Black Ace
Babe Kyro Lemon Turner は 1907 年12月21日に Texas 州 Hughes Springs で生まれています。
子供時代から彼は自作のギターで練習し、歌の方はゴスペルの合唱団に加わっていました。
1920 年代の後半は、地域の催しなどで演奏していたようです。しかし彼のギターが成熟するのは、1930 年代の中頃に Shreveport に移ってからで、やはり Oscar Woods に出会ったことが大きかったのではないでしょうか。
Shreveport では時に Smokey Hogg とも一緒に演奏したりもしていますが、 Oscar Woods から学んだものがイチバン大きかったのではないか、と考えられています。

1937 年には Decca Records に「 Trifling Woman 」、「 Black Ace 」、「 You Gonna Need My Help Some Day 」、「 Whiskey And Women 」、「 Christmas Time Blues 」、「 Lowing Heifer 」の 6 曲を吹き込みました。
スティール・ボディのギターに小ビンによるスライドだったようです。Arhoolie Records のバイオグラフィーによると、このとき吹き込まれた、この「 Black Ace 」が Fort Worth の KFJZ で番組のテーマ曲として使われたことから、それがニックネームとなったのだとか。

Black Ace はその少し前、1936 年から 1941 年にかけて Fort Worth のローカル局 KFJZ の番組に出演しており、1941 年には映画『 Blood Of Jesus 』に出演しているのですが、1943 年に陸軍での兵役を終えた後は、音楽シーンから離れて行きます。

その彼が「再発見」されたのが 1960 年のことで、Arhoolie に録音。
1962 年には『 The Blues 』(こちらは「映画」というよりはドキュメンタリーと思われます。映像に関しては、どちらも未見)にも出演しています。
戦前と戦後の 2 回に分かれてブルース・シーンにその軌跡を残した Black Ace は 1972 年11月 7 日に亡くなりました。
I’m The Boss Card In Your Hand Arhoolie( 1992 再発)でその両方を聴くことができます。



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# by blues-data | 2005-09-02 20:05
Billy Branch
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William Earl Branch は Illinois 州の、Chicago からは Lake Michigan を右に見て 50km ほど北上したところにある町、Great Lakes の湖岸沿いに 137 号線を北に辿った Waukegan 地区の Naval Hospital で 1951 年10月 3 日に、最終的には 4 人となる一家の子供たちの一番最初の子として生まれています。
しかし、彼がまだ 4 才の時に一家は Los Angeles に移ったようで、そこで育ったと言ってもよいのではないでしょうか。
Naval Hospital =つまり海軍病院ですね。そこで生まれた、とゆーことは、父が海軍の軍属だったのでしょうか?もしそうなら、その後の西海岸への移転も、そちらの基地に転属された結果なのかもしれません。
南部や中西部あたりからウエスト・コーストへ、という移動は「ありがち」ですが、通常、シカゴ( Great Lakes は実質上、シカゴの文化・商業圏内にあります)から「わざわざ」西海岸へ、という流れは考え難いですからねえ。
とは言え、それについて言及している資料には出会っておりませんので、これはあくまでも推論の域を出ませんが(・・・という点について某江戸川区民から有力な情報が寄せられました。それによると Billy Branch のお父さんはやはり海軍の軍属で、軍楽隊のメンバーだったそうです。そのお父さんは、かって日本の佐世保にもいたことがあるそうで、そこで活動していたバンドの名前は「赤玉ボーイズ」だった、と。そのせいか Billy Branch も日本に来ると必ず赤玉ポートワインを買い求めるのだとか。先日の青森でも部屋と楽屋に常備していたそうです)。

その彼が最初にハープを持ったのは 10 才である、としている資料もありましたが、1997 年の Steven Sharp によるインタビューでは 11 才の時だ、と語っています。
そして Los で初めて聴いたブルースについては Wolfman Jack(本名 Robert Weston Smith、1939,1,21-1995,7,1。1958 年から 1966 年にかけて Texas 州 Del Rio から国境を越えたスグ、Mexico は Coahuila 州 の Ciudad Acuña にあった送信出力 250KW という AM ステーション XERF で D.J. を勤め、西部諸州から条件次第ではアメリカ国内の大半のリスナーに音楽を届けた伝説的な人物。映画アメリカン・グラフィティにも出演)の放送あたりからではないか、と答えていますが、さほど強烈な印象ではなかったようです。当時、家族もブルースを特に聴取する習慣も無かったらしく(もっとも、後で判ったらしいのですが、彼の母はシカゴで生まれ育っただけあって、若いころにはブルースがかなり好きだったそうです)、ケッキョク彼の Los Angeles 時代は、ブルースとはあまり縁の無い生活だったようです。

その彼が 17 才の時に Chicago に来て、とは言ってもほとんど「ブルース」というものの知識も無かったらしいのですが、高校の上級生になったとき、ちょっとした研究発表をすることとなり、そこで「革命」というテーマに沿ってジミ・ヘンドリックスなどを採り上げ、それはクラスではおおいにウケたらしいのですが、それを監修する立場の教師からは、「ブルース」についての言及がありましたが、その頃の彼はまだブルースに意識のピントを合わせてはいなかったようです。

当時の彼の音楽との関わりですが、まずは祖母が買ってくれたオルガンや父の Magnus Chord Organ( 25 鍵で、どうやら基本的には Cheap な Plastic 製の Toy Instrument で、Worth about 15$、つまりイマで換算すると 2000 円くらいで買えるオモチャのオルガンってことになりますか?画像は http://www.combo-organ.com/whatisit.htm で。Vox Jaguar などの、This is a combo organ に対比して、This is not 側の筆頭にシンセなどを従えて登場してるのが笑えます)などで Knock On Wood I'll Be There を弾いて遊んでおり、さらにピアノのある知人のところではそれも弾きまくっていた、と言いますから、音楽的な下地は充分にあった、と言えるのではないでしょうか。
そして、それはハープにも活かされている、と思うのですがいかがっしょ?
Kenny Neal との I Just Keep Loving Her でのソロを聴いていますと、ハープには素人のワタクシの耳には「経過音」など、それまでの通常のブルース・ハープではあまり使わない音が時折り紛れ込んでいるように感じられるのですが、そのヘンはえどすりちゃまから後ほど御教唆いただけるやもしれません。

と、ここで、とある方からの投稿を紹介いたしましょ。消印からするとどうも江戸川区にお住まいのようなのですが・・・

─ これは個人的な意見ですが、ビリーのハープのフレーズが「個性的」なのは、キャリー・ベルからの影響が大きいと思っています。
Buster Benton の "Lonesome For a Dime" のオリジナルにはキャリー・ベルが参加していますが、80年代に入ってからのヨーロッパ録音にはビリーが参加しています。
これを聞き比べると、かなり影響を受けているのが分かります。
1穴から10穴まで(実際は9.10穴はほとんど使いませんが)目一杯使いこなすフレージングです。
そして、その奏法を遡っていくと、ビッグ・ウォルター・ホートンにたどり着きます。
戦前からストリート・ミュージシャンをやっていただけあって、色々なタイプの曲に対応できるテクニックを身につけていますよね。
メキシコ民謡の"La Cucaracha"なんか典型的な例です。
"Walking by Myself"のバッキングなんか、例えばリトル・ウォルターなんかでは絶対に出てこないフレーズです。
6.7.8穴辺りを多用するのが三者に共通する特徴です。
もっともその底辺には、多くの戦前ハーピストがいるんですが。

う~ん、なんという素晴らしい分析!このように実際のハープの音を理解しておられるこの説にはとても説得力があります。きっとハープの達人であろう、と思われるのですが、いったいどなたなんでしょうね?

