耳を傾けさせる」傾向の方が強いように思いますね。モチロン悪いことじゃないんですが。
その彼は晩年、Chicago Federation of Musicians の運営に関わっていたようですが 1981年の Blind John Davis のラジオ出演時に共演したのが最後に録音された音となっているようで、1986年の 8月に 70才でこの世を去りました・・・


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# by blues-data | 2009-02-03 10:22
Johnny Williams
"Chicago Boogie" barrel house bh-04 での表記上は Money Talking Woman。しかし、P-Vine のライナー内に掲載された実物の 78rpm SP、ORA NELLE 712B のセンター・レーベルの画像では「ハッキリ」と MONEY TAKING WOMAN と識別することができます。( 712B?じゃ 712A は?と言うと、Johnny Williams がメインの Worried Man Blues )
その Money Taking Woman は Little Walter と Othum Brown の "I Just Keep Loving Her" と同様に「いわゆる」シカゴ・ブルースなどというスタイルが完成するのに先駆けた、まさにバンド・ブルースへの里程標として重要な意味を持つ録音、と捉えています。そして、その曲で、マンドリンの Johnny Young のバックでサポートしたのが Johnny Williams でした。

その Johnny Williams ですが、そんな「ありふれた」名前のせいか、ケッコー同姓同名がいるようで、ついに 2万人を超えた!と豪語する ktate さんのブルース人名辞典ではやはりドラマーやらピアニストにサックス・プレイヤーまで登場しておりました。
もちろん、ここで採り上げておるのは Vocal & Guitar の "Uncle" Johnny Williams で、「必ず(とまでは言わないけど、たいていは)」Maxwell Street の、という接頭辞がつきそうな人物でございます。
その Johnny Williams が生まれたのは Louisiana 州の Alexandria、1906年の 5月15日でした。
ただし、家族で移動したのでしょうが、彼が成長したのは、そこではなく、Texas 州の Houston や、Mississippi 州の Belzoni などの地域だったようで、そこで彼の叔父が一緒に演奏をしていたとされる Charlie Patton をはじめ、Jim Jackson や Howlin' Wolf などの演奏にも触れて、そのあたりで彼の方向性は決まったのかもしれません。
10才あたりですでにブルースを演奏するようになっていたようです。

そんな彼が Chicago に出てきたのが 1938年のことでした。
最初からその仕事に就いたものかどうかは判りませんでしたが、後に「縁」が出来る Planet と Marvel というマイナー・レーベル( Chester A. Scales: 1914-1997 のレーベル)があったノースサイド近辺の Sedgwick の Oscar Mayer のソーセージ工場に職を得て、毎週日曜は朝から Maxwell Street へでかけ、そこで共演者を探して、たとえば Johnny Young などとも出会ったものでしょう。
ただし、その初期にはそこに Snooky Pryor も加えたトリオで演奏することも多かったそうですが、1947年に ORA NELLE を所有する・・・なんて言うと実業家みたいですが、Bernard Abrams (自らの小さな電気店 Maxwell Radio, TV, and Record Mart の店舗の奥の一室をスタジオ代りに録音をしていたようで、一説では彼自身がそれほどブルースに興味があったワケではない、とも言われていますが、その動機はなんであれ、彼のおかげでプリ・バンド・ブルース期と言ってよい歴史の一コマが録音として残ったのですから、まことにありがたいことでございます)に声を掛けられて、録音に臨んだときには Johnny Young のマンドリンと二人のコンビとなっていました(ただしこのあたりの前後関係には多少の混乱もあるようで、最初は Johnny Young & Johnny Williams のコンビで、後に Snooky Pryor が加わった、としている資料もあるのですが、そこらは確認がとれませんでした。確かに録音史的には「それ」は正しいのですが、それ以前に街頭でやったことがない、と断言できるひとはたぶんどこにもいないでしょう)。
そして ORA NELLE 712 では、Johnny Williams がヴォーカルをとった Worried Man Blues が Aサイドとなったのですが、やはりワタシは Money Taking Woman のほーが・・・

その Johnny Williams は、1959年にブルース・ミュージシャンから「足を洗い」バプティスト教会にもっぱら身を置くこととなりました。1968年の Little Walter の葬祭を司ったのが Rev. Johnny Williams だった、と言われています。また 1975年の Hound Dog Taylor の葬儀では弔辞を読んでいます。
Maxwell street の伝説を生きた Uncle Johnny Williams は、2006年 3月 6日、ほぼ一世紀にわたる長い生涯を閉じました。


