Byther Smith
本名 Byther Claude Earl John Smithは、1932年 4月17日に、Mississippi州 Monticelloで、10番目の子供として生まれています。母親はその出産時に死亡し、なんと父親までがその半年後に死亡してしまう。さらに姉のひとりが自宅の火災で亡くなってるんですから、もう「不幸」を絵に描いたような人生ですよね。
この時の経験が歌になり、さらに彼のアルバムのタイトルとなっています。そのアルバムこそ、「Money Tree(ただしこれはシングルとは違う新録)」が収録されたHousefire(1991 Bullseye Blues)。
彼は最初ウッド・ベースでロデオ・ショーで C&Wを演奏してたようですが、当時ボクサーでもあった彼が初勝利を挙げたとき、育ててきてくれた叔母さんが彼に Fenderのベースを買い与え、ボクシングをやめてオンガクに専心しなさい、と言ったそうです。つまりベーシストとしてスタートしてるワケ。
1962年ころからギターを始めたようで、やがて Otis Rushが水曜と木曜に出る Pepper’s Loungeでは、そのリズム・ギターも務めています。サウス・サイドでは Theresa’s Loungeで Junior Wellsとこに6年間!’70年代の中頃にはそこを後にして Geoege Smithや Big Mama Thorntonのギタリストに転身・・・
どうやら彼は’60年代から ’70年代の初頭にかけて Enaや Bea & Baby、 CJに Cruz、 Apexそして BeBeなんて独立系のレーベルにシングルを吹き込んでおり、中でも BeBeには1976年に、「アルバムとして」録音までしているのですが、それはついにリリースされずに終っています。
その後、名も売れてヨーロッパ・ツアーも経験し、Barry Lee Pearsonの著書 Sounds So Good To Me: The Bluesman’s Story にも登場するまでになりました。
1985年に Gritsに録音したセカンド・アルバムはレーベル側との金銭的トラブルからアメリカ国内では販売することが出来ず、ごく限られた数が日本でのみリリースされてました。しかし幸運なことに、そのマスターが Razor Recordsの手に移り、ついに1988年そのアルバムHousefireがリリースされ、1991年には Rounder Recordsによる CDとしてのリイシューが Bullseye Blues labelから発売されたのです。
1996年のライヴのNiles Frantzのリポートによると、使ってるギターは Fender Stratocasterで、エルモアみたいな「Crossroad」を弾くそうですがスライド・バーは使ってないんだって。
あ、ところで、彼って最初はベースだったようですが、ギターは「いとこの」 J.B. Lenoirから習った、としている Biographyもありました。
ただし、江戸川スリムさまのおっしゃっておられた、彼らの言う「あいつとオレはいとこだ」ってのが、「とんでもなく遠い」親戚だ、っちゅう意味で使われる場合が多いらしいので、日本で言う「いとこ=三等親」てのとはだいぶちゃうのかもしれませんが。

おススメはモチ「Money Tree」収録の Housefire!他に、I’m a Mad Man(Bullseye Blues)なんてのもあります。
ただ、いわゆる 1980年代以降の New Bloodたちとはあまり接点が無いのか、このひとの話題が Ariyoの日記ではまず出てきません。ちょっとちゃう「一派( Lucky Petersonあたりとの接点はあるようですが)」に属しているのかも。



reserched by Othum: Blues After Dark


CAUTION!!これより下に表示されている広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり
当方はその商品やサービスを「一切」推薦しておりません。



















[PR]
# by blues-data | 2005-09-03 21:52
Buddy Moss
Eugene "Buddy" Mossは、1914年、あるいは 1906年の 1月26日に生まれたと言われています。この二つの年月の間には実に 8年もの「開き」があるのですが、その後の年代との整合性を考えると、1914年とするほうにやや分があるようにも思われますが、それとてもゼッタイとは言い切れないようです。
続いて、彼の生まれた場所ですが、Georgia州であることはマチガイ無いのですが、同州の Warren郡 Jewelとするもの、Hancock郡とするもの、の二つが挙がっています。12人の子供のひとりとして小作農の家に生まれたようで、そこでまず独学でハーモニカを吹き始めたようです。彼がまだ 4才の時に家族が移り住んで、結局ほぼ 10年間そこで過ごすこととなった Augusta周辺のハウス・パーティなどでまだ子供ながら演奏をするようになっていました。

そして、1928年には彼の姿は Atlantaの街頭で見られるようになっております。
1975年に Robert Springerのインタビューに答えて、自分のハープについて「誰の影響でもない」と断言しています。
「ただ、ひとの演奏はよく聴いたよ。聴いて聴いて聴きまくったんだ」
Atlantaでの彼はすぐに Curley Weaverや Robert "Barbecue Bob" Hicksの注意を惹き、やがて一緒に行動するようになります。Buddy Mossがレコーディング上に名を刻んだ最初が 16才で the Georgia Cotton Pickersの一員として Curley Weaverと Barbecue Bobと一緒に録音したものでした。時は 1930年12月 7日、Atlantaの the Campbell Hotelで Columbiaのために吹き込んだ「I'm On My Way Down Home 」、「Diddle-Da-Diddle 」、「She Looks So Good 」、「She's Comin' Back Some Cold Rainy Day」の 4曲です。
Curley Weaverと Barbecue Bobのギターに Buddy Mossのハーモニカでした。

その 3年後、1933年の 1月に彼自身の録音が New Yorkで the American Record Companyに行われました。伴奏者には Fred McMullenと Curley Weaverがついて「Bye Bye Mama 」、「Daddy Don't Care 」、「Red River Blues 」の 3曲を吹き込んでいます。
その 3年の間に彼はギターも習得していました。しかもそれは片手間なものではなく、かなり本格的なもので、もはや Curley Weaverのライヴァルとも言えるほどのレヴェルだったようです。
彼は Barbecue Bobとよく共演していましたが、その Barbecue Bobが 1931年10月21日に死んでしまってからは、新しい相棒として Blind Willie McTellを選び、Atlanta周辺のパーティなどで演奏をするようになっています。
それでも、研究者は Blind (Arthur) Blakeの名を挙げる場合がありますが、後年、彼は自分のギターについて、実際に影響を与えていたのは Barbecue Bobだった、と言明しているようです。

1933年 1月のセッション(6曲)では the Georgia Browns( Moss、Weaver、McMullenそして女性シンガーの Ruth Willis)としてのセッションも行っており、この時には彼はハープを担当しています。

彼自身の録音は ARCと協力関係にある様々なレーベルから売り出され、1933年の 9月中旬にはその好調なセールスによって New Yorkに戻り、Curley Weaverと Blind Willie McTellとともに再度吹き込みをしています。
その後も Curley Weaverの伴奏で数々の吹き込みをしていますが、同時期、彼の方でも Curley Weaverや Blind Willie McTellのためのバッキングを務める、という関係でした。

