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Memphis Slim
この Memphis Slim、実にまああちこちに登場されておるんですね。
Robert Nighthawkのを始め、Little WalterFreddie KingMatt MurphyWashboard WillieJazz GillumBrewer Phillipsなどのとこでそれぞれ交流があった、一緒にやった、知りあった、なんて形で登場しておるのでございますよ。
もちろんそれ以外にも Big Bill Broonzyやサニー・ボーイなどとの交流もありましたし、なかなか隅におけない存在ですね。

John "Peter" Chatmanは 1915年 9月15日(あ、数字が 1と 5と 9しか使ってないのね)に、そのステージ・ネームどおり Tennesse州 Memphisで生まれています。
まさにブルースへの道を選ぶとしたらうってつけの土地( Tokyo-Blues: http://www.tokyo-blues.com の Blues Jokeにも、「ブルースマンの資格」のひとつに「メンフィスで人を射ち殺してる」が挙げられてましたなあ)で生まれ育ったワケで、幼少期あたりのことはあまり判りませんでしたが、いつしかピアノに興味を持つようになり、それも Roosevelt Sykesがお気に入りだったようです。そしてこの頃 Robert Nighthawkとも出会っているハズ。
1937年には Chicagoに移り、1939年には Okehへのレコーディングを経験しています。・・・と各種の資料ではなっていますが、ちょっと待っちくれい。Okehのレーベル名は 1935年に一旦消滅しており、コロンビアによって再開されるのは 1940年のハズじゃなかったっけ?というツッコミを入れるあなた、さよう、良くベンキョーしておられますねえ。
Too Much Storiesで触れたとおり、1926年11月11日に Columbiaに買収され、それでもレーベル名は使用され続けていたのですが、1934年に、その Columbia Recordsともども ARC-BC( American Record Company/ Brunswick Record Company)によって買収されてしまいます。
そして、それによって(合理化の一環として?) 1935年には一旦 Okehというレーベルは地上から消えてしまったのでした。
しかし、その ARC-BC自体もまた 1938年に William Paleyの the Columbia Broadcasting Systems(そ!お馴染みの「 CBS」でげす!)によって買収されちゃったのねん!で、ハナシはちと遡るけど、1931年に ARC-BCに買収されてた Vocalionが Okehのかわりみたいな存在だったワケです。それが CBSによる買収後、整理されてしまうこととなり、それじゃ、ってんで「復活させられた」のが第二次(?) Okehレーベルってワケ。

つまり、1939年の録音当時はまだ混乱期(?)で、リリースされた 1940年には Okehの名が使われていた、っちゅうことじゃないでしょか。
でもその 1940年には Bluebird(いわば Columbiaからライヴァルの Victor陣営にチェンジ!)と契約してるんですよね。そしてそこからは Big Bill Broonzyとの共演の時代でもあります。
この録音は 1940年10月30日、シカゴの Aスタジオで行われたものです。

そして第二次世界大戦が終了する前の 1944年までは Big Bill Broonzyとの活動も続きました。
大戦が終結した後、彼は Hy-Tone Recordsに 8曲を録音していますが、それらは後に Kingからリリースされています。
1947年( alt.1949年)には自らのバンド the House Rockersを結成し、Lee Egalnickのレーベル Miracle RecordsにLend Me Your Love Rockin' the House の録音を開始しました。
翌1948年にはNobody Loves Me を吹き込んでいますが、この曲こそ、Lowell Fulsonから B. B. Kingへと受け渡されていったあの名曲Everyday I Have the Blues であることは、みなさまもご存知のことと思います。
他にもMessin' Around (with the Blues) など彼の手になる曲は多く、それゆえに彼は「ソングライター」としてのプレゼンスも持ち併わせたユニークな存在として「光り輝く」ことになるワケで。