ところで、シカゴでは父とその後妻と思われる「継母」と一緒に暮らし始めた、といいますから、そこらイロイロと事情があったんでしょうねえ。
その彼が 1969 年の Grant Park のフェスティヴァルに出会い、(当時はブルースについて詳しくはなかったため、記憶は多少あやふやらしいのですが) Junior Wells やマディ、さらに Big Mama Thornton に Koko Taylor などの音楽に触れ、Chicago Circle キャンパスの建築を専攻していた孤独でやや鬱屈していた生活に落ち込みかけていた彼の心に響いてくるものを感じ、家に帰って、当時フィルム現像(&同時プリントか?)の景品として貰ってたジョン・メイオールのアルバムを引っ張り出し、それに合わせてハープを吹くようになった、と答えています。
もっともその頃にはハープを曲のキーに応じて替える、ということを知らずに苦労したらしいのですが。

そんな彼がやがてサウスサイド(の 35 番街と King ストリートのとこ、と「言ってる」と思うんだけど、現地を知らないので推測でげす)で Rahsaan という男に出会い、彼のハープは「ブルースではない」と告げられ(!・・・やっぱりねえ。メイオールじゃあ)、Sonny BoyLittle Walter の存在を教えられることになったようで(酒を呑むことも教えられたみたいですが)、これが大きな転機だったのかもしれません。
やがて彼は Five Stages というとこに連れて行かれ、そこでマディを見たようですが(なにやら Otis Spann の追悼のような催しだったらしい)、そこでは目の前で Rahsaan がハープを持ってステージに乱入(?)するさまを見て、ハーピストはあらゆる機会を逃さないようにしなきゃイカンのだな、と学んだみたい(ってえとこが、ちとスラング混じりの会話文なもんで、ちとその内容には自信がおまへん。WEB 翻訳じゃワケ判らんタワゴトにされちゃうし・・・)。

やがて彼は Junior Wells の義理の息子だった Lucius Barner と知りあいます。そしてその Lucius が彼を Theresa's に連れていってくれて、Junior Wells は二人を見て「入ってよし」と言ってくれたそうです。
またその後、彼がよく聴きに行ったのが Short Stuff(ハープの Jim Liban と、キーボードの Junior Brantley からなる Wisconsin のバンド。あまり詳しくはないのですが、1970 年代から 1980 年代に活躍してたらしい、白人のブルース系ロックのバンド?)で、彼らの出てたノースサイドのクラブ Alice's Revisited では Carey Bell、Charlie Musselwhite の演奏にも触れています。
Short Stuff の Jim Liban は、彼をステージに招き上げてくれた最初のプレイヤー(正確には「のひとり」)で、他にも Lefty Dizz、Junior Wells、Buddy Scott などが彼のブルースへのスタートをサポートしてくれたそうです。

やがて彼の通っていた学校でライヴがあったりすると、仲間の学生たちが「 Billy をステージに!」と騒いでくれるようになり、その仲間たちはまたクラブにも来てくれるようになっていきました。
そんな時、ハープ・プレイヤーの Little Mack が WVON に出てたときに「俺は世界一のハーピストさ。ハープで俺に勝とう、ってえヤツはいるかい?誰の挑戦でも受けるぜ」と言ったのを受けて実際に挑戦し、Little Mack は負けを認めなかったものの、居合せた Jim O'Neal や Bruce Iglauer には確実にその存在を認められることになったのです。
そのころの彼はどうかすると、学校にも行かず朝っぱらから楽器が出来るとなれば(たとえそれがチューバやフルートであろうと)自宅でジャム・セッションを繰り広げていたそうで、家族にとっちゃエラい迷惑だったでしょうね。

そして学校で知りあった Sarah という秘書が Willie Dixon の秘書業務を行っていると知った彼は、その電話番号を手に入れ、自分を売り込んで、会う約束をとりつけています。
ちょうどハンク・アーロンがベイブ・ルースの本塁打数を抜いたことを記念したナンバーを吹き込むリハに行った彼はさっそくハープを吹き、Chess のスタジオに明日、来るように、と言われたのでした。
その時のメンツは Lafayette Leake、Buster Benton、Clifton James そして Willie Dixon で、Carey Bell が不在だったらしいんですね。あ、ヴォーカルは McKinley Mitchell。

さて、1975 年に the Green Bunny Club で行われた「自称ハープ世界一」の「生ける伝説」 Little Mac Simmons とのハーモニカ・バトルで、Little Mac をリングに沈めるまではいかなかったけど、圧倒的な「判定勝ち」をおさめた Billy Branch が、いよいよ Willie Dixon に認められ、Chess のスタジオで行われた、彼にとっての初吹き込みですが、本人は「 I still got a few of those 45's. It was on Yambo Records. "The Last Home Run."」とインタビューで語っているのですが、一部の資料で「 Barrelhouse Records 」である、としているものもあります。そんな年代まで Barrelhouse Records ってあったんだっけ?(彼自身の記憶では、その裏面は Big Walter Horton をフィーチュアしたAll Star Boogie だったのではないか?ってことです。ううむ、あくまでも野球ネタで通したのねん)

これ以降、いわば「見習い」みたいな存在で Willie Dixon のグループに関わり、ギグやツアーにも同行していましたが、ある時、本来の(?)ハーピストである Carey Bell が「ヤメたい」と言い出し、「あとはお前がやれ」と Billy Branch に託して去っていったらしいんですねえ。
その時から彼は正式なメンバーとしてモマれることになるのですが、それに関して Lafayette Leake のことを懐想しています。

Lafayette Leake ― この人は正当に評価されていないけど、隠れた天才だよ。
実はとてもダイナミックな人間なんだ。いっつもハワイアン・プリントのシャツを着ててね、傍らにはツブれた帽子を置いて、ジっと座ってるんだ。
一切の感情を押し殺したように同じ表情でさ、まわりがフザけてても微笑むこともしないんだよ。
まるで偉い教授かなんかみたいにね。
ところが、彼は実際に「教授」だったんだよ。彼は理論もマスターしてて、ピアノを教えていたのさ。いや、それどころか、Carey Bell に聞いたんだけど、彼はハープについても Carey Bell にハープの理論を教えてくれたし、実際に吹いてみせた、と言うんだな。
だから、俺のことも放っておくワケはない。
「おい、Big Walter みたく 5 度の音を半音下げてみろ」とか「それと 3 度も半音下げろ」とね。
俺は「は?ナニそれ?」てなもんだよ。(ここで「半音下げる」ってのは、もしかすっと「ベンド」・・・あれ?「チョーク」っていうんだっけ?・・・のことかもしれません)
彼はまるで哲学者みたいだったなあ。みんなにポンと「議論のタネ」を投げ出して、みんながそれについてワイワイやってるのを、プラトンかソクラテスが弟子たちの議論を見守るように見てて、そんな時には、われわれの言ったことに笑ってたっけ。

個人的には Big Walter Horton とツルんでいた時期があったようですね。インタビューではそのことについて、また他のハーピスト、Carey Bell や、Jimmy Reed、さらにこれもまた不当に低く評価されている Buddy Scott などについても語っています。
しかし、そのインタビューで印象的なのは、Willie Dixon について語っている部分です。
黒人にとってのブルースとは?さらに、アメリカにとってブルースとは?そして我々(アフリカ系黒人)は何故「ここ」にいるのか?それらのことをよく考えるようになったのは、まさに Willie Dixon の薫陶があってのことだ、というのが良く理解できます。
そして、彼自身が学童たちにブルースを教える活動を始めた際に、その Willie Dixon から受け継いだ「我々は何者であるのか?ブルースとはなにか?ブルースになにが出来るのか?」を、その活動の基本に据えたのは当然だった、と言えるでしょう。
このインタビューは英文であるため、より正確なニュアンスを感じていただくためにも、辞書片手にでも、是非チャレンジしていただきたい、と思います。Willie Dixon が Billy Branch に託した、とても大事なことが沢山そこにはありますから。
URL は http://www.bluesmusicnow.com/branch80bc.html です。

その Willie Dixon の All-Stars に正式に加入( 1979 年)する前にはまた他のブルースマン、Lefty Dizz に Junior Wells、James Cotton、Jimmy Walker、Sammy Lawhorn に Johnny Littlejohn などとの交流を重ねて行たらしいのですが、中でも Jimmy Walker とは、ピアノの Pete Crawford を加えた the Jimmy Walker Trio として Gilmore's に出演し、後になって Steve Patterson(別名 Twist Turner )を加え、さらにベースの Steve Milewski も加えてクラブで演奏し、人数で分けると 7・8 ドルにしかならないギャラは、全員でなんか呑むとたちまち消えて無くなったけど、そこで演奏出来ただけでもうゴキゲンだった、と(どーやら「 pass-the-hat money 」と言ってますから、チャージじゃなく「投げ銭」方式のギャラだったみたい)。