それらの録音はけっこう売れたので、また 1934年の夏にはセッションが New Yorkで行われています。そこでは伴奏者なしのソロが録音されましたが、それだけ彼の名義のものが( Weaverや McTell名義のものよりも)よく売れた、ということになります。
1935年の 8月には彼の一曲あたりのギャラが 5ドルから 10ドルへと倍増しています。録音が無いときの彼は Atlantaで Weaverや McTellと演奏をしていたようですが、この年、New Yorkのスタジオに表れた彼は新しいパートナー Josh Whiteを連れて来ています。二人は 15曲ほどを吹き込みました。恐らくそのままで行っていたら、彼はかっての僚友にして顧問でもあり、師匠でもあった Curley Weaverを凌ぐ存在となるハズでした・・・

多くが語られず、いまだにその真相は明らかにされてはいないのですが、Buddy Mossは彼の妻を殺害した、との嫌疑で拘引され、裁判の結果「有罪」と裁定されて、刑務所に収監されてしまったのです。
しかし、表面に表れていない真相があるのではないか、という疑いは消えず、刑務所内での素行も良く、仮釈放しても「危険は無い」と保証するスポンサーからの働きかけなどによって、1941年に彼は社会に復帰します。
そのスポンサーとは Elon College(これと彼の関係はちょっと判りませんでしたが)と、もう一方は Sonny Terryと Brownie McGheeだったそうです。

1941年の 10月、彼と Sonny Terryと Brownie McGheeは New Yorkに向かい、Okeh/Columbiaに吹き込んでいます。その中からは 3曲だけがリリースされました。その直後の12月 7日、ハワイの米海軍艦隊が奇襲を受け、アメリカも第二次世界大戦の渦中に置かれることとなり、シェラックも戦時統制物資に指定されたために、その後のリリースはストップしてしまったのです。

Mossは Richmond、Virginiaや Durham、そして North Carolina周辺で演奏をし続けていたようです。1950年代には Curley Weaverと Atlantaで演奏をしていましたが、すでに音楽は彼の生業ではなくなっていたようで、タバコ農園で働いたり、トラック・ドライヴァー、さらにはエレヴェーターのオペレーターなどをしていたようです。
その合間に演奏はしていたものの、彼はすでに忘れ去られた存在だった、と言えるでしょう。

1964年、彼はかっての相棒、Josh Whiteが Atlantaの Emory Universityでコンサートを開くことを知り、楽屋を訪ねたのでした。これによって彼の運命は変わります。アトランタ・フォーク・ミュージック協会の後援を受けることになり、さらにその上部組織であるワシントンの the Folklore Societyによって、公演の機会が増え、さらに Nashvilleにおいて Columbia labelに録音することになったのです(ただし未発売)。
1966年 6月10日に Washington D.C.で行われたコンサートはライヴ・レコーディングされ、後に Biograph labelからリリースされています。1969年には the Newport Folk Festivalにも出演、1970年代には West Virginiaでの the John Henry Memorial Concertや the Atlanta Blues Festival、そして the Atlanta Grass Roots Music Festival in 1976にも出演しています。

Buddy Mossが死んだのは 1984年の10月でしたが、正確な日付は残っていません。



reserched by Othum: Blues After Dark


[PR]
# by blues-data | 2005-09-03 09:02
Buddy Guy
1936年 7月30日、Louisiana 州の Baton Rouge から北西におよそ 80km、States Highway 61、84、167 と National highway 10 に囲まれた南北に長い矩形のほぼ中心に位置する綿花栽培地帯の農村 Lettsworth の、白人地主 Feduccia 家の農園で働く小作人(かつ木こり)、Sam Guy と Isabell Toliver の間に George Guy は生まれています。
どうやら Jelly Roll Morton などと同様に、父母は正式な婚姻関係にはなかったようで、ただこちらは母が別なオトコと結婚した、なんてこともなく、父と行動をともにしているところが違いますね。
いよいよ出産が近付いたとき、Sam Guy は二人の娘( George の二人の姉、Annie Mae と Fanny )に母を見ているように言いつけて、自ら馬をトバし、姉二人に George、さらにその後に生まれて来ることになる弟たち、Sam Jr.と Phillip もすべてとりあげることになる助産婦の Lucy Lewis を迎えにいったのだとか。

George Guy ─ 後の Buddy Guy によれば、「少なくとも、綿花のプランテーションをやろうってんなら、あのくらいそれに向いた土地はないよ。たまには旱魃で作柄が不良な年もあったけど、そんな時でも地主からは月に一樽の小麦粉と調理用のラードが支給され、飢え死にするよなことはなかったね」・・・
雇い主によってはもっと悲惨な生活を強いられていた黒人の小作農も多かったことを考えれば、彼のいた農園は「恵まれた」環境であった、と言うことが出来るかもしれません。
したがって幼い頃の彼は、白人農園主の息子などとも一緒に遊んでいたようで(さすがに、成長するにつれて疎遠にはなっていったようですが)、さほど人種の「壁」を意識してはいなかったようです。

さて、上に姉がいる、という「長男」によく見られるように、なかなか「甘ったれのゴネ男」クンだったようで、日曜日の「お出かけ」中でも、ちょっと気に入らないことがあると、ダダこねて道の真中だろうがどこだろうが構わず泣きわめき、要求が通るまでテコでも動かないっつー、かなりの「クソガキ」ぶりだったようでございますよ。
10才のときには早くも自分の銃を手に入れ、害獣駆除の名目で麝香鼠、アライグマ、フクロネズミなどを撃ち、それと釣りで得た魚が貴重な動物蛋白質ともなっていたそうです。
それが無ければ、一年で肉を口に出来るのはクリスマスだけだったと。

生活そのものは、朝、明るくなったら綿花を摘み始め、それが日没まで続く、というきわめて単調なもので、100 pounds の収穫に対して 2 ドル、という相場だったようです。
この 2 ドルという対価が不当に低いように思われるかもしれませんが、もっとヒドいとこでは、対価が、雨露をしのいでかろうじて寝られる小屋と、日々の(それも粗末な最低限の)食事だけ、なんて待遇が「当然のように」まかり通っていた時代があったし、いえ、この同時代にだって、ところによっちゃ「まだ」あったかもしれないことを考えればズイブン恵まれていたと言えるかもしれません。

