Chuck Berry
Chuck Berryこと Charles Edward Anderson Berryは、Antioch Baptist Churchの司祭であった父 Henryと、学校の先生であった母 Marthaの最終的には 6人生まれることになる子供たちの 3番目として、1926年10月18日、Missouri州 St. Louisの Goode Avenue(現在は名前が変わり、Annie Malone Driveとなっているようですが) 2520番地で生まれています。
ちょうどこの辺りはセント・ルイスのダウンタウンの北西に隣接した、およそ 9×5ブロックのエリア(西は Taylor Avenue、北を St. Louis Avenue、東は Sarah Street、南は Martin Luther King Driveに至る一帯)で、The Villeと呼ばれ、この地区の中にあっては、当然、貧富の差はあっても、相互の結束が存在し、生活面や、子供の教育、しつけなどに関しても、一種の共同体的な連携を持った黒人のコミュニティとして、日々の暮しを支えてくれていた、と言いますから、当時の都市の中にあっては例外的な場所だったようです。
そのような(当時のアメリカの黒人としては)恵まれた環境で育った彼は Simmons Grade Schoolから Sumner High Schoolに進みますが、そこはミシシッピー以西では「初の」黒人のための高等学校であり、その卒業生の中には、後の Tina Turnerも含まれるとか。

その高校在学中に、彼は芸能活動(?)の第一歩を記したらしく、1941年の All Men's Review(ってのがなんなのかは尋かないでちょうだい。ワシにも判らん!)ってので Jay McShannのConfessin' the Blues を歌って喝采を浴びていたらしいのです。
しかし、当時の彼は、音楽以外にもやりたいことがあって、それは、いとこの Harry Davisの影響で、父の(聖職者に、という)期待は裏切るけど、「写真」への熱中でした。
しかし、彼のそのような夢も、1944年、仲間と Kansas Cityまでドライヴ、と決めこんだそのクルマが強奪されたものであったため、彼らは途中、警察に捕まり、Missouri州 Jefferson近くの Algoaにある少年鑑別所で 10年を送ることとなって消えてしまいます。このため、せっかくの Sumner High Schoolも卒業することは出来ませんでした。
資料では、そのクルマを彼らが強奪したものかどうか、には言及されておらず、単に放置されていたクルマを勝手に乗りまわしていたものか、そのヘンがちと不明です。

その Algoa時代にはゴスペル・グループに所属し、また、どうやら短期間ではあったらしいのですが、ボクサーも経験しているようです。
1947年、彼の 21才の誕生日に 10年という期間をそれでも大幅に短縮して、ようやく Algoaから開放されると、翌年には Themetta Suggsという女性と結婚し、Fisher Bodyという(たぶん自動車の)組みたて工場で働き始めますが、同時に the Poro Schoolというところで「ヘア・ドレッサー」としての職業訓練を受け、さらにフリーの写真家としての仕事と、父の仕事の補佐、その上に、ふたたびミュージシャンとしての活動までも始めているようで、ある意味、失われた三年を取り戻そう、と必死だったのかもしれません。

1952年のニュー・イヤー・イヴに、彼はピアニストの Johnnie Johnsonが率いるスモール・コンボに誘われて参加します(ドラムが Ebby Hardyだった)。ここに彼が加わったことにより、バンドの音はポピュラリティを獲得し始めたらしく、このバンドの人気は次第に Ike Turnerや Albert Kingに肩を並べるほどになりました。
そしてついにシカゴに上り、Chessの Leonard Chessに辿りつき、Willie Dixonによる検分を受けることとなったのですが、そこでIda Red (仮題)という曲を Willie Dixonが気にいって、バンドとして来るように、と指示します。
こうして Johnnie Johnsonのピアノ、Ebby Hardyのドラムに Willie Dixon自らがベースで参加して録音された曲が、あのMaybellene となったのでした。

Willie Dixonはさっそく人気 D.J.の Alan Freed*に依頼してヘヴィー・ローテーションを組んでもらい、この曲はたちまちミリオン・セラーとなって行きます。

*Alan Freed─本名 Albert James Freed、1921,12,15-1965,1,20。生まれたのは Pennsylvania州 Johnstown近郊らしいのですが 12才の時に一家は Ohio州 Salemに移っています。
高校では Sultans of Swingというバンドを結成し、トロンボーンを吹いていました。
1942年には Pennsylvania州 New Castleの WKSTで放送の仕事につき、続いて Ohio州 Youngstownの WKBNではスポーツ・キャスターとなり、以後、1945年には WAKR(同州 Akron)で次第に音楽番組の采配で注目を浴びるようになります。
1951年には彼の呼びかけたコンサートにキャパの二倍の聴衆がおしかけてゲートを破壊する騒ぎも起きており、これを史上初の「ロック・コンサートだ!」なんていうひともおりますが、はて?
この後も圧倒的なリスナーの支持によって、彼の音楽業界に対する影響力は増大していったのですが、1958年にまたしても Boston Arenaでの乱闘事件があって、彼の評価が下がり始めたときに、追い討ちをかけるように表面化したのが 1959年11月の、有名な「ペイオーラ・スキャンダルでした。
これ以降、彼は相変わらず M.C.の仕事や、D.J.としての仕事を続けてはいるのですが、1962年に金銭トラブルで失脚し、California州 Palm Springsに隠棲するようになったらしいのですが、もはや酒のために廃人同様だった、とも言います。
彼の死因は肝硬変に食道周辺の静脈瘤などからの大量の出血だったそうです。