ただ、レコード会社はずいぶん渡り歩いています。 miracleから Peacock→ Premium→ Chess→ Mercury→ United・・・すんごいですねえ。
あ、これって 1952年から 1954年までの僅か 2年間の変遷だったらしいんですが、この時期、彼は Matt Murphyという得難いギタリストを「発見し」およそ 1950年代を一緒に過ごしております。
その Matt Murphyを伴って Vee-Jay Recordsに少しの期間、腰を落ちつけていますが、1960年代に入り、ヨーロッパでの公演を経験したことが、彼の行く末を大きく変えることとなりました。
黒人であることをもって為される不当な差別から開放されたヨーロッパでのツアーは、彼に深い感銘を与えたらしく、結局1961年( alt.1962&1963年)以降、彼は Parisに定住してしまいます。
そしてヨーロッパでの彼は演奏ツアーに、またSOUTHSIDE REUNIONのように「わざわざ」アメリカから録音しに(ツアーのついでかもしんないけど)来てくれる仲間もいて、充分にそのメリット(?)を享受したもののようです。

1988年 2月24日、腎臓の疾患により死亡しました。



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# by blues-data | 2005-09-20 19:09
Melvin Taylor
Melvin Taylorは 1959年 3月13日、Mississippi州の Jacksonで生まれていますが、彼が 3才になった 1962年に一家で Chicagoに出てきていますので、三つ児のタマシイ百まで、ってので行くと、そのよーな重要な時期に Chicago Shockに見舞われてるワケですから、いやあ、ブルースマンとしては(あ、いちおー、ワタクシもそーなりたい、ってなイミでして、そこら、あましツッコまないでねん)実にうらやましいざます。
お母さんの兄弟で Floyd Vaughnってひとが彼にギターを教えてくれたようで、12才にしてすでに、クラブで他のミュージシャンに伍して演奏していた、っつうんだから、教えた叔父さんもスゴかったのかもしんないけど、本人も才能っちゅうもんに恵まれておったのでしょう。
どんなにいい先生についたって、本人にポテンシャルが無ければ「開花」することはないでしょうからね。
おおよその基本はその叔父さんから学んではいたようですが、スライド・プレイやフィンガー・ピッキングなど、様々な技巧は B.B.や Albert King、Jimi Hendrixなど、偉大な先達(?)たちの作品を聴くことで身につけていったみたいです。

ただ、彼の 10代は、ブラック・ミュージックに焦点を合わせていたワケではなく、ナイト・クラブや、ポップスのタレントのバッキングをつけるバンドでの活動がメインだったようで、1970年代のポップスがレパートリィだったといいますから、そのヘンも彼の個性の一部を作り上げているんでしょうね(余談ながら、そのバンド the Transistorsは後に彼の義理の父となった男がマネージメントしてたそうです)。その the Transistorsは 1980年代に入って分解してしまい、Melvin Taylorは Chicagoのブルース・クラブに帰ってきました。
ちょうど、それに合わせたかのように、Pinetop Perkinsが、ヨーロッパ・ツアーに同行してくれそうなギタリストを探していたので彼はそこに加わり、おかげで彼の名前は当初、ヨーロッパで知られるようになったのでした。
やがて、その名に目をつけて、彼にも(?)バンドを組ませて、完成したパッケージに仕立てよう、という動きが出てきます。つまり、the Transistorsを再結成させてブッキングを開始しよう、ってワケですね。そのメンバーはどうやらポップス・バンドのときのままらしいのですが、確認はできませんでした。
初期の二枚のアルバム Blues on the Run(1982)と Plays the Blues for You(1984)では、バックがその the Transistorsのようです。
その体制で B.B.や Buddy Guy、Santana(!)などのオープニング・アクトを務めたりもしていました。

つづいて、そのような興行サイドのニーズではなく、自らのヴィジョンを優先した Real Own Band、the Slack Bandを結成し、ウエスト・サイドのクラブ、Rosa's Loungeをベースに活動を開始しています。
そして 1995年の Melvin Taylor & the Slack Bandは商業的にも大きな成功になりました。
そして、2003年には Blues Yearで六本木ヒルズにも登場しておりますから、すでにご存知の方も多いことでしょう。



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# by blues-data | 2005-09-20 18:49
Maurice John Vaughn
Maurice John Vaughnは、1952年の 11月 6日、Chicagoで生まれています。
そしてサウスサイドの Juliet Low grade schoolに在学している時に、ドラム、ギター、そしてクラリネットを演奏し始め、スクール・バンドに所属しておったらしいのですが、やがてヒット曲のカヴァーばかり演奏するバンドに移ります。
そして 1968年からはジャズのトリオに入り、サックスに集中しました。その延長として、1976年には Chosen Fewという R&Bグループのサックスのパートで、Chi-Sound Recordsに初のレコーディングを経験していますが、やがてサックスでの仕事は無くなって行った、といいますから、う~ん、イマイチだったんでしょか?

