Dion Payton
Dion Paytonですが、どーも情け無いことに Biography、ダレも書いてくれてないみたいで、The New Bluebloodsのライナーしか情報が無いんですよ。
で、それによると、Mississippi州 Greenwood生まれらしいのですが、生年月日は不明でございます。
Chessでのレコーディング(ゴスペル・グループ the Violinairesとして?)も経験しているようですが、その後 Millie Jacksonや Albert King、O.V. Wrightなどとのロードに同行し、Lonnie Brooksが 1983年に吹き込んだアルバムHot Shot でのアレンジのサポートと、ギターでのサイド・ワークで注目されて Alligatorのこのコンピレーションに収録されることとなったもののようでございます。
1985年には自らのバンド 43rd Street Blues Bandを結成し Kingston Minesの週末のハウスバンドとして地元ではかなり知られている存在になりました。
特に Alligatorの V/A、The New Bluebloodsに収録されたナンバー、All Your Affection Is Gone は彼のヴォーカルとサイド・ギターに、Joanna Connor*のリード・ギター、キーボードは Rockin' Tom Heimdal、ベースが Murphy Doss、ドラム Earl Howellというメンバーでしたが、周辺のブルースマンによっても演奏される( Ex. Michael Burks I Smell Smoke)有名な曲となりました。
ただし、この Dion Paytonのステージに触れる機会はあまり多くない( by Alligator Records)そうで、限られたファンには支持されているようです。

*Joanna Connor─1962年 8月31日ブルックリンで生まれ、母の聴いていた Taj Mahalや Jimi Hendrixに影響を受けて 7才からすでにギターを手にして、歌も唄い始めています。
1981年にはプロとなり、ギターの Ken Pinoとともに Pino/Connor Bandを結成し、地元紙には「 Best R&B Vocalist of the Year」に選ばれました。
Chicagoに出てきてからは John Littlejohnのバンドに加わってクラブに出演し始めています。そして 1985年には、この Dion Paytonに招かれて彼のグループ、the 43rd Street Blues Bandに参加、Kingston Minesや Checkerboard Loungeに定期的に出演していました。この All Your Affection Is Goneはその時期( 1987)の録音で、この直後、彼女は自らのバンドを結成し、サックスの A.C.Reedも加えたツアーも行っています。それ以降の彼女については Blind Pigのサイト http://www.blindpigrecords.com/artists/Connor,+Joanna.html で。



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# by blues-data | 2005-09-05 12:05
Detroit Junior
Detroit Juniorこと本名 Emery Williams Jr.は 1931年10月26日に Detroit Juniorという芸名に反し(?) Arkansas州の Haynes( Tennesse州 Memphisから Inter-State Hywy40で西に河を越え、Arkansas州に入って 50kmほどの Forrest Cityから Hywy40を離れ 16kmほど南下したところにある町)で生まれています。
しかし、なんらかの事情で家族はすぐ北上したらしく、彼は Illinois州の南部で子供時代を過ごしたようです。
それが 19才の時にはすでに「 Detroit」で自らのバンド the Blues Chapsを率いていたと言いますから、その間、イロイロなこともあったハズなんですが、どうも、そのあたりのことはどの Biographyでも「すっぽり」抜け落ちてますねえ。
ま、なにはともあれ、そんなワケで(?)音楽活動をスタートさせたらしいのですが、その彼を「発見(?)」し、Chicagoに連れてきたのは( Alligatorの資料によれば) Eddie Boydだ、っちゅうことらしいっす。
それが 1956年のことだったらしいのですが、当初 Eddie Boydが紹介した Chess Recordsは、あまり契約には乗り気じゃなかったらしく、その間に Detroit Juniorは「あの」サックス奏者 J.T.Brownのもとに落ち着き、Club 99で出演し始めました。
そしてそこでの彼は次第に腕を上げ、また知名度の方も上がっていったんでしょね。さらに Little Mack Simmonsとも組むようになり、Cadillac Babyのハウス・バンドとなったことが一つの転機となります。
Cadillac Babyは自らのレーベル Bea & Babyを持っており、それがあの名曲(?) Money Tree を産み出すことになりました。このシングルが出るまでは「ただの」 Little Junior Williamsだったのが、この曲で Detroit Juniorという名前が定着したもののようでございますよん。

ま、Money Tree のローカル・ヒットで Chessは「しまった!」と思ったんでしょか?彼と契約はしましたが、ナゼかあまりリリースには積極的ではなかったようで、結局 Detroit Juniorは Foxy、CL、Palosというレーベルに吹込んでいたようです。
そして 1965年には U.S.A.からリリースされたシングル Call My Job (カップリングは The Way I Feel )がヒットし、その曲は Albert Kingもカヴァーすることになりました。
う〜ん、どうやらピアノ・プレイヤーとしての Detroit Juniorもさることながら、業界(?)ではむしろ Songwriterとしての位置も獲得していたようですね。
Money Tree ばかりか、この Albert Kingの Call My Job 、さらに、Koko TaylorのThanks, But No Thanks Tired of That Never Trust A Man なんて曲もを書いておるのですよ。

これも Alligatorの Biographyによれば(って、他には、そっから引用したらしいのしか発見出来なかったのねん)、1960年代を通じて、前述の Mack Simmonsをはじめ、「あの」Eddie Taylorや Sam Lay(彼も健康を害しているとか・・・シンパイです)などとギグをしていたようですが 1968年からはウルフとも一緒にやっています。ウルフの死後も the Wolf Gangに残ったそうですが、そこではサックスの Eddie Shawがリーダーねえ・・・

Chicagoのノースサイドで Kingston Minesなどに出演もしていたそうですが、興がノると彼のカラダはだんだん「沈んで」行き、ついには彼の姿は見えず、ただ彼の手だけが鍵盤の上で動いているのが見えた、なんてエピソードもあるようですが、その彼も糖尿病からくる腎不全でやや演奏活動のペースを落としていたようですが、この 2005年 8月 9日、心臓発作によって自宅で死亡しました。
彼を愛した Alligatorの Bruce Iglauerの言葉─

He was a one-man blues party.
He had a smile and a good word for everybody.

安らかに眠られんことを!



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# by blues-data | 2005-09-05 12:03
David "Honeyboy" Edwards
実はこの Honeyboy Edwards、多少、ワタクシの苦手としております、語尾を伸ばす歌い方をいたしますのですよ。でも、フシギなことにこのひとの場合、それがあまり不快じゃないんですね。声質によるものか、全体の脱力感によるものか、その部分があまりプレゼンスが無い、ってのもあるんでしょうが、ま、非科学的っちゅう非難をおそれずに、感覚的なことで言っちゃえば、彼の「お人柄」ですかねえ?

