Barbecue Bob
Barbecue Bob、本名 Robert Hicks は 1902 年の 9 月11日に Georgia 州 Walton County の Walnut Grove で生まれました。そしてまだ幼い時期に小作農だった両親と Newton County に移っています。彼には二つ上の兄、Charlie*がおり、その兄を真似て彼もギターを習いはじめます。
しかし、両親ともに音楽には縁がなく、ケッキョク彼らは Savannah "Dip'' Weaver からギターのレッスンを受けることになったのですが、彼女こそ Curley Weaver**(James Weaver, 1906 -1962)の母親でした。そこで教わるうちに年も近い Charlie、Robert、そして James の三人はすぐに仲良くなり、一緒に練習するようになったのは当然のことでしょう。彼らと親しかった、とされる Snap Hill によれば、この時期に Hicks 兄弟は 6 弦のギターから12弦に移ったのだそうです。

*Charley Hicks: 別名 'Laughing' Charlie、あるいは Charlie Lincoln は 1900 年 3 月11日生まれ。1923 年には Atlanta に移っています。彼はそこで結婚して家庭を築き、仕事も鋳造関係からベーカリー、最後は塗装会社に職を得て着実に生活していたようです(しかし弟の Robert とは違って、さほど社交的ではなかった、とも言われており、なのに「 Laughing 」という名がついたのはどーしてなんでしょね?)
一緒にギターを練習した James Weaver に弟の Robert、さらにそれに Eddie Mappe***を加えて、the Georgia Cotton Pickers の名で Atlanta 周辺で演奏活動をしています。1963 年 9 月28日死亡。

**James Weaver: Curley Weaver として有名。1906 -1962。別名は「 Georgia Guitar Wizard 」。1920 年代からレコーディングを始め、ジョージア・ブルースでは良く知られる名前となっています。
母の Savanah Shepard(後に結婚して Weaver となるのか、その辺は不明です)はゴスペル系のミュージシャンであったようですが、彼は(及び一緒にギターを習った Hicks 兄弟も)ブルースへの道を歩むこととなりました。Hicks 兄弟や次の Eddie Mappe***とも演奏活動を行っています。
彼は 1950 年代末に視力を失ったために活動を停止し、1962 年にこの世を去りました。

***Eddie Mappe 1911-1931。Georgia 州 Walton County の Social Circle の出身と思われるハープ奏者。彼が 1922 年に Newton 郡に移ってくる以前のことについては殆ど判っていません。James "Curley" Weaver とふたりでダンス・パーティなどで演奏したり、ときには Hicks 兄弟も一緒に演奏もしています。
彼は Newton 郡では最高のハーモニカ奏者と言われていたようです。ところで、Hicks 兄弟の兄、Charlie が Lincoln 姓を名乗っている件について、この Eddie Mappe の母の旧姓だった、とする資料がありますが、だとしても、ナゼそれを名乗っているのか、は「?」ですね。
Eddie Mappe は Document に残った Barbecue Bob のバックで聴くことが出来ます(『Georgia Blues 1928-1933 』 DOCD-5110 )。1931 年の11月14日、彼は Houston と Butler(ともに「通り」の名前・・・のハズ)の角で死んでいるのが発見されました。死亡診断書では彼の左手首の動脈が切れていた、とされていますが、Piano Red は「ガール・フレンドに心臓を刺されたと聞いた」と言っているそうです。いずれにしても Barbecue Bob の死からほぼ 2ヶ月後の突然の「死」で、弟ばかりか、この Eddie Mappe をも失った Charlie Lincoln がショックから音楽を捨ててしまうのもムリはなかったんでしょうね。

1923 年に Atlanta に移った兄の Charlie を追って Robert も1924年には Atlanta に移り、職につくのですが、兄と違ってキラクなタチだったとみえて、あまり将来のコトなど考えず、稼いだカネはスグ使い切るような生活を送っていたようです。
上の注釈で挙げたメンメンとアトランタ周辺で演奏活動をするうち、1927 年には Columbia Records のスカウト・マン Dan Hornsby に見出され、5 月に Atlanta で録音したのですが、丁度その時に働いていた Tidwell's Barbecue を「売り」にしよう、ということでシェフの白衣を着せて Barbecue Bob の名前で出したところ、そこそこヒットし、その後、ニューヨークまで出向いて吹き込んだりもしています。
有名な作品としては「Motherless Chile Blues 」など。そして、ヒットを出したことによるヨロク(?)か、彼は兄の 'Laughing' Charlie Lincoln、Curley Weaver、Eddie Mappe の吹き込みを誘い、さらには、若いギタリスト Buddy Moss(1906 or 1914-1984 )が引き続き録音されることになる状況をリードした、と言えるでしょう。