さて、George クンはいくら手伝っても、それは両親の収入となるのですが、土曜日の朝だけは、どうやら他人の畑に忍び込んで「摘んできた」分(ん?それってドロボウじゃ?)を小遣いとして貰えたらしいですが、そーして稼いだおカネは殆ど、ナッシュヴィルの WLAC で Gene Nobles が DJ をしていた音楽番組を提供していた Tennessee 州 Gallatin の通販業者、Randy Wood の Randy's Record Shop から、一枚 69 から 79 セントの 78 回転のレコードを取り寄せることに費やされたようです。

ただ、実際に彼の家に電気が引かれたのは 13才か 14才のころだったと言いますから、それらの SP は当然、手巻きの蓄音器によって再生されていたのでしょう。
その電気も、それを引くために、一年がかりでカネを溜めて、よーやく一個の電球が部屋の真中にぶら下がるようになったそうですから、Radio や電蓄を買うとなると、容易なことではなかったと思います。

そうして手に入れた最初のレコードは John Lee Hooker の Boogie Chillen だったそうで、そのギターの音にシビレた彼は、自宅の入り口にドアとは別にある「虫よけのスクリーン」を張った枠に目をつけ、そこにワイアーを張って、ペンキの缶を共鳴胴として使うことを思いつきます。
その音は充分に彼を満足させるものだったようですが、おかげで湿地帯特有の雀ほどもあるデッカい「蚊*」が家中に侵入してしまい、父に大目玉を喰らったらしいですよ。

* 雀ほどもあるデッカい蚊 ─ いかにアメリカ南部の湿地帯といえども、蚊がそこまで巨大化するものであろうか?と調べてみた(ヒマ?)のですが、さすがに「最大のものでは 15mm に達することがある」との資料にまでは到達いたしましたが、たかが 15mm で「雀ほどの大きさ」とは言えませんよね、そりゃ。
となると候補に挙りそうなのは・・・そう!おなじみのガガンボでしょう。それだと「通常 64mm ほどにまで生育する」ってえ記述がありますよ。しかも最大では 100mm という個体も確認されている、と!
確かに、コドモだった Buddy Guy には「なんだって」デッカく見えた、っていう可能性はあるし、さらに釣りマニアの話に出てくる「自分が釣り損なったサカナのサイズ」は 年々デカくなる ってえケース同様、思い出話のなかで「徐々に巨大化」するケースだってあり得るけど、やはりねえ、ここは冷静に考えてみてもガガンボのほ〜じゃないのか、と・・・
あ、俗名は sparrow でこそないけど Mosquito Hawk だって。もっとハナシがデカい!

それでも、父はただ禁止するんじゃなく、どっかからアコースティック・ギターを調達してきてくれて、これからはそれを弾くように、と厳命したのでした。
しかし、あんまりウルサかったんでしょか、家族から苦情が出て、ギターは家の外で弾く、という決まりに従うしかなかったとか。
そーなんですよ、なまじアコースティックだと、かなり音がデカいですからねえ。
それも練習中でまだモノになってないギターなんぞ四六時中かき鳴らされた日にゃあ、いくら家族でも、いや、家族だからこそか、とてもガマンなぞ出来るもんやおまへん。
しかも、この時は日がな一日、バカのひとつ覚えよろしく Boogie Chillen ばっか練習してて、左手の指がそのフォームで固まりかけたそうですから、ホント家族にとっちゃあエラい災難だったことでしょう。

そんなジョン・リーにどっぷりだった彼っての、ちょっと想像出来ないかもしれませんが、それがこんな(って「どんな」じゃ?)ギタリストになっちゃうんだからオモシロいもんです。
そんな彼とエレクトリック・ギターとの出逢いってのもまたちょっと印象的なんですよ。どうってこと無いハナシ、と言っちゃえばそれまでなんですけどね。

どうやら Buddy Guy の少年時代ってのは、白人の子供たちと一緒になって遊んでいたようで、それは例えば農園主の Feduccia 家の息子 Craig だったり、雑貨屋の倅 Huey Arteigo などで、連れ立って乗馬を楽しんだり、野球したりしていたようです。
そんなある土曜日の朝、またしてもつるんでいたところに、クルマにギターと小さなアンプを積んだ男が現れました。
Buddy Guy は「これなに?」と、そのおっちゃんに尋いたところ、そいつ、Otis Hicks ─ つまり Lightnin' Slim は、「こりゃおめえ、エレクトリック・ギターだぁ」と教えてくれたそうです。
そしてそのギターで弾き始めたのが Boogie Chillen'!

ところで、その白人の友人たちとの友情も 1950年代初頭の南部にあってはやはり維持することが難しかったらしく、18才になったころには、(親たちの意向もあって)自然に消滅していったのでした。
しかし、その二年後に彼が Baton Rouge に移ったとき、彼のために Welcome Party を開いてくれた中に、懐かしい Craig Feduccia がいたそうです。
Baton Rouge ではガソリン・スタンド(アメリカじゃ「ガス・ステーション」?)で働き、McKinley Senior High School の卒業を目指して学資を稼ぎ始めたのですが、母が発作で倒れ、弟の学費も稼がなければならなくなったために、彼自身は学校を辞めています。

どうやら経済的には恵まれてはいなかったのでしょうが、人の縁には恵まれていたと言えるのかもしれませんね。
少年時代の二人の白人の友人との交友ばかりではなく、彼が育った農園の主人にしたところで、もちろん人種差別は「当然のこと」としてあったでしょうが、もっとシビアなケースと比較すれば遥かに恵まれていた、と言って良いでしょう。
それらの経験が彼の基本的な性格をフレンドリーなものにしたのかもしれません。
ま、誰とは言いませんが、苦虫を噛みつぶしたような表情で、バックとも溶け込めず、仏頂面で演奏して青森の聴衆を面食らわせた「あのヒト」なんかとはまことに対照的、ってもんでございますよ。
さて、10代ですでに Baton Rougeのクラブで演奏もしてたようですね。Lightnin' Slimや Guitar Slim*がお気に入りだったようですが、1957年には Baton Rouge から Chicago に移っています。

カネに困ってた(二日間ナニも喰ってなかったらしい!)彼をあるひとが 708 Club に連れてってその夜の出演予定だった Otis Rush を説き伏せて替わりにステージに立たせてくれて、それでシゴトをゲットできた、っちゅう伝説がありますが、その真偽のほどはさだかではありません(店の表じゃあマディがチェリー・レッドの Chevy で待ってて、彼にサラミ・サンドを喰わしてくれて、アドヴァイスもしてくれた、とか)。やがてその演奏が Willie Dixon の目にとまり、彼が Chess と契約できるよう手はずを整えてくれたようです。
本来は Singer として契約していたようですが、その腕を買われて、Chess 専属のバッキング・ギタリストとして活躍するようになります。マディやウルフのレコーディングにも関わったのは皆様ご存知のとーり。
しかし Chess は彼が他のレーベルに属するアーティストのバッキングに参加するのを阻止しようとするので、Vanguard に移籍。
ここでの仕事は、っちゅーか、バディ・ガイ・フリークにとっちゃ、ここでの仕事「こそ」が彼の本領発揮!というところじゃないでしょか?ま、Chess でも、I Left My Blues In San Francisco のほーはまだいいんですが。