David Edwardsは 1915年 6月28日、Mississippi州の州都 Jacksonの北北西約 180kmほどに位置し、隣接する Arkansas州の Little Rockからは南東にほぼ 200km、さらに Tennesse州の Memphisからは南南西に同じく 200kmほど離れた(つまり、左に Little Rock、右に Memphisを置き、う~んと下に Jacksonを置くタテ長の逆三角形の中にある)町 Shawで生まれています。2000年の国勢調査では人口 2312人、うち白人は 7.31%に過ぎず、92.8%が黒人となっています。
総人口の 41.3%が必要にして充分な生活水準以下のレヴェルにある、とされていますから、あまり「豊か」とは言えないようですが、1915年当時の資料は発見出来なかったので、彼が生まれたあたりの町の様子は判りませんでした。

Tommy McClennanや Robert Petwayを聴くことでギターを学び、やがて 14才になるころには Big Joe Williamsとデルタ各地のジューク・ジョイントなどに出演するようになっていたようです。
さらに 1932年にはどうやら家族のもとを離れ、各地を旅して歩いたらしく、おそらくこの時期に南部諸州で Robert Johnsonや Big Walter Horton、Yank Rachellなどとの付きあいを持ったのではないでしょうか。
それによって、Honeyboy Edwardsは Robert Johnsonにつながる重要な「リンク」として評価される存在にもなりました。しかし、Johnny Shinesの例でも同じですが、それによって逆に本人の個性が歪められてしまうケースも多く、Robert Johnsonの影ばかりを彼らの中に見ようとする(キモチは判らなくもないけど)のは、むしろマイナスに働くことのほうが多いように思えます。

1942年、Alan Lomaxによって Honeyboy Edwardsは Library of Congressのフィールド・レコーディングに収録されました。この時は 15曲が録音されました。
そして次に彼が録音したのは、1951年の Houstonで、Arc RecordsにWho May Your Regular Be などをレコーディングし、1953年にはDrop Down Mama を残しています。
この前後には、旅をメインに、時として録音に現れる生活だったようですが、1950年代半ばからは Chicagoに腰を落ちつけて活動をしています。
Chicagoでの彼は小さなクラブに出演し、また日によっては街頭で演奏し、さらに色々なレーベルにレコーディングという生活だったようで、Johnny Temple*や Floyd Jones*、そして Kansas City Red(このひとについちゃまだ資料が見つかってまへん)などと活動をともにしていたようです。
やがて 1960年代の半ばからは Adelphi/Blue Horizonなどへのレコーディングやフェスティヴァルへの出演もするようになり、さらに1970年代以降はヨーロッパや日本などへのツアーも行われました(それで青森にも来たのねん)。
現在でも、ベーシックなデルタ・スタイルのカントリー・ブルースの「生きた化石(?)」扱いで珍重されてるみたいですが、そんな扱いは彼のもつホノボノとした魅力を歪めてしまうんじゃないか、とちょっとシンパイ。
1998年には自叙伝、The World Don't Owe Me Nothin' を刊行し、同名のアルバムもリリースしています。

なんだか、カントリー・スタイルでの演奏ばかりを求められるみたいですが、決してバンド・スタイルが出来ないワケじゃありません。現に、あの Carey Bellが一時、Honeyboy Edwardsのバックでベース(!)を弾いてるし、1979年には Floyd Jones、Sunnyland Slim、Big Walter Hortonなどでセッションもしてるんですよ。
でも、どーやら、そんな Honeyboy Edwardsは「求められてない」よーで、やはり、ギター一本でとつとつと歌って欲しいんでしょね。
言わばアメリカじゃ「ブルースの人間国宝(?)」扱いらしいですから。

その David "Honeyboy" Edwards ですが、2011年の夏、おそらく健康上の理由からと思われる「現役引退宣言」をしてブルースの世界からしりぞいたのでしたが、ほぼその直後と言ってよい 8 月 29日に Chicago で暮らしていたアパートの自室で鬱血性心不全で死亡しました。



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# by blues-data | 2005-09-05 11:55
Curtis Mayfield
Curtis Mayfieldは1942年 6月 3日、Chicagoで生まれています。
さすがに生まれた土地が土地だけに、黒人音楽の様々なフェイズを吸収して成長したことでしょう。
特にゴスペルとソウルにおいて彼の資質に大いに寄与していたようで、なんと 10才になる前に彼にとっての最初のグループ The Alfatonesを結成し、そのリーダーとなっていた、と言いますからスゴい!
1956年に彼の家族は Chicagoのノース・サイドに居を移していますが、そこで彼は Jerry Butlerと出会い友人となるのですが、Butlerは自身のグループ、Arthur & Richard Brooks、Sam Goodenからなる The Roostersに Curtis Mayfieldを誘いました。そしてクィンテットとなったこのグループは後に The Impressionsと名を変えています。
彼らの初ヒットは1958年の「For your precious love 」でした。1961年には Curtis Mayfieldは住まいを New Yorkに変えていますが、この年の「Gypsywoman 」は、ここ何年か続いていた、メンバーとレコード会社の間の悪感情のしこりを修復した、とされています。Curtisはもはやグループのリード・シンガーとしてそのユニークな声を活かして「I'm so proud 」、「Keep on Pushing 」、「People get ready 」、「We're a winner 」、「Mighty, mighty 」などの一連のナンバーを送り出したのでした。

その Curtis Mayfieldが The Impressionsから離脱したのが 1970年のことで、同年、Buddahからソロとしての初アルバム Curtisをリリース、そこから「Move on up 」が唯一イギリスでのヒットとなっています。
続いて The Impressions時代のナンバーも含む New Yorkの Bitter Endでのライヴを収録した Curtis Live!を 1971年にリリース。同年 Rootsもリリース。1972年には 10万枚を超える大ヒットとなった、あの Superflyのサウンド・トラックで彼の名は一躍知られるようになったのでした。実に 4部門のグラミーを授賞し、それが契機となって Gladys Knight & The Pips、Aretha Franklin、そして The Staple Singersのプロデュースまでも手がけるようになります。
ここで Superflyがヒットしたことによって、彼は「商業的ポテンシャル」を優先させた作品ではなく、彼自身のもっと深いところに沈潜していた社会的なインタレストを中心としたコンセプチュアルなアルバムの製作に取りかかることができたのではないでしょうか。
そうして翌1973年に完成したのが、この 5枚目のアルバム、Back To The Worldなのです。そのタイトル曲でもある「Back To The World 」はヴェトナムに派兵された黒人兵士の戦場での「地獄」と、そこから無事に復員してきた祖国での「新たな」地獄を歌ったもので、いわゆるドロップ・アウトした白人ヒッピーたちの心情的な「反戦ムード」なんぞとは次元の異なる「現実」として、マイノリティにのしかかる重圧として描かれています。ヴェトナム戦については、非常にアメリカ寄りな、北ヴェトナム戦士を冷酷な殺人鬼のように描いた、マイケル・チミノの『ディア・ハンター』という(ムダに長い、なんて言われてましたが)映画がありました。ここでも特徴的だったのは、主人公である、やはりアメリカ社会の中ではカンゼンにマイノリティに属するロシア系移民たちが、マイノリティゆえに「国策」に迎合するしかない、という姿で、これは第二次世界大戦中のアメリカ陸軍の日系二世による第 442部隊にも同様なことが言えるのではないでしょうか。