しかし大恐慌がレコード業界を直撃し、状況は暗転します。彼の最後の録音は 1930 年12月のものとなりました。
翌 1931 年の10月21日、Georgia 州 Lithonia でインフルエンザに起因すると思われる肺炎で死亡しています。29 才という若さでの死でしたが、その 2ヶ月後には Eddie Mappe が、1年後には彼の妻が、さらに 2 年後には母も死んで、これじゃ兄の Charlie もヤル気を無くすのも無理はないでしょね。
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# by blues-data | 2005-09-02 16:59
Auburn "Pat" Hare
Auburn "Pat" Hareは 1930 年12月20日、Arkansas 州 Cherry Valley で生まれています。
Cherry Valley はむしろ Tennesse 州 Memphis に近く、ほぼ 10時の方向に 80km ほどの地点にあり、そこから Arkansas 州の Little Rock までは 8 時の方角に 160km ほどもあります。
しかも Cherry Valley を南北に貫く鉄道は、南の Wynne 経由で Memphis までつながっていますから、商業的にも、文化的にも Memphis 圏であった、と言えるでしょう。
ただ、その人口は 2000 年度の国勢調査ではわずか 704人(!)でした。

すぐ間近に「光り輝く」 Memphis があったワケですから、彼がこの都会でブルース・ミュージシャンとして身を立てよう、と 10代にして決心していた、というのも無理のないことでございます。
1940 年代後半のウルフの「エレクトリック化された」サウンドを支えたメンバーのひとりとしてスタートを切った彼の存在は、1950 年代には Memphis において、すでにかなりのプレゼンスを持っていたようです。
例えば Junior Parker が 1951 年に作ったとされる彼のバンド the Blue Flames にも名を連ね、またウルフのバンドでもサポートをしていたようですが、なんと言っても彼のギターが注目を(ま、当時よりは、後になってから、と言うべきでしょうが)浴びるようになったのは、あの Sam Phillips の Sun で行われた James Cotton のバッキングからではないでしょうか。

このときの Sun 199 My Baby / Straighten Out Baby 、そして同じく Sun 206 Cotton Crop Blues / Hold Me In Your Arms での彼のギターは、かなり小型の Sears-Roebuck(たぶんアメリカ最大の通販業者。いちおう Sears ブランドの楽器もあるがモチロン OEM。安物の代名詞?)のチャチなギター・アンプのヴォリュームを最大にしたことで、当時としては「あり得ない」ほどに歪んでおり、およそディストーション・ギター・サウンドの「元祖だ!」なんて言うひともいるくらいです。
ところで彼自身をメインとした録音は 1954 年の 5 月に行われており、それは Sun 997 Bonus Pay と、そして後々に物議を醸すこととなる運命の曲(?) I'm Gonna Murder My Baby でございました。

周囲の証言を集めてみると、だいたいが Pat Hare を飾らない、もの静かな人物だった、と評しているようです。「・・・ただし呑んでないときは、ね」というのが付くとこがモンダイなワケでして、酒のせいで何度もステージに穴を開け、ま、おかげで Hubert Sumlin という素晴らしい才能がデビューすることも出来たのですが。
やがて Sam Phillips の関心がブルースから白人ミュージシャンの演奏する「ろけんろー」に移っていってしまったあたりからは主に Junior Parker と行動をともにしていたようです( 1954〜1955)。
また 1956 年には、そこに Bobby "Blue" Bland も加えて南部を回るツアーにも参加し、そこでの彼のギターがまたさらにめざましいものがあったらしく、そのままスタジオでのレコーディングへと流れていきました。
そのときに生まれたのが 1957年 5月の Farther On Up the Road DUKE です。

