Noble "Thin Man" Watts
Florida の King Snake Records の Bob Greenlee が結成したバンド the Midnight Creepers のホーン・セクションの要たる Noble "Thin Man" Watts は 1926年に Florida 州 DeLand に生まれています。
サックスという楽器は黒人家庭にとっては「趣味で買う」には極めて高価な楽器ですから、だいたい息子がサックスを吹きたい!なんてダダこねても、それじゃまずこれからだな、なんて誤摩化してハープを与えとく、てな「高嶺の花」でございました。
ところがこの Noble Watts は幸運にも、ハイ・スクール・バンドでサックスと出会うことになります。
当初はピアノだったらしく、そこからヴァイオリン、トランペットと遍歴を重ね、最終的に落ち着いたのがテナー・サックスでした。
やがて Florida A&M(おそらく Agricultural and Mechanical、つまり農業工科大学)に進み、そこのマーチング・バンドでは Cannonball と Nat の Adderly 兄弟とも一緒に演奏していたそうです。
卒業後には R&B のバンド the Griffin Brothers に入り、次いで Paul "Hucklebuck" Williams(かって Jimmy Spruill も在籍してた)とともに初期のロックンロール・レビューのツアーの日々で Fats Domino や Chuck Berry などのバッキングを経験することとなりました。
またこの時期、数々のヒットとなった曲の録音に参加もしています。
1970年代には Apollo Theatre のハウス・バンドの一員としても活動していたようですが、なにか限界でも感じたのか 1983年には故郷の DeLand に戻り、地元でたまに演奏する、という生活だったらしいのですが、そんなプライヴェートなパーティでの演奏に目をとめたのが Bob Greenlee でした。
Noble "Thin Man" Watts の才能を認めた Bob Greenlee は 1987年に King Snake Studio で彼のカムバック・アルバムを制作しています( Alligator AL-4785; Return of the Thin Man )。
ご本尊たる Noble "Thin Man" Watts のかなり「じゃずぅい」なサックスは、イーストコースト・ジャズっちゅうよりは、むしろもっとポピュラーなテイストもあるのですが、それでもかなりジャズっぽいテイストは香っております。
なのに(?)そのバックでは「ジャズではゼッタイあり得ない」空間系のエフェクター(特にワタシの嫌いなコーラスとかね)をドたっぷりとかけたギターが堂々と存在を主張しているし、ベースだってランニング系のスケールは選んでますが、そのトーンは「明らかに」よくダンピングの利いたファンキーさに溢れてるし、ドラムもびしびし!とインテンシティを前面に出してる・・・この総合がまた意外と魅力的なのよねー。
そして Look Under the Wing での「がっついてない」ヴォーカル、いい味だしてますよ。

ブルース、そしてサックス、となると A.C. Reed!ってえのがブルース界の常識なのかもしれませんが、ワタクシ、彼のアルバムの紹介のとこでコクハクしたとーり、A.C. Reed にはどうも馴染めないんですわ。
もしかしてワタクシと同じよに感じる、なんて変わった方には、この Noble "Thin Man" Watts、本気でおススメいたします。ゼッタイこっちのほうが「いい」!


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# by blues-data | 2008-01-07 12:05
Phillip Walker
1937年 2月11日、Louisiana 州 Welsh で、小作農で、まだ 14才と13才で結婚していた(!)父、Malvin と母の Viola Weber Walker(そのまた母が Cherokee だったので、いわゆる「インディアン」の血が半分、ということになります)の 7人目の子供として生まれる(全部で12人だそう・・・)。
Phillip が 8才になったときに一家は Texas 州 Port Arthur に移りますが Phillip が 12才になったころから父の健康が悪化し、家計は逼迫してきたようです。
そのため Phillip はそこで学校教育から「脱落」した・・・
1920年代には、母方の叔父たちはみんなバンドに参加していたようですが、1930年代には現役を離れ、それでも機会があるごとに集まっては楽器演奏を楽しんでいたらしく、さらに Clarence "Gatemouth" Brown がどうやら「親戚」だったようですねえ。
Second Cousin と phillipwalker.com では記しています。
おそらく学校に行かなく(行けなく?)なってヒマになったあたりではないかと思うのですが、次第に音楽に興味を持ちはじめ、しかしギターを買えるアテもなかったため、お馴染みの Cigar Box Guitar を自作しました。
ヒマさえあればそれを弾き、どんどん上達したもののようですねえ。
また変装したりして歳をごまかしてジューク・ジョイントやダンス・ホールにも「潜り込む」ようになり、そこで演奏している中に参加するようになったのが、まだ 15才の時だったそうで・・・
そこで知り合ったミュージシャンたちからも多くのシゲキをウケるとともに、その才能も認められるようになり、1952年には、Booted で R&B チャートを登りつめた Roscoe Gordon に認められ、そのレコーディングに参加しました。
おそらくこのあたりからではないか、と思うのですが、Lonesome Sundown との交流も生まれています。また同様に Lonnie Brooks や Long John Hunter、Ervin Charles といったミュージシャンとの交流から、彼のスタイルは醸成されていったのではないでしょうか。
続いて 1953年には Clifton Chenier が地方のクラブに出演していたときに彼を「発見」し、家族の了承を得て、ツアーに連れ出しました。
さらに Clifton Chenier の Specialty や Chess、Argo でのレコーディングに参加しています。
一方、彼自身は慢性の鼻炎に悩まされていたらしく、ツアーで立ち寄った Los Angeles では、その気候が良いのか、鼻炎の症状がかなり改善されることを知って、西海岸を住処としたい、と考えたようです。
1954年に内紛からバンドが解体した後も Clifton Chenier と二人で演奏活動を続け、これがまた彼のサイドマンとしてのスキルをさらにアップさせたのではないでしょうか。
その腕を買われて Little Richard、Etta James のバックも務めています。
1955年には Fats Domino と Little Richard、他にも Lowell Fulson や Percy Mayfield といったビッグ・ネームで組んだパッケージ・ツアーに加わり、全米を巡業しました。
ただし、そのような日々はそれなりに負担も大きかったようで、1959年にはウェストコーストに舞い戻り、そこで Ina Beatrice Gilkey という女性シンガーと組んで Bea Bopp というバンドを結成し 1963年には彼女と結婚。同年 AMC レーベルに録音もしています。また Model T. Slim や Eddie Taylor などのバッキングもしていました。
1973年には彼にとって初のソロ・アルバムとなる Bottom of the Top を Playboy レーベルに録音し、ここで「開花した」と言えるかもしれません。
ヒュー・ヘフナーの気まぐれみたいなこのレーベル自体は短命で終わっているのですが、原盤は Hightone に移り、1988年に再発されています。
ところで、同じ 1973年から翌年にかけて Phillip Walker は Chicago の WNIB-FM による Atomic Mama's Wang Dang Doodle Blues Show に出演し、シカゴ周辺でもその名が知られるようになりました。それが契機となって Bruce Bromberg の Joliet レーベルに吹き込まれたのが Someday You'll Have These Blues だったのです。

それが Alligator に売られ、AL-4715、Someday You'll Have These Blues となっています。


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# by blues-data | 2008-01-07 09:09
Clifton Chenier
1925年 6月25日、Louisiana 州 Opelousas で小作農だった両親のもとで生まれました。
そして父もアコーディオンを演奏していたため、その教えを受けて上達したもののようです。
1944年ころには、同州 New Iberia 周辺のさとうきび農園での刈り取り作業に従事していたようですが、1947年には先に出て行っていた兄の(注:例によって「英語」では Brother とあるだけで、実際には兄か弟か判りません。ま、先に出て行ってたってことで「兄」としてるだけで、文献上で Elder という単語が発見できたワケではありません)Cleveland(後に彼のバンドのラブボード奏者となる)を頼って油田( ALLigator の資料ではその場所を Louisiana 州 Lake Charles、としていますが、同地は油田ではなく石油精製産業の都市であり、別な資料では Texas 州 Port Arthur 周辺の石油の精製施設としています)に職を求めています。
そこで彼は日中、トラックの運転手として働き、夜はラブボードでリズムをとる Cleveland と共に演奏する毎日を送ったようで、次第にそのコンビは周辺一帯に活動の場を広げていったようです。
本人が語ったところによると、Louisiana 州南西部の「ローカルな」クレオール文化などをベースとしたザディコに、近代的なリズムやアンプリファイドの手法を持ち込むにあたって Lowell Fulson から多くを学んだのだそうで、それがエスニックな枠を超えて一般にも支持されるようになったある意味、ターニング・ポイントだったのかもしれません。
1954年には Elko Records と契約、Cliston (sic) Blues / Louisiana Stomp を録音し、これがまずまずのローカル・ヒットとなり、翌1955年には Specialty に録音した 12曲の中から Ay-Tete-Fee(英語だと Hey Little Girl。オリジナルは Professor Longhair )が彼にとって初の「全国的」ヒットとなりました。
おそらくそのヒットによってだと思うのですが 1956年には Day Job を離れ、自らのバンド the Zodico( Alligator の Biography にある原文のまま)Ramblers(ギタリストとして Lonnie Brooks、Phillip Walker、Lonesome Sundown も在籍することとなる・・・)を率いてツアーに出る、というフルタイムのミュージシャンとなっています。
1957年には Specialty を離れ、Chess と契約。
ただし実際にリリースされたのは 1960年の Checker 939、Bayou Drive / My Soul の一枚のみです。
そのころ Clifton Chenier はすでに Zynn に移っており、そこでは 1960年までにシングル 13枚を残しているようですが、ヒットには結びつきませんでした。
1964年には Chris Strachwitz によって Arhoolie Records と契約することとなり、シングルの後、ここで初めて彼はアルバム・レコーディングを経験することとなります。

ただし、ここで Chris Strachwitz の望む「エスニックな」サウンドと、Clifton Chenier 自身が志向する、よりモダーンなサウンドの兼ね合いが「難航した」ようですが(結局アルバムの裏表で「分割」した!)、それはこのアルバムにとどまらず、Clifton Chenier にとって、常につきまとうディレンマとなって行ったのではないでしょうか。
こんなこと言うと叱られるかもしれませんが、ギターいっぽん弾き語り、みたいなカントリー・ブルースなんてのを好むマニア(ま、偏見かもしんないけど白人に多いよな気がすんですよねー)に「合わせ」、今この時代にアコースティック・ギターでそれっぽく渋いブルースを吹き込むなんてのも、そこらの需要と供給のカンケーかなあ?なんて思ってしまいますね。
・・・なんてことはともかく、一応このアルバムによって知名度をさらにアップさせた彼は南部諸州、それもフランス系の文化を残すカソリック圏のサーキットを巡るツアーを行い、やがてはヨーロッパにもその範囲を拡大したのでした。
その活動が Sonet への吹き込みにつながり、Alligator からリリースされたAL-4729、I'm Here は翌1983年、グラミー賞を獲得しています。