Back To The World 」は、その終り近く McDonnel F-4 Phantom(と言われていますが・・・)の音で幕を閉じます。そして続くのは、これもまた黒人達の生活を見据えた「Future Shock 」、その余韻の中で始まる、Right On For The Darkness ・・・
Darknessに相対する単語は「 Light」であって、Light on for the darknessなら「暗がりを照らす明かりを点(とも)せ」となるのですが、彼はこれを「 Right」としてあります。本来、Right onでは「時代の先端を行く」あるいは「洗練された」という形容詞となり、for the darknessの前に来るべき動詞 or名詞とはならないので、やはりここは多少ムリはあっても「暗がりに」正義を!てなイミに考えるべきでしょう。
キーは F#mですが、実際にはギターのコード・ワークによる F#m7と Bm7の二つを基本に、背後には流麗ながらも「重さ」を持ったストリングスを配し、ボトムはスポンティーニアスなドラム・ワークとスライド・アップを多用するヘヴィーなベースが支えています。
一部、ベースのソロ的な部分もあって、終盤になだれ込むと世界の終末を思わせるような(はちとオーヴァーやけど)ストリングスによる旋律の重層が、ある種の虚無感を、あるいは希望の無い未来を暗示しているようで、この作品から 30年、我々はいったいなにをして来たのか?いまだに「暗黒」に光がさすことは無く、いやそればかりか、新たな「闇」を作り出してしまっているのではないのか?という疑問が「痛い」のでございます。
この曲にちりばめられたブラスによるリフが「天使の軍勢」を象徴するものだとしても、もはや現実の「闇」はキリスト教社会の外部にまで流出しており、「この」神の威光では照らすことすら出来ない「今日」を 30年前に予想していたとは思わないけど、Right on for the darknessに込められたメッセージ、いや、メッセージというよりは、むしろ「リポート」、そこに Curtis Mayfieldが見ていたもの、その重さをいまさらにかみしめています。

1960年代の終りころに Sly & The Family Stoneというプロジェクトがスタートし、ブラック・ミュージックに公民権や人種差別、黒人の意識向上などの概念を持ち込むことが「当たり前」となって、当時 The Impressionsのメンバーだったころの Curtis Mayfieldも、その潮流に気付いていたハズですが、「神の言葉を伝える(ゴスペルはいわば神の言葉を伝えるものでもありますから)」ことを離れ、別な言葉を語りたくなったとして The Impressionsから離脱するのが1970年。
すぐに自身のソロ・アルバム Curtis を Buddahからリリースしています。この Right On For The Darknessが収録された Back To The Worldはその前の Superfly( film soundtrack)にも増してラジカルに彼の目が社会に向けられた作品で、ブラック・パワーを(不本意ながら?)励起するような Sly & The Family Stoneとはまたちがった位相で「20世紀のアメリカで黒人であることの現実」を抽出している、と言ってよいのではないでしょうか?

なんちて、どーも、このあたりのハナシになるとシリアスっぽくなってイカンなあ。やはり時代のバイアスみたいなものがあるんでしょうか。
ちょうどこの時期から、いわゆるブリティッシュ・ロックに、ある種の空疎感を見るようになって行くのも、この Curtis Mayfieldや Sly & The Family Stoneの歌詞の世界に気付いてからだったような気がします(それに音の方でも Velvet Undergroundの洗礼を受けてからは、ただパワーだけのロックってえのに多少「アホらしさ」も感じ始めてたしね)。

そして、このアルバム中、唯一の救いかもしれない「I Were Only A Child Again 」などを挟んで夢のように美しい(でも、内容はクスリに溺れる愚かさへの警告だと思うんですけどね)「Keep On Trippin' 」でアルバムを終える(あ、オリジナルの場合ね。現在の CDじゃ曲順がちゃいます)。

Curtis Mayfieldはこの後も Buddahから Curtis In Chicago( 1973)、 Sweet Exorcist( 1974)、 Got To And A Way( 1974)、 Claudine( 1975)、さらに Curtomでも 8枚のアルバム、以後 RSO、Boardwalk、CRC、Ichiban、Essential、Windsong、Warnersなどからもアルバムを出していくのですが、ワタシにとっては、それはもうどうでもいいこと。ワタシにとっての Curtis Mayfieldは、 Back To The World!これに尽きます。

1990年、Brooklynでの野外コンサートに出演していた彼の上に照明のクラスターが落下!彼の脊柱を損傷し、それ以来、彼は四肢麻痺患者としてリハビリテーションを送ることとなり、1996年には新しいアルバム New World Orderをリリースしていますが、そこでの彼は歌だけで、あれほど評価の高かった彼のギターは、1999年12月26日の彼の死まで、ついに復活することはなかったのでした。



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# by blues-data | 2005-09-05 02:54
Curtis Jones
最初はギターだったのが、ピアノに転向した、というその来歴から来るものなのでしょか?ちょっとユニークなそのピアノ・プレイは時に「乱調」とも思える自由奔放なトリルやトリッキィなリフをちりばめてマイ・ペース(?)で進んで行きます。
どうなんでしょね?ピアニストからすると、こんなのどー思うんでしょ?「あ、スゲえ!」か「なんじゃこりゃ?」なのか・・・

これが収録された Delmark 605 Lonesome Bedroom Bluesでは、彼のヴォーカルについて、フィールド・ハラーあるいはアパラチア系(?)のマウンテン・ミュージックの影響も挙げてましたが、ワタクシ個人といたしましては、おそらくもっとパーソナルな要因のほが大きいよな気もいたします。

Curtis Jonesが生まれたのはミシシッピー河流域でも、アパラチア山系でもない Texas州 Naplesで、1906年 8月18日のことでした。
小作農たちの中に生まれ、他の多くの子供たちと群れて遊ぶ子供時代をスゴしたようですが、それも彼が「もう働ける」年頃になるまでの束の間だったようで、10代に入ってからの彼は小作農の理不尽な社会的位置に苦しんだ、とされています。冬など凍え死にしないのが不思議なくらいのボロ小屋に暮らし、生きてゆくのに最低限とも思える食生活など。しかし、それは当時のアメリカにおける黒人たちに不当に押し付けられた「一般的」な暮らしだったワケです。

彼がそこから脱出できたのは 1929年になってから、と言われています。
中西部から Kansas Cityを経て New Orleansに辿りつき、そこで彼は Lulu Stiggersという女性と知りあい結婚しました。
ついで北上し、Chicagoに入ったのが 1936年で、さっそく自分のバンドを作りサウス・サイドを中心に演奏活動を開始しています。
その彼が音楽出版業者兼タレント・スカウトだった Lester Melroseの目にとまり、Vocalionへのレコーディング・セッションがセットされ、Willie "Bee" Jamesのギターに Fred Williamsのドラム、という陣容でLonesome Bedroom Blues You Got Good Businessがリリースされています。
一説ではLonesome Bedroom Blues、妻に去られたことが原因で生まれたブルース、と言いますから、その時すでに別れてしまってたんでしょか?
そっからほぼ 5年ほどは同様なナンバーを大量に吹き込んでいますが、その中にHighway 51 Blues というのがあるのですが、それはまた「別な」曲でございます。今日のナンバーは Bluesのつかない、タダの Highway 51。

さて、レコーディング・セッションのとこで「?」と思った方もおられるかもしれませんが、彼のピアノ&ヴォーカルのバックはギターとドラムだけで、ベースがいないんですねえ。
どうやらそれは当時の彼のライヴでのスタイルでもあったようで、時にはペット&サックスとドラム、という構成だったり、ともかくベースのいない編成を選んでいます。
ここらで思い出すのはThe Cat のハモンド・プレイヤー Jimmy Smithですね。彼も自分のハモンド以外にはギター&ドラム、ってえ編成でございますよん。ま、ハモンドの場合はフットにベース鍵がありますから不要だ、ってのは判りますが、Curtis Jonesもその左手が充分に低音部を埋めてける自信があった、ってことでしょうか。