─さて、Chessから依頼されたシングル、Chuck BerryのMaybelle を自分の番組で二時間連続(!)でかけ倒した Alan Freedの功績もあって、Maybelle のセールスは 100万枚を超え、とーぜん R&Bチャートの No.1、全体でも 5位にまで駆け上がったのでした。
ところで、この曲の版権所有者として、Alan Freedの名がクレジットされており、だから必死こいてヘヴィ・ローテーションにハゲんだんだ、という説がありますが、たぶんホントでしょ。
おそらく、そこらは Leonard Chessと彼の間に「密約」が取り交わされていたハズ。
それによって Chuck Berryの取り分が「おおいに」減じられたことは疑いなく、この一件と、さらにもひとつ、初期のロード・マネージャー Teddy Reigが「上がり」をくすねていたことに気付いたこともあって、彼はそれ以降、「他人は信用出来ない」という哲学を根底に据えたように思われます。ま、おかげで対人関係において様々なトラブルもあったようですが。

1956年の 5月にはRoll Over Beethhoven が Hot 100の 29位に上がりましたが、続くThirty Days No Money Down Too Much Monkey Business You Can't Catch Me などは明らかに「失速気味」で、最初のヒットであるMaybelle を凌駕する作品はなかなか生まれませんでした。
しかし 1957年 3月にリリースされたSchool Days はチャート 5位まで登りつめ、それによって、その年だけでも、一挙に 240ヶ所でのワン・ナイト・ショーの仕事が転がり込んで来たのです。
以後、ほぼ 2年半に渡って彼の送り出すヒットの数々─1957年のOh Baby Doll ( 57位)、Rock and Roll Music ( 8位)、1958年のSweet Little Sixteen ( 2位!)、Johnny B. Goode ( Goodじゃないぞ!8位)、Carol ( 10位)、Sweet Little Rock and Roller ( 47位)、Merry Christmas Baby ( 71位)、1959年のAnthony Boy ( 60位)、Almost Grown ( 32位)、Back in the USA ( 37位)、ただし例外もあって、1958年のBeautiful Delilah だけは Hot 100に入ることが出来ませんでした。─が、さらにはそれらと並行して Alan Freedの手によるフィルム、Rock, Rock, Rock ( 1956)、Mr. Rock and Roll ( 1957)、Go, Johnny, Go ( 1959)と連動して、彼の人気を不動のものとして行きました。

ところで、1959年のBack in the USA ( Chess 1729)、このシングルの B-Sideに収録されていたナンバーこそが Memphis, Tennesseなのでございます!

1957年には Irving Feldのブッキングした全国 75の都市でのコンサート・ツアーも行われます。これは単発の仕事としてのワン・ナイト・スタンドとは異なり、各種スタッフからバッキング・メンバーまでをトータルでパッケージングした大掛かりなもので、これこそが「全国的スター(?)」の証なのですなあ。
1958年には新参の Buddy Hollyを迎え、Big Beat ツアーを行っています。ただし、このツアーは例によって Alan Freedが一枚噛んでいたワケですが、Freedが Jerry Lee Lewisをも、ツアーに加えたことで、きしみが生じ始め、ついには Bostonでの公演中に客席で対立するファン同士が乱闘し始め、州警察が介入する、という事態が発生してしまいました。
この時、取り調べの際に誘導され、Freedは Chuck Berryの言動に、暴力を誘うようなものがあった、と発言したことにより、彼と Freedの縁は切れることになります。

それに先立つ 1957年の 4月、彼は Missouri州 St. Louisの 50kmほど西北西に位置する Wentzvilleに 30エイカーほどの土地を買い、翌1958年の春には自分のクラブ、Club Bandstandも St Louisの劇場地区にオープンさせました。
しかし、このクラブの周辺は富裕な白人層の生活圏であったため、官憲が閉鎖を命じるチャンスとなる「スキャンダルの発生」を待つ状態でもあったのです。

その機会は 1959年の 12月に訪れました。
彼は公演先の Texas州 El Pasoで Janice Escalantiという Arizona州 Yumaから来たアメリカ先住民族(いわゆるインディアンですな)の少女と出会ったのですが、彼女を Club Bandstandで働かせることになって St. Louisに呼んだのですが、二週間後、彼女は地元のホテルから Yumaの警察に帰りたい、と助けを求めました。
これが「道徳に反する目的で、未成年の女性を州境を越えさせた」とかゆう(?)罪に該当したらしく、二審では三年の刑期と罰金 1万ドルが課せられてしまったのです。
1962年 2月19日、彼は収監されました。

その不在中の 1963年 3月、彼のSweet Little Sixteen は the Beach Boysにカヴァーされ、あのあまりにも有名なSurfin' USA となったのです。
さらにイギリスでも the Rolling Stonesが彼のCome On Carol などをカヴァー。そして彼がようやく赦免される 1963年10月18日の直前には、ロンドンの Palladiumでマッシュルーム・カットの四人組がこれもまた彼のRock and Roll Music Roll Over Beethhoven で場内を湧かせていたのでした。
本人がまだ獄中にあったこの時期に、彼の(カヴァーも含む)楽曲はイギリスのチャートを賑わしていたワケです。

いわばオリジネイターである彼にとって、それらのカヴァーは「幸運」だった、と言えるでしょう。1964年の 2月から 1965年の 3月にかけて、Nadine ( 23位)、No Particular Place To Go ( 10位。この曲はイギリスでの彼の最大のヒットとなり、1964年夏にチャートの 3位まで上がりました)、You Never Can Tell ( 14位)、Promised Land ( 41位)、と復帰後の彼は順調にヒットを出して行くのですが、Top 100にはいったのは、Dear Dad ( 95位)が Chessでの最後となります。

1960年代半ばからのブリティッシュ系への流れ、さらに西海岸からのサイケデリック・サウンドなどの勃興に伴い、従来のアメリカン・ミュージックが変化していく時期を迎え、彼の周辺もまたその波に洗われてゆくことになったのでした。