1979 年に Willie Dixon の All-Stars に Carey Bell の後釜として入ったものの、それなりの苦労もあったようで、まず、彼には自分のアンプってものが無く、そこであてがわれたのが Sears Silvertone(つまり Silvertone の製品を通販 No.1 の Sears が扱った OEM )で、彼はそのアンプを形容するのに「 Shittiest 」とゆう最上級の( Shit→クソっ!Shitty→クソったれな?Shittiest→最上級?でも実際には辞書に無いよな気がすんだけど)賛辞を捧げておりますが、ギターの Buster Benton のギター・アンプはおよそ出力 300W なのに、そいつときたら 30W くらいで、それで負けないように吹きまくるもんだから口がボロボロになっちまったそうでございます。
でも、それよりツラかったのは、行く先々で、Carey Bell はどうした?どうして Carey Bell じゃないんだ?と言われることだったようです。
しかし、Willie Dixon はクラブのオーナーをいつも説得し、彼を使い続けてくれました。
彼のような未経験な、しかし将来性のある若いメンバーを育て上げることを使命としていたのでしょう。
さいわい Billy Branch は前述のように、伝説的存在と言ってもよいような蒼々たる顔ぶれと交流していたこと、さらには「あの」 Magnus Chord Organ からピアノまで弾きまくっていた、というキーボード経験が彼のハープのポテンシャルを高めていったのではないか?と、ヒソカに思ってるんですが・・・

それとは別に 1977 年、Berlin Jazz Festival に Jim O'Neal が委任されてブルースの若手を送り出すことになり、13 人のメンバー( James Kinds、Dead Eye Norris、Bombay Carter、Harmonica Hinds、Vernon Harrington ─ は~い、記憶力のいい方は覚えておいででしょか?先日の Eddy Clearwater、彼のラスト・ネームも、初吹き込みをした Atomic-H のオーナーも、 Carey Bell も、そして息子の Lurrie Bell も、みんな Harrington の一族なんですねえ。で、この 1952 年 5 月21日 Chicago 生まれ、左利きのギターとして Johnny B. Moore のバンドにいたこともある Vernon も、これまた Eddy Clearwater のいとこでございます)が選出されたのですが、その中から、自然に Freddie Dixon をベースに、そしてギターについては Jim O'Neal の薦めで Lurrie Bell、そしてドラマーには Clifton James の息子、Garland Whiteside(なんで父子で姓が違うの?なんて尋かないでちょーだい。そこまで調べてるヨユーは無いざんす)でスタートした、このユニットこそが The Sons of Blues の出発点だったようです(ただし、レコーディングの時にはドラムがすでに Jeff Ruffin に替わっております)。
つまり Billy Branch 以外はみな、ブルースマンの息子だったため、Sons of Blues の名になったんですね。

Junior Wells の義理の息子(ホラ、ここにも息子)、Lucius Barner の作った曲、Tear Down the Berlin Wallがベルリンに行けなかった Lucius の代わりに現地で演奏されました。
アメリカに帰ってきてからは小規模なギグをこなし始めたようですが、そのさなかに Lurrie Bell がバンドを去ってしまいます。海外のツアーのスケジュールを進めようとしていた時だったので、急遽 John Watkins をギターに据え、また Vernon Harrington のとこでちょこっと出てきた Johnny B. Moore も一時いっしょにやってたこともあったようです。
John Watkins もまたやがてバンドを去り( because he was a leader himself.─ by Billy )メンバーはいくつかの変遷を経て行くことになるのですが、
http://www.joes-corner.de/chicago2002_billybranchartis.html では 2002 年 6 月のそのメンバーとして Billy Branch のヴォーカルとハープ、Sumito Ariyoshi(有吉 須美人)のピアノ、Nick Charles のベース、Calvin Kadakie Tucker のパーカッション、Mose Rutues Jr. のドラムとなっており、そのゲストとして John Primer( Voc.& Guit. )、Lenny Lynn( Voc. )、 Deroles( Voc. )、Ronnie Baker Brooks( Guit. Lonnie Brooks の息子)などと並んで、いま話題の Carlos Johnson も加わっています。

Alligator の The New Blueblood では J. W. Wilkins の Chi-Town Hustlers と Sons of Blues の合体(?)でThe Only Thing That Saved Me が収録されておりますが、ここでのヴォーカルは J. W. Wilkins で Billy Branch ではありません。
また、そこでのギターは Carl Weathersby(詳しくは、えどすりちゃまの http://www.kiwi-us.com/~slim/cweathersby.html でどうぞ)です。
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2005 年の Billy Branch and the Sons of Blues はギターに日本人の丸山 実を入れて、7 月には青森で行われたブルース・フェスティヴァルに二夜連続で出演しています。
さらに翌2006年には同じメンバーで今度は三夜連続で出演しました。
同年末にはギターの丸山 実が「卒業」したもよう。


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# by blues-data | 2005-09-02 19:58
Billy Boy Arnold
Billy Boy Arnold こと William Arnold は 1935 年 9 月16日、Chicago で生まれています。
ハープは独学に近かったと思うのですが、12 才のときに近所に Sonny Boy Williamson I( John Lee Curtis Williamson )が住んでいることを知り、「サニー・ボーイになりたかった」と後にインタビューで語るほど彼のブルースに心酔していたようです。
訪ねていってチョークなどを教わったそうですが、三度目の訪問を目前にして、Sonny Boy の不慮の死に遭遇してしまいました。それでも、彼は「多くのものを学ぶことが出来た」と語っています。
とはいえ、Billy Boy Arnold のハープには「それほど」その形跡は無いよな気がするんですが、ハーピストが聴くと判るのかな?あ、こゆとこサニー・ボーイゆずりだ、って。
彼には 1936 年生まれの弟、Jerome がいますが、Billy Boy Arnold とはもちろん、他にもウルフ、ブルームフィールドや、バターフィールド、Southern Comfort などでもベースを弾いているようで、むしろロックの方で有名かもしれません。

さて、William Arnold ですが、彼より 8 才ほど年上のストリート・ミュージシャンだった Ellis McDaniel と組んで活動を初めます。
この Ellis こそ、後の Bo Diddley で、いわゆる「 Bo Diddley And His Washboard Trio 」の誕生でした。
1952 年には、まだ10代ながら Chicago の Cool レーベルと契約。「 I Ain’t Got No Money 」と「 Hello Stranger(お察しのとおり、Sonny Boy にインスパイアさた作品)」を録音しますが、ここで Billy「Boy」Arnold という名が決定しています。本人によれば「実際には17才なのに15に見られた。自称19才だったんだが」、やはりコドモっぽかったんでしょか?
1955 年にはボ・ディドリーが Chess にレコーディング(「 Bo Diddley/I’m A Man 」からヒットの連鎖が始まるのですが、これがリリースされたときに Ellis McDaniel が Bo Diddley となったそうです)。Billy Boy Arnold はそのサイドをつとめ、Bo Diddley を売り出すのに貢献していたのですが、やはり自分名義のレコードが出したかったようですが、チェスの Leonard Chess は彼をあまりよく思っていないみたいだ、という Bo Diddley のハナシから Chess ではなく VeeJay と契約をしてしまいます。
それでも Bo Diddley のバックはしてたので Chess のスタジオで録音した時に、 Leonard Chess が Billy Boy にも「吹き込んでみる?」と声をかけたことで、嫌ってる、とゆう誤解(?)は解けたのですが、時既に遅く、以後 VeeJay に吹き込むことになります。
え?Bo Diddley がガセネタわざと流したんじゃないか、って?う〜ん、そこら、なんとも言えませんねえ。