1987年12月12日、かねてから腎臓を患っていた彼は永眠しました。


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# by blues-data | 2008-01-07 09:00
Jimmy McGriff
この Jimmy McGriff という存在は、おそらくブルース界ではさほど有名ではないのではないでしょうか。
ま、熱烈な Albert Collins のファンだったら、ひょっとして、その名前を知っているかもしれませんが、おそらくこの人のアルバムを「ちゃんと」持ってる、なんて方はあまり多くはないハズ、と想像しております。

Lester Recording Catalog LTD. っちゅうレーベルから 2001年の秋にリリースされた 100% PURE FUNKというアルバムなどは、実は二重の意味でそのタイトルを裏切っている、とも言えるかもしれません。
まず聴いてみてすぐ判ることですが、その音群を「 100% PURE 」であろうが「 10% Mixed 」であろうが、「 FUNK 」と言えるであろうか?ということ。
そりゃね、おっ、なかなかファンキーなオルガンじゃん!なんて言うぶんには一向に構わないのではございますが、かと言ってこの音を「 FUNK 」、それもまた言うに事欠いて「 100% PURE 」とは、いやもう、いったいナニ考えてるんだか・・・と言いたくなりますね。
まず、あくまでも「あの偉大なる」Jimmy Smith を意識してのことなのでしょうが、タイトルがそんなでも、「徹底的に」ジャズ・オルガンの文法どおりにプロデュースされております。
本人は、「オレはジャズ・オルガンの奏者なんかじゃない。あくまでもブルースのオルガン・プレイヤーなんだ!」と言ってるのにも関わらず!
一方の雄 Jimmy Smith のオルガンに比べ、「ねちょねちょ」度が低く(って、なんじゃそりゃ?でしょうが、どーも主観的に行くとそーなっちゃう・・・)ややスタッカート気味っちゅうか、粘度の低さ、カラっとしたフレーズが特徴かもしれません。
ま、Albert Collins がやたらこの人のオルガンを気に入ってた、っちゅうのも判るよな気がいたします。
Jimmy Smith の場合、ほとんど彼のオルガンだけで世界は完結してしまっていて、そこにはあまり余地はない感じなのですが、この Jimmy McGriff の場合には、いちおうメインを張るだけの強さも輝きもあるんだけれど、一面塗りつぶしちゃうよな息苦しさってのは無いんですよね。

James Herrell McGriff Jr. は1936年の 4月 3日、Pennsylvania州 Philadelphia で生まれています。
両親がともにピアノを演奏していたことから早くから楽器に親しみ、piano、bass、vibes、drumsに Saxophoneまで演奏することが出来ました。
もっとも、人前での演奏は、8才のときの、教会でのドラムのポジションが最初だったそうですが。
やがて New Jersey 州 Camden のクラブで Richard "Groove" Holmes の演奏に触れたことで、彼の関心は Hammond に集中するようになります。
高校を卒業した彼は、MPとして朝鮮戦争の前線に送られ、退役後も Philadelphia の警察で二年余りを過ごしました。
しかし、やはり音楽への「志向」はその生活には満足させず、まずはベーシストとして音楽界に戻ることとなります。
そしてベーシストとして Carmen McRae や Big Maybell のバックを務めるかたわら Richard "Groove" Holmes に師事し、オルガンを学び、1956年には、ついに彼自身の Hammond B-3 を手に入れることが出来ました。
そしてさらに基本的な音楽理論や様々なスキルを学ぶために、ついに警察を退職し、Combe Collegeに入学しています。そしてやがてはそこに飽き足らず、あの有名な Juilliard School of Music に入学。その上「個人的に」Jimmy Smith や Sonny Gatewood、Milt Bucknerにも師事していたそうですから、まさに「鬼のように」オルガンに取り組んでいた、と言えるかもしれません。

New Jersey 州 Trenton のクラブで Jell というマイナー・レーベルのスカウトマンの目に止まった McGriff は1962年に、Ray Charles の「I Got A Woman 」でオルガン・デビュー(実際の彼の初録音は 1958年に Marsh レーベルに吹き込んだ Foxy Due )し、その売れ行きが良かったので New York のレーベル、Sue Records がディストリビュートに乗り出して R&Bチャート 5位、ポップス・チャートでも 20位をマークして、以後「ソウル・ジャズ・オルガンのプリンス」てな扱いを受けることになります(で、キングは、モチロン Jimmy Smithねん)。他にも"All About My Girl"などのヒットあり。

しかしワタシにとって、この Jimmy McGriff の重要なポイントは、あの Albert Collins のアルバム、Alligator の Cold Snap 参加してる、ってこと!
まあねー、歌は無しでオルガン弾くだけ、ってのはブルースマンとしてどうよ?なんて声もあるかもしれませんねー。
でも、あたしゃあ Earl Hooker だってギターのみで充分ブルースだ、と思うし、この Jimmy McGriff だって、バックはモロ Jazz だけど、これはこれでリッパなブルースだ、と思っています。


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# by blues-data | 2007-07-02 07:44
Larry Graham
Sly & the Family Stoneの世界を造り上げるにあたって、とても大きなプレゼンスを持っていたのが Larry Grahamではなかったでしょうか?
いわゆるファンク専門(?)のベーシストからの評価では、彼以上に重要なプレイヤーってのもいるのかもしれません。
しかし、トータルなサウンドの中におけるベースの意味や、それ以上に「ベーシストの意味」として考えた場合、彼がただ「(テクニック的に)スゴいベーシスト」というのではなく、まずミュージシャンとしての資質としてユニークな存在なのだ、と考えています。

Larry Grahamは Slyと同じように、生まれたのは Texas州でした。
メキシコ湾に近い、Dallasから見て 5時の方向、Slyの生まれた Dentonからはおよそ 400km以上も離れている Beaumontで、1946年 8月14日に生まれています。とは言っても、そこにいたのは彼が二才(!)になるまでだったそうですから、「三つ児の魂、百まで」ってので行くと、彼の精神世界にとっては、むしろ、移ってきた街、San Franciscoの対岸の Oaklandこそが揺籃の地、と言えるのかもしれません。
ギターを弾く父と、ジャズ・ピアノを弾く母のもと、彼はまずドラムとタップ・ダンスを習い、次にクラリネット、ギター、サックスにとりかかったそうですから、そこら、ベースしか弾いてない「純粋ベーシスト」とは、おのずと世界観も違ってくるワケですなあ。

その彼が 15才のときに、クラブに出演していた母のピアノをメインに、彼がギター、そして他にドラム、というトリオで演奏していたらしいのですが、そこで彼はオルガンの足踏み用のベース鍵盤を見つけ、ギターを弾くかたわら、足ではベースを入れてた(器用なやっちゃ!)ら、その鍵盤が壊れちゃったらしいんですね。そこで、どーも、サウンドをトータルに見て、この場に必要なんはギターよりもベースなんじゃないか?と考えた彼はベースに転向したもののようです。
だよね~。ジャズにギターは要らん!(なんてまた物議を醸すよなこと書いちゃいましたねえ。ま、言うまでもなく、これはジャズの「マニアじゃない」ワタクシがほざいているだけですから、「正しい」マニアのみなさまは「フフン」と鼻で笑ってやってくださいませ。ご投稿は無用です)
最初はベース鍵盤が直ってくるまで、と思ってたらしいんですが、いっこうに修理される気配もなく、ま、それでやむなくベースも買ったらしいんですが、彼としては、ベースをフツーに弾く気はさらさら無かったみたいで、「だって、俺はギタリストでベーシストじゃない、と思ってたから他のベーシストからどう思われようがへーきだった」・・・う~ん、それが良かったんですなあ。まさに世の中、なにが幸いするか判りませんのじゃ。
そうしてるうちに、こんどはドラムが抜けてしまい、彼はリズム・セクションとして、よりパーカッシヴなプレイをするようになっていったらしく、そこで編み出されたのが親指で弦を叩く奏法だった、と。

そんな、やむにやまれぬ事情がバック・グラウンドにあっての「あの音」なワケで、そこら、日夜、寝る間も惜しんで切磋琢磨し、いかなベーシストでも目を見張るよな「すんげえ」プレイを開発せんとしてる「スーパー」・ベーシスト「じゃない」ってとこが逆にスバラしいんですねえ。だから彼のベースを聴いてても、テクニックに淫してないんですよ。
そして、そのように、あらゆる楽器のリズム楽器としての側面をフルに活かす、というコンセプトは、多少のアレンジを加えつつも、Sly & the Family Stoneのサウンドに具現化されてるよな気がしませんか?
ワタシなぞ、Thank Youのベース、ギターのリフ、ブラスの下降メロディ、などどれもが(もちろん「音高」がある以上、メロディ楽器でもあることは当然なのですが)リズム、あるいは半可通が濫用したがる「グルーヴ」なんてえコトバのために一丸となって「ちゃうこと」やってる(なんて言うと矛盾してる、って思う?へっへっへ、たぶん、Slyが好きなひとなら判ってくれるんじゃないかな?)とこに、このイノヴェーターの凄さがあるのだ!と言いたくなりますねえ。

てなワケで、ま、もちろん Sly & the Family Stoneにとっては、どのメンバーもそれぞれに重要な位置を占めている、とは思いますが、なかでも、この Larry Grahamの存在は、単なる「ベーシスト」というポジションを超えて、全体のサウンドをも左右するような、もっとも傑出したタレントであった、と考えております。
Larry Graham無しに Family Stone無し。(ま、逆もまた真なり、ではございますが)

ところで、Larry Grahamの使用楽器は、ってえと、ピアニストだった母とのトリオ時代、最初に買ったベースってのが「古い St. George」と語っているようですが、それってメーカーなのか、店名なのかもはっきりしません。
続いては Fenderの Precisionと Voxのベース(型式不明です)を使用し、またその後、Family Stoneから Graham Central Stationまで使用した Fender Jazz Bassがあります。
しかし、彼はそのベースを改良(?)すべく日本の Moonに特注して作らせた「純白」の Jazz Bassスタイルのカスタム・ベースを最近では専ら使っているようですね。
この Moon Larry Graham Specialは二個の Bartolini PU(ネック寄りの PUはストラトのリア PUみたいにスラント・マウントされてます)を搭載し、GHSのライト・ゲージ Bass Boomerが張られています。
足元には Morleyのヴォリューム・ペダルと A/Bスイッチ・ボックス、そしてそれぞれにつながる Rolandの Jet Phaserと Morley FUZZ Phaserという構成だとか。