第二次世界大戦が始まったあたりから彼の録音の機会は減少し、ブルースマンにとっちゃあ毎度お馴染みの「 Day Job」につくハメになったようですが、1953年にはようやく DJの Al Bensonの Bronzeville Record Manufacturing Companyに録音の機会を得て、Parrot(それまで、コールマン・ホーキンスなどのジャズ寄りの音をリリースしており、Curtis Jonesは Parrot初のブルースマンでもありました)からリリースされています。ただし、それも彼を再度スター(?)にしてくれるものではありませんでした。

1958年になると New Jerseyにあった Prestige Bluesvilleと接触し、その結果、1960年には New Yorkでレコーディング・セッションが実現します。この時のバックはジャズのトリオにブルース・ギタリストを加えたものだったそうで、それがアルバム Trouble Blues( BVLP 1022)でした。
これが彼を再浮上させることとなり、以後、毎週火曜の Chicago、Blind Pigでのライヴやイリノイダイガクでのコンサートにつながってゆきます。
さらにヨーロッパにわたったのが 1960年代の前期で、そちらでも評価されるようになっていました。
1963年11月にはロンドンで Curtis Jones In Londonをレコーディング(このアルバムはまだ聴いていませんが Percy MayfieldのPlease Send Me Someone To Love も演っているそーです)、さらにその後二年間はモロッコを中心とした北アフリカに重点を置き、つづいては地中海つながり(?)でスペイン、ギリシャからフランスへ回り、1968年(あの Magic Samの年でげすよ)の American Folk Blues Festivalにも参加しました。そこからまた三年ほど今度はドイツにとどまり、ヨーロッパをベースにした演奏活動に集中しています。

1971年、彼はドイツで心臓発作で死亡し、その遺骸は Sozialgrabという墓地に埋葬されたのですが、誰も墓の維持費を払わなかったために 8年後、その墓はツブされ、新たな区画として販売されてしまったのでした。



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# by blues-data | 2005-09-05 02:14
Cousin Joe
Cousin Joe?ダレそれ?って方も多いでしょうね。
いちおう New Orleans系のシンガー/ピアニスト(若いころはウクレレとかも弾いてたらしーけど)でございます。
とゆーと、じゃあ、Professor Longhair みたいな?ってえコトになりますわな。
まあ、そのー、なんちゅーか、たしかに「それ系」ではございますのですよ。ピアノなんかね。時々・・・

Pleasant "Cousin Joe" Joseph(Brother Joshuaあるいは Smilin' Joeの名前も使っています)は Louisianna州 Wallaceで 1907年12月21日に生まれました。1919年には New Orleansに辿りつき、Freddy Keppard*や Mutt Carey**、そして King Oliverなどが活躍していた Storyvilleのハズレに来ています。ただ、彼の母はまずスピリチュアルズを歌わせたようで、バプティスト教会でデビュー(?)しました。それでも、そんな環境にいて「汚染」されないハズはなく、次第に「ブルース・シンガー」として知られていったようですね。

*Freddieが正しい、とする資料も。1890.2.27-1933.7.15。コルネット奏者で BYGに Edgar's Creole Orchと吹き込んだ1926年のアルバムがある。他には彼の吹き込みを集めた『The Complete Set 1923-26』 Retrieval 79017。
**1891-1948.マーチング・バンド出身のトランペッター。1914年から1925年まで Kid Ory***と一緒に活動していますが、シカゴに行く Oryと分かれ、ハリウッドで映画関係の仕事につきます。大恐慌を経てディキシーランド・リヴァイヴァルの波に乗り、1944年には Kid Ory's Creole Orchestraに復帰、1947年には自分のバンドを作るために独立した。
***Edward Kid Ory。1886-1973。もともとはバンジョー奏者だったがトロンボーンに転向し、頭角を表す。1912年に組んだ彼のバンドは King Oliverや、まだ若かった Louis Armstrong、Johnny Doddsに Sidney Bechet、そして Jimmie Nooneなどが在籍したことで知られています。1919年には健康上の理由から Californiaに移り、ついてきてた Mutt Careyも含め、新しくバンドを結成し、Kid Ory's Creole Orchestra として活動を開始。「黒人による初のジャズの吹き込み」を1922年に行っています。1925年には Chicagoに移り、様々なミュージシャンと演奏をしています。大恐慌の時期には仕事も減り、雌伏の時期を経験しますが、1940年代に入ってディキシーランド・ジャズの復興により息を吹き返し、1943年にはKid Ory's Creole Orchestra を復活させることができました。1966年に引退するまで、ツアーやレコーディングを行っています。


彼は、ミシシッピー川を航行するリヴァー・ボート(あのデカさでも英語じゃあ「ボート」なのねん)で歌い、チップを集めていたそうですから、そこそこイケてたんでしょう。1930年ころには自分のバンド the Jazz Jestersを結成しています。そこでピアニストとしての腕を上げた彼は Armand Piron*、Harold Dejan**に Joseph Robichaux***などとともに Smilin' Joe's Blues Trioを1942年にスタートさせています。

*Armand John "AJ" Piron:ヴァイオリン奏者。1888-1943。1912年には Olympia Orchestraを率いていた。初期の Clarence Williamsのビジネス・パートナー。
**クラリネット&アルト・サックス奏者。1909.2.4-?。1958年には自身の Olympia Brass Bandを結成、1980年代まで活動していました。
***ピアニスト。1901-1965。自身の New Orleans Rhythm Boysで1933.8.22-26に録音もしています。個人としては the Jones-Collins Astoria Eightの1929年録音に参加しました。


1937年には New Yorkのナイト・スポットに姿を表しています(って呑みに来てたのを見掛けた、っちゅうイミじゃないぞう)。そして1945年には Mezz Mezzrowの King Jazz labelに、「Saw Mill Man 」を吹き込みますが、その時の共演者は Sydney Becketや Lips Page*に Sam Price**Mezz Mezzrow***といったメンバーでした。

*Oran Thaddeus "Hot Lips" Page。1908.1.27-1954.11.5、トランペット&ヴォーカル。Ma Rainey、Bessie Smithに Ida Coxの伴奏を務め、1928年から1931年までは Walter Pageの Blue Devilsでソロをとり、1932年にはそこを出て "Bennie" Motenのバンドに参加、また Reno Clubでは "Count" Basieとも共演し、1936年にはソロとして独立しています。
**ピアニスト。Ida Cox、Jimmy Rushing、Sidney Bechet、Lester Youngに Cow Cow Davenportとも共演している。
***Milton Mezz Mezzrow。クラリネット奏者。 1899-1972。1920年代にはシカゴの白人のジャズ・シーンの中にいて、the Austin High Gangや the Jungle Kings、そして the Chicago Rhythm Kingsに参加しています。1927年には New Yorkに移り、Eddie Condonと共演。1930年にはスゥイング指向のバンド、The Disciples of Swingを作る。自身の King Jazz labelを1945年から1947年まで運営していたが、1948年にはフランスに行ってしまう。


1946年には Philadelphia Labelに Brother Joshua名義で録音、この前年には Leonard Hawkins*や Pete Brown**とも組んでいましたが、ここでは Earl Bostic's Orchestraと共演しています。
1940年代末には New Orleansに戻りますが、その後も Philo/Aladdinや Savoy、Gotham、DeLuxe、Signature、Decca、Flipに Imperialなどのレーベルに吹き込んでいます。
また彼が New York時代にレコーディングした中には、ギタリストの Al Casey***とのセッションで吹き込んだ「Old Man Blues / Too Tight To Walk Loose」 Savoy 5536や「Death House Blues / Big Fat Mama」 Savoy 5540なんてえのもあります。(名義は Cousin Joe with Al Casey Quartet。彼自身はヴォーカルで、Steve Hendersonのピアノ、ギターが Al Caseyで、ベースが Al Matthews、ドラムは Arthur Herbert:New York, May 21, 1947)