Vanguard での Hold That Plane なんて、かなりハマりましたねえ。This Is Buddy Guy とかも良かったし。そして1975年 3月、郵便貯金会館でワタシが初めてナマで触れたブルースマンが Buddy Guy だったのです(あ、前座に Johnny Shines がいたよーな気もしますが、「ほとんど」記憶にございません。ただ「早く終れ〜」って思ってたのだけ覚えてます。ジョニー・シャインズ・ファンの皆様ゴメン)。
んなワケで、Buddy Guy にはトクベツな思い入れがあるのでございますよ。
したがって、とみに最近の彼のステージングをバカにするよーな言辞が時おり、あちこちのサイトやら板やらで目にするようになってワタクシとしてはフクザツな思いを禁じ得ないのであります。
毎回おんなじだろが、一曲をキチンと最後までやんないかもしれないが Buddy Guy は Buddy Guy。あたしゃあ、あの嬉しそうに弾きまくる彼を見るだけでマンゾクなんで、そんなモンクたれるヤツは観に来るな!と言いたいざんす。
だいたいやね、Feels Like Rain を一緒に歌えないよなヤツはライヴ行かないほがいい、ってのが持論なもんで。


reserched by Othum: Blues After Dark


CAUTION!!これより下に表示されている広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり
当方はその商品やサービスを「一切」推薦しておりません。



















[PR]
# by blues-data | 2005-09-03 08:57
Brook Benton
Kiddeoと言えばワタクシの Favorite Songsでも採り上げている、John Littlejohnの Chicago Blues Stars に収録されたナンバーで、他にもブレイクダウンのインスト・ヴァージョンも知られております。
がっ!(とリキむこともないんですが)ここで曲名を見ていただけば判る通り(え?気付かなかった?ガックシ・・・)「Kiddeo」ではなく「Kiddio」なのよねん。
その「オリジナル」は Brook Bentonの「Kiddio」なのじゃ。
Brook Bentonは、オーティス・ラッシュやエイモス・ギャレットも歌っている、あの「Rainy Night In Georgia」のヒットで良く知られているのですが、1960年代の初頭には、Mercuryでヒットをトバし、人気もあったソウル・シンガーで、そして同時に、幾多のヒットを提供した才能あるソングライターでもあったのです。

その彼が生まれたのは、1931年9月19日、サウス・キャロライナ州 Camdenの Benjamin Franklin Peayでした。
子供のコロから朝、牛乳を配達するかたわら Camden Jubilee Singersのメンバーとしてゴスペルを歌っており、さらに1948年、彼がまだ17才の時にはすでに曲を作っていたらしく、それを「売る」ために、ニューヨークにまで出かけていたようです。
一方、ゴスペル・シンガーとしては Bill Langford’s Spiritual Singersや、Golden Gate Quartet、Jerusalem Starsなどを経験しますが、サウス・キャロライナに戻り、次のチャンスを待つ間トラックの運転手をしていたとか。
そして R&Bグループの the Sandmenに加わり、飛躍を求めて再度、ニューヨークへ。
そこで地道にあっちこちにデモ・レコードを持ち込み、(Clyde Otisとの共作で)ついに1953年、自己名義の吹き込みを Okehに果たしています。

彼単独では Epicと契約した、「A Million Miles From Nowhere」(Vik)がマイナーながら最初のヒットとなりました。
続いて Clyde Otisとアレンジャーの Belford Hendricksとともに Mercuryに行き、そこで大きな成功をおさめることになりました。1959年に訪れた彼のブレークは「It’s Just A Matter Of Time」と、そのカップリング曲「Endlessly」の両面ヒットです。
「It’s Just A Matter Of Time」は1959年 3月にポップ・チャートの3位まで上がり、B面も同年12月には12位まで上昇し、1959年から1964年までの彼の23曲にも及ぶトップ・フォーティ・ヒット(つまり、40位以内にまで上がった曲。ソロ、デュオの両方)の先頭を切ったのです。

翌1960年、またひとつ彼のナンバーがリリースされました。8月22日、ビルボードのヒット・チャートに初登場 31位で姿を現したその曲は、以後 27→17→8→7→8→11→10→12→13→22→25→26位と、実に13週にわたってチャートに名を連ねていたのです。最高 7位にまで昇った「この」曲こそ、「Kiddio」なのです。
お馴染みのブラスのリフは入りますが、そのバックには頼り無いストリングスが「さえずり」、リズム・セクションは「借りて来た猫」みたいにめちゃめちゃ控えめ。ヴォーカルもやたらマイルドで、あろうことか(?)バックには柔らか〜い女性コーラスまで入っておるじゃあないの!
John Littlejohnのガッシガッシと迫ってくるよな暑苦しい迫力とはエラい違いですなあ。
まだこっちは余裕かましてる感じでしょか?

しかしまあ、聴けば聴くほど、ジョン君、意外にも原曲をかなり忠実に活かしてるのに気付きます。このトボけたリズムをガッカガッカのハードなブーギに換えて、ストリングスと女性コーラスはヨサンのカンケーで省略(あ、ホントかどうか判りませんよ。あくまでも、そーだったりしち、ってえウケ狙いのヨタですからねん)すると、ホラ「Kiddeo」の出来上がり!
・・・実際にはブレイクダウンもそのまま活かしてた「あの」ギターのリフなんかは彼のオリジナルでしょから、コトはそーカンタンじゃないのはあたりまえなんですが。
さて、と。ここでコンポンテキなギモンを呈されるお方もおられるのではないでしょか? Brook Bentonってブルースなの?って。
まあ、シビアに言えば「ちゃう!」が正解でげしょうね。
ブルースも属するブラック・ミュージックのフィールドを縦横に走査する音楽ではあるが確かに「ブルース」と言い切るのはテキセツではない、と。
ただ、彼の音楽にはゴスペルもブルースも血液中の血小板のように(判りにくいタトエやね?)遍在する、とでも申し上げときましょうか。
ブルースかブルースでないか?なんてことより(だって分類学者じゃないんでげすからねえ)「なんか、いいなあ」ってえ感覚も大事にする、ってのタマにはいいんじゃない?