アンプに関しては Sly & the Family Stone時代には SUNNを使っていましたが、その後、Fender各種や、Acoustic 360を経て、最近では Hughes & KettnerのBassBase 600( 650W出力) Hybridヘッドに BC 410あるいは BC 215キャビネットを組み合わせて使っているようです。


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# by blues-data | 2006-10-22 12:35
Raful Neal
Raful Nealは、1936年の 6月 6日、Baton Rougeで生まれています。
彼と姉( or妹?)の Coraは早くに両親を失い、Baton Rouge郊外の Chamberlinの小作農だった叔父・叔母によって育てられました。
サトウキビを刈り取り、綿を摘む生活だったといいます。
14才でハープを始め、17才で最初のバンド The Cloudsを作りました。
そのバンドには Lester Johnson(後の Lazy Lesterです)がギターで参加していましたが、若き日の Buddy Guyの登場によってその座を譲った、とされています。(ただし Lazy Lester側の証言では『1950年代には、シカゴに行く前の Buddu Guyとともに演奏を行っていたらしく、その Buddy Guyが 1957年にシカゴに去った後、そのアナを埋めるために彼がギターを弾いていた一時期があった』と Rolling Stone誌のインタビューで語っており、そこら整合性には欠けておりますが)
22才の時に、Raful Nealは Houstonにベースを置く Peacock Recordsとサインし、最初のシングル「Sunny Side Of Love 」を吹き込みました。
続く1960年代には La Louisianeや Whitなどの地元のレーベルに録音し、ローカル・ヒットとはなりましたが、全国スケールでブレークするには至らなかったようです。
しかし、そのプレイは Little Walterにも影響を与えた、とする見方もあり、事実、地元では彼のコトを「ルイジアナのリトル・ウォルター」と呼んでいたそうですが、それってホメてないよな気がすんだけど・・・
彼がルイジアナ以外でも自分の聴衆を集められるようになったのは1987年以降のことでしょう。
Fantastic Labelでの「Man Watch Your Woman 」が同年の W.C. Handy Blues Awardの Blues Single of the Year候補となり、注目を集めたことによるものです。
1990年にはアルバム『Louisiana Legend 』、1991年には『I Been Mistreated 』と次々とリリース、また彼の11人いる子供たちのうち 9人が音楽に関わり、Kenny Nealをはじめ、ベースの Darnell Neal、ドラムの Tyree Neal、キーボードの Fredrick Nealなどは、父である Raful Nealの録音にも参加しています。
1995年には the Louisiana Blues Hall of Fameにも名を印しました。
2004年 9月 1日、骨髄の癌により死亡。


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# by blues-data | 2006-08-18 19:06
Lazy Lester
かなり強力な Google Local、あるいは Wikipediaでも出てこない Louisiana州 Torras(どうやら Pointe Coupee郡にあるのではないか?と示唆する一文にまでは辿りつけたのですが、カンジンの郡内を見渡しても、そのような地名は発見出来ません・・・う〜ん。もっと細かい 1/25,000くらいの縮尺の現地の地図で見ればあるんでしょうね。ま、その Pointe Coupeeに「あるとすれば」、そこはミシシッピー河の西岸にあって、その大河と、かって河であったものが本流から取り残された出来た「三日月湖」に囲まれた一帯で、ルイジアナ州をアルファベットの「L」の文字に見立てると屈曲部の内側にあたります)で生まれた、とされる Leslie Johnsonですが、その生年月日にはちと混乱が見られます。
たいていは 1933年 6月20日、としているのですが、なんでかひとつだけ 6/30/23と表記しているものがありました。おそらく 6/20/33を見誤って 6/30/23と「打ってしまった」だけだとは思うのですが・・・
ただし、彼が成長したのはそこではなく Baton Rougeの近郊だったようです。
Little Walterのハープ(それと Jimmy Reedのハープも?)に影響を受けて彼のハープはスタートした、てなことになってるようですが、それにはもうひとつ、楽器の価格も絡んでいたのではないでしょうか。
彼の兄はギターを所有しており、彼は兄が不在のスキを狙って(?)こっそりそのギターを弾いたりはしていたようですが、やはりそんな状態では腕も上がるワケもなく、ポケットに入れてどこへでもお供させることができたハープの方に傾斜して行ったのかもしれません。
そのせいか、彼は後に一度ギターに転向しかけてるんですねえ。ま、そのときもケッキョク自分のギターを買うまでにはいたらなかったようですけど。
1950年代には、シカゴに行く前の Buddu Guyとともに演奏を行っていたらしく、その Buddy Guyが 1957年にシカゴに去った後、そのアナを埋めるために彼がギターを弾いていた一時期があった、と Rolling Stone誌のインタビューで語っています。

ただし、その少し前に彼は偶然乗り込んだバスの隣の席にいたのが、少し前からレコードも出していた(ローカル?)スター、Lightnin' Slimであることに気付き、これから録音するんだ、という彼に一緒についていったところ、なんと録音に参加する予定だったハーピストが、急なギグが入った、とかで来られなくなっていたのでした。
そこで彼も一緒になってあちこち代役がいないか、と探しまわったらしいのですが、万策尽きたとき、自分も少しは出来る、と言ったところ、それじゃ、ってんでそのまま録音することになります。
こうして彼の初録音は J.D. Millerのセッションとして知られる Lightnin' Slimのバッキングからスタートしたのでした。続いて彼名義での初録音も行われたのが 1956年のことです。
で、あの Cornelious Greenを Lonesome Sundownと名づけることで成功した(?)と同様、Leslie Johnsonはその Lazyな歌いっぷりから Jay Millerによって Lazy Lester( Leslieの愛称)という芸名を頂戴することとなりました。

そこからの Lazy Lesterは一連の Excello作品によって「ひとつの」ピークを迎えます。特に Slim Harpoとの仕事はワタクシの「お気に入り」でございます。
この時期の彼の作品群、たとえば I'm A Lover Not A Fighterをはじめとする一連のヒットはほとんど彼自身の手になるものだったようですが、「公式には」すべて、あるいはほとんどが J.D. Millerの名義で「登録」されてしまったのでした。
おそらくそれによる経済的な窮状は、彼の音楽に対する情熱を大いにスポイルしてしまったらしく、1960年代も末のころには、Michigan州 Pontiacに引っ込んでしまい、生きて行くのにそこそこの仕事をしつつ、Slim Harpoの妹( Slim Harpo自身が 1924年生まれですから「姉」だとしたら最低でも 10才以上は年上ってことになるので、たぶん妹、と判断しましたが、あるいは姉かも?)と一緒に大好きな「釣り」に打ち込む生活に入ってしまいます。

それでも 1971年には University of Chicagoで行われた Folk Festivalでは昔の「よしみ」で Lightnin' Slimのバックとして一日限りのステージを努めました。そして、このときにその話をまとめたブルース愛好家の Fred Reifが後に Lazy Lesterカムバックのキーパースンとなる・・・
1980年代の後半、その Fred Reifと Lazy Lesterは互いに同じ Michigan州にいることに気付き、交流を持つようになり、やがて Fredは Lazy Lesterにカムバックを薦める立場になり、自ら運転手、伴奏者となって各地のツアーを開始したのでした。
そのツアーでの聴衆の反応は Lazy Lesterにカムバックを決意させるに充分なほどのものだったようで、ふたたび音楽の世界に身を置くことにした彼は 1987年、Alligatorと契約し Harp & Soulをその翌年にかけて吹き込んでいます。
それが Harp & Soul: AL4768 となります。
しかし実はその同じ 1987年には英国で、現地のミュージシャンをバックに Rides Againというアルバムを作っているんですねえ。
それが 1987年の 5月25から 28日、と言いますから Alligatorより前でしょう。
ちゃんと Fred Reif も Harp & Soul のライナーで「これは '87年 3月にカムバックした Lazy Lester の二枚目のアルバムです」と言ってますからねえ。
その Rides Againの収録曲は

Sugar Coated Love/Travelling Days/Same Thing Could Happen to You/Can't Stand to See You Go/Out on the Road/Lester's Shuffle/I Hear You Knockin'/Irene/St. Louis Blues/Blowin' a Rhumba/Nothing But the Devil/Hey Mattie

で、これはイギリスのレーベル Blue Horizonに録音されたもので、後にアメリカでは Kingsnake KS 007としてリリースされています。バックを務めたのはイギリス、と言うよりスコットランドのブルースバンド Blues 'N' Troubleで、そのメンバーはギターに Mike Parkと Tim Elliot、キーボードが Lou Martin、ベース Alan Scott、ドラムが Lox Lovellでした。
このアルバムは 1988年の Handy Award、「外国からのブルース録音(?)」エントリーにノミネートされたハズ。

で、次が Alligator AL 4768、Harp & Soulの録音で

I Done Got Over It/Take Me In Your Arms/I'm A Man/Patrol Wagon Blues/Dark End of the Street/Raining In My Heart/Bye Bye Baby/Bloodstains on the Wall/Alligator Shuffle/Five Long Years

バックはギターの Kenny Nealと、曲によって Robert "Towncrier" Thomas、Ernie Lancaster、Pete Carrが参加。ピアノは Teo Leyasmeyerか Lucky Peterson、ベース Bob Greenlee、ドラムに Floyd Milesまたは Denny Best、でオマケにウォッシュボード Fred Reif。
で、どーでもいいようなことなんですが、こいつを録音したのは Chicagoじゃなく、Florida 州 Sanfordの Kingsnake Studioなんですねえ。もっとも最終ミックスダウンはやはり Chicagoの Streeterville Studiosだったんですが。
そしてこれも同じく 1987年に、彼は Texas州 Austinのクラブ Antone'sにも出演し、それがきっかけとなって Antone'sのオーナー Clifford Antoneとの交流が生まれ、やがては今日のブルースとして採り上げた Strange Things Happenも収録されているアルバム All Over Youへとつながった、と。

I Need Money (Keep Your Alibis)/The Sun Is Shining/Strange Things Happen/If You Think I've Lost You (Secret Weapon)/I'm A Lover Not A Fighter/Irene/You're Gonna Ruin Me Baby/Nothing But the Devil/I Made Up My Mind/Hello Mary Lee/Tell Me Pretty Baby/My Home Is A Prison

