Odie Payne
Odie Payneが生まれたのは 1926年 8月27日の Chicagoでした。
子供のころから音楽に興味を持ち、手に入るものならばクラシックだろうがミュージカルだろうが、なんでも聴いていたようで、10代ともなると、ドラマーの実際のプレイを見るために、よくクラブにも忍び込んでいたそうです。
高校では音楽を学び、その後すぐ陸軍に入りました。
除隊してからは Roy C. Knappのパーカッション・スクールに入り、ドラムを本格的にマスターしています。
1949年、ピアニストの Little Johnny Jonesと演奏していたところを Tampa Redに認められ、彼のバック・バンドに参加することとなりました。
1952年の11月には Chicagoの Universal Studioで Joe Bihariによる Elmore Jamesのレコーディングに参加。
ここではすでに「あの」メンツが揃ってますねえ。つまり J. T. Brownのサックス、Johnny Jonesのピアノ、Ransom Knowlingのベースに Odie Payneのドラムからなる元祖・純正・本家(?)the Broomdustersでございます。
この有名なグループは、名前こそ同じでも、実態はかなりのヴァリエーションがあるのですが、この Odie Payneはその中でももっとも Elmore Jamesとの付き合いが多く、その関わったトラックは 30を超えます。

当然、彼の存在はシカゴのブルース・シーンにあってかなり重要なものとなり、Elmore James以外にも 1950年代後半には Otis Rushや Magic Sam、さらには Buddy Guyなどの罰金具に参加しました。
そして Chuck Berry、Sonny Boy Williamson II、Muddy Waters、Jimmy Rogers、Eddie Taylor(特に 1977年には Louis & Dave Myersとともに Eddie Taylorのバックとして来日し、ここ弘前市にまで訪れております)と言ったシカゴの一時代を築いたブルースマンのリズムを支え、それ以降のシカゴのバンド・スタイルにおけるドラムの位置づけを確定した、とも言えるでしょう。
基本的には Peck Curtisなどのルーラルなリズムとは異なり、あくまでも都会的な、ルーツをジャズ系の「軽い」ドラミングにおいたような「華やかさ」もあって、事実、ジャズのコンボとの録音も存在するハズです。
音的にはかなりハイ・スピードのキックがよく云々されますが、一般的な印象としては「うわもの」— スネア(のロール)やライド・シンバルの効果的な使用など、軽い音域に味があったように思います。

実際に 1977年に目の前で見た Odie Payneは、あまり気難しいところが無さそうな気さくなオッサン、という印象でしたが、シカゴでも彼は多くのひとから愛され、それもあって数々のレコーディングに顔を出した、という部分もあったのかもしれません。
1989年 3月 1日、Chicagoで死亡しました。


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# by blues-data | 2006-02-12 18:55
Yank Rachell
James "Yank" Rachellは 1910年 3月16日に Tennessee州 Brownsville郊外の農場で暮らしていた George Rachellと Lula Taylorの間に生まれました。

彼がまだ 8才の時に母は仔豚を渡し、育てるように、と言いつけたそうですが、近所の住人が自宅の前で弾いていたマンドリンに魅せられてしまった Yank Rachelはどうしてもそれが欲しくなり、かといって持ち主の言う「 5ドル出すんなら譲ってもいいよ」の条件に応えられるワケもなく、結局、飼育を任されていた件の仔豚と「引き換え」にマンドリンを手に入れたのでした。マンドリンを手に家に帰った彼は、それを知った母が取り乱すサマに驚いた、といいます。
しばし嘆き騒いだ後で「今度の秋には家族みんなで豚肉のご馳走を食べるけど、あんたはマンドリンを食べなさい」とはまた気が利いてますね。
そうまでして手にいれたマンドリンですが、元々マンドリンはアパラチア系や、ヒルビリー系など、ヨーロッパ周辺諸域の白人の民俗音楽とのほうが親和性があり、黒人でのプレイヤーは稀でしたから、とうぜん彼にその弾き方を教えてくれるようなひともおらず、もっぱら独学で「つまびいて」おったもののようです。
しかし、遂に一筋の光明が!(あれ?「光明」に一筋はヘンか?)それは 7月20日の日記でも採り上げた Hambone Willie Newbernでした( 1929年に「Rollin' and Tumblin' 」を初めて録音した、つまり録音として残した最初のブルースマンという意味であり、彼が作ったかどうかは別のモンダイ。Hambone Willie Newbernは、1899年に、ミシシッピ州、あるいはアーカンソー州あたりで生まれたのではないか?と言われていますが、名が知られるようになった頃にはテネシー州 Brownsville周辺にいたようです。よろしかったらおヒマなおりなんぞに 7月20日付の日記もご参照くださいませ)
Hambone Willie NewbernはYank Rachelにマンドリンを教えてくれて、彼に欠けていたマンドリンに関する知識なども教えてくれたようです。以来、彼らは連れ立って Brownsville周辺のハウス・パーティなどで演奏もしたようですね。