VeeJay で吹き込んだ「 I Wish You Would 」は地元局でヘヴィー・ローテーション扱いされるなど、ローカル・ヒットとなりましたが、どうやらエレクトリック・ベースを使用した最初のレコーディング・セッションだった、っちゅー説もあります。
その後も「 I Ain’t Got You 」、「 She’s Fine 」、「 She’s Mine 」に「 Prisoner’s Plea 」とヒットを連発し、僅か20才にして名声を確立しました。
1963年には Prestige から自身の初アルバム MORE BLUES FROM THE SOUTH SIDE もリリースしたのですが、次第にギグの動員も尻すぼみとなってバンドの維持もままならず、音楽から遠ざかってバスの運転手などをしてたよーです。
ところが(?)1960年代中ごろ、エゲレスで湧き起こった「ブルース・ブーム」が彼の運命を再び反転させるんでございますねえ。
彼が VeeJay に吹き込んだシングルは一時、コレクターズ・アイテムとなったくらいです。その中の「 I Wish You Would 」と「 I Ain’t Got You 」はヤードバーズもカヴァーしておりますが、それ以外にもアニマルズやデヴィッド・ボウイなどが取り上げたことにより、Billy Boy Arnold は一躍、注目を浴びることとなり、ついにはヨーロッパ・ツアーやヨーロッパでの録音の機会を与えられる、という「ふたたびの春」がめぐって来たのでした。
そのキッカケとなった VeeJay への吹き込みは CRYING & PLEADING として Charly から発売されています。
彼は、「 One of the first Windy City blues singers( copyright Richie Unterberger )」と表現されたりもしていますが、それは、彼が他の地方からシカゴに流入したミュージシャン(そ、シカゴ・ブルースとは言っても、それを構成しているのはたいてい「おのぼりさん」なのよねん)ではなく、生粋のシカゴ生まれ&シカゴ育ちだった、っちゅうとこにあるのでございますよ。
ま、だからどう、ってワケじゃないんですが。

Junior Wells の葬儀では彼が「 played an epitaph 」とあって、普通なら葬別の辞を述べた、となるんでしょうが、「 played 」となっているので「葬送の曲を演奏した」─かもしれません。
Billy Boy Arnold のアルバムに興味がおありでしたら下の URL なぞいかが。
http://www.applejam-mojoroux.com/applejam/cd_coment/billyboyarnold.html



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# by blues-data | 2005-09-02 19:33
Big Walter Horton
Big Walter Horton、あるいは Shakey Walter Horton( alt. Big Walter "Shakey" Horton )は1917 年( alt.1918 )の 4 月 6 日、Mississippi 州の Horn Lake で生まれています。
そして彼が父からもらって、ハーモニカを吹き始めた(ホントは「吸う」ほーに「キモ」があるよな気がするから、一律「吹く」ってえ表現はちとおかしいと思うんだけど、ま、口にあてがって呼吸を利用して音をだしてる以上、そー表現するっきゃないか?)のは 5 才のときで、さっそくローカルなタレント・コンテストで優勝したのです。
10代になってすぐ Arkansas に移り、さらには母に従って Memphis へと移動しています。そこでは Handy Park(そ、Memphis に来た Eddie Taylor は「水曜日が Beale Street、そして土曜の夜は Handy Park に通い、Little Buddy Doyle などのローカルなギタリストや Joe Hill Louis、Big Walter Hortonなどとも出会い」っちゅーワケです)で Johnny Shines や Furry Lewis などと交流しています。
最初は自己流だった彼のハープも、そこで Memphis Jug Band の Will Shade や Hammie Nixon あたりからあらためて教わっていたのではないでしょうか。

Samuel Charters によれば、Memphis Jug Band で一緒に演奏していた Horton はまだ 9 才か10才だったそうです。本人は1927 年に、Memphis Jug Band で録音した、と主張していますから生年を考えると符合しますね。
ただ、このころには Little Buddy Doyle のバックで Okeh にも吹き込みをしてるハズ。ここでは Shakey Walter( Harp )と表記されていたようです。
1930 年代を通じて彼は Robert Johnson や Honeyboy Edwards などとも共演し、さらに Little WalterSonny Boy Williamson II などにも影響を与えたとされてます。ただし、バッキングがメインだったようで、まだ自己名義での吹き込みはありません。
1940 年代の後半に一度シカゴに出ているのですが、間もなく Memphis に戻り、1951 年には「Jimmy( De Berry )& Walter 」として Sam Philips の Sun Records に初めての吹き込み。そしてそれはそのまま Modern Records にリースされています( Sam Phillips の Sun からは Sun 180 としてリリースされています)。
彼単独では 1953 年で、この時の吹き込みは Mumbles という名前で行われました。
その一連の吹き込みの中から、Ivory Joe Hunter の「 I Almost Lost My Mind 」を下敷きにしたインスト・ナンバー「 Easy 」がヒットします。
そのヒットによって彼はふたたびシカゴに出て、Eddie Taylor と一緒に演奏を始めました。そして Junior Wells が徴兵されたために、マディのバンドの後釜になるのですが、リハ中に呑んでるのをマディに見つかって追い出されてしまうという・・・
この 1950 年代の録音は(そんなことがあったマディのバックや、Willie DixonOtis Rush とのも) Chess に残っています。
1960 年代には国内外にツアーに出るようになり、1964 年には Chess 傘下の Argo に彼自身のリーダー・アルバムを吹き込む機会にも恵まれました(『 The Soul Of Blues Harmonica 』 Chess 9268 )。
彼のサイドマンとしての仕事を列挙すると、マディのバックで「 Blow Wind Blow 」や「 I’m Ready 」、Johnny Shines の「 Evening Sun 」、Otis Rush の「 I Can’t Quit You Baby 」のオリジナル・テイク、そして Jimmy Rogers の「 Walking By Myself 」、まだまだありまっせー!Willie Dixon でしょ、Eddie Taylor、J.B. HuttoFloyd JonesJohnny Young、Big Mama Thornton、もひとつオマケにジョニー・ウインターのファースト・アルバムまで!

そして1970年代には Ann Arbor や Miami Blues Festival、さらに Monterey Jazz Festival に Smithsonian Festival of American Folklife といった数々のブルース・フェスに参加し、1972 年には愛弟子と言ってよい Carey Bell との Big Walter Horton With Carey Bell Alligator 4702 を発表しました。

1981年 12月 8 日 Chicago で死亡。なお、もっと詳しく、おそらくは正確な解説が江戸川スリムさんとこにありますので、キョウミを持たれた方は、ゼヒそちらも訪れてみてください。江戸川スリムさんのと、ここで記述が喰い違っていたら、たぶん正しいのは江戸川スリムさんのほーですよん。



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# by blues-data | 2005-09-02 19:19
Big Time Sarah
Sarah Streeter は 1953 年 1 月31日、Mississippi 州の Coldwater に生まれ、7 才で Chicago に来ています。
そしてサウス・サイドにあった教会の聖歌隊の一員としてその音楽キャリアをスタートさせたようでして、そこでゴスペルをメインとしたヴォーカルのトレーニングを受けています。ただし、これには異説があって、教会で歌っていたのは彼女が 7 才で家族とともに Chicago に出てくる「前」だ、としている資料もございます。いずれにしましても、10代に入るころには早くもブルース・クラブのステージに立っていた、という記述もありますが、そのよーにトシワもゆかぬコドモ、それも女児となればなおさら、そのよーな悪所(?)に出入りが許されたのであろーか?といささか疑問も無いではないのですが、Myers 兄弟や Magic Slim の手助けがあって出演してた、ともいいますから、もしかすっとマスコット的な扱いだったんでしょか?
また別な資料では、他にも Junior WellsBuddy GuyMagic Sam などとも共演したことがある、となっておりました。
やがて彼女は自分のバンドを立ち上げて、Kingston Mines や、Biddy Mulligan の店、そして「B.L.U.E.S.」といったクラブにも出演するようになってゆきます。また、Sunnyland Slim とともにツアーを経験しているようで、彼女自身は 1970 年代に Airways レーベルに紹介してくれた Sunnyland Slim を一番の恩人、と捉えているようです。
そんな彼女の初吹き込みは、その Sunnyland Slim と訪れていたギリシャで行われました。アメリカでの吹き込みでは 1989 年のUndecidedらしく、この時から、バック・バンドには BTS Express という名が与えられています。
Big Time Sarah & BTS Express は 3 枚のアルバムをリリースし、2002 年には Blues Roosters のギグに参加し、以後もその関係は続いているようですが、ライヴなどでは( Humming Birds のかつさんが何回か実際にアメリカでライヴをご覧になっておられます。そのリポートはこちら・・・ としていたのですが、現在は Humming Birds のサイトが消失しているため、読むことが出来ません)また違うセットに参加もしているようです。