さて、その後の Brook Bentonは、ダイナ・ワシントンとのデュエットで発売したミリオン・セラーの「Baby(You’ve Got What It Takes)」、そして「A Rockin’ Good Way (To Mess Around And Fall In Love)」が、1960年に R&Bチャートのトップを記録しています。(ついでながらダイナ・ワシントンって、1963年にわずか39才で過度の「飲酒」と錠剤の過剰服用が原因で死んじゃったのねん。みなさま、お気をつけあそばせ)彼は他のアーティストにも曲を提供してて、the Diamondsの「The Stroll」、Nat "King" Coleの「Looking Back」、Clyde McPhatterの「A Lover’s Question」などはその成功例です。
しかしその好調も1963年あたりから緩やかな下降線を辿り始め、さらに、ビートルズの出現がレコード・ビジネスの状況を一変させてさせてしまいました。
彼は RCAから Reprise、さらに Cotillion(Atlanticの子会社)と、次々とレーベルを渡り歩くようになります。
やがてしばしの雌伏の後、1970年には Tony Jo Whiteの作になる名曲「Rainy Night In Georgia」で輝かしい復帰を果たしました。
1988年4月9日、脊椎の髄膜炎に肺炎の合併症でニューヨークで死亡。

Kiddeo words from Album of John Littlejohn

ベイビー、言ったよな、俺がどう感じてるか
たったヒトコトでこいつはおじゃんになっちまう
俺の「ハートのクィーン」になってくれよ
お前の愛ってのをこっちにもまわしてくれ
「イエス」と言ってくれ、「ノー」はなしだ
キディオ、いい気分にしてくれよ

たぶん時間のムダかもしんねえ
お前を忘れることは出来やしない
俺をいい気分にすることだって出来たんだ
お前がそうしようと思いさえすりゃな
「イエス」と言ってくれ、「ノー」はなしだ
キディオ、いい気分にしてくれよ

お前にゃ16通も手紙を書いて、電話口に呼び出しても
キディオ、お前のハナすのは天気のことばっかじゃねえか
やってらんねえよ
お手上げだ助けてくれ
がっかりさせるなよ頼むから
キスしてくれ、愛してるなら
態度で教えてくれよ
「イエス」と言ってくれ、「ノー」はなしだ
キディオ、いい気分にしてくれよ

(訳;Othum/John Littlejohnの歌詞カードから。ちょっと原文とはちゃうけど、意味を重視しました。なんちて)えー、その Kiddioって名前、ガキっぽい、から来てるんでしょか?英語の場合、「K」で始まる単語は意外と少ないんですよね・・・ま、それがどうした?って言われちゃうと返事に困るんですが。



reserched by Othum: Blues After Dark


CAUTION!!これより下に表示されている広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり
当方はその商品やサービスを「一切」推薦しておりません。



















[PR]
# by blues-data | 2005-09-02 22:56
Brewer Phillips
この Brewer Phillips、出生について「たぶん 1930年ころと思われる」ってのと、「1924年11月16日生まれ」と言いきっているものとハッキリ別れております。この違いはなんざましょ?たいてーのとこは「1930?」説なんですが、VH1.comってとこでは前述のとおり 16 Nov.1924、と明記しております。ザンネンながらそっからは遡って行けなかったので、その原典などについては判明しませんでした。

ただし生まれた場所としては、どの資料でも Mississippi州の州都 Jacksonからほぼ北に 100kmほど離れた Coilaというところで生まれた、としているようです。綿花畑の続く丘陵地帯の中にある町で、綿花を加工して綿糸にする綿繰り機の音が聞こえ、他には郵便局があるだけの町だった、と本人はインタビューで語っています。彼は綿花の農場で育ち、まだ子供のころからブルースに親しんでいたようで、1940年代の終わり近くには West Memphis一帯でギグをしてまわっていたそうです。
また、このころ Eddie Taylorともよく一緒に遊び、「釣り仲間」でもあったそうですから、1923年生まれの Eddie Taylorとウマが合った点を考慮すると、1924年生まれ、ってえ説がやや信頼性が増すような気がいたしますなあ。

やがて彼はトラックのドライヴァーとなって Greenwood周辺から広く州内一帯を未舗装路の砂利をハネ飛ばしながら走りまわっていたようです。そして本人によれば、この時期から行く先々で将来の相棒となる Hound Dog Taylorと出会っていたようで、まっこと縁は異なものでございますね。
そしてこれは Eddie Taylorのところでも出てきましたが Memphis Minnieがまたもや登場いたします。彼が最初にギターを教わったのは彼女からである、っちゅーハナシがあるんですが、そこら真偽のほどは判りません。そのような「伝説」は確かに興味を惹きますが、それだけで彼のギターを語ることはモチロン出来ないし、また、「ありえない」なんて言えるほどの確信もまた無いワケで、ま、一応、そんなハナシもありますよん、程度で覚えといていただければ充分じゃないでしょうか?
ただし、この時期というのは Mississippi一帯に他にも伝説的なブルースマンがウジャウジャいた(は言い過ぎか?)ワケですから、タップリと養分を吸って熟成されたのは確かかもしれません。
ま、ひとりのギタリストがどのようにしてその自己のスタイルを形成したのか?なんてことは厳密に定量化できるワケもなく、どれも「可能性」に過ぎないのではございますが、ハタからすりゃあ、それを「あーでもない・こーでもない」とやるのが楽しいのも事実。リズムは Eddie Taylorから、シゲキテキなリード・ギターは Pat Hareからだ、なんてブンセキもありましたが、大事なのは、その個性が Hound Dogと出会って、実に「活きた」ってことでしょう。

最初、Roosevelt Sykesや Joe Hill Louis、そして Memphis Slimなどと仕事をするようになり、次いで Eddie Taylorに遅れること約三年、1952年にはいよいよ Chicagoに出てまず「大工」として働き始めたようですが、1957年には Hound Dog Taylorとウェスト・サイドのクラブ(原文では Tavernとなっています)で一緒になり、1959年には Houserockersに加わっています(ただし、その正確な時日については異説もあるようですが)。以来 1975年までその関係は続いた、と言われておりますが、1975年にその関係が壊れたのにはいささかアブナいエピソードがからんでおるのでございます。
これは 8月 4日付の日記、「Wild About You Baby / Hound Dog Taylor」でも紹介しましたが、当時 Hound Dogと Brewer Phillipsは「仲が良すぎて(?)」なかなかタチの悪い冗談を言い合っていたそうなんですが、それはもっぱら相手の奥さんと「お前が留守の間によろしくやったぜ」みたいなジョークを(かなりタチ悪いジョークだよね)アイサツがわりにしてたらしいんですが、ある日、ムシの居所が悪かったのか、Hound Dogがいきなり、いつものジョークをクチにした Brewerにハラを立ててピストルで撃ってしまったのでした。脚を撃たれた Brewerはそれからしばらく交際を絶った(当たり前だよね)のですが、その Hound Dogの癌が悪化して死が近づいていることを知った Brewerはついに彼を見舞いました。その和解の二日後、Hound Dog Taylorは還らぬひととなってしまったのです。

Hound Dog Taylorが死んだ後、彼は J. B. Huttoやカブ・コーダ(白人。1948.10.1-2000.7.1 )などと活動を続けています。
そして、かって Houserockersにはハナもひっかけなかった Delmark Recordsから自身のアルバム Home Brew をリリースしています。このアルバムは Bluespeak.comによって 1996年の Record of the Yearに選ばれたのですが、それを知らされた Brewer Phillipsは

I don't know why.
It sounds like shit.