*トランペット奏者。1946.1.29,NYCの Dexter Gordonのセッションに参加し『Settin' the Pace 』 (Savoy Jazz SVY 17027)を録音。また Billie Holidayの伴奏(1949.2.18, NYC)で Savoy S 36106「I cried for you 」なども録音しています。
**アルト・サックス奏者。1906.9.9-1963.9.20。まるでコトバをしゃべっているかのような特徴あるスタッカート・プレイが印象的なニューヨーク・ジャズのプレイヤー。
***Al Casey And His Sextet(Gerald Wilsonのトランペット、Willie Smithのアルト、Illinois Jacquet !のテナー、Horace Hendersonのピアノ、そしてトーゼン Al Caseyのギター、ベースは John Simmons、ドラムが Sid Catlett)では1945.1.19, Los Angelesで「Sometimes I'm Happy / How High The Moon」 Capitol 10034なんてえのもあります。出て来ましたねえ、Illinois Jacquet!


さて、こーやってやたら注釈だらけの一文が出来ちゃいましたが、ケッキョク Cousin Joeは影薄いのねん。いくらキラ星のごとく有名な関係者を並べてみたところで、ご本尊がいまひとつ「光らない」んですよ。
このアルバム『COUSIN JOE OF NEW ORLEANS』 BLUESWAY BLS 6078は Al Smithが Roosevely Sykesにノセられて(?)作ったよなもんですが、やはり、いまいち「必然性」がリカイ出来ないっすねえ。なにしろ「楽天的・ポジティヴ・パッパラパー・明るい・楽しそう・軽い・派手・おちゃらけ・ダンサブル・セクシー」っつー(あ、これはワタシのイメージね)New Orleans Soundsのイメージにいっこも当てはまらないんだもの。
お亡くなりになったのは1989年10月 2日 New Orleansでございます。



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# by blues-data | 2005-09-05 02:01
Clear Water
Blues界のレフティとしては、やや忘れられがちな Clear Water。
ド派手なインディアンの羽根飾りをかぶってニンマリしてる彼の写真を(名前は知らなくても)見たことあるひとも多いんじゃないでしょか?

Eddy Harringtonは 1935年の 1月10日、Georgia州ではなく Mississippi州の方の Maconで生まれています。
デルタ・ブルースやカントリー&ウェスタンのレコードを聴いて育ったそうですが、彼が 12才の時(本人はインタビューでそー言ってますが、資料によっては 13才としているものもあります)、一家は Alabama州の Birminghamに移り、そこで初めて叔父の弾くギターという楽器に魅せられ、ギターを手にするようになります。
その叔父のギターはゴスペルに伴奏をつけることをメインとしていたようですが、Lightnin' Hopkinsやジョン・リーから「耳で学んで」さらなる練習をしたもののようです。
そして、ひととおり弾けるようになった彼は、Five Blind Boys of Alabamaをはじめとするいくつかのゴスペル・グループのバッキングをすることから始めました。
そしてこのゴスペルとの関わりは 1950年 9月に彼が Chicagoのウエストサイドに移った後も残り、やはりゴスペル・グループのギターを務めていたようです。

そんな彼に押し寄せてきたのが Little Richardや Fats Domino、Chuck Berryなどのロックンロール系の音楽でした。
1950年代の前期に彼はそれらの音楽の洗礼を受け、特に Chuck Berryとは一緒にやったこともあるそうですから、その感覚は、ずっと彼の深いところに根付いているのではないでしょうか?
やがてそんな彼も Magic Samや Otis Rush、さらには Luther Allisonや Freddie Kingなどとの出会いを通して、そのベクトルを「ブルース」の方に曲げてゆくことになるのですが、やはり、どこかに昔日のロックンロールの余熱が残っているように思うんですよねー。

その後、Jimmy(あるいは Jimmie) Lee Robinson(昨年の 8月14日付の日記)とも出会い、彼のインタビューでは、その J. L. Robinsonのレコーディングに「ベースで」参加した、と言っていますが、それって 1959年あるいは 1960年あたりに Bandera Recordsに吹き込んだLonely TravellerやらAll My Lifeのことなんでしょか?ザンネンながら確認できず。
なお、その当時だと思うのですが、Musicians Unionから来てたマネージャー Armon Jacksonってのが、マディをもじって「 Clearwater」ってのはどうだい?と言ったらしいのですが、そのエピソードはもっと後のことかもしれません。

だって 1958年に彼のいとこでもあり、同じよーにレフティのギタリストでもあった Rev. Houston H. Harringtonが所有していたレーベル、Atomic-Hに吹き込んだシングル、Atomic-H 203(ただしHillbilly BluesBoogie Woogie Baby のどちらが A面だったのか?については資料の間でも混乱が見られ、両方の説が入り混じっております。あ、ついでに同レーベルには 1959年に Atomic-H 956 I Don't Know Why / A Minor Cha-Chaも吹き込まれています。で、もひとつ、ついでに Rev. Houston H. Harringtonですが、Rev.でお判りのよーに聖職者で、とーぜん、そのレーベルもゴスペルをメインとしてスタートさせたものらしいのですが、やはり商業的見地からブルースにも手を広げておったのでしょうね。アルバムもリリースしていたらしいのですが、そのマスターは Delmarkに渡り、シングルはリイシューされたのですが、アルバムのほーはそれっきりでございます。もしかするとどれもゴスペルのだったのかな?)での名義は Clear Waters & His Bandとなっており( 1959年のシングルでは Clear Waters & His Orchestraですが)、おそらく、これが起源だと思うのですが、インタビューではそのことに一切触れてないんですよ。なんかそのヘンひっかかるなあ。
また、似ているようでも Clear Waters Cleawaterでは違いますからね。たぶん Clear Watersは、そのいとこあたりが軽い冗談でつけたんじゃないでしょか?それに初期のころは自分を Guitar Eddyと、また組んでいたトリオを Eddy And The Cutawayと呼んでいた、とする資料も(ただしインタビューでは出てこないし、その名義での録音も確認されてはいません)ありますから、Clearwaterってのは 1961年の Federal録音以降の名称のようです。

ところで、その Atomic-Hのオーナー、Rev. Houston H. Harringtonの他にも Harrington一族がブルース界におりまして、それはなんと、あの Carey Bellだったのでございますよん。そー言えば Carey Bellも Mississippi州 Macon( 1936年11月14日生まれ)でしたねえ。
Clearwater自身はまったく知らなかったそうなんですが、後に Jim O'Nealが彼の家系について調べてゆくうち、その事実に突き当たったらしく、実際、Carey Bellのラスト・ネームも実は Harrngtonだったのだそうです。
The ChiefでのBlues For Breakfast で聴ける Carey Bellのクロマチックがひときわ感慨深くなりそなエピソードでございますわねん。

およそ1960年代になってからはフル・タイムのミュージシャンとしての生活を始めたようですが、いわゆる '60年代中期のヨーロッパでのブルース・ブームには「乗り損なった」らしく、彼がヨーロッパを訪れたのは 1976年になってからです。
同時代の、彼のインタビューでも、色々な逸話とともに名前が出てくる Hound Dog Taylorや Magic Sam、さらに Otis Rushに Freddie Kingといったところが次々と注目されて世界的なセールスにまで届いてゆく中、彼の位置は微妙なところにあり、その意味でも、ここ日本じゃ名前は知ってる、あるいは聴いたことがある、さらにアルバムも一枚くらいなら持ってる、くらいまでは行けるんですが、おそらく彼の熱烈なファンで全アルバム揃えてます、なんて方はあまり多くはないんじゃないでしょか?