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# by blues-data | 2005-09-02 19:11
Big Maceo
Major Merriweather は Atlanta 郊外(ただし異説もあり、Newnan としている資料もあります)の両親の経営する農場で 1905 年 3 月31日、11 人の子供のうちの一人として生まれていますが、資料では彼が 11 番目、とはしておりませんので、実際には長男から末っ子までのあらゆる可能性があるワケです(あ、兄が、っての、この後出てくるから長男なワケ無いですね)。
そして、どうやら成長するにつれ、堂々たる体躯となっていったようで、そこから、彼には「 Big 」という形容詞が付くようになったとゆうことです。
1920 年には父親が銀行で仕事をするようになった(いわゆる銀行員ってヤツかどうかは判りません。農家から転職するとしたら警備関係などの部署だったのかもしれません。ま、アメリカでの銀行員の選考基準ってのがどんななのか判らないんで、なんとも言えんのですが・・・ )ため、郊外から College Park 地区に移り、そのあたりから彼のピアノとの関係が始まったのでした。
Harvard Street にあったカフェやハウス・レント・パーティなどで演奏を重ね、おそらくこの時期の現場でのスキル・アップが彼のピアノを底支えしてゆくことになったのでは?っちゅう気がいたしますが、そこら、ワタクシの主観でございますので、鵜呑みになさらないよにね。
また、おそらくこの時期に Major が Maceo となったらしいのですが、ある資料ではそのヘンを、単に訛って、ではなく、多少の悪意、からかいなどが底にあったようだ、としています。
どうも Maceo という単語がどのようなニュアンスを持っているのか、手持ちの辞書では歯が立たず、「な~にが Major じゃ!あんなヤツ Maceo でじゅうぶん!」てなニュアンスだったのか、それともなんかのキッカケで(しょっちゅう呑んでたらしいんで舌がもつれた、とか?)そう訛っちゃったもんか、どーも判断できません。真相はいかに?

やがて 1924 年には先に出ていってた彼の兄が、住むとこも仕事もある、と言ってくれたこともあって、一家を挙げて Detroit に移っています。
彼はとりあえず Ford Motor Co. に職を得て生計を立てるようになりますが、それでも乞われればハウス・パーティや Hastings Street のクラブなどでの演奏は続けていました。
そんな時、彼が演奏するために雇われた先にいた女性、Hattie Spruel と知りあい、二人は結婚します(資料では彼について「 New Husband 」と記述していますから、彼女の方は初婚ではなかったのかもしれません。ただ、そのヘンのニュアンスは英語を母国語としてないワタクシとしては「もしかしたら」って程度のものでしかないのですが)。

1941 年( 1940 年とする説も)に、夫婦は Chicago に移り住みます。
そして、この奥さん、なかなかのやり手だったようで、Big Bill Broonzy や Tampa Red とのコネを作ることに成功したらしく、彼の売り込みを開始しました。
彼のプレイを見た二人はその腕前に感心し、その存在を RCAのプロデューサー Lester Melrose に伝え、その甲斐あってすぐさま彼は Bluebird レーベルへの録音がセッティングされたのです。

この 1941 年 6 月24日に Bluebird のレコーディング・スタジオ C で行われたセッションでは 14 曲( Tampa Red 名義で 8 曲、彼名義で 6 曲)が録音され、その中の一曲、Worried Life Blues が「永遠に」彼の代表曲となったのでございます。
第二次世界大戦が終るまでに、Tampa Red とのコンビで 3 度のセッションを持ち、計 16 曲の録音をしています。しかし、ここで Musicians Union のストライキにまつわる混乱からレコーディングの機会を阻まれてしまい、やむなく彼は再び Detroit に戻り、必要に応じて Chicago へ出て来る、という生活形態をとるようになりました。

1944 年にようやくストライキの混乱が収束し、Melrose の手によって1945 年、 Tampa Red や Big Bill Broonzy との録音が本格的に復活され始め、3 回のレコーディング・セッションで 12 曲が収録されています。
ここで生まれた名曲として忘れられないのが Chicago Breakdown でしょう。
しかし、1946 年、Milwaukee で彼は卒中の発作を起こし、右半身の機能障害を来たしたことによって、ピアニストとしての彼は「終って」しまうのですが、それでも右半分の鍵盤を、ある時は Eddie Boyd に、Little Johnny Jones に、そして Otis Spann によって補ってもらいながらレコーディングを続け(ただし、それとても決して容易なことではなかったようで、Eddie Boyd の力を借りた 4 曲はケッキョク Victor を満足させなかったようで、契約を解除されてしまってます。したがって Little Johnny Jones との録音は Specialty でのもの)たのですが、この三人が彼の傍らで学んだものは、後にこの三人の上でそれぞれに花開いたのではないでしょうか。

1950 年には南部諸州をツアー(!)したらしいのですが、これに John Brim が同行した、としている資料もあります。でも、そこはちと「?」だなあ。
ただ、John Brim との縁があったことは確かで、1952 年の Fortune レーベルへのレコーディングでは John Brim がギターとして参加しています(この部分、まったく異なる著述が存在し、「 1949 年には再度の発作に見舞われ、これが彼のミュージシャンとしてのポテンシャルをすべて奪ったらしく、遂に引退してしまった。」としてる資料がありました!原典は不明)。

永く続いた不摂生(特に過度の飲酒)が彼の健康を蝕んでいたようで、次の、そして致命的な発作によって彼がこの世を去ったのは 1953 年 2 月26日のことでした(まったくカンケー無いハナシでキョーシュクですが、この日はワタクシの五歳の誕生日でございますよん)。

Big Maceo のセッション・ワーク、ディスコグラフィーなどについてはえどすりちゃまの Big Maceo とこをご参照くださいませ(あ、丸投げしちまった!ズルい)。



reserched by Othum: Blues After Dark


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# by blues-data | 2005-09-02 19:06
Big Joe Williams
1903年10月16日、Mississippi 州 Crawford で Joe Lee Williams は生まれています。
David "Honey Boy" Edwards の言葉を借りれば、若いころの彼は南は New Orleans、北は Chicago に至るまで、ともかくよく歩きまわるミュージシャンだったそうです。
ワーク・キャンプ、ジューク・ジョイント、商店の軒先、大通りから裏通りまで、いたるところで演奏をしていたようです。

そんな彼も 1931 年にはいったん St. Louis ににとどまり、さらには詳しいことはよく判りませんでしたが、どうも一時期、Louisiana 州立 Angola 刑務所に収監されてもいたようです。
で、刑務所が出てきたついでの余談となりますが、彼は 1950 年代の後半に、とある刑務所で 12 弦ギターを弾く囚人に会った、と証言しているらしいのですが、実はその囚人こそ Barbecue Bob こと Robert Hicks の兄、Charley Hicks( Charley Lincoln あるいは "Laughing Charlie" としても知られる。内縁の妻が危害を加えられそうになったので、やむを得ず、という名目で人を射殺した罪により刑に服していた)だったようでございます。

ま、Big Joe Williams 自身の刑期はさほど長いものではなかったようで、無事出所して迎えた最初のレコーディングは 1935 年 2 月25日の Bluebird でのものでした。
そして同年10月31日の 2 回目のセッションで録音されたのが、この Baby, Please Don't Go でした。このときのバッキングは Sonny Boy Williamson IRobert Lee McCoy(つまり Robert Nighthawk ですね)。
この Bluebird には続いて 1937 年 5 月 5 日、1941 年 3 月27日、さらに同年12月12日の計 5 回のレコーディングを行っています(その録音は RCA International INT 1087 First Five Bluebird Sessions from 1935 to 1941 としてまとめられています)。
なお 1941 年12月12日にも Baby, Please Don't Go が録音されていますが、この時はバックに Sonny Boy と Alfred Elkinsという顔ぶれになっています。