そこで、彼は作戦を変え(?)今度はギターのほうに投入し始めます。
そしてブルースへ、と舵を切り始めたあたりで、ワタシが郵便貯金ホールで初めて見た(あ、前にも書いたけど、ホントはその日、最初に出てきた Johnny Shinesを先に見てるんだけど、その唄い方が例のヒョロ高い、語尾を伸ばすってもんだったんでスグにココロを閉ざしてしまい、それ故、まったく印象に残っておりません。でも、えどすりちゃまの Johnny Shinesのとこで指摘しておられる「私と同様に、1970年代以降の余り面白いとは言えない弾き語りのアルバムを聴いて先入観を持ち、それ以前の彼の素晴らしいブルースを敬遠している方も多いのではないだろうか。」というのはワタクシの場合は当てはまりまへん。
ワタクシはあくまでも、あの「唄い方」が、どーしても好きになれないのです。いくら遡ろうが、あの声を聴くともうそこでダウン、でございます)
ナマのホンモノのブルースマン、Buddy Guyのバンドに加わって来てた弟で、確かその時は赤いストラト持ったアフロ・ヘアーだった Phil Guy( 1940,4,28 -)が彼の前に現れ、当時の彼のバンドともども、バックとしてカナダ・ツアーに来ないか?と誘ったのでした。
おそらく、この Phil Guyとのツアーに参加するようになってからブルースに集中するようになったもののようですね。それが 1979年のことだったようで、やがて Philばかりか、その兄、Buddy Guyの JSPへのレコーディングにも関わるようになります。

1984年(異説:1986年)には自らのレーベル、Reecyを立ち上げ、アルバム Generic Blues Albumをリリースしています(これは 1990年、Alligatorから発売。ただし、資料によっては 1988年としているものもあります)。
この Nothing Left To Believeは、1987年の録音で、その後 Les Paul Signatureを抱えたジャケットの In the Shadow of the Cityを 1993年にリリース。
2001年には Dangerous Roadを Blue Suitからリリースしています。

あ、すっかり忘れちゃってましたが、この曲のバックでハモンド(たぶん、ね)で通奏和音みたいに流してる Allen Batts、目立たないけど、「いい」仕事してます。



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# by blues-data | 2005-09-16 23:34
Matt Murphy
Matt Murphyと言えば、Blues Bros.?それとも James Cotton?どっちを思い出しますか?
どっちの彼もいいですよね。パワフルに「ガツン!」と来るギターじゃなく、5.65mm高速ライフルの連射みたくシタタタタ・・・と畳み掛けて来る連続ワザがタマらん、ってえタイプのプレイがなかなか好きでした。

彼は1929年の12月 27日、 Mississippi州の Sunflowerで生まれました。
兄弟が 4人、姉妹が 2人、異母姉妹が 1人いたようですが、こと「兄弟姉妹に関してゆうと」まったく、英語ってヤツは「不完全な」言語だよな。
兄と弟じゃあ「まったく意味が違う」だろがあ!姉なのか妹なのかハッキリしろいっ!
おそらく 3、4才くらいのときに、ギターに興味を持ったようですが、「ワタシがギターを選んだんじゃない、ギターがワタシを選んだのだ」そうでございますよ。彼の家にはギターが一本も無く、知人の家で見掛けるなり魅入られたように目が離せなくなってしまい、見かねた(?)家人が弾いてもいいよ、と言ってくれたそうです。
兄弟姉妹の中で 4人ほどはギターを「チョビっと」弾いたそうですが、彼がギターをならったのは母の死がきっかけで、Mississippi州の Holly Spring近くにいた母の姉妹(ほら、ここでも姉か妹か判んないぞう!)のもとで暮らすようになったときに(その伯母 or 叔母のダンナ、Fletcher Perry もらしいけど)、知りあった(母の Sarah Richards、父の Spence Richards に Harry、Jim、Fred といった子供たちからなる) Richards 一家は全員ギターを弾いてて、中でも Fred Richards は彼にギターを教えてくれたのですが、それが 7、8才のころだったそうです。
ただ、Richards 一家の中でイチバン巧かったのは Jimだったらしく、その指使いは彼を魅了したようです。しかし、リズム感はイマイチだったようで、「リズム感は高校( Memphisの LaRose School と Manassas School )で学んだ」と。