1950 年代の末には Chicago に出てマディのレギュラー・メンバーの地位を獲得するにいたりました。しかし、例の酒癖の悪さなどから追放され、そこで Mojo Buford とともに Minneapolis で活動をしていた、とされます。
1962 年のある日、警察に通報があり、Pat Hare の家で暴力沙汰が起きている、とのことで駆けつけた警察が踏み込んだところ、そこには Pat Hare に撃たれて絶命した彼のガール・フレンドの遺体があったのです。
しかも、さらに悪いことに、そこに踏み込まれたことで逆上した Pat Hare は警察にも発泡し、警官ひとりを死なせてしまったのでした。
1964 年、終身刑を宣告された Auburn Pat Hare は Minneapolis Jail に収監され、1980 年にはガンによって死亡しています。
まさに I'm Gonna Murder My Baby という予言を真実にしてしまったような人生・・・

と言いたいとこでしょうが、実際はどうなんでしょうね?
単に脅すだけだったハズが誤って弾丸が発射されてしまったのでは?
とか、イロイロ考えてみたりもしますが、なんたってそれだけじゃなく、逆上のあまりかもしんないけど警官まで射殺しちゃっちゃあ「終身刑」もしかたない、ってとこでしょ。
別に人を殺した、ってだけならブルース界ではザラだし(ホントか?)死にゃしなかったけど発砲して当たっちゃった!なんてのも Hound Dog Taylor なんてのがいますからねえ。


reserched by Othum: Blues After Dark


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# by blues-data | 2005-09-02 16:57
Arthur Gunter
Arthur Gunter は1926 年の 5 月23日に Tennesse 州 Nashville で生まれています。
ってとこまではいいけど、その先の詳細な情報が記載された資料が見当たりません。
いつもなら叔父さんにもらったギターだのラジオから流れて来たサニー・ボーイを聴いて・・・ なんつーエピソードのひとつやふたつ出てきて、ま、不完全ながらもあるてーど、そのブルースマンの方向性みたいなもんが感じられたりするんですが、そのヘンがキリの中でございます。
ただし EXCELLO のライナーノーツには、幼少の頃から兄弟や従兄弟(これが日本でいう親の兄弟姉妹の子供、という意味よりはもっと広い範囲で使われているようなので要注意ですが)とともに Gunter Brothers Quartet というゴスペル・グループのメンバーであった、という記載はあるようです。

1950 年代に入ってから、Ernie Young( Ernest Lafayette Young は 1892 年の12月 2日、Tennesse 州の Giles County で生まれています。つまり Arthur Gunter の 34 才年上ですね。1951 年の 8 月に Nashboro Records を設立していますが、1952 年の 8 月には、その下に Excello を発足させています。どちらも 177-793rd Avenue.North の通信販売で業績を伸ばしてきた Ernie's Record Mart に併設されていました。Excello の記録した最初のヒットこそ、この Arthur Gunter がピアニスト Skippy Brooks & Kid King's Combo とともに吹き込んだ「 Baby, Let's Play House 」で、1955 年1月29日に R&B チャートに登場し最高12位まで登りつめています。ついでながら同日登場した B.B.の「 Everyday I Have The Blues 」は最高 8 位にまで達しました。Arthur Gunter の「 Baby, Let's Play House 」は、その後エルヴィスにカヴァーされたことで有名になりますが、本来、Eddy Arnold のナンバー「 I Wanna Play House With You 」へのアンサー・ソングでした。また、その 1955 年からは、Louisiana 州 Crowley の Jay D. Miller と手を結び、一連の有名なセッションをリリースすることとなります。しかし 1966 年、Ernie Young は彼のもとで働いていたゴスペルのプロデューサーだった Shannon F. Williams に Excello を売却しました。1977 年の 6 月 8 日、Tennesse 州 Nashville の自宅で、彼は妻と二人の兄弟、そして一人の継子、Mississippi 州 Jackson の Glenn H. Massey を残して亡くなっています)と知り合い、Excello でセッションに参加したりしていたようです。
1954 年には彼がかって在籍していた、とも言われる Kid King's Combo とともに吹き込んだ「 Baby, Let's Play House 」が Excello にとって「初の」ヒットとなります。それとほぼ同時期に吹き込まれた(?)のが「 She's Mine, All Mine 」とゆーことになりますが、1954 年とあるだけで、何月ころかクレジットが無いんで「同時期」と決めつけるのはモンダイあるかも。