バッキングは、ギターに Sue Foleyと Derek O'Brien、ピアノが Gene Taylor、ベース Sarah Brown、ドラムが Mike Buck。月日は不明ですが録音は 1997年で、リリースは 1998年(後に Lonestar Record 42として 1999年にもリリース)。

続いて 2000年の10月12と13日に録音されたのは Audiophileという「今どき」ワザとアナログのレコード盤をダイレクトカットで作る、っちゅー極めて「エンスー度」の高い会社へ Blue Heaven Studioでの吹き込みで(他はクラシックなどなのに、ナゼ Lazy Lester?ナゾだ!)APO 003(あ、ついでに 004は Wild Child Butler!)を作っています。もちろん彼ひとりでの録音で、自分でギター伴奏の弾き語り。ん〜、これ、聴いたことはないですが、彼のハープ無しってのはねえ・・・ワシなら買わん。

Riding in the Moonlight/Five Long Years/Blue Lester/Down Here in Prison/Nothin' in this World/You Do Something

2000年、あるいは 2001年(なんでそんな最近なのに「あいまい」なのか理解に苦しむけど)に録音されたのが、これも Antone'sのアルバム Blues Stop Knockin': TMG-ANT 0051のための

Blues Stop Knockin'/I Love You Baby/I'm Your Breadmaker, Baby/Go Ahead/Gonna Stick To You Baby/I'm Gonna Miss You (Like the Devil)/Ya Ya/They Call Me Lazy/Ponderosa Shuffle/No Special Rider/I Told My Little Woman/Sad City Blues

バッキングは、ギターとして Jimmy Vaughnに Derek O'Brienと Sue Foley、ピアノが Riley Osbournと Gene Taylor、ベースも Speedy Sparksと Sarah Brownのふたり、ドラムが Mike Buckで Austinの Arlyn Studiosでのレコーディングです。
曲中、They Call Me Lazyってのがありますが、Antone'sのオーナー Clifford Antoneは Lazy Lesterについて「アイツは Lazyなんかじゃない、Crazyだよ」と語っていたそうです。

この、ニュー・イングランドでは「人間国宝」と呼ばれ(!)、ニューヨークじゃ「ルイジアナの保安官」、アトランタでは「ドあほ」、オースティンの新聞にゃ「レィジー(タルい)ってよりはクレイジー」と書かれるなど、ずいぶん様々な評価(?)を得ている Lazy Lester、2002年 9月には Boston Blues Societyから Lifetime Achievement Awardを授与され、2003年 2月にはマーチン・スコセッシの Radio City Music Hallでのコンサートに登場しています。


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# by blues-data | 2006-05-10 11:46
Fenton Robinson
Fenton Robinsonは 1935年( Otis Rushと同じ年です)9月23日、Mississippi州の Greenwoodで、綿花とトウモロコシを栽培しているプランテーションで生まれています。
もちろん、プランテーションは白人が経営しており、彼の家族はそこに雇われた「労働者」だったワケですが。
他にも兄弟姉妹がいたのかどうかについて言及した史料にはいまのところ出会っておりません。また、Memphisに出てくる前に彼がいたところを Alligatorのライナーで Jim O'Nealは、その Greenwoodに郡役所があった Leflore Countyとしています。
おそらく、正確には Greenwood周辺の農園だったのかもしれません。2000年度の国勢調査では、郡全体の人口は 37,947人、ほぼ 68%近くを黒人が占める、典型的な農業地帯のようですが、1935年の統計ではありませんので、人口の構成比などは多少異なっていたかもしれません。
その彼が初めてギター(らしきもの)を手にしたのは、彼が 11才のときで、これまたお馴染みのシガー・ボックスから自作し、ワイアーを張ったものだった、と言われています。
そして、もっぱらジュークボックスや King Biscuit Show の放送などから流れてくる演奏(特に Tボーンだったとか)を手本にしていたようです。
やがて 16才になった彼は、初めての「ちゃんとした」ギター、13ドルだった Stellaのアコースティック(あいにく、それがフラット・トップだったのか、あるいはピック・ギター系の f 字形サウンド・ホール&アーチド・トップのモデルだったのかは判りません。ネダンからみてフラット?)を手に入れ、今度は本格的に学ぶために Tennessee州の Memphisに出て、そこで自らのバンドを率いて活動していたギタリストの Charles McGowanに会いにゆき教わっています。
そしてその 2年後には本格的に Memphisに移り、いっそうトレーニングに集中することに。
やがて、その甲斐あってか、彼は前述の Charles McGowanのバンド、The McGowan Brothersの一員として演奏活動を開始しました。
この時期には Bobby Blandのバックも経験しています。
同時に Castle Rockersというバンドにも参加して一帯をツアーして回ったり、WDIAへの出演などもしていたようですが、こちらは一年ほどで解散してしまいました。

1954年には Memphisから Arkansas州の Little Rockに移り、そこでふたたび自己のバンドを結成、そして Fenton Robinson and the Castle Rockersとしての活動を 1956年から開始しています。
同年、Roscoe Gordonの Dukeでの吹き込みに起用され(一説では Keep On Doggin' )、これが彼の(メインではないにしても)初録音じゃないでしょうか。
その翌年には、あの Elmore Jamesや STAX storyでも登場した Bihari Brothersの末っ子 Lesterが、本拠であるウェストコーストから離れた Memphisで 1952年におっ始めたレーベル Meteorで Fenton Robinson名義による初のレコーディングが行われ、そこにはギターとして、あの Charles McGowanも参加しています。
曲は Tennessee WomanCrying Out Loud
バックは Robert Williamsのテナー、J.W. Hughleyのドラム、そして氏名不詳のピアノで、Meteor 5041としてリリースされています。録音場所はもちろん Memphis。
そしてここでは Fention Robinson and his Dukes(おそらく前年の Roscoe Gordonとの Duke録音の名残りかと・・・違うか?)

翌1958年にはこんどは Texas州 Houstonで Dukeに吹き込み。
このときは Fenton Robinson and the Castle Rockers名義となり、またバンド・メンバーであったテナーサックス奏者 David Deanを「立てた」David Dean's Comboのふたつで録音しています。
他には James Bookerのピアノに Larry Davisのベース、ただしドラムは不明。

The Freeze
: Duke 190
The Double Freeze: Duke 190( by David Dean's Combo)
Mississippi Steamboat: Duke191
Crazy Crazy Loving: Duke 191

この Freezeってのは Albert Collinsにタッチの差で先行発売され、その割りを喰ったのか、あまりパっとしなかったそうでございます。
相手が Collinsじゃあねえ。
一説では、Fenton Robinsonがこの Larry Davisを Little Rockの Flamingo Clubで「発見し」、一緒に演奏していたところ、それを見た Bobby Blandが Dukeの Don Robeyに紹介したことで録音につながった、と。
もちろん、このときに Larry Davisは「あの」Texas Flood を、ってワケですね。
続く 1959年には、これも Dukeで

As the Years Go Passing By: Duke 312
School Boy: Duke 312

をレコーディング。ここではピアノが氏名不詳となり、代わってドラムが Jabo Starksと判明しています。そして同じ 1959年ながらやや間をおいて

Tennessee Woman: Duke 329
You've Got To Pass This Way Again: Duke 329

を録音。David Deanの他にもうひとりサックスを入れ、ギターも Johnny Brownと Earl Grantの二人を投入。ただしベースは Larry Davisではなく、Hamp Simmons、ドラムはNat Kendricksでピアノはやはり、の James Booker。
この 1959年録音の 4曲は、Rounder 2031、ANGELS IN HOUSTONに収録されています(タイトルの Angels In Houstonは Larry Davisの同名の曲から。当然それと、他にも Fentonがギターで参加した Texas Floodに I Triedも収録)。

1961年には Chicagoに移り、そこでスタジオ・ミュージシャンであった Reggie Boydに師事してギターのレッスンにハゲんでおります。この時期の彼はレコーディング・セッションでサイドを務めたり、またライヴでもバッキングに回ったりしていたようですが、そんな彼にレコーディングのチャンスが巡ってきたのは 1966年のことでした。
USAに吹き込んだのは

Say You're Leavin' Me: USA 842
From My Heart To You: USA 842

の 2曲で、このときのバックは、ピアノが Detroit Jr.、Bobby Andersonのベースに Billy Davenportのドラム、サックスに B. Gardner(他一名)です。
さらにその翌年には、彼の代表作となる、Somebody Loan Me A Dimeは USAに吹き込んだ翌年の 1967年の Palosへ吹き込みで「この世に生を受けた」ものなのですが、1967年、ということでは資料によって、Giantへの Farmer's Sonと Let Me Rock You To Sleepの吹き込みが「先である」としているものもあります。

Somebody Loan Me A Dime: Palos 1200
I Believe: Palos 1200

ここではピアノに Albert Gianquinto、ベース Bobby Anderson、ドラムが Sonny Freemanにテナーの Bobby Forte、トランペットの Kenneth Sandsも加えたバックでした。
そして Giantでは Wayne Bennettのギター以外パースネル不明のピアノ、ベース、ドラムそしてブラスで

Farmer's Son: Giant GT-702
Let Me Rock You To Sleep: Giant GT-702

を吹き込み。続いてこれも同じく Giantに

You're Cracking Me Up: Giant GT-705
I Put My Baby In High Society: Giant GT-705

を録音しています。ただ、この録音は 1967年とも 1968年とも言われ、また別テイクの存在を示唆している資料も存在します。
そして 1969年には、これも Giantへ

There Goes My Baby: Giant GT-1122
Fen-Ton A Soul: Giant GT-1122

を吹き込みしています。この一連の Giant録音では Wayne Bennettのギター以外、ピアノ(最後の曲だけはピアノの替わりにオルガンになってますが)、ベース、ドラムそしてブラスの一切のパースネルが不明です。
ところで、この吹き込みとの前後関係は不明ながら、その同じ年に、彼はクラブでの演奏がはねて、帰宅する途中で自ら運転するクルマで、ひとりの黒人女性を轢いてしまい、その女性(高齢だったと言われる)が死亡してしまったために過失致死罪を適用され、裁判に持ち込まれてしまったのでした。