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# by blues-data | 2005-09-04 00:00
Charley Patton
Charley Pattonは Mississippi州の Hinds County、おそらく Edwardsか、あるいは Bolton付近で 1891年 5月 1日に生まれたのではないか、とされていますが、もちろん(?)異説もあって、同年 4月とするもの、1889年とするもの、出生地も Gonzales Countyの Rev. P. Herronの綿花プランテーションで、とするものがあります。
また彼は白人とインディアンの血も混じっている、とも言われていますが、それについても、カリビアン、またチカーノの混血を主張する説まであり、「なにがなにやら」という状態なのですよ。

そして 20世紀に入ったあたりに、彼は両親 Billと Annieともども「伝説の」 Dockery農場に移ったもののようです。そこで触れた音楽が彼の生き方を決定したのではないでしょうか。
そして、ここで後に録音することになる数々の楽曲を身につけた、とされています。
そして Willie Brown*と出会ったのが 1911年のことでした。
やがて Charley Pattonは農場を離れ、ミシシッピー河に沿った各地を演奏して歩いたようです。1926年からは Willie Brownを相棒として演奏するようになりました。

するうち Paramountのタレント・スカウト( Mississippi Jook Bandの項でも出て来ましたし、いや、それよりは ARCに Robert Johnsonを紹介したことでその名を残した、とも言えますが) H. C. Speirの目にとまり、1929年 6月14日、Indiana州の Richmondで初録音。
この時にはサイドに別なギターが入っていますが、そのギタリストの特定は出来ておりません。(参考までに、当日、別な録音も行われており、それは Walter Buddy Hawkinsの 4曲です)

この録音に続き 10月には Wisconsin州 Graftonで Henry Simsのヴァイオリンとともに録音を行い、この時の 24曲の中に今日の Rattlesnake Bluesも含まれています。
ケッキョク 1929年から 1934年にかけて 68曲(ただし、うち 17曲は Vocalionの壊滅によって「失われて」しまっているそうですが・・・最後は New Yorkで 1934年 1月30日から 2月 1日にかけて 26曲が American Record Companyに録音されています)を吹き込みました。
やがて 1932年には結婚しているようですが、1933年には女性をめぐるトラブルに巻き込まれ、喉を切られる事件に遭遇しています。

かねてから心臓に疾患を抱えていたらしい彼が心不全で倒れたのは Mississippi州 Indianolaの近くにあった Heathman-Dedham農場で、1934年 4月28日のことでした。



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# by blues-data | 2005-09-03 23:41
Charlie Lincoln
Barbecue Bobこと Robert Hicksの兄で、本名 Charley Hicks: 別名 'Laughing' Charlie、あるいは Charlie Lincoln(ただし Charlieと Charleyの両方の表記が使われており、どちらが正しいのか「?」です)は 1900年 3月11日 Georgia州 Walton Countyの Walnut Grove生まれ。
Barbecue Bobの項でも説明した通り、Charley Hicks( Lincoln)と Robert Hicks( Barbecue Bob)、さらに James Weaver( Curley Weaver)の三人は、いわばギターに関する「ご学友(?)」でございます。三人の先生はモチロン Jamesの母である Savannah "Dip'' Weaver( Savannah "Dip'' Shepard)ね。
1918年には Hicks兄弟は一帯で演奏をしていたようで、ギターがウマかった Robertと声のいい Charleyという組み合わせがパワーを発揮していたようです。
1923年には Atlantaに移り、このあたりから12弦ギターに専念した、とも言われていますから、Barbecue Bobの項に書いた『彼らと親しかった、とされる Snap Hillによれば、この時期に Hicks兄弟は 6弦のギターから12弦に移ったのだそうです。』ってのと矛盾しますね。
どちらも、それぞれ「記憶」に残った印象からきた証言ですから、どちらが正しい、とは一概には言いきれないのですが、おそらく、Newton County時代に「まったく」12弦を弾いたこともない、とは考えにくいし、かと言って、カンゼンに12弦に転向した、ってワケでもなかった、ってえあたりじゃないでしょか?

やがて弟の Robertも Atlantaに来て、1925年には James Weaverも Eddie Mappe(こちらも以前説明しましたが、 1911年 Georgia州 Walton Countyの Social Circleの出身と思われるハープ奏者。James "Curley" Weaverとふたりでダンス・パーティなどで演奏したり、ときには Hicks兄弟も一緒に演奏もしています。彼は Newton郡では最高のハーモニカ奏者と言われていました。Charlie Lincolnの「 Lincoln」が Mappeの母の旧姓と言われる。1931年の11月14日、路上で死亡しているのを発見される。死因や事件性の有無など詳細は不明 )も Atlantaに出てきます。

Weaverはミュージシャン仲間になかなか人気もあったようで Buddy Mossによればみなが彼と演奏したがった、と。
それに比べると Charleyは、やや社交性に欠け、開放的な性格でもなかったようで、逆に言えば弟の Robert、一緒にギターを学んだ Jamesそしてそのチャンネルを通じて知った Eddie Mappeや Buddy Mossのような限られた共演者しかいなかったのではないでしょうか。

1927年には Chrley Hicksは弟も含む The Georgia Cotton Pickersや、弟とのデュエットで Columbia Recordsに初吹き込み。
このとき何曲かの冒頭に「笑い声」のように聞こえる奇声が入っていたことから「 Laughing Charlie(あるいは Charley)」の別名がついた、とされています。しかし、日常の彼はまったくそのようなキャラクターではなかった、とされてますので、はたして?
それから 3年にわたり、彼は着実にレコーディングを続けましたがそこでリリースされたのは一部に過ぎません。