実はこの Arthur Gunter、ここでたびたび採り上げている 1973 Ann Arbor Blues & Jazz Festival にも、Eddie Burns と殆ど同じ(つーことは、例の Mack Collins の The Partymakers Incorporated ね)バッキング・メンバーで出演し、「往年」の大ヒット、「 Baby, Let's Play House 」を演奏しておりますのじゃ。

しかし、その 3 年後、1976 年の 3 月16日、34 才も年上だった Ernie Young に先立つこと 1年 3ヶ月、Michigan 州の Port Huron で、わずか 49 才の若さで死亡したのです。
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# by blues-data | 2005-09-02 16:53
Albert King
Albert King、本名 Albert Nelson が生まれたのは1923 年( alt.1924 )の 4 月25日、ミシシッピー州の Indianola です。・・・といつもなら始めちゃうとこなんですが、こと Albert King に関しては、あまたの紹介がなされており、いまさらワタクシなんぞが付け加えられるよなエピソードなんてのももはやございませんでしょうから、今回は年表形式にでもしてみましょっか?

1923( alt.1924 )4 月25( alt.23 )日、ミシシッピー州 Indianola で、教会のシンガーだった母から13人の子供たちのひとりとして生まれる。ただし同居していた、歌う他にギターも弾いたという巡回牧師の Will Nelson とは血縁のない継子になる。 Indianola は後に B.B.も暮らしたこともあるデルタ地帯の小村。
1929? それまでのホウキの柄に弦を張った 1弦ギターからシガー・ボックス・ギターに。
1931 一家はアーカンソー州の Osceola に移ったようで、そこの農園で育っています。継父が教会で弾くギターを聴き、Blind Lemon JeffersonLonnie Johnson のレコードからも影響を受けて自作ギターで練習していたようです。
1941( alt.1942 )彼にとって最初のホンモノのギターを 1$ 25c で友人から譲り受ける。たぶん、その弦を張り替える、なんてコトをしてないと思うんで、彼の右利き用の弦のセッティングをそのまま使うスタイルはここで「決定的」になったんじゃないかと・・・
1940's アーカンソー州 West Memphis で時おり見掛ける Robert NighthawkElmore James に魅了される。また、このころの彼は建設工事現場でのブルドーザーの運転手をしてたのですが、1940 年代の末期あたりに、St.Louis 経由でインディアナ州の Gary に移っています。そこでは Jimmy ReedJohn Brim とも共演したそうです。(それはシカゴに来てからだ、とする説もあります。また、Gary に移る前に、Yancy's Band ってのと the Groove Boys ってバンドで活動していた、とする資料あり)
1953 Chicago に出て来て、Al Benson の Parrot label に「Walking From Door to Door」b/w「Lonesome in My Bed」と、「Bad Luck Blues」b/w「Be On Your Merry Way」を吹き込み、後者はこの年リリースされてそこそこは売れたようだけど、彼に廻ってきたおカネは「ちょっぴり」だけだったみたいです( 14$!)。それでアタマに来たのか、Parrot には「お別れ」
1956 St.Louis に戻る。当時のセント・ルイスはブルースが盛んで、Ike TurnerLittle Milton と人気を争ったそうです。Bobbin と King labels と契約し吹き込みを開始。
このセント・ルイスで Gibson Flying V を使い始めてるよーですが、そのギターを「Lucy」と命名しております。彼のギターのチューニングは、かなり変わってて、太いほーから細いほーに向かって、C-F-C-F-A-D ってえセッティングです。ゲージは細いほーから「.009-.012-.024-.028w-.038w-.050w」でございます。
ルーシーじゃないほは Gibson Flying V' 58 Korina body ね(なんて、そゆヘンな情報はあるのに、正確にはいつからフライング V を、どゆいきさつで使い始めたのか?っちゅーキホンテキな情報は見当たらないのねん。フライング V のプロト・タイプが出たのが1957 年ですから、それ以降にゃ決まってるんですが。また「ルーシー」はもっと後に Dan Erlewine によるカスタムだ、っちゅう説もあります)。ついでながらアンプはってえと Acoustic( solid state )と Roland JC-120 だそうですよん。
1959-1962 R&B チャートで 14 位まで上った「Don't Throw Your Love on Me So Strong(1961)」を含む数々のシングルがリリースされます。
196? ジャズ・シンガーの Leo Gooden のレーベル Coun-Tree に入りますが、アルバート・キングにばかり注目が集まるのを妬んだ Leo に追い出される。
1966 Memphis に移り、「成り上がり」の Stax と契約。ここで彼はハウス・バンド、Booker T & The MG's のバッキングを得て「Laundromat Blues」を始めとする数々のナンバーを送り出す。
1967 Tommy McClennan のナンバーをアレンジした「Crosscut Saw」、それに「Born Under A Bad Sign」をリリース。さらにシングルをまとめた彼の初 LP「Born Under a Bad Sign」が Stax からリリースされる。また、この中には「As The Years Go Passing By」が収録されていますが、クラプトンは「レイラ」の特徴的なリフをこの曲からストレートに「いただいた」コトを認めました。
1968 2 月1日、サン・フランシスコの新しいホール、The Fillmore Auditorium のオープニングに Jimi Hendrix、メイオールとともに出演。同年、もいちどライヴを行い、その模様を収録。そして「Live Wire/Blues Power」が発売される!
なお、この時のライヴの別の曜日の録音が後年(1990 年代になってから) 2 枚発売されてます。
1969 なんでか St. Louis Symphony というオーケストラと共演(!)で、おそらくこの年、Othum は、初めてホンモノのブルースのレコードとして「Blues Power」のシングルを買い、ショーゲキを受ける。Hank Marvin から Albert King へ、の一大転換が訪れたのでありますよ。
1974 Stax の経営難→倒産により、彼は以後 Tomato、Utopia などと変わって行く。これ以降ファンク系のビートやニューオーリンズ系のテイストを採り入れて、それなりに存在感のあるアルバムを出したりしてますが、1980 年代に入ると健康面に陰りがあって、以前ほど活動は出来なくなります。
1983 には Stax を買収した Fantasy label と契約、以後グラミー賞候補となったり、「殿堂」入りもはたす。
1992 12月19日、Los Angels でのコンサートの 2 日後にメンフィスの自宅で心臓発作で死亡しました。彼の葬儀のあと、遺体は伝統的なニューオーリンズ・スタイルの Memphis Horns による「When The Saints Go Marching In」の演奏に守られて偉大なるミシシッピー川を渡り、彼が子供時代を過ごした場所にほど近いアーカンソー州 Edmondson の the Paradise Gardens Cemetery に葬られたのでした。