とのたまったそうでございます。それが気に入った(?) Bluespeak.comはあらためて彼を 1996, Artists of the Yearに選定したのでございました。

その Brewer Phillipsも 1999年の 8月30日、Chicagoのサウス・サイドのアパートの自室で息をひきとりました。あの世でもこの二人なら、しょーもない冗談を言いあっていることでしょう。



reserched by Othum: Blues After Dark



CAUTION!!これより下に表示されている広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり
当方はその商品やサービスを「一切」推薦しておりません。



















[PR]
# by blues-data | 2005-09-02 22:38
Bobby Marchan
Bobby Marchan は 1930年 4月30日に Ohio 州の Youngstown で生まれています。
よく、少年合唱団などで、「天使のような」美声で注目される子がいたりしますよね?
でも、たいていは変声期を迎えて、汚い(まではいかないとしても、かっての「美声」から考えると「無惨な」声に・・・)胴間声やらガラガラ声になってセンセをガッカリさせる・・・
それでも中にゃあ、その危機(?)を乗り越えて、それなりの美声を保つ場合もあります。
この Bobby Marchan の場合、さほど音高は女性的とも思えないのですが、ま、どことなく女性っぽい声に聞こえないこともありません。

そんなとこを買われたのか、「女役」のシンガーとして「芸」を磨いておった、と言います。
資料によれば、実際に一行に女が交じると、なにかとトラブルのもととなる、っちゅーことから、メディシン・ショーのミュージカル仕立ての場面でも、男なのに「女」として登場し、高い音域で歌う専門の芸人がいたそうですから、まさに Bobby Marchan はそれだったのでしょう。
しばらくは「その道」で稼いでいたようですが 1953年には彼自身のショー Powder Box Revue を組んで New Orleans の Dew Drop Inn に出演していたのですが、そこでこの街がすっかり気に入った Bobby Marchan は New Orleans を終の住処と定めたもののようです。
そして Club Tijuana で M.C.として働いていたときに Aladdin Records の社長 Eddie Meisner によって見出されました。
1954年には Cosimo Matassa*の J&M でデビュー・シングル Have Mercy を吹込んでいます。

* ─ Cosimo Matassa: 1926年 4月13日、New Orleans で生まれる。フレンチ・クォーターで暮らすイタリア系移民の家庭で、多種の音楽に触れて成長する。
特に父はジューク・ボックスのレンタル業者だったようで、そのような環境も大きく作用していたのではないでしょうか。
また、ジューク・ボックスに「供給」する音盤も作ろう、と思い立つのも自然な流れだった、とも言えるでしょう。
1945年、僅か 18才で New Orleans の North Rampart Street 838番地に J&M Recording Studio を開き、以後、数々の歴史的録音を送り出しています。

その一部を紹介すると

Good Rockin' Tonight : Roy Brown: 1947
Mardi Gras in New Orleans : Professor Longhair: 1949
The Fat Man : Fats Domino: 1949
Lawdy Miss Clawdy : Lloyd Price: 1952
Tipitina : Professor Longhair: 1953
Feelin' Sad : Ray Charles: 1953
The Things That I Used to Do : Guitar Slim: 1953
Dust My Blues: Elmore James: 1955
I Hear You Knocking : Smiley Lewis: 1955
Tutti Frutti : Little Richard: 1955
Let's the Good Times Roll : Shirly & Lee: 1956
Over You : Aaron Neville: 1960
There's Something on Your Mind : Bobby Marchan: 1960
Come On By : Earl King: 1960
Shake Your Money Maker : Elmore James: 1961
Mother-In-Law : Ernie K-Doe: 1961
Ya Ya : Lee Dorsey: 1961
Ruler of My Heart : Irma Thomas: 1962
All These Things : Art Neville: 1962
Trick Bag : Earl King: 1962
Big Chief : Professor Longhair: 1964
Barefootin' : Robert Parker: 1966
Cissy Strut : the Meters: 1969

・・・なんてえ作品がそこからは生まれております。

ただし、その所在地は North Rampart Street から 1956年には Governor Nicholl's Avenue に移転し、さらに 1965年、Camp Street の Jazz City Studio に移転しています。
2000年には the Louisiana Blues Hall of Fame の殿堂入りをはたしました。

しかし Aladdin ではケッキョクあまり Bobby Marchan をプッシュすることなく手放してしまい、そのため彼は代わって Dot に移り、そこでは Just a Little Ol' Wine をレコーディング。
続いては Ace Records の Johnny Vincent が彼のショー・パッケージ自体を買い取ったのですが、このとき、そのヴォーカルの Bobby Marchan を「女だと思っていた」というエピソードがあったそうです。
それでも 1955年には Give a Helping Hand を Ace に入れていますが、このときは契約上の問題から Bobby Fields の偽名を使用していました。
1957年の Chickee Wah Wah でようやく本名に戻り、正式に Huey "Piano" Smith & His Clowns に「リード・ヴォーカリスト」として参加しています。
で、当然、そこで数々のヒットに貢献したワケですが、あの Big Jay McNeely のヒットをリメイクして Fire からリリースされたシングル There's Something on Your Mind が R&B チャートの No.1、Pop チャートでも 31位にランクされたのを機に(資料によっては、すでに 1959年の早い時期に既に Clowns から抜けていた、としているものもあります)独立しました。その後は多少のヒットもありましたが 1970年代以降は、また「女」声シンガーとして、あるいはショーの司会者としてあちこちのクラブに出演していた、と言われています。
1999年12月 5日、肝臓ガンのため New Orleans で死亡しました。



reserched by Othum: Blues After Dark


注!この下に表示される広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり、当方は
その商品やサービスを「一切」推薦しているものではありません。