さて、あまり社交的とは言えず、その人的交流範囲も限られていた、と思われる Charlie Hicksですが、1931年の10月21日、Georgia州 Lithoniaで、弟の Barbecue Bobこと Robert Hicksをインフルエンザに起因すると思われる肺炎で失ったことが彼を打ちのめしたようです。
それだけでも大きな心理的打撃だというのに、その 2ヶ月後に今度は Eddie Mappeが理不尽な死を迎え、さらにその1年後には彼の義理の妹が、おまけに 2年後には母も死んでしまい、もはや彼の音楽につながるチャンネルがすべて失われていったのですから、ヤル気を無くすのも無理はないでしょね。妻とも別れてしまいますが彼女も後に肺炎で死亡しています。1935年には父の死、という具合に、妹(あるいは姉かも?)の回想によれば、彼の人生は「死別」の連続だったらしく、このあたりから彼はアルコール漬けとなっていったようです。

1955年のクリスマスに、彼は自分の内縁の妻が殴られそうだったので、それを阻止しようとした時、相手がボトルを投げ付けたのでやむを得ず撃った、として逮捕されますが、目撃者の証言はそれを覆すものばかりで、裁判の結果、彼は殺人罪で 20年の刑を得て服役することになりました。
彼は刑務所の中でも12弦ギターを弾いていたらしく、それについては Big Joe Williamsが監獄で12弦を弾く囚人に会ったことがある、と証言していますが、それが Charlie Lincolnだとは知らなかったそうです。

彼は収監されたまま、脳出血で死亡しました。1963年の 9月28日のことです。



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# by blues-data | 2005-09-03 22:53
Charles Brown
Charles Brownが生まれたのは 1922年 9月13日で、Texas Cityです。
一説によれば、彼が生まれてすぐ(まだ生後六ヶ月でした)母が亡くなり、祖父母のもとで育てられることになったのですが、その祖父母に教会でピアノやオルガンを弾くようにしつけられていたにもかかわらず、(あるいはそれが災いして、か?)彼はミュージシャンではなく、高校の化学の教師(!)になっています(ただし、これにも異説があり、そちらでは、音楽をやりたかった彼の意思に反して両親が教師になることを「強いた」となっておりますが、したらお母ちゃんも生きとるやないの!ムジュンしとるなあ。さらにアリゲーターのサイトによれば、彼は 10才でクラシックのピアノを学び始め、後には Art Tatumのジャズ・ピアノに影響を受けた、とされとります。ま、ぜんぜん資料の無いのもアレだけど、あったらあったで、異説だらけ、っちゅうのも困ったもんです)。
1943年には(異説:1944年) Los Angelesにいたようですが(これはどの資料でも言及されてるんですが)「オンガクで、もっと稼げる」ことに気付き転向したんだとか。

まず Ivie Andersonの Chicken Shack clubに「シンガー」として雇われ、当時ナンバー・ワンの Los Angelesのグループとしては the Nat "King" Cole Trioでしたがそこでギタリストをしていた Oscar Mooreと兄弟の Johnny Mooreのグループに採用されて出来たのが Johnny Moore and the Three Blazersで、このグループで 1946年(alt.1945)にトバしたヒットが「Driftin' Blues 」です。
これでこのグループは全国的に有名になり、New Yorkの Apolloシアターにも出演していますが、グループ自体は 1948年に分解してしまい、Charles Brownは新たなメンバーで同じ名前のバンドを組んで、それ以後の活動を続けますが、もはやソロとしての資質が表面化して来ていたようです。
1950年代に入ると「Merry Christmas Baby 」、「Black Night 」、「Seven Long Days 」などのヒットを出しました。
また彼の作品は B.B.や Ray Charles、 Sam Cooke、Amos Milburnに Fats Dominoなどにも採り上げられ、ソング・ライターとしての才能も開花してゆきます。

「 Trouble Blues」や、彼の他の代表作「Driftin' Blues 」、「Black Night 」、「Hard Times 」、「Merry Christmas Baby 」は、Hard Times and Cool Blues UK Sequel NEXCD 133で聴くことが出来ます(ただしオリジナル・マスターは失われているため、再生速度がアヤしく、チューニングが合わなかったりします。なんで、こゆの再生するときに調律師を呼ばないんだろ?彼らにアドヴァイスしてもらったらもっと正しいピッチ出るのにねん)。
1940年代から1950年代中頃までの録音は Aladdin labelになされています。

「 Trouble Blues」はおそらく 1959年に Aceに吹き込まれた New Orleans録音と思われますが、1960年代に入ると、彼のサクセス・ストーリィにも「翳り」が出てきます。
やや低調だった 1960年代から、1970年代の半ばまでは、Los Angelesのクラブなどで歌っていたようですが、再発見(?)されて the 1976 San Francisco Blues Festivalに出演し、さらに the Long Beach Blues festivalなどにも連なるのですが、レコーディングでは「かっての栄光」には及ばなかったようです。
ただし、ミュージシャンからの彼の評価は「低い」ワケではなく、ゲストとしてボニー・レイットやエルヴィス・コステロが来てくれるくらいですから、なかなかのもんでしょう。
1988年の12月には PBSから放映されたスペシャル『That Rhythm…Those Blues 』に Ruth Brown(姓は同じ Brownだけど血縁はありません)と出たことによって彼もまた広い範囲に顔を知られるようになりました。

1990年代の彼は音楽のディレクターで、かつギタリストでもある Danny Caronとともにツアーにも出ています。しかし、病が彼の出演回数を減らすようになってきており、R&B財団によって彼の功績が認められ、国の芸術基金によって文化財の保護基金の適用が決まったことを記念して開かれたコンサートの数日後、そして the Rock And Roll Hall Of Fameに殿堂入りする 2ヶ月前の 1999年 1月22日に死亡しました。