なんて、かくゆうワタクシも彼の最新アルバム(つーても 2000年の 9月に出てるんだけどさあ)まだ聴いてないもんなあ。Bullseyeからの Reservation Blues



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# by blues-data | 2005-09-05 01:56
Clarence Samuels
Clarence Wilhelm Samuels Sr.は Louisiana 州 Baton Rouge で、おそらく 1923年に生まれたもののようです。
生年月日については 1923年、というところまでは合意(?)が出来てる(??)ようですが、「 The Dead Rock Stars Club 」というサイトではその生年月日を 1923年10月20日、としており(ですがその出典は不明。しかも、死亡日時を 2002年 5月21日ではなく 5/19 としておるところなど、はたして?という疑問も)、その一方では生年月日を10月30日とする異説 ─ Clarence Samuels was born in Baton Rouge, LA. on October 30, 1923. While in his teens he sang for his father's local group. Clarence soo... もあって(そちらは死亡日時も他の資料と整合しています)まあ、「やや」30日説が有利かな?という気もしますが、決定的、と言えるほどの根拠(死亡日時の件ね)とは思えませんしね・・・

その彼が演奏のキャリアをスタートさせたのが、やはり Baton Rougeの父親のバンド the Roseland Six(このバンドについては資料がありません)でした。ここで Big Joe Turnerとも一緒に演奏していたようで、「I Ain't Gonna Do It 」を Dave Bartholomewとともに録音もしております。

やがて自らのバンド、the Clarence Samuels R&B Bandを立ち上げ(ってのはブルース・サイドの資料では見当たらなかったんですが、この R&B Band ってのが「実際の」バンド名ではなく「それ系のバンドを組んだ」という意味ではないかと思われます)、そしておそらくこのあたりで CHESS の初期の録音に加わっていた、と書かれることもあるようですが「 CHESS 」では彼名義のシングルは発見できず、その前身である ARISTOCRAT に録音が残っています。
その ARISTOCRAT 録音では

with Dave Young's Orchestra 名義で Boogie Woogie Baby / Lolly Pop Mama; ARISTOCRAT 1001( 1947 )
個人名義で Get Hip To Yourself / Juana; ARISTOCRAT 1002( 1948 )
with Porter Killer's Orchestra 名義で Coming Home Baby / Baseball Blues; ARISTOCRAT 1003( 1948 )


の三枚があり、後に CHESS の V/A にも収録されました。
ただし 1947年の録音ではもう一曲、Dave Young's Orchestra で I Don't Love Your Mamie も吹き込んでいるのですが、その曲は 1949年になって、Jump Jackson Orchestra の Choo Choo Blues とのカップリングで ARISTOCRAT 403 として発売されています。もっとも、その曲が発売される前にすでに Clarence Samuels は ARISTOCRAT を離れており、1947年にスタートし、1949年には消えた西海岸の短命なレーベル DOWNBEAT に Clarence Samuels and Sextet 名義で二枚の SP

DOWN BEAT 131; Household Troubles / C.S. Jam
DOWN BEAT 149; Deep Sea Diver / A C Boogie Blues


を共に 1948 年に録音しておりました。
1949年には New Jersey 州 Linden で David と Jules の Braun 兄弟によって 1944年に設立され、KING Records の Syd Nathan による株買い占めで経営権を失うまで「独立レーベル」だった DE LUXE Records( DE と LUXE を「くっつけた」DELUXE Records はドイツのレコード会社になるので注意!)に

個人名義で Gimme! / Jumping At The Jubilee( DE LUXE 3219 )


を録音しています。

続いては 1949年にオーナー Sol Kahal(詳しいことはあまり判明しませんでしたが、No More Crying Over You という曲の作曲も手がけていたようです)と A&R マン Connie Johnson によって設立され、1949 年の 3月に Goree Carter の「Sweet Old Woman Blues ( FREEDOM 1502 )」を初リリースし、他には Lonnie Lyons、Leroy 'Country' Johnson、L.C.Williamsなど(特にこの L.C.の「Ethel Mae 」のヒットがレーベルに「ひとときの」安泰をもたらした、と言われています)翌1950年には姿を消したレーベル、Houston の FREEDOM Recording Co.と契約し Clarence Samuels and Orchestra 名義で 1950年の 3月に

FREEDOM 1533; Lost My Head / Low Top Inn
FREEDOM 1541; She Walk, She Walk, She Walk Pt. 1 / She Walk, She Walk, She Walk Pt. 2
FREEDOM 1543; I'm Gonna Leave You Baby / Got The Craziest Feelin'
FREEDOM 1544; Somebody Gotta Go / Hey Joe


の 8 曲を録音し、まさに 1950年の消滅直前のリリースとなりました。

ところで、あの偉大なる、ワタクシが Albert Ayler (1936-1970、tenor、alto & soprano saxophone。『My Name Is Albert Ayler』や『Spirits Rejoice』などの作品がある。詳しくは http://www.ayler.supanet.com/html/discography.html などをご参照くださいませ)の「次に」ソンケーしておる Ornette Coleman が、そのバンドに一時期、加わっておったのでございますよ!
明確な時期を示唆する資料こそ発見できませんでしたが、おそらく 1940年代末のことと思われます。ま、それがどーした?と言われれば、ちと返答に窮するのではございますが。ま、ついで、と言っちゃなんですが、Ornette Coleman はその後 Pee Wee Crayton のバンドも経験しておるハズ。
で、それこそ、それがどうした!と突っ込まれそうですが、その Ornette Coleman も Albert Ayler もそこからリリースしたジャズのレーベルで FREEDOM Records というのがあるのですが、これはまったくの別会社で、社名も 1950年に消滅したほうが FREEDOM Recording Co. その 1970年代前半に数々の「フリー・ジャズ系のアルバム」をリリースし、後に ARISTA に吸収されたほうは FREEDOM Records と微妙に違うんですねえ。

で、Clarence Samuels は FREEDOM 以降、LAMP や EXCELLO などにも吹き込むのですが、1953年あたりに BAYOU というレーベルから Goree Carter の Drunk or Sober とのカップリングで Low Top Inn( BAYOU 010。個人名義)というシングルが出ている、という資料もあるのですが、そのレーベル「 BAYOU 」に関しては、Louisiana 州 Ville Platte の Floyd Soileau(どうやら「フロイド・スワロー」と読むらしい)がケイジャン・ミュージックのために作ったレーベル、という説明が一般的( by Wikipedia )なようですが、1953年となるとスワロー君、まだ高校に入ったばっかり、というあたりで、しかも卒業後に開いたレコード店 Floyd's Record Shop から発展して出来たレーベルも(彼の苗字の発声から来た)Swallow Records であって、BAYOU などという名前はどうも出てきておりません。おそらく BAYOU が Floyd Soileau のレーベル、とするのは無理じゃないでしょうか。
おそらく正しいのは、Hollywood レーベルにレコード・プロデューサーとして関わっていた Franklin Kort が 1953年の春に設立した、とされる西海岸のこれまた「短命な」レーベル BAYOU Records のほうでしょう。同年の夏も過ぎたあたりで早くも「立ち行かなくなり」IMPERIAL に吸収されておりますが・・・