[PR]
# by blues-data | 2005-09-02 22:29
Bo Carter
Bo Carterという名前ですが、本名はまったく違ってて、Armenter Chatmonです。
Chatmonときたら、そう、4月30日付の The Beale Street Sheiksのとこに出て来た、あの Chatmon一家、つまり Mississippi Sheiksの母体である Chatmon Strings Bandという一連の音楽活動で名を成した有名な家系の出なのでございますよ。
1893年 3月21日、Mississippi州 Hinds Countyの Boltonで生まれています。1897年生まれの Sam Chatmonは弟、ということになりますが、その間にも別な弟がいた可能性もありそう?なお、上には 1888年生まれの双子の兄、Lonnieと Laurieがいます。
Samと Lonnie、そして Lonnieの友人のギタリスト Walter Vinsonとで結成したのが有名な Mississippi Sheiksでした。

Armenter Chatmonの方はその The Mississippi Sheiksにギターや時としてヴァイオリンで参加していたこともあるようですが、そのバンド以前に(彼が 1928年、Mississippi Sheiksの方は 1930年が初録音)既にレコーディングも経験しており、一人で充分やって行けたせいもあるのでしょうが、個人としての活動に専念していきます。
Cigaret BluesばかりかBanana In Your Fruit Basket とか、Please Warm My Weiner なんてそっち系のネタばっかしが「好きモノ」の話題になりがちですが、やはり、彼の音楽的な豊かさも味わっていただきたいものでございますねえ。

彼が使っていたギターは Nationalの Style Nというモデルと、Style 4 'Tri-plate'(ん?Tri-plate?どっかで書いたぞう・・・ Let's検索!・・・あった!Oscar Woodsだ!Tampa Redも使ってたそうです)で、初めてのレコーディングは New Orleansで Brunswick Recordsに行いました。その後 Mississippi Sheiksでも Okehや Bluebirdにも録音を経験していますが、1930年代末には健康を害し、彼の視力はほとんど失われてしまっていたらしく、それによってミュージシャンとしての生活も終焉を迎えたようです。

それ以降、メンフィスに引き篭っていたようですが、資料によっては「困窮の中で死んだ」としているものもあります。1964年 9月21日、脳溢血でした。



reserched by Othum: Blues After Dark


注!この下に表示される広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり、当方は
その商品やサービスを「一切」推薦しているものではありません。






[PR]
# by blues-data | 2005-09-02 22:19
Mr. Bo
Mr.Bo こと Louis Collins は Mississippi 州の Indianola で 1932 年 4 月 7 日に生まれました。
1946 年には Chicago に移りますが、1950 年代に入ってすぐ、今度は Detroit に行っています。
ハウス・パーテイなどで腕を上げていったようですが、そこで Washboard Willie* やジョン・リー、Vernon Harrison "Boogie Woogie Red"**や Little Sonny、さらに Eddie Burns などと知りあいました。
1950 年代の晩期に彼は「 Mr. Bo 」と名乗るようになっています(ただその由来は判りませんでした)。1959 年には初吹き込みをしていますが、その時のレーベルは Northern、Big D、Reel あるいは Diamond Jim のどれかと思われます。

そして 1966 年に、兄弟の Little Mac Collins と一緒に作った「 If Trouble Was Money 」を録音。
そのリリース後、定期的にクラブで演奏などもしているのですが、彼の知名度は次第に落ちて行き、1980 年代には「忘れられた存在」になりかけていました。
ところが、1993 年に、オランダの Blues Estafette からそのオリジナル・シングルがリイシューされたのを契機に、復活がはかられ、1995 年にはスタジオ入りして再び「 If Trouble Was Money 」をレコーディングし、Blue Suit から発売されています。
しかし彼はその結実を味わう間もなく流感で死亡してしまったのでした。時に1995 年 9 月19日のことです。

*William Hensley。Georgia 州 Columbus 出身、1909-1991。31 才の時にパーカッションに目覚め、以来ウォッシュボードやフィンガー・シンバル、フライパンを身につけて「ひたすら」叩き続ける。1948 年、Detroit の北部に移り、自動車製造ラインの洗車部門に勤務。1952 年ころ、ジョン・リーや Eddie Burns が出ていた Harlem Inn にライヴを観に行った際、その時のドラマーがイケてなかったのでクルマからウォッシュボードを取って来て演奏に参加したところ、二曲目でクラブ・オーナーが毎週末、演奏してくれるよう依頼し、それから 3 年間、そのクラブでステージに立ちました。そして自分の仕事がらみの「泡─Suds 」からヒラメいてバンドを Washboard Willie & the Super Suds of Rhythm と命名。
1955 年には Little Sonny が加入。1956年、Joe Von Battle に「 Cherry Red Blues 」、「 Washboard Shuffle 」、「 Washboard Blues Pt.1 & 2 」などを初吹き込み。1957 年から 1962 年にかけて Von Battle に吹き込み。彼のドラム&ウォッシュボードに、Calvin Frazier のギター、Boogie Woogie Red( Vernon Harrison )のピアノ、Chuck Smith のバリトン・サックスというものでしたが、そのテープは George Paulus が Von Battle の倉庫から持ち出して自身の Barrelhouse Records で 1982 年にリリースするまで「眠り」についていたのですが。
他に Herculon label から「 Natural Born Lover 」と、有名な「 Wee Baby Blues 」(共に 1966 年のセッションから。 Evans McLendon のギター、 Angelo Willis のバリトン・サックス)や Big Bear/Poly 2460 186 がある。
1973 年からは各地のフェスティヴァルなどに参加していますが、1980 年代にはいると、地元の婚礼などで演奏する他はあまり出て来なくなります。家庭を大事にし、日曜学校の教師でもある多忙な生活を充分に楽しんでいたようですが、1991 年 8 月24日、Detroit で死亡。

**Loisianna 州 Rayville 生まれ。1924.10.24。まだ若いうちに一家を挙げて Detroit に移り、彼は Big MaceoDoctor Clayton の影響を受けつつも自分のキーボード・スタイルを構築していく。18才のときに Chicago に乗り込み、Lonnie JohnsonTampa Red、さらに Memphis Slim などとジャムをするようになっています。1946年には Detroit に戻り、そっから14年間、ジョン・リーのもとで過ごす。しかしモータウン・サウンドの隆盛に押されてブルースが下火になるにつれ、彼も一旦、演奏から身を引きます。それが 1971 年、ヨーロッパでのツアーに参加した彼はその反応に気を良くし、デトロイト周辺でのライヴの他に海外へのツアーも開始する。アルバムは『 Live At The Blind Pig 』など。
1992 年 7 月 2 日、Detroit で死亡。まだ 66 才でした・・・



reserched by Othum: Blues After Dark


注!この下に表示される広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり、当方は
その商品やサービスを「一切」推薦しているものではありません。