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# by blues-data | 2005-09-03 22:39
CeDell Davis
CeDell Davisは1927年 6月 9日に Arkansas州 Helenaで Ellis Davisとして生まれました。
そしてその少年時代を、兄のいた( Tunicaから 12,3km南に下がった)E.M. Hoodのプランテーションで過ごしています。
ここでの幼なじみに Isaiah Ross、つまり後の Dr. Rossがおり、その影響でか Davisもブルースに興味を持ち、最初はハープから、そしてギターも、というコースを辿ったようなのです・・・が!
彼が 10才になろうとしていたころ、突然、小児麻痺が彼を襲ったのでした。
母のいる Helenaへ戻された彼は、その母のもとで治療とリハビリに励みましたが、どうしても右手の手先の機能は回復せず、そこで考えだしたのが、右手で弦をつまびくことは出来ないとしても、腕全体として見るとある程度は動かせるのだから、ここは発想を逆転し、右手には食事用のナイフ(一部資料ではバター・ナイフとしています。でも Fat Possumの画像で見ると、バター・ナイフっちゅうより、普通の食事用のナイフに見えるけどなあ)を固定してしまい、ギター本体も左右逆に抱えて、左手で、ネックの上から下に伸びたナイフで弦をピッキングする、というものでした。
これが CeDell Davisのギターに見られるユニークな音の由来のようでございます。しかも押圧が不充分なためか、その奏法も単弦スライドに限られているようで、さらにやや「滑らかさを欠いた」トーンがまた彼のギターの特徴となったようです。
そのような身体的ハンディキャップを持ったままでも彼はデルタ一帯で演奏し始めるようになり、やがては(その間のいきさつなどはちと「?」ながらも)あの Robert Nighthawkとの 1953年から 1963年までの実に10年間にも及ぶ付き合いが始まったのでした。

しかしその間に、またひとつの新たな不運が彼を襲っています。
Robert Night Hawkと一緒にツアーをして歩くようになった彼も、普段は St. Louisを本拠としており、そこでは Nighthawkと同様に Big Joe Williamsや Charlie Jordan、J.D. "Jelly Jaw" Shortなどとの交流もしていたのですが、そんな 1957年のある日、これも St. Louisの酒場にいたときに、「手入れだ!」と言うニセ情報にパニクった客が出口に殺到した際にそれに巻き込まれた彼は、足を複雑骨折してしまい、(それまではなんとか自分の足で歩ける状態だったのに)以来、彼の生活には車椅子が手離せなくなってしまったのでした。
1961年には Helenaに戻りましたが、Nighthawkとともに Pine Bluffの Jack Rabbitでレギュラー・ギグの仕事をするようになったためそっちに移り、それからは Pine Bluffで暮らしています。
こうして 1963年までの長い期間を Robert Nighthawkと「もっとも多く一緒にいた(?)」彼がそこからどんな影響を受けたのか?は、それ以前の彼の音が残っていないためワタシにゃあなんとも言えません。

その CeDell Davisの初録音(?)と思われるのは 1976年の Pine Bluffの University of Arkansasでの演奏を捉えた Rooster Blues Recordsのフィールド・レコーディングでしょうか。これは 1983年に Keep It To Yourself: Arkansas Blues Volume I( V/A)に収録されて世に出ております(と、さも知っているかのような書きっぷりですが、ワタクシあいにくとこれは持っておりませんので収録された曲名などの詳細は判りません)。
そして、たしか 1984年には彼の映像作品、CeDell Davis: I Don't Change ってのがあったハズなんですが、その版元(って言わないか?)などはちょっと不明。ヒマな方はご自分でどうぞ!

アルバムとしては 1990年の Feel Like Doin' Something Wrong Fat Possum 80322が初のフル・アルバムで、さらに 1998年には同様に Horror of It Allをリリースしていますが、どうも Fat Possumじゃあアコースティック色を優先してるよなとこが強く、この 2002年の Fast Horse Recordsからの When Lightnin' Struck The Pineがベスト、っちゅう気がいたします。ま、そこら、あんなスタイルのブルースがお好きな方もおられるでしょうから、それはそれで別にいいんですが。



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# by blues-data | 2005-09-03 22:36
Carlos Johnson

Carlos Johnsonは 1948年 1月17日、Chicagoの Cook County Hospitalで、建設作業に従事する父 Warrenと、病院に勤務するのではなく、個人に雇用される看護婦であった母 Barbaraとの間に生まれています。
母はブルースとカントリー・ミュージック、父はジャズとクラシックを好む、という家庭環境で育ったようですが、そんな彼に大きな影響を与えたのは、母とともに聴いていた B.B. Kingのギター・プレイで、さっそく自分のギター(子供用のオモチャ)で真似ていたとのことです。

12才の時にはすでに近所のガキ・・・うっぷす、おトモダチと一緒にバンドを作り、いわゆる '60年代ロック、例えば Led Zeppelinや Jimi Hendrix、さらにはビートルズなんてのも演ってたとのことですが*、それで近隣のバーベキュー・パーテイに押し掛け(?)ちゃあ 10ドルっつ貰ってたりしたそうで。

* ─ 1948年生まれで 12才ならば 1960、あるいは 1961年なワケですが、当時のアメリカにおけるミュージック・シーンのトピックを挙げていくと、まず有名な Ray Charlesの Georgia on My Mind のヒットが 1960年です( 11月14日に全米チャート 1位)。
他にはプレスリーの It's Now or Never (ただしプレスリー本人はこの年の 1月14日、軍務についてますが)、ロイ・オービソンの Only the Lonely 、ダリダの O Sole Mio 、日本では坂本九のカヴァーで知られるジミー・ジョーンズの Good Timin' 、これも日本ではカヴァーがヒットした the Driftersの Save the Last Dance For Me 、さらにこれまた日本じゃお馴染みヴェンチャーズの Walk Don't Run なんてのもこの年でした。
さらに以前、拙日記でも採り上げました Ella Fitzgeraldの Ella in Berlinがリリースされた年でもあります。
じゃ、彼が言うビートルズは?ってえと、まだ Stuと Peteも含む(つまりリンゴはいない)五人でハンブルグでデビューしてたころで、当然まだ無名のまま。
続く 1961年には the Supremesが Motown Recordsとサインし、ヒットではパッツィ・クラインやコニー・フランシス、さらにジーン・ピットニィなんて名前が目立ちますね。
曲では「ライオンは寝ている」がこの年。そして Dick Daleの Let's Go Trippin' 、デル・シャノンの Runaway 、さらに寿家界隈で(?)とみに有名な the Shirellesの Will You Still Love Me Tomorrow もこの年なんですねえ。
あ、そー言えば Bill Evans Trioの Sunday at the Village Vanguardのリリースも 1961年でした。え?なんで急に Bill Evans、って?でへへ、そりゃあ Scott LaFaroですがな。ま、そっちに行っちゃうと長くなるのでヤメときましょ。