1954年の LAMP からのリリースですが

LAMP 8004; Clarence Samuels with band; Life Don't Mean A Thing / Crazy With The Beat
LAMP 8005; Clarence Samuels with band; Cryin' 'Cause I'm Troubled / Lightnin' Struck Me

の二枚のシングルで、その直前とされる BAYOU での Goree Carter とのカップリングからはもうすでに 78rpm の SP ではなく、45rpm の EP( Expanded Play の略。33rpm の 4 曲入りを EP というのは誤り)になっています。ただし、まだまだ「一般的な」黒人の家庭では SP 再生機がメインだったために、その過渡期の最初のころには売り上げが減速した、とも言われています。
この LAMP というレーベルですが、史上に現れているアメリカのレーベルとしては二種類あるようです。
一方の Herb Miller の LAMP レーベルは、あの山小屋など、電気の来ていないところで使われるランプをロゴ・マークにあしらったものですが、もう一方の、この Clarence Samuels の録音したほうの LAMP では「あの」アラジンの魔法使いでお馴染みの、一見ティー・ポットかいな?てな扁平なランプがあしらわれております。そしてある資料では、当初 New York を本拠地としていたが、後に西海岸に進出した、としており、ALADDIN の子会社である、としております。しかし ALADDIN 関係の資料で LAMP という「傘下のレーベル」云々という記述にはまだ出会ったことがないので、ちょっと「?」なんですよね。
もっともアラジンのランプ、ってことで「まことに収まりがよろしい」のは確かですが。

次の 1956年の EXCELLO では

個人名義で Got No Place To Call My Own / Chicken Hearted Woman; EXCELLO 45-2093

を録音しています。
ところで次に録音したレーベル APT ですが、これは ABC-PARAMOUNT Records が 45rpm EP、それも表裏二曲の「いわゆるシングル(というのも、45rpm EP には表裏四曲入りのものもあったからで、後にはそれが誤解されて 33rpm で四曲入りのものを EP、とするケースが出てくるようになった)」を専門にリリースするために作ったサブ・レーベルで、どうやらその名称は American broadcasting-Paramount Theatres から来ているようです。

Without You / We're Goin' To The Hop; APT 45-25028: 1958

この A-Side の Without You には「あの」Mojo Working のオリジナル・シンガー(注;作者は「白人の」Preston Foster。決してマディではありません)Ann Cole も参加。

ところで、彼は Dorothy Moultrieという女性と結婚し、七人の子供を設けております。長男は、ギタリストとして父と同じステージにも立った Clarence Samuels Jr.、そして Florida州 Orlandoにいる Dexter Samuels、Nevada州 Las Vegasの Anthony Samuels、さらに Cliffordと Edgar、そして娘の Sharonと Andrea。

Excello に録音された Chicken Hearted Woman は「おそらく」という注釈付きの Nashville 1956.となっており、バックについては名前が記載されておりません。
彼は生涯で結局 50曲ほどを残し、最後まで息子と一緒にフェスティヴァルなどにも出演していたようですが、2002年 5月21日、Baton Rougeの Jefferson Health Care Centerで死亡しました。79歳だった、と。




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# by blues-data | 2005-09-04 00:54
Clarence "Gatemouth" Brown
ルイジアナで生まれてテキサスで育った・・・と彼自身のことを歌った Born In Louisianaの歌詞のとおり、「テキサス系」と言われる彼ですが、実はテキサスとの州境にある Louisiana州の Vintonで1924年4月18日に生まれ、そして生後すぐ州境をはさんだテキサス側の Orangeに移っています。つまり、彼はその幼少期からすでに、「境界」を跨ぐことを始めているワケですねえ。
彼の父がギターとフィドル(ブルーグラスなどではヴァイオリンをこう呼ぶのじゃ)を教えてくれたようですが、その父も幅広い音楽を演奏してたそうですから、血は争えません。
その父が死んだのは彼が21才の時ですが、同年(前後カンケイは不明だけど)San Antonioでドラマーとしてミュージシャン人生をスタートさせてます。

1947年のこと、ゲイトマスはヒューストンのナイト・クラブ「the Golden Peacock」で T-Bone Walkerのライヴを聴きにいってたんですが、演奏の途中で T-Boneの具合が悪くなり、ギターをステージに落としてしまったのを見たゲイトマウスはステージに駆け上がりそのギターをひっつかんでイキナリ自分の曲「Gatemouth Boogie」を弾きはじめたのです。T-Boneはこの若い成り上がりもんを「面白くは」思わなかったらしいんですが、聴衆は一気に湧き立ち、その15分の間に、ゲイトマスの足元にはたちまち投げ銭のヤマが出来て、総額 $600にもなったそうです。
この様子はヒューストンの実業家でクラブのオーナー Don Robeyの目に止まり、さっそくゲイトマウスを雇い入れ、遂にはマネージャーとなってしまいました。
23人編成のオーケストラをつけて南部から南西部をまわるブッキングを行っています。

最初のレコーディングはハリウッドの Alladin Recordsに1947年に行っていますが、そこでのプロモーションの仕方やリリース方法などについて疑問を持った Don Robeyは、ゲイトマウスのために自らの手で Peacock Recordsを設立してしまいます。
そっからは「Okie Dokie Stomp」、「Boogie Rambler」、「Just Before Dawn」そして「Dirty Work At The Crossroads」というヒットが生まれました。
これによって、ピーコック・レーベル自体もメジャーな独立レーベルとなり、Bobby "Blue" Bland、Junior Parkerや Joe Hintonを抱えるほどになったのです。

’60年代に入るとゲイトマウスは Nashvilleに乗り込み、Hoss Allenがホストを務める、R&Bを中心としたテレビ番組のThe Beat に出演するようになります(確か Freddie Kingのヴィデオのバックにいたよね?)。
この Nashville時代にも、一連のシングルを録音しています。
’60年代の終りに、ニューメキシコで保安官代理として勤務(ホンマかいな?)していた一時期は音楽と離れていたようですが、こんどはヨーロッパに新たなブルースの聴衆を開発するためのツアーに関わるようになり、まず1971年、彼はフランスでのデビューをはたしました。
1970年代を通じて10回以上ヨーロッパを訪れ、そこから計 9枚のヨーロッパでのアルバムが生まれています。
特に、 フランスの Black & Blue に 1973年に吹き込んだアルバムで、Alligator Recordsからは 1986年に発売された PRESSURE COOKERはそれ以降のグラミー賞候補として注目される契機となったものです。
1970年代中期にはアメリカ政府の事業の一環として、東アフリカ諸国を歴訪し、アメリカン・ミュージックのスポークスマンとして活動しました。
また’70年代後期には Montreux Jazz Festivalの常連ともなっています。
1979年には(当時の)ソヴィエト連邦を訪問。
このころには New Orleansに居を移し、Jim Batemanの Real Records( Louisiana州 Bogalusa )と契約。そしてアメリカでの彼の初アルバムとなった BLACKJACKを1978年にリリースしました( Music Is Medicineレーベル) 。
1979年には PBS-TVの Austin City Limits に出演。またカントリー系の Roy Clark とアルバムを作り、それによって Hee Haw という番組に出演。
1982年、グラミーの"Best Blues Recording"賞─ALRIGHT AGAIN!。同年 W.C.Handy Awardの"Instrumetalist of the Year"に。さらにドイツ・レコード批評家投票の"Album of theYear"も獲得。