「おば」はかなりレコードを持っており、おかげで彼はあらゆる種類のレコードを聴いたようです。
Clyde McCoyがトランペットで演奏した「Sugar Blues 」や Blind Lemon Jefferson、「The Devil’s Son in Law」の触れ込みで有名な Peter Wheatstraw、Blind Boy Fuller や Kokomo Arnold、ジャズでは Charlie Christian に Dorsey Brothers、そして Nat King Cole にそのギタリスト Oscar Moore。Johnny Moore はその兄弟ですがもう少しブルース寄りの演奏をしていて、その Johnny Moore が一緒に演奏していた The Three Blazers with Charles Brown。こういったレコードを聴くことで彼の音楽性は定まっていったのかもしれません。その当時は Gibson L-5 が欲しかったそうです。
ところで、なんでか彼の父は、自分もギターが弾ける、ってことをズっと隠していたみたいで、後になって初めて父がギターを弾いてみせたとき彼は心底ビックリしたみたいですよ。
どうやら、父としては彼をミュージシャン「なんか」じゃなく、もっとカタい職業につかせたかったみたいで、自分もギター弾くっての教えなかったのかも⋯
父はメンフィスに移ってから DuPont に長いこと勤めてましたが、ついに音楽とは縁のない生活を送ったようです。

やがて父についてシカゴに行ったとき、ライヴを見て、そのコードのおさえ方に驚愕したようで、なんとかしてモノにしよう、と「 George M.Smith Method」っていうコード・ブックのようなものを買ったようです。オーギュメントにディミニッシュ、セヴン・ナインスなどもこれから学んだ、と。
彼が手に入れた最初のギターは Sears Roeback の通販で買ったのが最初で、それはどうやら Harmony だったようなのですが、最初の Fender は Esquire(なんとケースが無くて紙袋に入れて持ち歩いてたんだって)、そして Jazzmaster に Telecaster、さらに Stratocaster というところで Gibson(インタビューによると、335 および 345。James Cotton 時代がそう。彼の最初の Fender アンプは 1950年代初頭の Tweed で、James Cotton Band 時代には Fender の Twin Reverb と、時によって Quad Reverb )にも手を出して、それ以来、どちらも使っていたようです。
Blues Brothers 以降では杢目の美しいサンバーストの Les Paul リイシューに Fender Blues de Ville か "The Twin"のアンプ、という組み合わせも多くなりました。
ところで、それとはちゃうメーカーに彼のシグネイチュアー・モデルがあるって知ってた?ワタクシも前回は知らなかったんだけど、どーやらオーストラリアのギター・メーカーで Cort Guitar Co.(どうやら Haworth ってのが親会社らしいんですが)っちゅうのが作ってる、一見 P.R.S.かいな?ってボディ・シェイプのアシメトリー(非対称)ダブル・カッタウェイのボディにハムバッキング PU を二つ、でもスイッチングは P.R.S.ほど凝ってなくて、フツーのレス・ポール・タイプのトグルみたいなギターがあるんですが、それに MGM-1(モチロン Metro Goldwyn Mayor なワケはなく、Matt Guitar Murphy の頭文字なのだ!)とゆーリッパなヴァリエーションがございました。
ただしヘッドには P.R.S.みたいな「ちゃんとした」コンセプトがあるワケじゃなさそで、旧来のデザインを踏襲してますねえ。おまけにネックはワタシの苦手なバインディングに、派手なブロック・インレィ。ま、その前にアームが無いんで「アウト!」なんでございますが( http://www.haworthguitars.com.au/guitars/cort/guitars/matt_murphy.htm )。
ただし、これもインタビューによると、そのギターの仕様などを詰めるのに際し、オーストラリアではなくコーリア、つまり韓国へ行った、と話しておりますから、実際には韓国で作ってるのでしょうね。