てなワケで Carlos Johnsonの言う Led Zeppelinも、もちろん Jimi Hendrixだって 12才当時では「出現」しておりません。
よってこれらのナンバーを演っていたのは、もっと後になってからのことでしょう。

さてハナシを戻しまして、高校生の頃には Nut Cracker Switと Seven Peaceという二つのバンドを持っていた(と語っていますが、原文では和訳にある「ソウル・ミュージックの」に該当する単語が無い!と思ったら、なんと WEB上の原文と思われた資料には「その部分」が欠落しておることを CDに付属してるライナーと突き合わせて「気がつき」ました。
うげげ、なんでこゆとこを「カット」するかなあ?)そうです。
あ、それとジャズも父親の影響でか演奏していたみたいですね。

1970年代になってからはかなりブルースに関わり始めたようで、Billy Branchに出会い、Koko Taylorや Junior Wells、そして Son Sealsなどと演奏するようになりました。またこれは江戸川スリムさまのとこで本人が語っているエピソードですが、おそらく 1972年か 1973年あたり、これも青森のブルース・フェスティヴァルに二年連続で来た Bonnie Leeと一緒に「ジャズを演ってた」けど、ブルースの方がカネになるから、と言うんで二人揃って「転向」したんだとか。

しかし Carlos Johnsonでもっとも印象に残っているのは、なんと言っても、あの Otis Rushをサポートした日本ツアーではないでしょうか。
ワタシは「とあるルート」からの録音で触れることが出来ましたが、おそらく実際にその場で聴いた方々にとっては決して忘れることの出来ない経験となっているかもしれません。




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# by blues-data | 2005-09-03 22:34
Carl Weathersby
Carlton Weathersbyは 1953年 2月24日(カンケー無いけどワタクシは 2月26日ですからほぼ 5つ違いでおます)、Mississippi州の Jacksonで生まれています。
彼はそこで 8才までを過ごし、やがて家族とともに Indiana州の East Chicagoに移って来ました・・・と最初は記述していたのですが、その後、異なった資料で、「(その Jackson からは 7時の方向に100kmほど離れたところにある) Meadville という人口わずか 450人という小さな町でその幼年期を過ごした」との記述に出会いました。
2000年の国勢調査では Meadvilleの人口が 519人となっており、住民の 8割以上が白人となっています。
ところで、おそらく出銭ランドのある浦安を東京都だと思ってるひとは多そうですが、ちょうどそれに似た関係というか、この East Chicagoは Illinois州の Chicagoとは、もはや一体となったような「連続した都市」的ゾーンを成しています。
でも実際には本来の Chicagoから Lake Michiganを左に見て南南東に下った、州境を越えてすぐのところにある「別な」街なのよね。
ただし、この街に来てからも、夏休みなどには Jacksonの親類のところに戻ったりしていたようです。彼にとってはその町こそが自分のホームタウンだったらしく・・・
その彼がギターに興味を持って引き始めるようになったのは 10代になってから、と言いますが、それには彼の父の交遊関係や親戚縁者の存在、またそれ以外にも周囲の環境が影響していたのかもしれません。

およそ彼の Biographyでは必ず登場する、有名な Albert Kingと、その Cross Cut Saw の逸話以外にも、まず彼の親類には Willie Dixonの Big Three Trioでピアノを弾いていた Leonard "Baby Doo" Castonがおり、その息子で CHESSから Voice Your Choice のヒットを出したソウル・グループ、the Radiantsのメンバーだった Leonard Caston Jr.とは「いとこ」の関係だったようですし、さらに別な「いとこ」としては、あの G.C. Cameronもいました。さらに隣人は Hound Dog Taylorの「いとこ」だった・・・

注;稲荷町食堂 B.B.の Teacher高橋氏によりますと、アメリカで Cousinと称するのは日本と違って、きわめて広範囲が含まれ、遠い親戚でも、そのよーに表現する場合がある、とのことでした。ですから、ここでの「いとこ」をすべて額面どおり、日本で言う「いとこ」と同じと思ってはいけないのかもしれません。

例の逸話が物語るように、彼は特に Albert Kingのギターを追いかけていたようで、その名残は今日の Angel of Mercyにも随所で表れておりますが、やがてその Albert Kingのツアーにリズム・ギター(つまり、「サイド」っちゅうほどじゃなく、リズムだけなら、って感じでしょか?)として同行するようになるのですが、それ以前の 1971年から 1977年までを、陸軍の兵士として「あの」ヴェトナムで過ごしています。
それ以外にも(ヴェトナム兵役との前後関係は不明ながら)製鉄所で働き、また警察でも働き、あるときは監獄の守衛の仕事もしていたようです。

その彼がフル・タイムのミュージシャンとして身を立てるようになったのは、あの Albert Kingのツアー・メンバーとして 1979年と 1980年、さらに 1982年の経験をした直後、Billy Branchの Sons of Bluesに、Carlos Johnsonの後任ギタリストとして加入した時からでした。
そしてそこで 1996年までの 14年間を過ごした Carl Weathersbyは遂に自らのデビュー・アルバム Don't Lay Your Blues on Me を EVIDENCEからリリースいたしますが、こっからの詳しいとこはゼヒとも江戸川スリムさまのページ*をご覧になってくださいませ。