その後のゲイトマウスはニュージーランドやオーストラリアへのツアーや、1988年にアメリカの大使が追放されたニカラグアにも出かけています。政治的、あるいは軍事的な緊張の続く地区(中南米を含む)へのツアーについてゲイトマウスは、「連中が聴きに来れないんだったら、こっちが行くしかなかろうが」とノタマっておられたようです。

ま、なんてステキなおかた・・・なんて思うとドッコイ、これがなかなか喰えないジジイ・・・う〜っぷす、ヴェテラン・ミュージシャンでございまして、ま、あまりにも有名なエピソードといたしましては、かの吾妻光良氏はかってゲイトマウスに心酔(?)しておられ、1986年にはゲイトマウスのインタビューをされたのでございますが、いやはやなんとも、この時のインタビューはブルース史に残る最も不条理な(?)展開をみせてしまい、なにゆえか「激怒」したゲイトマウスに吾妻光良氏はエラいメに合わされたのでございます。キョーミがおありの方は、Black Music Revue誌 ’86年7月号をご覧くださいませ。

さて、最近はどうやら肺ガンで療養中らしく、ニューオーリンズの郊外の自宅はハリケーン Katrinaにメチャメチャにされたようですが、なんとか、もいちどくらい日本でライヴやってくんないかなあ?
「Born In Louisiana」は STANDING MY GROUND Alligator ALCD 4779・・・あ、うちのは UK盤だ。

さて、その Gatemouth、肺癌を宣告され、療養中のところ、ハリケーン Katrinaに襲われる自宅を離れ Texas州 Orangeに避難していましたが、2005年 9月10日、永眠しました。



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# by blues-data | 2005-09-04 00:47
Clarence Edwards
日記で、Magic Samによる You Don't Love Me*を採り上げましたが、そこでもちょっと触れていたCOUNTRY NEGRO JAM SESSION Arhoolie LP-2018っちゅう、実にもう無神経なタイトル(ホント、ひょっとしてどっかの差別用語摘発団体みたいなのに「つるし上げ」を喰らうんじゃないか?っちゅーシンパイもあったんですが、このアルバム・タイトルはネット上で検索すればいくらでも出てきますから、ここはひとつ、すべての罪は未だにこのタイトルで販売している Arhoolieにある、っつーことで・・・)のアルバムに収録されているアコースティック(いわゆる最近のアンプラグドと称する録音は、使ってるのが生ギターっぽいけど、実際にはアンダー・サドル PUから採ってる純然たる「プラグド」でしょ。でもこれはほんまもんの「ナマ」でっせ!)による You Don't Love Me、それを演奏していたのが、この Clarence Edwardsで、兄弟の Cornelius、ヴァイオリンのプレイヤー Butch Cageと一緒に録音したものです。

Clarence Edwardsは 1933年 3月25日に Louisiana州の Linsey(あましアテにならない AMGでは Lindsayとしておりますが)で 14人の子供のひとりとして誕生した、とされとりますが、はたして彼が末っ子だったのかどうか?については判断できる資料は発見できませんでした。
そして icebergによれば Linsey、AMGでは Lindsayとされるその生地についても、Yahoo、Wikipediaおよび Googleの検索では「?」のままです。
手元にある Louisiana州の地図もカンタンなものなので載っているワケもなく、一体、州のどの辺なのか、さっぱ判りません。
ただし Linsey Road という「道」は Louisiana 州 Marksville に「実在」していますが、AMG のいう Lindsay では Hammond に Lindsay Drive があります。しかし、その位置は Baton Rouge ではなく、むしろ New Orleans 圏内にあり、以下の記述とはやや矛盾します。やはり Baton Rouge に近い Marksville の Linsey Road のほうがまだ信じられます・・・

ま、彼が 12才の時に一家を挙げて Baton Rougeへ出て来た、とされていますから、十数人の移動を考えると、おそらく Baton Rouge近郊の、もしかすると現在では市に吸収合併されちまった地区だったのかもしれません。
おそらく Baton Rougeに出て来てからギターを弾き始めたらしいのですが、彼の音楽的素養は祖母が所有していた Charlie Pattonのレコードを聴くことから始まったようで、他にも Sonny Boy Williamson(資料には Iあるいは IIの区別が無いのですが Iでしょうね?)、Kokomo Arnoldから多くを学んだ、とされています。彼のスタイルは Charlie Pattonにその多くを「負っている」という分析もあるみたいですが、歌のほうでは Howlin' Wolfの影響を指摘している資料もありました。

1950年代には the Boogie Beats(兄弟の Corneliusに Landry Buggs、そしてドラマーの Jackson Acoxからなるバンド)や the Bluebird Kings(こちらは構成メンバー不明です)というバンドに所属して周辺のブルース・サーキットを回っていたようです。

その彼が初レコーディングを経験したのが Harry Osterによるフィールド・レコーディング(実際に殆どはその演奏者の自宅や、自宅周辺で録音されたそうです)で、その時の録音は現在 CD化され、未収録曲もまとめた Arhoolie CD 372として 25曲がパックされています。
ここでの Clarence Edwardsはやはり兄弟の(いっつも言うけど、なんで兄と弟の区別をつけねえんだ?ったくぅ!) Corneliusにヴァイオリンの Butch Cage( James "Butch" Cage: Mississippi州 Hamburgで 1894年 3月16日生まれ。つまり Clarence Edwardsの実に 39才年上! 最初はギターも弾いていた、と言われるが 1911年に出逢った二人のミュージシャンから教わってヴァイオリンに移行する。1927年のミシシッピー河の大氾濫の後 Louisiana州に移り、雑多な職業を経験していたようだが、週末にはその演奏で近隣の住民を楽しませて次第にウデを上げ、1959年の Harry Osterによるフィールド・レコーディングに Willie B. Thomasとともに参加して頭角を表し、1960年には Newport Folk Festivalにも出演して注目を浴びる。時系列としてはこの Butch Cageの録音の方が Clarence Edwardsより先?って感じもするけど、Arhoolie側に Clarence Edwardsの正確な録音日時が残っていないため「?」)と組んで、この You Don't Love Meの他にも Smokestack Lightning Stack O'Dollars Thousand Miles from Nowhere を録音しています。

このアルバムの後、1970年にはカントリー・スタイルではない録音もされているようですが、そのトラックはコンピレーション・アルバムに収録されているようです。
その後しばらく彼は演奏活動から遠ざかっていたようですが、1980年代に入って Tabby Thomasに勧められて彼の店 Blues Boxクラブに定期的に出演するようになりました。
1990年には彼にとって初めての「フル・アルバム」 Swamp's the Wordを製作し、そこではアコースティックとエレクトリック両方のスタイルでレコーディングをしています(現在では Red Lightnin'で入手可能、らしい)。おそらくこの You Don't Love Meの彼を想定して聴くとあれれ?となるでしょが、逆に You Don't Love Meが特別だったのかも・・・

1993年 5月20日、Louisiana州 Scotlandvilleで死亡。彼の死後、Baton Rougeや New Orleansのクラブでのライヴ録音 10曲を含むコンピレーション・アルバム I Looked Down the Railroad が 1996年にフランスの Last Callからリリースされています。



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# by blues-data | 2005-09-04 00:19

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