1945 年 7 月12日には Chicago でふたたび Bluebird にレコーディング。
ここまではいわば Victor 系列のブルーバードに録音をして来ているのですが、同年 7 月22日、つまり僅か10日後には今度は、もろライヴァルの Columbia にまたまた Baby, Please Don't Go を録音しています( Columbia 30099 あるいは 37945、カップリングは Wild Cow Moan )。また同じ日に録音した Stack of Dollars / Mellow Apples Columbia 30107 あるいは 38055 も同じセットで、ベースに Ransom Knowling、ドラムに Judge Riley、そしてハープはもちろん Sonny Boy Williamson I でした。

続く 1947 年12月18日にはまったく同じセットで 6 曲(Banta Rooster Blues / House Lady Blues Columbia 30119、 King Biscuit Stomp / Don't You Leave Me Here Columbia 30129、 P Vine Blues / I'm A Highway Man Columbia 30191 )を吹き込んでいますが、Sonny Boy はこの翌年不慮の死を遂げてしまいますので彼との共演(そして Bluebird へのレコーディングも)はこれが最後となってしまいます。
1949 年には(日付不明) St. Louis で Bullet に Jivin' Woman / She's A Married Woman ( Bullet 337 )を録音。バックは Singleton Palmer のドラムでした。
1952 年には Jackson の Trumpet に Mama Don't Allow Me / Delta Blues ─Trumpet 151、 Overhauling Blues / Whistling Pines ─Trumpet 169、 Bad Heart Blues / She Left Me A Mule ─Trumpet 171 を吹き込み。

次の 1956 年10月16日の Vee-Jay へのレコーディングでは名義が Joe Williams から Po Joe Williams となっていますがそれはどうやら Poor の略だったようです。また、この Vee-Jay ではまったくの同一録音が、これまでの 10 インチ 78 回転 SP と、7 インチ 45 回転 EP の両方で発売されています。
1957 年 9 月 1 日から 3 日にかけて Chicago で録音された 6 曲では名義が Poor Joe Williams となっています。

その名前が Big Joe Williams と言われるようになったのは、1958 年の Delmark での Piney Woods Bluesからではないでしょうか。
そして、そこでも Baby, Please Don't Go が録音されているんですねえ。そして、その録音は後に Delmark 40 周年ディスクにも収録されています。
1965 年には Rockford カレッジでのライヴでもまたこの曲が録音され、それは 1998 年に発売されました。
1968 年、イギリスでもまた Baby, Please Don't Go を録音していますが、その前に American Folk Blues Festival の Evidence ECD 26200 にもライヴが収録されています。
さらに 1974 年にリリースされた ABC/Bluesway BLS 6080 Don't Your Plums Look Mellow Hanging On Your Tree にもまたまた Baby, Please Don't Go が収録され、さらに 1974 年のライヴ録音でも Baby, Please Don't Go が録音されました。

こうして数えてみると、今回判っただけでも 9 回、Baby, Please Don't Go を録音してるんですねえ。
そして 1982 年12月17日、Mississippi 州の方の Macon で Big Joe Williams は死亡しました。
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# by blues-data | 2005-09-02 19:01
Big Joe Turner
Joe Turner は 1911 年 5 月18日、Missouri 州の Kansas City で生まれました。
彼がまだ 4 才のときに父親が鉄道の事故で死亡しており、以後、彼は祖母、母、姉などと暮していたようです。
そんな彼も教会での聖歌隊ばかりか、友人と一緒に街頭でも唄うようになっていたらしく、もしかするとこの時の経験が「声量」の面で影響しているのかもしれません。
十代ですでに大きなカラダをしてたせいでなんなくクラブにももぐり込めたようで、鉛筆で口ヒゲを描き込み、父の形見の帽子をかぶって、堂々とクラブで演奏しているバンドを聴きに通っていました。

当時の Kansas City のクラブに出ていたコンボは、ジャズよりもブルース寄りで、シンプルなビートと、親しみやすい構成を持ち、ある意味、ロックン・ロールの「前段階」的な傾向が強かったらしく、それがまた彼の音楽的バック・ボーンを為す一要素として定着して行ったのではないでしょうか。
やがて 1929 年に、彼は the Sunset Cafe のバーテンダーという職にありつきますが、その時の彼はまだ十代です。そして、そこでハウス・ミュージシャンであるピアニストの Pete Johnson(同じく Kansas City 生まれ。1904 年ですから彼の 7 才上、ということになります。1967 年に死亡)と出逢いました。
機会があって、そのピアノに合わせてアップ・テンポのナンバーを歌ってみたのが好評だったため、この二人のコンビはすぐに「定番」化します。
そして 1936 年、John Hammond が the Count Basie Band を訪ねて Sunset Cafe に来た際に聴いた Joe Turner の歌に感銘を受け、Count Basie のバンドと一緒に New York に来るよう誘いましたが、ビッグ・バンドの前で唄うことに不安のあった Joe Turner はその件については断りました。が、そのかわり、Pete Johnson とのコンビではダメ?と Hammond に提案しています。こうしてこのコンビはその夏、New York に滞在して the Famous Door に出演したのでした。

1938 年になると、ふたたび John Hammond からの誘いがあります。
今度は Benny Goodman の番組Carmel Caravan への出演依頼で、さらにその年の 12 月にカーネギー・ホールで行われた第一回のSpirituals to Swing コンサートにも出演することとなりました。
そのコンサート出演は成功し、すぐさま Vocalion が声を掛け、一週間後にはスタジオで初吹き込み(Roll 'Em Pete Goin' Away Blues )をしています。
翌年早々、Hammond は二人を the Cafe Society( New York City のナイトクラブ、Albert Ammons、Clarence Pinetop Smith、Gene Ammons、Meade Lux Lewis などもここで演奏している)に連れていきましたが、そこでは Albert Ammons と Meade Lux Lewis とも共演をするようになり、そこでレコーディングのプランがまた浮上しました。
1939 年の 6 月に Oran "Hot Lips" Page のバンドをバックにCherry Red 、そしてバンドの替わりに Albert Ammons と Meade Lux Lewis が入った同じ曲、さらに Joe Turner と Pete Johnson の組み合わせでCafe Society Blues を吹き込んでいます。

ほとんどコンビのようにして活動していた Joe Turner と Pete Johnson ですが、もちろんそれぞれが個人的に活動もしていたようで、例えば Pete Johnson は、Chicago で Harry James Band をバックに、Chicago で「歌って」もいますし、Benny Carter と Coleman Hawkins も在籍していた Varsity Six と Varsity レーベルに吹き込んでいます。
1940年には Decca と契約し、"Hot Lips" Page のバンドをバックに 4曲ほど吹き込んでいます。このときのPiney Brown Blues は 400,000 枚を売り上げる大ヒットとなりました。Decca は "Hot Lips" Page 以外にも the Freddie Slack Trio や Willie Smith、Art Tatum などをバックにつけて Joe Turner のレコーディングを行っています。

1941 年には彼はハリウッドに出向き、Duke Ellington のJump For Joy というレビューに出演し、さらに西海岸一帯で公演し、結局、数年間、ウエストコーストに住み続けたのでした。1942 年には Willie Bryant のショウの一員として Meade Lux Lewis と組んでツアーに参加し、さらに NBC の放送にも出演しています。
1944 年には Joe Turner と Pete Johnson に Albert Ammons を加えてツアーを開始し、また Decca と New York の National Records にもレコーディングを行いました。
この National で吹き込んだ中のJohnson And Turner Blues Esquireマガジンによって Male Vocalist in an All-American Jazz Band 部門の銀賞を受けています(金賞は Louis Armstrong でした)。