1940年代に入ると、まず Tuff Greenのバンドに参加、続いて Junior Parkerの Blue Flames(他に Ike Turnerやドラムの L.C. Dranesも在籍)のリード・ギタリストになりました。
そして Junior Parker( You’re My Angel / Bad Woman Bad Whisky )と Bobby Blandのレコーディング・セッションにも参加。
1952年には Chicagoに移り、そして Memphis Slimのバンドに 7年在籍しています。
1963年にはヨーロッパ・ツアーに参加し、Sonny Boy "Rice Miller" Williamsonのバックで Delmarkに吹き込み。そして1970年代には James Cottonに参加。1977年には Bostonに移り、以後お馴染みのBlues Brothers でまたまたブレーク!
そして1990年にして初めての彼のソロ・アルバム『Way Dowa South』を発表。この『The Blues Don’t Bother Me』は二枚目、ということになります。

長い付き合いだった David "Lefty" Foster によると、彼はずいぶん健康に気を配った食事をし、バーベルを使ったエクササイズに、ゴルフにもいそしむ生活で、タバコも酒もクスリもやらず「とても健康そうに見えた」 のでしたが 2001年のクリスマス前に(卒中の?)発作を起こして倒れ、しかもなまじ健康に自信があったのか、一切保険というものに入っていなかったらしく、当然、療養の費用にも困ることとなったようです。
そこで前述の Cort Guitar Co.と、彼が所属している Roesch Records の Joe Roesch の共催で 2002年 1月 4日にチャリティ・ショウが開かれました。
この時の出演者は Luther "Guitar Jr." Johnson、David Finnegan、David "Lefty" Foster に Mohegan All-Stars などだったようですが、カンジンの Matt Murphy の病状はかなり深刻なもので、どうやら半身不随の状態となったらしく、おそらくふたたびギターを弾けるようになるかは「疑わしい」との所見が出ていたようです(その他にも、なんとか腕を動かせる程度にはなるのではないか?という情報もありましたが)。

ところで、とあるサイトで彼をカンゼンに Actor として扱ってて、Filmography として Blues Brothers なんかは載ってるのに、CD が「ただの一枚も」紹介されてない!ううむ・・・

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# by blues-data | 2005-09-16 23:33
Marcel Dugas
Marcel Dugasは Louisiana州 Church Pointの出身です。
1956年には Stick Hermanと一緒に Marcelle Dugas Comboとして Lake Charlesにある Eddie Shulerの Goldbandレーベルにレコーディングを開始しています(後にこの時の原盤は Hollywood Recordsにリースされました)。
1969年の 6月には Eddie Shulerがフィドル&ギターの Wild Bill Pitreを中心に据えて Marcel Dugasが率いるバンド、 Wild Bill's Blues Washboard Bandを録音しています。
そのバンドから Wild Bill Pitreを除き、かわりのギターを入れて録音したのが Flyright LP 4701 Baby Yum Yumと思われます。
これはさらに LP 543として再発されたようですね。
この Marcel Dugas & The Thundersは Texas州 Richmond出身の Ernest Johnson( Clifton Chenierのバンドにもいたようですが、Cleveland Chenierの加入であぶれた?)をラブボードに、また Blind John Hartをテナーとして擁していたようです。
ドラマーは通称 Jockyで Lightnin' Slimや Lonesome Sundownの録音にも顔を出しています。

Marcel Dugasは「 One of the old school of early zydeco players」なんて表現されるように、どちらかと言えば「古いタイプの」アコーディオンを弾いていたみたいですが、ブルース色の混じった Zydecoになる以前のFrench La-Laなどと呼ばれるダンス・ナンバーを得意としたようです。

Lafayetteの店、『 El Sid O's』で 80才あたりまで、ザディコ・プレイヤーたちと一緒になって楽しんでいた、といわれています。



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# by blues-data | 2005-09-16 23:31

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