なお、そこで見られるジャケットでの Carl Weathersbyのギターですが、ちょっとオフ・センターな Fender Telecaster Custom(フロントには Fender特有のメタルでカヴァーされたハムバッキング PU、でもセレクタ SW.がレスポールみたいな位置についてて、ツマミ類も 2V/2Tとギブソンっぽい)のメイプル・ネックで始まり、3枚目では一転して Gibson Les Paul Standard Double Cut Plus( P.R.S.の元ネタになったみたいなソリッド・ボディのギター。MACさんのサイト *もご参照くださいませ。そこでも解説されてますが、トップが湾曲成形されたメイプルで、そのぶん、内部に空洞があります)となっています。
四枚目では同じ DCでも、カラーがグっと渋いウォールナット・カラーながら、おそらくキルテッド・メイプル(たぶんね)っちゅう豪華版になっててビックリ!
ライヴ盤はイラストなんで定かじゃないけど、これ Gibsonの ES 335 TDっちゅうよりはゲイトマウスのシュツットガルト・ライヴ同様の Washburnに見えるなあ・・・

ところで、2000年の来日の際、目黒の Blues Alley Japanで使用したのは BLUES (音芸)のテレキャスター・モデルらしく、やはりあのブルーのボディにメイプル・ネック、PUはハムバッキング、というギターでした。
そして HOLD ONではドット・インレイの 335ってワケですが、某サイトで使ってる画像じゃ、やはり Washburnを構えてるのが使われてましたから、それも一時期弾いてたようでございます。



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# by blues-data | 2005-09-03 22:24
Calvin Leavy
1942年、Arkansas州の Little Rockの東に位置するあまり大きくない町、Scottで、大勢の子供たちの一番末っ子として生まれた、と言われています(兄の Hoseaもミュージシャン)。
彼は音楽で身を立てる決心をして、サキソフォンやギター、ベースにハーモニカなどを独学で学んだもののようです。
16才でゴスペル・グループに参加したのが彼の音楽キャリアのスタート。
その彼の努力は、ブルースとゴスペルのプロデューサー、Calvin C. Brownに見出されたことによって報われます。
彼の「 Cummins Prison Farm」のデモ・テープを聴いた Calvin C. Brownはそれを自身のレーベル Soul Beatからリリースしました。
この曲は後に Shelby Singletonの SSS Recordsによって、より大きなスケールでリリースされることになります。
SSS Recordsからリリースされた「 Cummins Prison Farm」は実に 75万枚をセールスする大ヒットとなりました。
ただし、この SSS Recordsからリリースされたものが、Calvin C. Brownに持ち込まれたデモ・テープそのものなのか、あるいはスタジオで再録音されたものなのかは判別する資料がありませんでした。
「 Cummins Prison Farm」は1969年に録音された、と言われていますが、Calvin Leavy自身はリズム・ギターと歌を担当し、灼熱したあのリード・ギターは Robert Tannerです。

この後も彼は Soul Beat Recordsとその連合関係にある Acquarianに吹き込みを続け、時には兄の Hosea Leavyがベースとして参加しています。
その Calvin Leavyの消息については「不幸にして現在、収監されている」とした情報と、「ごく限られた情報しか伝わって来ていない、それによれば現在はゴスペル・グループでベースを弾いているそうだ」というものがありました。
ずいぶん対照的な二つの情報じゃあございませんか。


最近の報道によれば、2010年 6月 8日、彼は麻薬取引に関係したことによって収監されていたアーカンソー州立刑務所において死亡した、とのことです・・・
彼は 70才でした。




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# by blues-data | 2005-09-03 22:14
Carey Bell
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photo by Othum M.


Carey Bellは 1936年11月14日に Mississippi州の Maconで生まれた、とされておりますが、一部の資料では Georgia州の Maconとしているものがあります。
実は Maconっていう地名はアラバマ、アラスカ、フロリダ、ジョージア、インディアナ、イリノイ、ケンタッキー、ミシガン、ミズーリ、ミシシッピー、モンタナ、ネヴァダ、ノース・キャロライナ、オハイオ、テネシー、テキサス、ヴァーモントの各州にあって(!)、おそらく、資料から引く際に、「つい」自分の中で印象の強い Maconのほーに引っ張られてしまったのではないでしょーか?
てなワケで、ここは Mississippi州ということでよろしいと思います。

で、彼は Louis Jordanのファンだったらしく、サックスが欲しくてたまらなかったよーですが、そこはホレ、経済的なセーヤクっちゅうもんがおますからして、彼のお祖父ちゃんは、替わりに(?)ハーモニカを買ってあげました。それが 8才の時で、彼はもっぱら独学でハープを覚えてったみたいです。
13才のときには同じ Mississippi州の Meridianに移り、そこでカントリー&ウェスタンのバンド(!)で初のギグを経験しています。それは彼の「名付け親(あるいは教父?)」でピアニストでもあった Lovie Leeの尽力によるものだったようです。
その Lovie Leeに説得され1956年の 9月12日にはともに Chicagoへ。

そこでは昼は仕事、夜はサウスサイドやウェストサイドのクラブで演奏を聴き、休日には Maxwell Streetで演奏してチップを稼いだりしていたようですが、Club Zanzibar(14th & Ashland)に Little Walterの演奏を観に行き、仲良くなったようです。Little Walterはこの若造にイロイロ教えるのが楽しかったみたいで、様々なワザを伝授してくれたのでした。
また Sonny Boy Williamson IIのもとにも教えを乞いに行っていたようですが、彼にもっとも大きな影響を与えたのは Big Walter Hortonだったでしょう。
彼に言わせると、「 LittleWalterはホントにいろんなことを教えてくれたよ。でも Big Walter・・・ヤツはクレイジーだ!他のハープ・プレイヤーにゃ出来ないよなくっだらねえコトばっかしやってたなあ」だそうでございます。しかし、そんな Big Walterがやっぱりお気に入りだったのは確かでしょう。