ってことで判るよに、かなりジャズに傾いてる存在、とも言えるんじゃないでしょか。
出てくる名前も、ジャズ畑の人脈ゾロゾロですからねえ。

第二次世界大戦の展望が開けたところで、一時停滞していたレコード製作も盛り返しはじめ、この時期、Joe Turner は Decca と National Records(この National Records についてはまだ調べておりません。手元の資料では National Music Lovers Records っていう 1920 年代に New York でダンス・ミュージックのレコードを 8 枚で 3 ドルという価格で通信販売していた、たぶん別なレコード会社しか判りませんでした)に吹き込みをしており、Johnson And Turner Blues が Silver Award を獲得したことは上で書きましたが、二年間に及ぶ National への 11 枚のレコーディング中、まともに売れたのはそれではなく、My Gal's A Jockey だけだったようです。
そこから 1949 年のStill In The Dark までは、いわば低迷期とでも言うべきパっとしない数年間を送りました。
その間、彼は Stag Records( San Francisco )や Los Angeles の Deetone や Swingtime( Playboy Thomas や Lloyd Glenn などがレコーディングしているレーベル)、Houston の Freedom などのレーベルに吹き込んでいるのですが、唯一のヒットと言えるのが1949 年に Freedom からリリースされたStill In The Dark のチャート入りでした。しかし、全国配給網を持たないマイナー・レーベルの限界で、すぐにチャートから消えてしまっています。
一時期住んでいた New Orleans から彼は北部に移動し、Lowell FulsonPee Wee Crayton といったギターをバックにクラブなどで演奏をしていました。

そんな彼にチャンスが転がり込んできたのは、いささかタナボタめきますが、Count Basie Band から Jimmy Rushing( 1903.8.26 - 1972.6.8、Oklahoma City、1935 年から Count Basie のバンドのヴォーカルを務め、1950 年に独立後、自らのスモール・コンボと、また Benny Goodman や Buck Clayton のバンドとも仕事をしている)が独立したことにより、その穴を埋めることになったからでした。
当時、Atlantic Records( 1947 年、在米トルコ大使の息子であった Ahmet と Nesuhi の Ertegun 兄弟によって設立された独立系レーベル。1953 年に Jerry Wexler をプロデューサーとして迎えたことにより大きくブレイクする)は Joe Turner に興味があったようで、探していた矢先、New York の Apollo にでかけた Ahmet は Count Basie Band のヴォーカルとして歌っていた彼を発見し、さっそく一年契約という形で Atlantic Records へのレコーディングを実現させました。

ここで Ahmet が賢明だったのは、彼の歌を、これまでのありきたりなジャズ系のナンバーから、より若い消費者層にターゲットを絞った R&B 的な音造りで仕上げた点でしょう。
1951 年 4 月19日(つまり、まだ Jerry Wexler はいません)、Van "Piano Man" Walls and His Orchestra をバックに吹き込まれた 4 曲のうちChain Of Love は発売されるやたちまちチャートを駆け上がり、R&B 部門の最高 2 位に 4 週連続でとどまり、実に 25 週間、チャートに居続けたのでした。
このヒットによって一躍有名になった彼は Atlantic が仕立てたCavalcade of Blues ツアーや、Helen Humes とのツアーなども行うようになります。

続いて(まだChain Of Love が在位中に!)発売された同じセッションからのThe Chill Is On も R&B チャートの 3 位まで登りました。
また Atlantic は Joe Turner のマイナー・レーベル時代の作品も 1952 年 1 月に Van "Piano Man" Walls のバッキングで新たに収録しなおしてSweet Sixteen を発売、これもそこそこヒットさせています。
以後、同年 9 月にはDon't You Cry を、1953 年の春にはHoney Hush を吹き込み、これは発売されるや R&B チャートを上昇し、実に 1 位を 8 週間にわたって独占したのでした(蛇足ながら、その 1 位を替わって奪い取ったのが Guitar Slim のThings That I Used To Do )。続いて Chicago で 10 月に行われたセッションで吹き込まれたのが Oke-She-Make-She-Pop でした(このときのバッキングは、ピアノが Johnny Jones、ギターはなんと Elmore James で、ベースが Jimmy Richardson、ドラムは Red Saunders。ブラスでは Sonny Cohn-tp、Grady Jackson-ts、Mack Easton-bs となっています。プロデュースは当然 Jerry Wexler )

続いては同年 12 月に New York で録音されたナンバーShake, Rattle And Roll はチャート 1 位を獲得し、さらに「六ヶ月間も」チャートに居続けています。
この曲はご存知のよに Bill Haley and the Comets によってカヴァーされ「ワールド・ワイド」なヒットとなるのでございますよ。
その後もヒットは続き(Flip, Flop And Fly も!)そこらいちいち羅列すんのもメンドーなくらいですが、Jerry Wexler と Nesuhi Ertegun はここで、かっての Joe Turner の相棒、Pete Johnson ともいちど組ませる、という企画をスタートさせ、そのコンビでの吹き込みや、1958 年の Newport Jazz Festival への出演、さらにはJazz At The Philharmonic (いわゆる JATP ですね)のヨーロッパ・ツアーにも参加するなど、またひとつの時代を築き挙げました。

ただし、1950 年代の終焉とともに彼の商業的収穫期は終りつつあり、彼の最後のヒットと言えるナンバーは、「あの」 King Curtis をサックスに迎えたJump For Joy でしょう。
それでも 1960 年にはアルバム Big Joe Rides Again をレコーディングし、ここではギターに Jim Hall を迎え、サックスに Coleman Hawkins を配して、よりジャズ色の強いものでしたが、Atlantic はこれを最後に彼との契約を打ち切ったのでした。

そこからの彼は、むしろジャズ系の場で活動を続け( The Five-Four Ballroom、The Birdland、Monterey Jazz Festival など)ますが、1966 年には American Folk Blues Festival のツアーに Pete Johnson とともに参加し、1967 年には Spirituals To Swing にも出演、さらに 1969 年には Johnny Otis と接触し、そのショウに参加し始めることとなります。

1970 年代の彼は Johnny Otis Show の一員として演奏するかたわらフランス・ツアーの折りに現地のレーベル Black and Blue にレコーディング、またふたたび Count Basie のバンドで唄ったものを Pablo にも残しました。
1972 年には妻に先立たれていますが彼はすぐに再婚しています。
1973 年には Trojan Records に、その翌年には LMI に、1977 年には Spivey にそれぞれレコーディングをしていますがこのころには彼の健康状態が徐々に悪化し始めていたのかもしれません。
やがて卒中と糖尿病によって車椅子での生活を強いられるようになり、1985 年の11月24日に死亡しました。

その葬送で歌ったのはもちろん Pete Johnson でした。





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# by blues-data | 2005-09-02 19:00
the Beale Street Sheiks
いかにもバンドっぽい名前の The Beale Street Sheiks ですが、実際はヴォーカルとギターの Frank Stokes と、ギターに M.C.(っつーか、かけ声、合いの手、そして語りも含まれ、これをラップの始祖である、としてるひとがいましたが、いくらなんでも、それは・・・)を担当する Dan Sane(ときたま Sain としてるサイトもありましたが、その同じサイトで Stain なんて誤記も見つけたので、ちょっと「信用度」は低いかな?)の二人だけでなっている「ユニット」でございます。

実はこれにはもうひとつのユニットの存在が関わっております。
それが Sam Chatmon*の the Mississippi Sheiks で、いわばそれに触発されて結成した、と言うことが出来るんじゃないでしょか。

*Sam Chatmon─1897,JAN.10 - 1983,FEB.2、Mississippi 州の Bolton で、Chatmon Strings Band として知られていた有名な「音楽一家」に、11人の息子たちの一人として生まれていますが、その何番目なのか、また女の子はいなかったのか?などについては不明でございます。
ただ、父の Henderson Chatmon は「最初の」結婚で、その妻との間に(人数などは不明ながらも)すでに、多数の子供を作っており、その後、再婚した次の妻との間に生まれたのが上記の 11人である、としている資料もございますので、そーなると異母兄(&姉?)がはたしてどんだけいたものか?あ、そっちのほーは「音楽」とは関わりが無かったんでしょか?
ま、それはともかく、その子供たちはそれぞれ音楽の道に進むのですが、1920 年代の中頃から the Mississippi Sheiks の名のもとに活動を開始しておりますが、その音が録音されたのは the Beale Street Sheiks に遅れをとって 1930 年代に入ってからのこととなります。
この「 Sheiks 」というコトバそのものは映画俳優のルドルフ・ヴァレンティノ主演の映画から来たそうですが、映画、中でもアメリカの映画には「冷淡」なワタクシにその由来など判るハズもございません。本来ならアラビア圏における「首長・族長」などを表すコトバなんですが、アメリカでは「色男」ってえイミになっとるよーで、それがその映画以降なのかどうかも判りまへん。
とと、また脱線してましたねえ。
えー、その兄弟の中から双子の兄のひとり Lonnie( 1888 - 1942、双子のもひとりは Laurie )のフィドルとその友人のギタリスト Walter Vinson、そこに Sam も加わって活動していましたが、多くは街頭で、あるいはパーティなどでの演奏だったようで、たとえばマディなども、「彼らの演奏がある、と聞けば 10マイル歩いてでも聴きにいったよ」と回想するほど、有名な存在でもありました。Sitting On Top of the World のオリジネイター(あるいは初めてその曲を「レコード史上に浮上させた」ということかも?)と言われています。