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# by blues-data | 2008-08-02 22:34
Ervin Charles
1932年 1月 3日、Louisiana 州 Port Barre で生まれる。
おそらく 10代の前半からすでに継父だった George Andrus から手ほどきを受け、ギターを弾くようになっていた、と言われますので、このアルバム、Alligator AL-4866 Lone Star Shootout での三人( Lonnie Brooks、Phillip Walker、そして Long John Hunter )よりも早い時点からスタートしていたことになります。
1952年には家族とともに Beaumont に移って Long John Hunter と同じ工場に務め、すぐにバンド、the Hollywood Bearcats をスタートさせています。メンバーはその Long John Hunter と義兄弟の Roy Stelly(ドラム。残りふたりが HouseRockers みたくギター二本でベース・パートとギター・パートを分担)。
ただし 1955年には Long John Hunter が El Paso に移るために抜けてしまったため、Ervin は Big Sambo こと Sam Young のバンド、Big Sambo and the Housewreckers に参加しています。ところが今度は Sam が西海岸に行ってしまい、そこで the Nite Riders と一緒にやるようになりました。
1960年代末ころに Sam Young が帰ってきたので Housewreckers を再開しますが Big Sambo という名前をやめ( Sambo とは、特に南米で、現地の被征服民であるインディオと、これまた使役のためにアフリカから奴隷として連れて来られた黒人との間に出来た混血をさす言葉として使われており、スペイン、あるいはポルトガル人を頂点とする人種的ハイアラーキィのなかでも「最下層」の賤民扱いを受けた層に対する「蔑称」という性格が強い。ちびくろサンボはインドを舞台とした童話であっても、「サンボ」を「非ヨーロッパ人」という意識で命名されているのであれば、それは「蔑称」である、ということで排斥の対象となった。当時の Sam Young あたりは黒人に対する「愛称」くらいに勘違いして名乗っていたのかも・・・)、Sam Young and the Soul Lovers という名前で活動を開始しています。
そのバンドでは 1972年に初レコーディングした Funky Booty が地域限定ではあったけどかなりなヒットとなり、一気に知名度を上げた Soul Lovers はクラブ出演を増やしています。

1974年、Ervin は突然ダンプカーを購入して(!)Charles Trucking(日本で言うとこの「斉藤運送」みたいなもんか?)という事業に乗り出しました。
それでもバンドでの活動は並行していたようですが、1980年あたりから Sam の健康に翳りが見られるようになるとバンドでの活動は減速し、1983年の Sam の死亡でついに Soul Lovers は活動を停止してしまいました。
Ervin は 1985年にふたたび Nite Riders を招集し、活動を再開しています。
1997年のヨーロッパでのツアーの後、テキサスに戻った彼は、プロデューサーである Tary Owens に諮って、テキサスゆかりのブルースマンで作るアルバム Lone Star Shootout を提案したもののようです。
ただし Ervin Charles 自身は、そのアルバム Alligator AL-4866 Lone Star Shootout の録音に参加はしたものの、翌2000年の 4月 1日に、完成したこのアルバムを聴かずに亡くなってしまいました。


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# by blues-data | 2008-01-08 10:51
Long John Hunter
John Thurman Hunter は 1931年 7月13日に Louisiana 州 Ringold で生まれ、ただしおそらく 8才のころと思われますが Arkansan 州の農園に移り、以来、24才になるまで、そこで週に七日、朝から晩まで農作業に勤しみ、またまわりにもなんの楽しみも無い生活を送っていた、とインタビューでは語っています。
それによると彼の父は少しばかり( Lightnin' Hopkins みたいな)ギターを弾いたようで、ただ、その時はそれが彼自身にあまり影響を与えていないようです。当時は音楽といえば放送で流れてくる C&W が圧倒的で、Blue Moon over( of じゃなかったっけ?)Kentucky なんて曲を歌っていた、と。
ただしインタビューでは、ギターは自習した(ほとんど耳から覚えたものを)としているのですが、それが Arkansas の農園時代にすでに始めていたのか、あるいはそこを出てからのことだったのか、については言及しておりません。
ま、Arkansas では、父の弾くギターとラジオ以外、まったく音楽には触れていなかった、という発言はありますから、それ以降のことではないか、と思うのですが。
しかし、本人は 24才のときに農園を出た、としていますが、一部の資料では、彼が Texas 州 Beaumont(およそ Houston から 2時の方向に 100km弱はなれた Louisiana との「州境」に近い町)に来たのを 1947年としています。それが正しいとすると 16才で家を出たことになり、だいぶハナシが違いますねえ。そしてそこから彼のギターのキャリアが始まったのだ、と。
真相ははたしてどうだったのか(何度も言っておりますが、ワタクシ、Screamin' Jay Hawkins 後遺症のせいで、「本人がそう言ってる」なんてのを「はいはい」と素直には信じられない、っちゅー呪われたカラダになってしまったのでございますよ)多少は気になるところですが、まあ、はっきり言って、そこらはどっちでも彼の音楽性にとっちゃ、さほど重要ではないかも、っちゅう気もしますね。
ま、Alligator の Biography ではまたちょっと違ってて、ギターを始めたのが 22才のときから、としています。