さて、そやって確実にスキルをアップさせてった Carey Bellですが、1950年代の終りころから1960年代の初頭にかけて、ちょうどギターがエレクトリック化される端境期を迎えたことにより、ハープの位置が微妙なものとなり、一時的にハープの「仕事」が減った(とはいえ、ビッグ・ネームにとってはそれほどでもなかったのでしょうが)もんで、彼は Hound Dog Taylorから(!)ベースを習い、すぐさま Honeyboy Edwardsや Johnny Young、Eddie Taylorや Earl Hooker、さらには Big Walterのベーシストを務めています。この Big Walterのバックでベースを弾いている間に、殆どのハープのテクニックを実地で観て学んだのかもしれません。

その彼が本来のハープに戻って始めて吹き込みに参加したのは、1968年の Arhoolieへの Earl Hooker(1929-1970)のバックとしてでした。
その後1970年まで、彼は Eddie Taylorとともにウェストサイドにあった Big Dukeの Flamingo Clubのハウス・バンドを率いています。
そして1969年には Charlie Musselwhiteの手引きで Bob Koesterの Delmark Recordsと契約しました(Carey Bell's Blues Harp)。同年ジョン・リーとヨーロッパ・ツアー。
1970年からの 2年間はマディとツアー及びレコーディング(THE LONDON SESSIONSUNK IN FUNK)。
そして Willie Dixonも彼の Chicago Blues All-Starsに招き、1974年のオーストラリア及びニュージーランド・ツアーに同行させています。その状態はほぼ1970年代を通じて続きますが、Carey Bellはその一方でウマく時間を作って1972年には Alligatorに Big Walterと一緒に吹き込み(有名な BIG WALTER HORTON WITH CAREY BELL AL 4702です)、1973年には ABC Bluesway Recordsに吹き込み、それが1974年にリリースされた、これまた素晴らしい出来の Last Night BLS 6079となります。また1978年には AlligatorのLiving Chicago Blues シリーズでグラミー賞候補ともなっています(ともにバックには「あの」Lovie Leeが参加)。
そして1980年代以降はもはや確立されたステイタスとして自己名義も参加セッションも含めて数々のレコーディング、さらにツアーをこなし、この 2003年の夏には、ついに青森くんだりまで Delmark All Starsの「実質上の」メイン・アクトとして来てくれたのでございます。

しかし 2007年 5月 6日、70才で死亡しました。
それは息子 Lurrie Bell の日本行きのほぼ二ヶ月ばかり前のことだったのです。



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# by blues-data | 2005-09-03 22:07
C.J. Chenier
Clayton Joseph Chenier は 1957年に、あの有名な Clifton Chenierの息子として生まれています。当然、父のバンドに加わり(サックス・プレイヤーとして。後にアコーディオンも弾くようになります)音楽と関わりを持つようになるのですが、その前に Texas州 Port Arthurにいた頃には、さらなる音楽的素養を他のジャンル、例えば James Brownや Funkadelic(!)、さらにジャズでは John Coltraneや Miles Davisを聴き込むことで培っていったようです。また学校でも音楽を学び、ゆくゆくはジャズか、ファンクのミュージシャンに、と考えていたようです。
その Port Arthurのブラック・ミュージックのヒット・ナンバーを演奏するバンドでサックスを演奏していたのですが、彼が 21才となる誕生日の一週間前に、父の Clifton Chenierが、サックスを持って The Red Hot Louisiana Bandに入らないか?と尋ねたのだそうです。
彼は、「そのバンドがやってる音楽には馴染みが無かったし、どうしていいか判らなかったんだけど、みんなが助けてくれたし、そのうち、その音楽に打たれたのさ。これこそ、俺が求めていた音楽だ!と判ったんだ」というワケで 1978年に参加しましたが、1985年にはバンドの中での音の配分などから、アコーディオンに転向することを決意し、父に言わせると、最初はアコーディオンをプッシュ・プルするだけでもタイヘンそうだったようですが、その父が亡くなった 1987年には曲がりなりにも、その後を継ぐようなアコーディオン・プレイヤーと言えるレヴェルには達していたのでしょう。

父亡きあと、彼は次第に Port Arthur時代に心の中に棲みついていたらしい、かっての多彩な音楽を浮上させ始めることとなります。
そして Arhoolieや Slashにレコーディングし、New Orleans Jazz & Herritage Festivalに出演したことでポール・サイモンの目に止まり、アルバムに参加し、さらにツアーにも同行したりしています。

1994年には Alligatorと契約、翌1995年にリリースされたToo Much Funはたちまち Living Blues Magazineの Best Zydeco Album of 1995に選定されました。また同年、CNNの the John Stewart Showに出演したことで、彼の知名度はまた一段とアップします。
1996年の New Orleans Jazz & Herritage Festival、Texas州 Austinの SxSW Music Conferenceなどで彼の音楽は、多くの聴衆を踊り出させた、と言われています。
続く 1996年のアルバムThe Big Squeezeでは、さらにジャズやファンクの要素を導入し、ロックや R&Bのテイストも持たせたこのアルバムは翌1997年の Living Bluesの Critic's(批評家による) Poll Awardと AFIMによる Indie Award( for Best Zydeco Album)を獲得しました。

Zydeghostが収録された Step It UP!さらにパワー・アップして破壊力も充分です。
それだけに、古き佳きザディコを期待して聴くと、ショックは大きいかも・・・



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# by blues-data | 2005-09-03 21:58

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