Frank Stokes はそんな the Mississippi Sheiks に対する Memphis の対抗馬(?)として結成されたようで、彼は 1888 年の 1 月 1 日に Tennessee 州 Whitehaven で生まれた、とされていますが、Whitehaven っての、「ちゃう」方面でご存知の方がおられるかも?でございます。
Yes!あのエルヴィスが 1950 年代に土地を物色し、彼の Graceland を作ったのがこの Whitehaven なんですねえ。
Memphis のすぐ西に位置し、現在じゃあ国際空港もある場所となっておりますが、彼が生まれた当時は Memphis 郊外の農村地帯だったようです。

その後、どのような成長過程を経て来たものか、そこらの資料がどーやら欠落してるようなのでさっぱり判りませんが、1920 年代には既に Memphis の街頭や周辺の町でのパーティなどで演奏をしていたらしく、そのレパートリィはかなり広範囲にわたるもので、19 世紀の、いわば Pre-Blues 期の楽曲から、さらには白人の聴衆のためのストックも持ち合わせていた、とされています。
Dan Sane**のギターとともに活動する the Beale Street Sheiks は時にフィドルの Will Batts***も加えて Paramount と Victor に(ソロでのものを含めると) 38 曲を録音しています。

**Dan Sane─ 1904, JAN.24 - 1956, FEB.18、Mississippi 州で生まれています(資料によってはその生地を Michigan、としているものがありましたが、州名ではなくミシシッピー州内の地名とゆーのなら、どーも「見つかりません」。なんかのマチガイじゃあ?って気がしますが「似た」地名も無さそうなんで「?」でございます。さらに誕生日・出生地については次のとこで述べる疑問が・・・)ただ 1920 年代には Memphis に出てきたらしく、当初はフィドルの Will Batts のストリング・バンドで演奏をするうち Frank Stokes と出会い、the Beale Street Sheiks として 1927 年に Paramount に録音し、さらに 1928 年には Victor にレコーディングを行っています。しかし 1929 年にはふたたび Paramount に戻っています。
1952 年にリタイアするまで Stokes と一緒に演奏していました。 Memphis で死亡しています。
***Will Batts─さて、困ったことに、生年月日に出生地まで、上の Dan Sane と同じデータが記されております!つまりどっちかのデータが両方に使われてるんでしょうねえ。つまり、どっちもアヤしい、ってこと。
ただし、死んだ日は違ってて、1954 年 4 月 16 日となっていますが・・・
それはともかく、彼は父のストリング・バンドで 9 才の時から演奏をしていたそうで、フィドル以外にもギターとマンドリンも演奏できたようです。
1919 年には Memphis に移り、別な仕事を持ちながら Jack Kelly****のジャグ・バンドに参加し、1929 年の Frank Stokes の Paramount でのレコーディングにも参加しています。また前述の Jack Kelly の South Memphis Jug Band で活動していましたが 1933 年には ARC にレコーディング、1934 年には自分のバンドを率いています。
****Jack Kelly─ 1905 - 1960、Little Buddy Doyle の Okeh への吹き込みに参加したギタリスト&ピアニスト。 Jack Kelly's Jug Busters を結成し、後には South Memphis Jug Band のリーダーとなり、そのメンバーには Will Batts、そしてたぶん Dan Sane もいたものと思われます。
ピアニストとしての仕事は Jackie Boy 名義で Joe Hill Louis との吹き込みがあります。また、Memphis 時代の Eddie Taylor とも接触があったとされています。

さて、ゴタク(?)はともかく、この the Beale Street Sheiks、プリミティヴ、と言えないこともないのですが、さすが現場でもまれてきただけあって、それなりの完成度を見せてますよね。おそらく Dan Sane のトーク(?)は街頭では聴衆をからかったり、リアクションをいじったり、縦横に活躍していたんじゃないでしょか?ある種、話芸的な要素も街頭パフォーマンスではパワーを発揮したのでは?と思っています。そー捉えると、「ラップの始祖」なんてゆーのもあながちホラと言えないのかもねん。
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# by blues-data | 2005-09-02 18:58
Barkin' Bill Smith
Bill Smith(うう、Barkin' が無いと、メッチャ地味な、ホントにドコにでもありそな名前なのねん。Bill って William の愛称でしたっけか?遠い記憶の彼方に、なんだかそんなふーなことが見え隠れしてるんだけど、さだかではございません)は 1928 年 8 月18日、Mississippi 州 Cleveland で生まれております。最終的に( 1958 年とされる)は Chicago の West-side のバー(あ、これは修辞的ヒョーゲンでございまして、言葉どおりにとっちゃダメざんす)に辿り着くのでございますが、それ以前、1940 年代あたりに St. Louis でもいささか定住しておったようで、その縁で St. Louis Blues And Jazz Hall Of Fame にもミゴト殿堂入りをはたしております。また一部の資料では Chicago の前に Detroit にもいた、となっておりますが、元々あまりしっかりした Biography も無いようなので、確認いたしておりません。

ひとによっては彼のブルースに Percy MayfieldBig Joe Turner の影響を視たりもしているようですが、むしろ Chicago での行動範囲から Homesick JamesOtis Rush との関連をメインとする見方もあるようです。
先日、某板でも話題になっておりましたが、ブルースマン相互の影響の与え(&受け)合いってのはかなりなものがあったようで、それが「あの曲はホントは俺が作ったんだ」とか、「いや、君たちは俺がパクったと言うけど、どっちが先ってことじゃあないんだよ」みたいな「オリジナル神話(?)」の混乱を招いておるようです。
で、普通なら本人の証言ってのがイチバン信憑性がありそうなもんですが、どっこい、ことブルースマンに限っちゃあ、本人の記憶自体が「経年変化」によって都合よく「歪曲」されちゃう、なんてのがザラでございますからねー。本人が言うんだからマチガイ無い、なんてスタンスでは真相から遠ざかる一方、なんてことになりかねません。

その Barkin' Bill Smith ですが 1994年の彼自身のブレイク・スルーともなったアルバム『Gotcha 』レコーディングの後、膵臓ガンと診断され、彼を慕う、あるいは彼と親しくしていたブルースマンたちが、その闘病生活を支えるために 2000 年 2 月 6 日に Chicago の Buddy Guy's Legends においてチャリティのブルース・ショーを開催し、それに賛同して参加したミュージシャンってのがスゴい!Nick Moss & Fliptops、Rockin' Johnny Band、Joe Moss Band、Billy Flynn、Willie Kent、そしてとーぜん Buddy Guy、Willie 'Big Eyes' Smith、Eddie Taylor Jr.、James Wheeler、Ronnie Baker Brooks、Little Arthur Duncan、Frank Bang、Rob Stone、the Mighty Blue Kings の Jerry と Gareth、Twist Turner、Tail Dragger、Barrelhouse Chuck、Harlan Terson、Dave Clark、Donny Nichilo、Scott Dirks、Mike Sharf、Wailin' Walter、Dave Rice、Steve Cushing、Harmonica Todd、Larry Taylor、Giles Corey、Daryl Coutts、Dan Bellini、Armando Cortez、Mark Fornek、John Brumback、Elmo Bliss、Mr. H、Dave Katzman、Mike Bourne、Joe Campagna、Dave Gonzalas、Moonshine Kate・・・この時の収益は Delmark の Doug Engle ( alt. Engel )がとりまとめて彼の治療費として活用されたのですが、その協力もむなしく 2000 年の 4 月24日、Barkin' Bill Smith は還らぬひととなってしまいました。
それにしても、これだけのミュージシャンを集めた彼の「人望」、凄いですね。





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# by blues-data | 2005-09-02 17:07

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