1970年の Tennessee州 Nashville、Music City Studioでのセッションでは、プロデュースした Tim Drummondってのがよほどのスットコドッコイだったんでしょうか?ナゼか Fentonにはギターを「弾かせず」、かわりに出来損ないのレッド・ツェッペリンみたいなギターを弾く Mac Gaydenと Troy Seals(どっちが主犯か不明ですが)に「御任せ」にしてしまい。ベースは自分(つまり Tim Drummondね)が担当し、ハープの Ed Killis( Kollisとしている資料もある)にドラム Karl Himmell、そして氏名不詳のブラスという布陣で

The Gateway: Sound Stage 7 SS7-2654
Leave You In the Arms: Sound Stage 7 SS7-2654
Sideman: Seventy 7 77-109
I'm Not Through Lovin' You: Seventy 7 77-109
Give You Some Air: Seventy 7 S7 2001-S
Somebody Loan Me A Dime: Seventy 7 77-122
Let Me Come On Home: Seventy 7 77-105
The Sky Is Crying: Seventy 7 77-105
Smokestack Lightning: Seventy 7 S7 2001-S
Little Red Rooster: Seventy 7 S7 2001-S
Moanin' For My Baby: Seventy 7 S7 2001-S
Don't Start Me Talking: Seventy 7 S7 2001-S
Stormy Monday: Seventy 7 S7 2001-S

を録音しています。
当初の Seventy 7(ここまでがレーベル名で「セヴンティ・セヴン」と言う) S7 2001-Sのライナーには Give Me Some Airだけは Memphisの Fame Studioで録られた、と記載されていた(未確認)そうですが、ある資料では、周辺の証言によって、それは事実ではないようだ、としてありました。
また別な資料では Memphisで録音したのは Give Me Some Airではなく、翌1971年に録音された Little Turchで、おそらくそれと混同しているのでは?という指摘もなされています。
現実にその 1971年の Memphis、Fame Studio録音から上の Somebody Loan Me A Dimeのシングルのカップリング曲も選ばれていますから、かなりごっちゃになっているのかも?
ただし、この 1971年録音では Fentonにもギターが「渡され」てはおります。

She's A Wiggler: Seventy 7 77-1
Little Turch: Seventy 7 S7 2001-S
Mellow Fellow: Seventy 7 77-1
I Wanna Ooh!: Seventy 7 77-1
Laughing And Crying Blues: Charly CD BM 41
I Fell In Love One Time: Charly CD BM 41

ここでは Mark Tidwell( Alt:Titwell )のギターが加わり、キーボードに Sandy Kaye、ベースが Neal Dover、ドラムは R."Tarp" Tarrantとなっています。
この Memphis、Fame Studio録音は「まとも」。
収録アルバムは Charly CD BM 41、Mellow Fellow。ただし「もれなく」キョーフの Nashville録音もついてきますので、その落差をお楽しみいただけるかと・・・

次のレコーディングは、ハーピストの Mac Simmonsのレーベル PMに行われ

Find A-Way/Crying the Blues

の 2曲だけが PM 106としてリリースされています。
しかも、それはどうやら、この 2曲だけには Mac Simmonsが参加しているかららしく、それ以外のナンバー

Blue Monday Blues/One Room Country Shack/Nothing But A Fool/You Don't Know What Love Is

は、後に P-Vine PLP-9001Mellow Blues Geniusに収録されたことで「ようやく」陽の目を見ています。(あ、蛇足ながら、この Mellow Blues Geniusってのは「日本でだけ」通用するキャッチ・コピーらしく、海外のサイトでは、なにかってえと「日本人の言うところの Mellow Blues Genius」って引用が出てきます。そんだけ日本人って Fentonがお好きなようで・・・ところで PMでの最後の You Don't Know What Love Isだけ、Fenton以外のギターが二人から一人になっているらしいので別な日の録音では?としている資料もあります)

そして次こそ、彼自身も満足できたのではないか?と言われる Alligatorでの録音、アルバム Somebody Loan Me A Dimeとなります。
ここではスットコドッコイなプロデューサーに無理難題を押しつけられることもなく、むしろそのカタキをとるようなリメイクも含め、充分に彼らしさが発揮された、と言えるでしょう。
1974年の 7月から 8月にかけて Chicago、Sound Studio。サイドに Mighty Joe Young、キーボードは Bill Heid、ベース Cornelius Boyson、ドラムは Tony Gooden。
同年 9月12日、オリジナル・テイクの上にブラスとして Norval D. Hodgesと Elmer Brown Jr.( tp.)、テナーの David Baldwin、トロンボーンの Bill McFarlandを同スタジオでオーヴァーダブしています。

Pretty Lady( take 1&2)
You Don't Know What Love Is( take 1)
You Don't Know What Love Is( take 2: over-dubbed ): Alligator AL-4705
Somebody Loan Me A Dime( take 1)
Somebody Loan Me A Dime( take 2): Alligator AL-4705
Candy Kisses( take 1&2)
Checking On My Woman( take 1)
Checking On My Woman( take 2): Alligator AL-4705
The Gateway( take 1)
The Gateway( take 2): Alligator AL-4705
You Say You're Leaving( over-dubbed): Alligator AL-4705
My First Love
As the Years Go Passing By( take 1&2)
Crying the Blues
I've Changed( take 1&2)
I've Changed( take 3): Alligator AL-4705
Country Girl( take 1)
Country Girl( take 2): Alligator AL-4705
Directly From My Heart To You( over-dubbed): Alligator AL-4705
Gotta Wake Up( take 1)
Gotta Wake Up( take 2: over-dubbed): Alligator AL-4705
Little Turch( over-dubbed): Alligator TD-13(?この TD-13というのは未確認)
Going To Chicago: Alligator AL-4705
Years Gone By
Texas Flood( over-dubbed): Alligator AL-4705

これとは別にアコースティック・ギター弾き語りの

Beautiful Stranger

という曲を 8月20日に吹き込んでいるようです。
この 1974年の Alligatorのアルバムによってようやく彼は正統に評価されるようになった、と言えるのでしょうが、その翌1975年の 2月には、先の事故について過失致死罪で実刑判決が下され、刑務所に収監されてしまうことになったのでした。
本来の意味での「犯罪者」ではなく、受刑態度が良かったこと、また周囲からの減刑嘆願なども功を奏して僅か 8ヶ月で仮出獄することが出来ました。
しかし、この一件が後々、とんだ騒動に発展してしまうワケで・・・

1976年 1月28日には Giles Oakleyが監修して、アメリカ各地、ミシシッピー・デルタに始まり、都市と密接に関連したブルースと言う視点で St Louis、Chicago、Atlantaと採り上げてゆく BBCの TVドキュメント、THE DEVIL'S MUSIC: A History of the Bluesの Chicago編に Fentonも選ばれ(他には Billy Boy Arnoldや the Aces)二曲を収録しています。キーボード Bill Heid、ベースは Bob Stroger、ドラム Jesse Green。

Somebody Loan Me A Dime
You Don't Know What Love Is

この二曲は Red Lightnin' RL 0033に収録されました(現在は Indigo IGOTCD 2537に収録)。
その翌年、1977年 7月17日には再び Alligatorに

Going West: Alligator AL-4710
I Wigh For You: Alligator AL-4710
I'm So Tired: Alligator AL-4710
You Don't Know How I Feel

を吹き込んでいます。Chicago、Curtom Studio。このときのバックは、サイド・ギターに Steve Ditzell、キーボードに Bill Heid、ベースが Larry Exum、ドラム Ashward Gates, Jr.。
そして 8月 2日には残る

I Hear Some Blues Downstairs: Alligator AL-4710
Just Little Bit: Alligator AL-4710
West Side Baby: Alligator AL-4710
Killing Floor: Alligator AL-4710
As The Years Go Passing By: Alligator AL-4710
Tell Me What's The Reason: Alligator AL-4710
Look On Yonders Wall

を録音。こちらにはブラスが入っていますが、レコーディングから参加しているようです。そうして完成したのがアルバム、I Hear Some Blues Downstairs: AL 4710。
いえね、別にいいんですけど、この Chuck Nittiによるジャケットのイラストが、どうにも違和感があってねえ・・・
それはともかく、この I Hear Some Blues Downstairs: AL 4710を出して、さあ勢いに乗ってブッキング!というところで躓いたのが日本の法務省によって入国が許可されず、急遽 Eddie Taylorと the Acesというかたちになったあの騒動、日本のブルースファンにとっては「大きな」事件だったのですが、アメリカのブルース・サイトではどこも無視なんですねえ。
そりゃまあ、確かに、入国許可を出さなかったのはキミらが選んだ政府なんだからこっちはカンケー無い、ってとこなんでしょうか?おかげで、こちとら、なんか新しい事実でも出てくるか?と期待したのがもろ、コケちゃいましたよ。

ま、ケッキョクは日本側もインディーズのプロモーターだし、Fentonだってちゃんとした事務所やらマネージャーなんて存在せず、Bruce Igrauerがメンドー見てたらしいんで、そこらでツメの甘さがあったんでしょーかねえ?当時の雑誌の記事などを見てもどうも「釈然としないもの」が残るんですが・・・

それはともかく、この一件で「明らかに」日本における Fenton Robinson人気(?)は退潮気味になったのは事実でしょう。そして、それがアメリカ本国にもフィードバックされたとも思えないのですが、Fenton Robinsonがそれ以上 Alligatorに吹き込むことは無くなりました。

次に彼がレコーディングしたのは 1984年 2月 7日のことになります。
オランダのレーベル、Black Magicのために Chicago Traxで、ギター Larry Burton、ベースに Aron Burton、ドラムが Roy Robertsonでした( * — キーボードの Leo Davisが参加)。これには三日後の 2月10日、ホーン・セクションや Junior Wellsのハープがオーヴァーダブされています(ただし録音時日が後述のように 3月にまで渡っているとすると、この 2月10日オーヴァーダブ説はちとアヤしくなる)。

The Feeling Is Gone Black Magic 9005
Crazy Crazy Lovin' ( take 1)
Crazy Crazy Lovin' ( take 2) Black Magic 9005
Laundry Man ( Horns over-dubbed) Black Magic 9005
Can't Hold On Much Longer ( Junior Wells over-dubbed) Black Magic 9005
Slow Walkin'*( Horns over-dubbed) Black Magic 9005
I Lost My True Love*( Horns over-dubbed) Black Magic 9005
Sinner's Prayer* Black Magic 9005
Night Flight ( take 1)
Night Flight* ( take 2) Black Magic 9005
School Boy ( take 1)
School Boy ( take 2) Black Magic 9005
I Found Out Yesterday (Horns over-dubbed) Black Magic 9005
Crazy Crazy Lovin' ( take 3)