[PR]
# by blues-data | 2005-09-02 20:16
Blind Willie McTell
William Samuel McTell( McTier という異説あり) は Georgia 州の、Augusta からは 30 マイルほど西にあたる Thomson の南で生まれています。しかしその生年には異説があり、1898 年とするものと、1901 年である、とするものです。一応、信頼出来そう(?)な日付として 5 月 5 日というのが挙っています。どちらにしても 20世紀初頭のアメリカ南部では、黒人の新生児の生年月日など殆ど重視されていなかったのかもしれません。

彼の父、Ed McTell は酒とギャンブルにどっぷりで、彼が生まれてすぐ母と別れています。
母は彼を連れてさらに南の Stapleton に移り、1907 年、当時、木材とテレピン油の生産で賑わっていた Statesboro に最終的に落ちつきました。
1920 年代の中頃には盲学校で点字と音楽について学び、やがて Macon の州立学校、さらに、New York や Michegan、さらに North Carolina の学校にも行っており、これはもちろん当時の平均的黒人子弟の学歴としては異例なものです。

しかし、彼にとって、ギターのとっかかりとなったのは、かなりの腕だったという母の存在があったようで、また父の方からも多少は学んではいるらしいんですが、後には Statesboro の Seph Stapleton というひとの手ほどきを受けました。
10 代ですでにショーの一員としてツアーに参加してたようです。

彼は Atlanta、Thomson、そして Statesboro を本拠とし、Georgia 州を中心に活動していたようですが、なかなか稼ぎは良く、1934 年に結婚した Ruth Kate Williams という女性が通う看護学校の学費も彼が出していたそうです。(ただし、1941 年には二人は別れたようですが、正式な離婚というよりは「別居」だったのかもしれません)
1959 年の 8 月19日、バーベキュー・パーテイのさなかに倒れた彼は病院に運ばれる途中で死亡しました。死因は肥満と高血圧から来る心臓のトラブルだったようです。美酒・美食のツケってヤツですね。



reserched by Othum: Blues After Dark


注!この下に表示される広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり、当方は
その商品やサービスを「一切」推薦しているものではありません。






[PR]
# by blues-data | 2005-09-02 20:12
Blind Lemon Jefferson
この Blind Lemon Jefferson ですが、あまり資料がありません。かなり有名なブルースマンであるのに、その正確な経歴や、その死の真相などが「謎」のままなのですよ。
ある資料では、1897 年の 7 月11日生まれ、となっていますよね?しかし、1997 年の 2 月 6 日(木曜)に、Texas 州 Wortham の黒人墓地に新たに設置された墓碑銘には『 Lord, it’s one kind favor I’ll Ask of you. See that my grave is kept clean 』という彼の歌の一節とともに『 September 1893-December 1929 』という生没年が刻まれています。
これはブルース・ファンの寄付によって新たに墓碑銘を作る際に、Bruce Roberts が地元の文書館とテキサス州歴史委員会周辺を調査した際に発見した国勢調査の関係書類から類推したもので、彼によれば、他の説(主なものは1897 年生まれ、とするもの)を裏付けるようないかなる証拠書類や物証の存在をも確認できなかったため、それまでに登場したことの無い説ではあるものの、最も整合性のある時期として、1893 年の 9 月を「採用」したそうです。したがって、そこに明確な根拠となる「なにものか」が存在したワケではありません。

Texas 州 Freestone 郡の Wortham( Couchman )で、Alex Jefferson と Classie Banks(あるいは Bates )の間の 7 人の子供のうちのひとりとして生まれた、とする記述も( http://music.lycos.com/ )あります。
幼少期にはすでに視力を失っており、生まれた時から、とする記述も見られますが、彼の写真で、その眼鏡が透明なレンズを使っている点から、部分的な視力は残っていたのではないか?とする説もありますが、今となっては検証のしようもありませんね。

ツアーも積極的に行っていたようで、テキサス州の東部などがメインだったようですが、やがてダラスに流れつき(?)そこで Leadbelly と出会っているみたいです。レパートリィも多く、10才ほどもレモンより年上なのに、にもかかわらず、若いレモンのほうがブルースでは「リードしていた」そうです。
このあたり、レモンと Leadbelly は行動を共にしていたらしいのですが、Leadbelly が 1918 年から 1924 年まで服役することになったため、ふたりのコネクションは短期間で終っています。
レモンの声価が上がるにつれ、彼はより遠いところまで廻るようになり、1920 年代の初頭からは南部諸州に足跡を残したコトになってるんですが。
特にミシシッピー・デルタはいい稼ぎにもなったみたいですよ。ま、そんなにあっちこっち廻れたってのも、大抵は有蓋貨車のタダ乗りで、ま、なかにゃあ払ったってのもあったんでしょが、ともかく鉄道がメインだったようです。

ダラスで Sam Price の推薦により彼は Paramount に「見出され」、1925 年から 1929 年にかけて、最終的には(別テイクも含んで)100 曲を Chicago、Atlanta、Richmond に Indiana などでレコーディングし、その中から 43 曲が Paramount レーベルで発表されています。およそ彼が登場するまでは、商業的な側面からは「ブルース」が "Ladies Music"(Mamie Smith、Bessie Smith、Ma Rainey など)だった、という分析もありますが、その辺は異論もあることでしょね。
ま、なんにしろ、彼が充分な商業的成功を収めた「初の」男性ブルースマンである、っちゅーのは確かでしょう。

その彼が雪降るシカゴの路上で死体となって発見されたのが 1929 年の暮れです。
この件に関しては「謎」が多く、一説では強盗に襲われたのだ、とか、いや、死因は心臓発作であるとか、そーじゃない、凍死だ、など様々な説が入り乱れ、中には、車中で心臓発作をおこしたレモンを「お抱え運転手」が雪降る路上に蹴り出して放置したのだ、なんて複合説まであるようですが、現在まで死亡診断書は発見されておりません。

彼の遺体はピアニストの Will Ezell によって列車で帰郷し、彼が少年期を過ごした家に近い Wortham Black Cemetery に(一説によると1930 年の元旦に)埋葬されました。前述のように 1967 年まではその場所を示すものひとつない状況でしたが、彼を偲ぶファンたちは単なるマーカーでは飽き足らず、大規模に寄付を集めて立派な墓石を新調し、1997 年に建立。毎年集めた寄付で、それ以来彼の墓はミゴトに『 grave is kept clean 』であり続けているそうです。



reserched by Othum: Blues After Dark


注!この下に表示される広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり、当方は
その商品やサービスを「一切」推薦しているものではありません。






[PR]
# by blues-data | 2005-09-02 20:08

[ BACK to BIO-INDEX ]