で、なにはともあれ、1954年のこと、なにやら Texas box factory っちゅうから製函工場に勤めていたんでしょか、Beaumont には 1949年に出てきて、その工場での同僚であった Erving Charles に連れられて、これも Beaumont の Raven Club に行き、そこで観た B.B.の演奏に衝撃を受け(?)二人はバンドを結成しています。
ドラムには Charles の義兄弟の Roy Stelly を迎え、住んでいたのが Beaumont の Hollywood 地区だったことから the Hollywood Bearcats と名乗り、そのヘンでは有名なバンドとなり、Phillip Walker や Guitar Junior こと Lonnie「ええ仕事しまっせ、ぐふふ」Brooks、そして Lonesome Sundown などとも交流しておりました。ただし Long John Hunter は Beaumont から Houston に出てしまい、バンドでは後釜にサックスの James Young を入れて、さらにそのグループ名も Charles Sheffield をヴォーカルに迎えて the Nite Riders(ただし James Young をフロントにしたときは Big Sambo and Prince Charles )と変えて活動を続けて行く・・・
どうやら Long John Hunter の音楽的なセンスはすぐさまそのへんでは注目されるようになったらしく、早くも同年には Duke でシングル盤を吹き込んでいます。
Crazy Baby と She Used To Be My Woman のカップリングで、それがそのまま全国的なヒットにまでは至りませんでしたが、その売れ行きは、「音楽で喰っていく」ことを決意させるには充分な程度ではあったようで、1957年には彼はさらにいきなり 1000km以上も西(う~ん、さすがアメリカは広い!そんなに離れてても同じ州内とは・・・実際には Houstonからは 10時の方向になる)に向かって Texas 州 El Paso に移り住み、国境を超えて Mexico の町 Juarez の Lobby Bar に出演するようになり、本人が言うには「最初の 5年間は毎週 7日、次の 5年は週 5日演奏してた」
まあ、そこの客ときたら、「かなり」ものスゴいのばっかりだったようですが、そんな場で「鍛え」られたんでしょかね。
そんな場で演奏をし続けていることでも有名になってきた彼は、活動の幅を広げ(?)かなり多くのブルースマンのオープニング・アクトを努めたり、共演したりもしているようで、インタビューでは特に Albert Collins と Clarence "Gatemouth" Brown の名前を出しておりました。

1961年から 1963年までの間に Long John Hunter は Yucca レーベルにシングルを録音しています。それらはいずれもローカル・ヒットの域を出なかったようですが、本人は Juarez にいるかぎり最恵待遇を受けて「王様(?)」でいられたワケですから、あまりがっついていなかったんでしょう。
しかしその Juarez での彼の王国は Lobby Bar の閉店によって終わりを告げ、彼はふたたび El Paso に帰ってきました。
そのあたりから Texas 州の西半分をメインとしたブルース・サーキットを回るようになり、1985年には Boss レーベルに彼にとって初のアルバムを吹き込んでいるようですが、それのタイトルなどは不明です。
続いては Spindletop レーベルから 1993年にリリースした Ride With Me、これが Rolling Stone誌をはじめとする絶賛を浴び、一躍、彼は有名に・・・なりかけたとこで、なんとその Spindletop が倒産・・・

で、ケッキョク、彼が「まさに」世界に羽ばたくこととなったのが、Alligator の AL-4839、Border Town Legend だった、というワケでございます。
その前の Ride With Me もケッキョク後から Alligator によって再発されてはおるのですが。
あ、そうそう、Long John Hunter においてかれた(?)Erving Charles ですが、その後 Barbara Lynn のサポートをしたり、ジョニー&エドガーのウィンターズをサポートしたりと結構カツヤクしておりますが、その活動はあくまで Beaumont に軸足を置いており、1997年の Blues Estafette ではかっての仲間だった Long John Hunter、Lonnie「ええ仕事しまっせ」Brooks、PHillip Walker らと再結集しております。


reserched by Othum: Blues After Dark


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# by blues-data | 2008-01-08 09:48

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