この Black Magic 9005、Blues In Progressはアメリカでは Alligator AL 4736、Nightflightとしてリリース。上の曲名の I Lost My True Love以降は 2月 8日録音としている資料も存在しますが、Alligatorでは 1985年の 2月と 3月に録音された、としています。

しかし、1984年と言えば、あの Kinsey Reportが結成された年であるし、時はまさに 1980年代 Chicagoの「あの」ロックのエッセンスをも吸収したパワフルなブルースへ、と傾斜を強めていくそのさなかであった、とも言えるワケで、そんななかで Fenton Robinsonの「じゃずぅい」なサウンドはクラブ・シーンなどでも聴衆を「落胆させ(とハッキリ書いておるアメリカのサイトがありました!)」どんどん支持を失っていったもののようです。
それでもそんな彼のブルースを迎えてくれるオランダで 1989年 4月、「最後のアルバム」Black Magic 9012、Special Roadが吹き込まれたのでした。
サイドにはおそらくオランダの?と思われる Willem Van Dullemenのギター、Leon Ragsdale Jr.のキーボード、そしてベースは Anthony "Big G" Hardesty、ドラムは Robert Covingtonでした。曲は

7-11 Blues / Love Is Just A Gamble / Special Road / Too Many Drivers / Baby Please Don't Go / Crying the Blues / Find A Way / R.M. Blues / Slick And Greasy / Blue Monday / Money Problem / Nothing But A Fool / Little Touch

この後、Fenton Robinsonは、ついに「商業音楽」のシーンを離れ Illinois州 Springfieldに移って、そこで若者たちにブルースの基本を教える活動に入っています。
1997年11月25日に死亡していますが 1995年の Chicago Blues Festivalでは 10万人と言われる大観衆の前に姿を表し、それが彼の最後のステージとなったのでした。


reserched by Othum: Blues After Dark


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# by blues-data | 2006-04-24 09:03
Muddy Waters
いつもワタクシの BLUES日記を読んでいただいている方ならば、とっくにご存知のことでしょうが、ワタクシ、どうにもこうにもマディが嫌いでございます。
嫌いだからと言って悪口をたっぷり書くってのもつまらないし、逆に生理的な嫌悪感を無理矢理に飲み込んで、吐き気するのをこらえながら「おざなり」な Biographyを書くなんてのも「やなこったい」ですから、その代わりに、ここを見たらいいんじゃないの?っちゅう参照サイトを紹介することといたしましょ。
・・・などと、わざと神経を逆撫でするよなことを書いておりますが、なにしろワタクシ、マディ本人以上に「マディ教信者」が嫌いなもんで、一層ことを荒立てておるワケですが、ま、蓼喰う虫も好きずき、なかには、誰からも「これはスゴいんだぞ!」なんて言われてないのに「ナチュラルに心酔しちゃった」方だっておられるハズでございます。
そのような無垢なココロで、マディのことを調べててここに「来てしまった」方に罪はございません。
以下のリンクからそれぞれのサイトに行っていただければ、かなりなことは判ると思います。
ただし、リンクを確認したのは本日、2006年 2月14日現在でございますから、例えば二つ目の Wikipediaからのリンクのように日が経つとリンク切れになる可能性もあります。可能な限りフォローはしたいと思いますが、万一リンク切れになっていた場合は「ごめんなさい」でございます。

http://www.muddywaters.com/
オフィシャル・サイト:マディ風 鮭コロッケの作り方まで!

http://en.wikipedia.org/wiki/Muddy_Waters
Wikipediaによる「クールな」紹介。リンクが多く面白い。

http://blueslyrics.tripod.com/artistswithsongs/muddy_waters_index.htm
マディの曲の歌詞がいっぱい!(全曲ではないけど)

http://www.rockhall.com/hof/inductee.asp?id=208
タイム・ラインもまとめられ、イッパツで全体像が掴める(か?)ページ。

http://www.angling.net/8000-muddywaters.html
これは世のマディ好きから「ばかもんっ!これは違うだろっ!」と言われそなサイト。
モチロン承知の上でワタクシがわざと入れてますんで、このサイトには一切セキニンはありません。
あ、りっきーさんはこっちのほーが好きかも?


ま、それだけではナンですから、Chessにおける彼のシングルのデータでも載せときましょかね。
なんかの役に立つかもしんないですから。

SINGLES
Chess 1426: 1950: Rollin' Stone / Walkin' Blues
Chess 1434: 1950: You're Gonna Need My Help / Sad Letter
Chess 1441: 1950: Louisiana Blues / Evans Shuffle
Chess 1452: 1951: Long Distance Call / Too Young To Know
Chess 1468: 1951: Appealing Blues / Honey Bee
Chess 1480: 1951: My Fault / Still A Fool
Chess 1490: 1951: Early Morning Blues / She Moves Me
Chess 1509: 1952: All Night Long / Country Boy
Chess 1514: 1952: Please Have Mercy / Looking For My Baby
Chess 1526: 1952: Standing Around Crying / Gone To Main Street
Chess 1537: 1953: She's All Right / Sad, Sad Day
Chess 1542: 1953: Who's Gonna Be Your Sweet Man / Turn The Lamp Down Low
Chess 1550: 1953: Mad Love / Blow, Wind, Blow
Chess 1560: 1954: I'm Your Hoochie Coochie Man / You're So Pretty
Chess 1571: 1954: Just Make Love To Me / Oh Yeh!
Chess 1579: 1954: I'm Ready / I Don't Know Why
Chess 1585: 1955: Lovin' Man / I'm A Natural Born Lover
Chess 1596: 1955: I Want To Be Loved / My Eyes Keep Me In Trouble
Chess 1602: 1955: Manish Boy / Young Fashion Ways
Chess 1612: 1955: Trouble, No More / Sugar Sweet
Chess 1620: 1956: Forty Days And Forty Nights / All Aboard
Chess 1630: 1956: Don't Go No Farther / Diamonds At Your Feet
Chess 1644: 1956: I Got To Find My Baby / Just To Be With You
Chess 1652: 1957: Got My Mojo Working / Rock MeGood News / Come Home, Baby
Chess 1667: 1957: Good News / Come Home, Baby
Chess 1680: 1958: I Live The Life I Love / Evil
Chess 1692: 1958: I Won't Got / She's Got It
Chess 1704: 1958: Close To You / She's Nineteen Years Old
Chess 1718: 1959: Mean Mistreater / Walking Thru The Park
Chess 1724: 1959: Ooh Wee / Clouds In My Heart
Chess 1733: 1959: Take The Bitter With The Sweet / She's Into Somethin'
Chess 1739: 1959: Recipe For Love / Tell Me, Baby
Chess 1748: 1960: I Feel So Good / When I Get To Thinking
Chess 1752: 1960: I'm Your Doctor / Ready Way Back
Chess 1758: 1960: Love Affair / Look What You've Done
Chess 1765: 1960: Tiger In Your Tank / Meanest Woman
Chess 1774: 1960: Got My Mojo Working / Woman Wanted
Chess 1796: 1961: Messin' With The Man / Lonesome Room Blues
Chess 1819: 1962: Going Home / Tough Times
Chess 1827: 1962: Muddy Waters Twist / You Shook Me
Chess 1839: 1962: You Need Love / Little Brown Bird
Chess 1862: 1963: Five Long Years / Twenty-Four Hours
Chess 1895: 1964: The Same Thing / You Can't Lose What You Never Had
Chess 1914: 1964: Short Dress Woman / My John The Conqueror
Chess 1921: 1965: Put Me In Your Lay-A-Way / Still A Fool
Chess 1937: 1965: My Dog Can't Bark / I Got A Rich Man's Woman
Chess 1973: 1966: I'm Your Hoochie Coochie Man / Corrina, Corrina
Chess 2018: 1967: When The Eagle Flies / Birdnest On The Ground
Chess 2085: 1970: Going Home / I Feel So Good
Chess 2107: 1971: Making Friends / Two Steps Forward
Chess 2143: 1973: Garbage Man / Can't Get No Grindin'

え〜、じゃついでなんで・・・

ALBUMS
Chess 33-1427: 1957: The Best Of Muddy Waters
Chess 33-1444: 1960: Sings Big Bill Broonzy
Chess 33-1501: 1965: The Real Folk Blues
Chess 33-1507: 1966: Brass And The Blues
Chess 33-1511: 1966: More Real Folk Blues
Chess LPS-127: 1969: Fathers And Sons
Chess 33-1531: 1970: They Call Me Muddy Waters

V/Aでも入ってるのはありますが、それは割愛いたしました。なんかアヤしいの(?)も含めるとけっこー有りそうだし。


reserched by Othum: Blues After Dark


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# by blues-data | 2006-02-14 19:13
Willie Dixon
Willie James Dixonは 1915年 7月 1日、その 2年半後には Johnny Youngもそこで生まれている Mississippi州 Vicksburgで 14人の子供たちの 7番目として生まれています。
母の Daisyというひとが結構ユニークだったようで、目にしたものをすぐに「詩」にする、という習慣があったらしく、それは Willie Dixonにも受け継がれ、それが後のソングライターとしての彼の資質の形成に寄与していたのかもしれません。
また一部の資料では、彼が 7歳のときに Little Brother Montgomeryのピアノ演奏に触れ、それが大きな影響を与えた、としています。
その彼は 10代に入ってからは地元のバンドのために曲を書き始め、それで多少は稼ぎ始めていたようですが。
同時に地元局に番組まで持っていたゴスペル・カルテット the Union Jubilee Singersのとりまとめ役だった Theo Phelpsのもとで音楽理論、わけてもハーモニィについて学び、低音の声をかわれて the Union Jubilee Singersの一員として参加していたようですから、「歌」との接点はそれが最初かもしれませんね。
ただ、詳しくは語られていないようですが、どうも法に触れる行いでもあったのでしょうか(そのへんはやや婉曲に示唆されておるだけで、具体的にどのような事情であったかは不明)、そこから Chicagoに旅立った、としている資料も存在します。