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# by blues-data | 2005-09-02 16:47
Albert Collins
Albert Collins は1932 年10月1日(alt.3日)、Texas 州の Leona で小作人の家庭に生まれました(一部の資料では Houston で生まれた、としているものもあります。したがって、後に彼は Houston に「戻った」と・・・)。父の名は Andy Thomas である、としている資料もあります。一説では、Lightnin' Hopkins のいとこだ、と(ま、親戚くらいのとこじゃないかと思うのですが)。
その後、一家は 1941 年に Houston に移ったらしいのですが、その前、1939 年に Marquez という小さな街( Leona から HYWY 45 を 10km ほど北上した Centerville から、こんどは西に州道 7号線を約 30km ほど行ったところにある Missouri Pacific Railroad が通っている街。Houston から北北西に 200km ほど。Leona のほうが Houston には近い。ある資料では Marquez の人口を、1925 年には 700人に達したが、1950 年にかけて減り続け、381人になってしまった、としております)に移っている、とした資料もあるのですが、確認できておりません。
1941年( alt.1939 )には Houston の黒人ゲットーに移り、学校で習ったこともあってピアノとオルガンを弾くようになったらしいのですが、18才の時にそのピアノが盗まれてしまい、以来ギターに専念したもののようです。それでも、その時代の名残か、オルガン奏者の Jimmy McGriff* を Favorite Artist として挙げており、自分の演奏でもオルガンをバックに入れることを好んでますねえ。
この時代、彼は "In Texas, I was raised up around those kind of sax players like Illinois Jacquet. Down there there's blues and jazz and R&B. I had a choice to make when I started out, so I decided to play blues."(テキサス時代、俺は Illinois Jacquet のようなサックス・プレイヤーに囲まれて育ってるけど、ジャズ、ブルース、R&B のどれかを選ぶってときに、ブルースをとったのさ)だそうでございます。

*James Herrell。1936.4.3, Pennsylvania 州 Philadelphia 生まれ。 piano、bass、vibes、drums に Saxophone まで演奏する。彼自身は "I'm a blues organ player. That's really what I feel. They're always classifying me as a jazz organist, but I think of myself primarily as a blues organist."と答えています。2年間の朝鮮戦争での憲兵時代の後、まずベーシストとして Big Maybelle のバックを務めたりもしていますが、ここで警察機構を離れ、Philadelphia の Combe College、そして New York の Juilliard School of Music でオルガンを学び始めます。さらに有名な Jimmy Smith や Richard "Groove" Holmes、Milt Buckner、そして Sonny Gatewood などにも私淑して、1962 年には「 I Got A Woman (Sue Records)」でオルガン・デビューし、以後「ソウル・ジャズ・オルガンのプリンス」てな扱いを受けることになります(で、キングは、モチロン Jimmy Smith ねん)。他にも"All About My Girl"などのヒットあり。


その彼のギターのスタイルはいとこの Willow Young によるところが大きいようで、マイナーのオープンチューニングもそこかららしいです(ただし、その際、Dm オープンであるとか、Em オープンだ、とか、Fm オープンで、F-C-F-G#-C-F である、とか諸説あって困っちゃうんですが、最近は Fm にまとまって来てるのかな?)。ただカポタストは Gatemouth のを見てから、だそうです(彼と Gatemouth はカポタストを「Choker 」と呼んでいます)。
15才のときに地元のブルース・クラブで Clarence Gatemouth Brown と共演したそうですが、1952 年には自分のバンド the Rhythm Rockers( alt.1949-1951 )を結成。また Piney Brown* のバンドにも 3 年間加わっています。21才になるころにはもうセッションマンとして成功していたようで、Little Richard や Big Mama Thornton のバッキングもやっています。

*1950年 Apollo から「 How About Rockin' With Me 」、また1952年には Atlas から「 You Made Me This Way (Atlas 1023)」を、Charlie Singleton Records からは「 Good Aire / My Song 」を出して、サックスによるインストルメンタルとして同レコードの方向を決めるよなヒットとなっている。


1958 年には自己名義の最初の作品『The Freeze』を Houston の Kangaroo と Hall-Way Label からリリースし、ここでAlbert Collins のキャラ(?)が固定した、と考えてもいいでしょう。彼の Fender TELECASTER(フロントにはハムバッキング、律儀にブリッジ・カヴァーはかぶせたまま。あちこちには反射シール!)、バタースカッチ・ブロンドにメイプル・ネックは(彼自身によれば) Fender QUAD Reverb につながれ、TREBLE & MID がフル 10!BASS はゼロ!Reverb は 4、というセッティングが、「Icy」サウンドの証!(別名「Cool Sound」)

個人的な好みで言えば、1968 年に Canned Heat の Bob Hite によって「連れ込まれ」た Imperial での録音や、Eagles のプロデューサーとして知られる Bill Szymcyzk の Tumbleweed label での録音(やはり Joe Walsh もプロデュースで一枚噛んでいるのねん)より、その後の一連の Alligator でのアルバム(『Ice Pickin'』 1978、『Frostbite』 1980、『Frozen Alive』 1981)のほーが必需品だなあ。この Alligator での吹き込みでは、妻の Gwen Collins や友人からのススメで、マジでヴォーカルにも取り組み、「歌も」良くなった、なんて言われてますが、ワタシはもともと彼のヴォーカルがダメだ、なんて思ったことがないので(だってワタシより、ちゃんとブルース歌ってますからねえ)歌がウマくなった、なんてことより、そのサウンドのクォリティが「いい」のでございます。

Austin City Limits の 2 年後、1993 年11月24日、Nevada 州の Las Vegas で死亡してしまいました。





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# by blues-data | 2005-09-02 16:32

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