ただ、それを 1932年としている資料もある一方では、1936年( Alt. 1937年)に彼がボクシングで Illinois州の Golden Gloves Heavy-Weight Championとなったことが契機である、としているものもあり、案外、初上京が 1932年、腰を据えたのが 1936(あるいは 1937)年ということかもしれません。
ただ、ボクシングそのものは、僅か 4試合を行っただけでマネージャーとの意見の相違などがあって 1940年に引退したらしく、それ以前にジムに遊びに来ては時に一緒に演奏もしていたギターの Leonard "Baby Doo" Castonとデュオを組んで、そこから音楽に集中した生活が始まりました。
当初は Castonのギターと Dixonのヴォーカルで街頭に立っていたようですが、後にはベースも弾き始めたようです。
そこにメンバーを増やし、the Five Breezes(うぷぷ。「そよ風」五人衆ですか?)となり、そのグループでは Bluebirdへの 8曲の録音も経験。
ただしその翌年、Dixonは兵役に就くことを拒否したために Chicagoのクラブ、Pink Poodleでの出演中にステージから拘引され、そのまま収監されてしまいます。
ようやく 1942年に解放されると、こんどは the Four Jumps of Jiveを結成。
1943( Alt. 1945)年にはふたたび Castonともう一人のギター Bernardo Dennisで the Big Three Trioを結成しています。この Bernardo Dennisは後に Ollie Crawfordに変わっていますが。

そのような自分のグループでの演奏以外にも、彼は請われてクラブなどでのブルースのギグでベーシストとして参加していたようです。
そのクラブには、後に Chessを興すこととなる Chess兄弟の経営していた店もあったらしく、おそらくそこで兄弟は Willie Dixonの存在を知ったのではないでしょうか。
Aristocratを立ち上げた兄弟はさっそく Willie Dixonを彼らの専属ベーシスととして雇い入れています。その Aristocratでの彼の初録音は、1948年11月10日の Robert Nighthawk名義

Down the Line: vcl.に Ethel Mae -U7127
Handsome Lover: 同上 -U7128
My Sweet Lovin' Woman: Chess 1484( 1951年にリリース)-U7130

の三曲で、ピアノに Ernest Lane、ベース Willie Dixonで吹込んだもの(ただし Nighthawk自身の回想では、ベースが Willie Dixonではなく Ransome Knowlingだった、としていますが・・・)。
ま、本人が「違う」って言うのはブルース業界(?)では良くある話で、それを「本人が言うんだから間違いない」と考えるか、あるいは「本人のあやふやな記憶より、周囲の証言に整合性があるならそちらを採る」のか、は意見が別れるところでしょう。
ワタクシの場合、「あの」偉大なる(?)Screamin' Jay Hawkinsセンセに鍛えられたせいか、どうしても本人の主張を軽視する傾向があるようでして・・・

さて、サウスサイドのクラブ El Casino Club、El Mocambaなどでのギグなどが契機となってポーランドからの移民だった Leonard & Philの Chess兄弟と知己を得て、いわば Chess専属のスタジオ・ミュージシャンとなった、という流れで著述いたしましたが、一方では Leonard "Baby Doo" Castonらとの Big Three Trioでの活動( 1947年に Bullet Recordsから Columbia Recordsに契約し、ギグを行っていた)の「際に」Chess兄弟に見いだされた、としている資料もあります。
それによると、当初 Willie Dixonはパートタイムのミュージシャンとして雇われたのが、the Big Three Trioが解散して後 1952年に、フルタイムで Chessに所属したのだ、と。
つまり、前述の Robert Nighthawkとのセッションではまだパートタイムのスタジオ・ミュージシャンであった、と言うことになります。
このあたりは、どうもいろんな証言が整合せず、また Chess兄弟以前に Bluebirdの Lester Melrose、さらに Mayo Williams( 1920年代には Paramountに関わり、1930年代には Deccaのプロデューサー)のもとでも、例えば Tampa Redや John Lee Williamsonなどとの録音を行っていたワケですが、その期間については意外と軽視している資料が多いようで、そこからの軌跡としてトレースして行く視点に欠けていることなどからも、とかく Willie Dixonというと Chess、というやや安易な決めつけがあるようで、それが多少、証言にバイアスを与えているのではないか?という気もいたします。

それはともかく、その Willie Dixonの最初の、かつ重要なマーカーとなったのが、かの名作(?)Hoochie Coochie Man( Chess 1560 "I'm Your Hoochie Coochie Man" / "You're So Pretty"、R&Bチャート 3位)でしょう。
1952年、マディによって吹き込まれたこの彼の作品によって、Chessのフルタイム契約となった、としている資料が多いところからも、やはりこの作品の存在は(現代につながるロック・シーンにおいてさえ)大きかったようです。
この時期、他にも Little Walterの "My Babe"( R&Bチャート第一位に 5週間!)に "Mellow Down Easy"やウルフの "Evil"など、それまでのブルースとは少し視点の違う「新鮮な」作品を多数生み出しています。
また Chess兄弟は彼の楽曲のパワーを信頼し、所属アーティストに彼の書いた曲を歌わせ、また録音現場でのコーディネーター、あるいはプロデューサー、さらにはベーシストとしても重用しておりました。

ただし、そのことが即、彼の生活面での向上にはつながらなかった(当時 Chessが Willie Dixonに支払っていた「週給」は僅か 100$と言われています)、という証言もあり、その辺の経済的な側面が原因だったのか、1956( Alt. 1957)年に Willie Dixonはいったん Chessを離れ、Eli Toscanoの興した Cobraに移ります。そこでは Otis Rushの Cobra録音にも寄与しているのですが、この Cobraそのものは、みなさまもご存知のとおり、「悲劇的な終焉」を迎えてしまうワケで、結局 Willie Dixonは Chessへと舞い戻っております。

また、このとき Willie Dixonは Cobraから Otis Rushを連れて来たよなものなのですが Chessでは「せっかくの」Otis Rushを活かすことが出来ず、シングルとしてリリースされたのは "So Many Roads, So Many Train"と "I'm Satisfied"のカップリング CHESS 1751と、同じく "You Know My Love"と "I Can't Stop, Baby"の CHESS 1775という 2枚のシングル、計 4曲だけで、残る 2曲 "So Close"と "All Your Love"は Albert Kingとのコンビ・アルバム Door To Doorでようやく陽の目を見た、という状態です。
いわゆる 50年代シカゴ・ブルース(ってのにめちゃめちゃ「入れ込んで」おられる方もいるよーですが)の旗手、と言ってよい Chessですが、一方では Otis Rushや Buddy Guyなどのニュー・ウェーヴを掬い上げるセンスには欠けていたのかもしれません。

時代は 1960年代に入り、ブルースの現場では次第にその機材面で変化が定着して行きます。
例えばアンプリファイド・ハープやギターのエレクトリック化などによってバンドの「総エネルギー量(?)」がアップするにつれ、当然ベースにもエレクトリック化の流れが押し寄せてくるワケで、そうなると Willie Dixonのウッド・ベース奏者としてのプレゼンスは徐々に低下し始めました。

そのままでは彼の存在はフェイド・アウトしていくだけだったのでしょうが、時あたかも(!)Horst Lippmannがブチ上げた American Folk Blues Festival*に深く関わることによって Willie Dixonは新たな活路を見いだした、と言うことが出来るかもしれません。

* — American Folk Blues Festival。もともとはドイツのジャズ系の版元だった Joachim Ernst Berendが、ヨーロッパの聴衆にブルースもウケるんじゃなかろか?と発案したことに始まり、それを受けてアメリカのプロモーター、前述の Horst Lippmannと Fritz Rauによって 1962年にパッケージ・ショーとして組まれ、ヨーロッパに送り出されました。
この一行を実際にまとめ上げ、ショーとして構成したのが Willie Dixonであった、と言われています。
この企画は 1972年まで続き、これによってアメリカのブルースがヨーロッパに広まったと同時に、Willie Dixonの評価も高くなった、と言うことが出来るでしょう。

その 1962年は American Folk Blues Festivalのスタートした年でもありますが、同時に彼が the Blues Heaven Foundationを設立したのもこの年である、とする資料がありました。
しかし、一般には Willie Dixonがシカゴ、サウスサイドの Amos Alonzo Stagg Schoolに於いて、若い世代にブルースをしっかり伝えようとする「 Blues In The School」という試みを開始したのが 1970年、そして Blues Heavenが 1984(あるいは 1982?)年から本格的な活動を開始した、という説の方が主流のようです。
だいいち 1962年の Willie Dixonには、まだそれほどの(特に経済的)余力は無かったハズですから。

むしろ 1962年というのは、彼が、これもマディに提供したナンバー "You Shook Me"が録音された年、として輝きを放つ、と言えるかもしれません( Chess 1827、リリースは 1964年。ただし発売当時の A面は "You Shook Me"ではなく、"Muddy Waters Twist"だったハズ)。
その "You Shook Me"は 1968年に録音されたレッド・ツェッペリンのファースト・アルバムで採り上げられ、さらにそこにはもう一曲、"I Can't Quit You, Baby"までが収録されていたのでした。
もちろん、その背景にはヨーロッパを襲った(?)American Folk Blues Festivalという「ブルース・パッケージ」の存在が(そして同時にそれをまとめ上げた Willie Dixonの存在も)大きく影響を与えたイギリスでの「ブルース・ブーム」があったワケですが。
そして実際にはツェッペリンに先駆けることほぼ 5年、あのローリング・ストーンズが、これもまた彼のナンバー "Little Red Rooster"をチャートの 1位に送り込んだのは 1964年11月のことです( F-12014、カップリングは "Off The Hook"!もちろんストーンズがブルースを採り上げたのはこれが最初ではなく、それ以前にも 1964年 2月の "Little By Little"なんてのがありますが)。

Willie Dixonにとっての次のマイルストーンは Koko Taylorの "Wang Dang Doodle"でしょうか?これは Chessではなく、Checker 1135として 1966年に発売され、すぐにチャートを上昇して最高位は R&Bチャートの 4位を記録しています。
ところで、この 1960年代の最後に、彼は「自分自身の」アルバムを Columbiaに吹き込みました(ただし、それが彼の初アルバムではなく、実際には 1960年に Bluesvilleに Willie's Bluesを吹き込んでいる)。それが 1970年リリースの I Am the Blues(日本盤は CBS SONYから SOPJ-97として 1975年に発売。収録曲は Back Door Man / I Can't Quit You, Baby / The Seventh Son / Spoonful / I Ain't Superstitious / You Shook Me / I'm Your Hoochie Coochie Man / The Little Red Rooster / The Same thing)です。そしてそれに呼応するかのごとく the Chicago Blues All-Starsを率いてヨーロッパ・ツアー。

Willie Dixonはそれまで、どちらかと言うとレコード会社にせよ、いろいろな興行主にせよ、彼らの言うとおりに働き、その代価を得ていたワケですが、さすがに 1970年代ともなると、いかに自分のした仕事に対して、「途中で」かなりの金額が「くすね」られているか、と言うことに気づき出しています。
たとえば、なぜツェッペリンは "Bring It On Home"をタダで使っているのか?また "Whole Lotta Love"だって彼の "You Need Love"のパクリじゃないのか?
これらはすべて法廷に持ち込まれ、結局、示談が成立して和解することが出来ました。それが 1977年のことです。
1984( Alt. 1982)年には NPO、the Blues Heaven Foundationを設立し、ブルースマンの権利を守るとともに学習システムを整備し、またプロモートも行う活動を本格的にスタートさせています。

Willie Dixonの Blues In the Schoolを受け継いだ、と言えるのが Billy Branch*かもしれません。
Billy Branchは Willie Dixonの Chicago Blues All-Starsにも 1970年代末から参加し、多くの薫陶を得てきていますから、それも当然の流れだったのでしょう。

1988年にはアルバム Hidden Charms — Bug Music/Capitol C1-90595(そのタイトルから誤解されるのは仕方ないのですが、このアルバムの収録曲は Blues You Can't Lose / I Didn't Trust Myself / Jungle Swing / Don't Mess With the Messer / Study War No More / I Love the Life I Live / I Cry For You / Good Advice / I do the Job、となっており、そこには「あの」 Hidden Charmsが「入っていない」んですねえ)を発表し、これは同年の Grammy Awards、Best Traditional Blues Recording部門を獲得しております。
続く 1989年には Don Snowdenとの共著で自伝『 I Am the Blues: The Willie Dixon Story』を刊行し、また Chessからは彼の書いた曲を集めたボックス・セットも発売されました。そこに収録されたのは、まさに彼の楽曲の集大成と言うことができます。

My Babe: Little Walter: Checker 811: 1955
Violent Love: The Big Three Trio: unreleased
Third Degree: Eddie Floyd: Chess 1541: 1953
Seventh Son: Willie Mabon: Chess 1608: 1955
Crazy For My Baby: Himself: Checker 828
Pain In My Heart: Himself*: Checker 851: 1957
I'm Your Hoochie Coochie Man: Muddy Waters: Chess 1560: 1954
Evil: Howlin' Wolf
Mellow Down Easy: Little Walter: Checker 805 B-Side of "Last Night": 1954
When the Lights Go Out: Jimmy Witherspoon: Checker 798: 1954
Young Fashioned Ways: Muddy Waters: unreleased
Pretty Thing: Bo Diddley: Checker 827: 1955
I'm Ready: Muddy Waters: Chess 1579: 1954
Do Me Right: Lowell Fulson: Checker 820 B-Side of "Lonely Hours": 1955
I Just Want To Make Love To You: Muddy Waters: no 45's ?
Tollin' Bells: Lowell Fulson: Checker 841 B-Side of "It's Your Fault, Baby": 1956
29 Ways: Himself: unreleased
Walkin' the Blues: Himself*: Checker 822 B-Side of "If You're Mine": 1955

—ここまで Disc 1.
続いて Disc 2.は

Spoonful: Howlin' Wolf: Chess 1762 B-Side of "Howlin' For My baby": 1960
You Know My Love: Otis Rush: Chess 1775: 1960
You Can't Judge A Book By It's Cover: Bo Diddley: Checker 1019: 1962
I Ain't Superstitious: Howlin' Wolf: Chess 1823 B-Side of "Just Like I Treat You": 1962
You Need Love: Muddy Waters: Chess 1839: 1962
Little Red Rooster: Howlin' Wolf: Chess 1804 B-Side of "Shake For Me": 1961
Back Door Man: Howlin' Wolf: Chess 1777 B-Side of "Wang Dang Doodle": 1961
Dead Presidents: Little Walter: Checker 1081 B-Side of "I'm A Business Man( Dixon too)": 1964
Hidden Charms: Howlin' Wolf: Chess 1890 B-Sode of "Tail Dragger( Dixon too)": 1964
You Shook Me: Muddy Waters: Chess 1827 B-Side of "Muddy Waters Twist": 1962
Bring It On Home: Sonny Boy Williamson: Checker 1134: 1966
Three Hundred Pounds Of Joy: Howlin' Wolf: Chess 1870: 1963
Weak Brain, Narrow Mind: Himself: 45's unreleased ?
Wang Dang Doodle: Koko Taylor: Checker 1135 B-Side of "Blues Heaven": 1966
The Same Thing: Muddy Waters: Chess 1895: 1964
Built For Comfort: Howlin' Wolf: Chess 1870 c/w "300 Pounds of Joy": 1963
I Can't Quit You, Baby: Little Milton: Checker 1212: 1968
Insane Asylum: Koko Taylor: Checker 1191 B-Side of "Fire": 1968

* — Willie Dixon & His Chicago Blues All-Stars


いかがですか?もうこれだけで彼の偉業の全体像が浮かび上がってきますよね。
しかし彼の仕事はモチロンこれだけではありません。この Chess Boxに収録されていない曲でも、有名なものとしては

Oh, Baby: Little Walter: Checker 793: 1954
Too Late: Little Walter: Checker 825: 1955
Crazy Mixed Up World: Little Walter: Checker 919 B-Side of "My Baby's Sweeter": 1959
I Got My Eyes On You: Buddy Guy: Chess 1753: 1960
Let Me Love You, Baby: Buddy Guy: Chess 1784: 1961
When My Left Eye Jumps: Buddy Guy: Chess 1838: 1962
Too Many Cooks: Jesse Fortune with Buddy Guy: USA 738: 1963
Help Me: Sonny Boy Williamson: Checker1036 B-Side of "Bye Bye Bird"( Dixon too): 1963

なんてとこが挙げられるでしょう。(行末の年表示はいずれもリリース時のもの。録音時ではありません。たとえば Little Walterの Too Lateなど、録音は 1953年だったハズ)
もちろん上記の曲のなかでも、そのミュージシャンは「うんにゃ、これはワシが作ったんじゃ!」などと主張しているのもいるようですが、そんな場合でもその録音には Willie Dixonが立ち会っていたり、あるいはベースとして参加していたりで、現場で彼のアドヴァイスによって「ものになった」、それも言わばその曲の魅力を形造る上で、その根幹に関わるところで彼の「指導」が「運命を決めた」部分がかなり大きい、というケースが充分に考えられます。

ま、なにはともあれ、これらの曲が、どれだけブルース界を彩り豊かにしてくれていることか!
ちょっと面白い!と思った曲がたいてー彼の手になっているんですねえ。

ところで、もともとはルーマニアからの移民であった Charles Aron( 1907-1974)と妻の Evelyn( Evelyn Marks; シカゴ生まれ 1919-1997)の二人が、事業のパートナーとして Fred & Mildredの Brount夫妻と Art Spiegelと一緒に 1947年 4月10日に設立した独立レーベル Aristocratに、近隣のよしみで( Leonard Chessが所有していたクラブ Macombaが隣接していたことで興味を持ち、やがてはビジネスとしての可能性を見出したと言われる)投資し、同年 10月からは販売部門のスタッフとして名を連ね、まず Brount夫妻分の経営権を買い取り、やがて Charlesと Evelynが離婚するとその経営権は Leonardと Evelynが受け継ぎ、その Evelynも 1949年の12月に Art Sheridanと再婚して社を去ったことでついに全権を手中にした Leonard & Philの Chess Brothersは(ただし Phil Chessはこの時点で初めてレコード・ビジネスに関わったようですが) 1950年 6月 3日にその社名を CHESSと改め、そのシリアル・ナンバーを 1425からスタートさせました(この 1425という数字は、彼らが幼年期を過ごした Chicagoの South Karlov Streetにあった「思い出の」住居のあった番地で、後に LPをリリースした際にも同じく 1425からそのシリアルがスタートしています)。
こうして短かったその生涯を通して 292曲を録音し、うち 264曲を(残り 28曲は他社に販売、あるいはリースされた、とされる)世に送り出した Aristocratは Chessという新たな「衣」をまとったワケですが、最初に Aristocratとしてスタートし、後に Chessになった「のではありません」。そこんとこ、よろしく。
さて、1950年に Chessをスタートさせた Leonard & Philの Chess Brothersですが、1952年には(当初の目的としては)主にゴスペルを扱うことをメインにしたサブ・レーベル Checkerをスタートさせています。
ただし Checkerでの初リリースは Sax Mallardの "Slow Caboose"/"Let's Give Love A Chance" — Checker 750でした。この Checkerではそのシリアルが 750からスタートしていますが、その理由については今回、たどり着いておりません。そのうちまた別なことを調べてて、出くわしでもしたら本稿に合流させましょ。
さらに 1955年にはジャズのための Argoレーベルもスタートさせましたが、これについてはイギリスにすでにまったく同名のレーベルが存在することに気づいて 1965年には Cadetと変えました。

こうして 1950年代から 1960年代にかけての「ブラック・ミュージック」を記録し続けた Chessでしたが、 1969年には Chess Brothersがその「すべて」を 6,500,000ドルで General Recorded Tapeに売り払っています。同年10月には Leonard Chessが死亡。
その GRTは 1975年に All Platinumに転売し、マスター・テープは MCAの手に落ちました。

Willie Dixonは 1992年、Californiaの Burbankでその生涯を閉じています。偉大な遺産を残して・・・
彼の遺骸は Illinois州 Alsipの Burr Oak Cemeteryに葬られました。
1997年、彼の未亡人 Marie Dixonは、South Michigan Ave. 2129番地のかっての Chess Recording Studioを購入し、そこをあの Blues Heaven Foundationの本拠地として、未来につなげる「ブルースの遺産」として管理しています。

ところで、彼の本名について、とあるサイトだけ Irene Gibbonsである(!)としているのを発見いたしました。
いったいどこからそのような名前が出てきたのかまったく理解できないのですが、その Irene Gibbonsとは、かってハリウッドの映画界において数々の女優のコスチュームをデザインした女性で、彼女の手がけた女優にはマレーネ・ディートリッヒ、エリザベス・テイラー、ラナ・ターナー、ジュディ・ガーランド、クローデット・コルベールにドリス・デイなどがおります。
ところが、彼女が愛したゲイリー・クーパーが 1961年に死んでからは沈みがちとなり、仕事を終えた後の彼女は某ホテルに偽名でチェック・インし、その 14階の部屋で手首を切って自殺したのです。それが 1962年11月15日のことでした。

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# by blues-data | 2006-02-13 19:20

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