続いて知りあったのが、これも当時 Brownsvilleにいた Sleepy John Estesで、こちらともツルんで演奏したり、一緒に遊んだりもしたようで、その友情は 1977年の Eatesの死まで続きました(あの Hammie Nixonと知りあったのもこの時期と言われています。その後 Estesと Hammie Nixonはコンビで第1回のブルース・フェスティヴァルのために日本にまで来るワケですが)。
彼らはジャグ・バンドのようなカタチをとって Tennesseeから南部諸州にかけて、聴衆が白人であろうと黒人であろうと演奏してまわったようです。1920年代の中頃、このトリオ(つまり Yankに Estesそして Hammie Nixonね)は Memphisに河岸を変え、さらにパワー・アップして行きますが、やはりそれには Memphisという環境が寄与していたことでしょう。
Handy Parkを手始めに、後にはピアノの Jab Jonesと James "Yank" Rachel、John Estesのトリオで「 Three J's Jug Band」を結成し、クラブなどで演奏もするようになりました。

1929年、The Three Jsは Victorに吹き込むチャンスを掴んでいます。その時の「Broken-Hearted, Ragged and Dirty Too 」の出来が良かったので、すぐさま Victorは同年の 9月と10月に計 5曲を追加することとなりました。「Divin' Duck Blues 」をはじめ、それらのレコードはケッコウ売れたみたいで、さらに翌年の 5月にも録音するはこびとなったほどです。なお、この時の録音ではバックにハープの Noah Lewisが参加しています( Noah Lewisは1895.9.3、Tennessee州 Henning生まれ。Memphisに移り Gus Cannonの Cannon's Jug Stompersの一員となる。グループでは1927年の Paramountが初録音となる。後に「Going to Germany 」で脚光を浴びるものの「大恐慌」の波に飲み込まれてしまう。極度の貧困の中、1961年 2月 7日、凍傷から来る壊疽によって死亡した)


でも、この状態も大恐慌によって終り、( Estesは Chicagoに出て行き Deccaや Bluebirdへの吹き込みを続けますが) Yank Rachelは Brownsvilleに戻っています。農業をして、あるいは L&N Railroadで働き、数年を過ごしました。また、この間に彼は結婚して家庭も築いています。それでも、ちょっと小金が必要になった時など、近所のハウス・パーティなどで演奏して稼いだりはしてたようですが。

そして John Lee "Sonny Boy" Williamsonと一緒に演奏するようになったのも、この二人だと「稼ぎ」がいいからだったようです。"Sonny Boy"は Jacksonにいて、二人は週末ごとに Jacksonか Brownsvilleで演奏していたようですが、この二人は友人として、息も合っていたのではないでしょうか。1938年に一緒に Chicagoで Bluebirdに録音し、お互いの名義のレコードに、それぞれバッキングをつけています。
この二人の共演関係は 1948年の "Sonny Boy"の突然の死まで続きました。

ただし、この時期は Yank Rachelはまだ Brownsvilleにいて(後に、まず St.Louis、さらに Indianapolisまでは来ていた、という資料もありますが・・・)、録音の時に Chicagoに出てくる、という状態だったようです。というのも、彼には前述のとおり「家庭」があり、おまけに奥さんの健康が優れなかったため、あまり頻繁に家を空けられない、という事情があったようです。
その「連れあい」が 1961年、天に召されてからは、Indianapolisに居を移し、積極的に演奏に、またレコーディングに、と活動を開始したのでした。

後年、彼の古い友人である Sleepy John Estesが Brownsvilleで「生きている」のを再発見されるや、Yankはすぐに Estes & Hammie Nixonとのチームを再結成し、コーヒー・ハウスやコンサート、フェスティヴァルにも出演するようになって行きました。

一方で Yank Rachelはソロとしての活動もしており、遠くヨーロッパにまで足を伸ばしています。また1970年代には J.T.Adamsや Shirley Griffithとストリングス・バンドとしての活動や Blue Gooseなどへのレコーディングもしていますが、1977年の Estesの死に際し、彼の音楽への意欲はどうやら大きく削がれてしまったようで、その後も時おり演奏の場に出てくることはあったようですが、レコーディングも散発的になり、the Slippery Noodle Innの準レギュラーではあるものの、極まれにローカルなミュージシャンのアルバムに顔を出す程度となっていました。

「 James "Yank" Rachel、Indianapolis在住のブルースマン、1997年 4月 9日に死亡。87才でした」

え?マンドリンのことに殆ど触れてねえな、って?そら仕方おまへん。いかに雑食性のワタクシでもマンドリンについてのウンチクは持ち合わせとりませんのじゃ。 2本づつ 4組み、8本の弦で、って位は知ってますが、調弦は?なんて尋かれてもヴァイオリンと同じよな 5度上タイプなのか、はたまたギターみたいな 4度上なのかも判りません。かすか〜な記憶じゃヴァイオリン・タイプだったよな気もするけど(っつーか、ちょっとネットで調べりゃ判るんですがね。ま、だからキョーミあるひとは自分で調べてねん)、定かじゃないっす。


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# by blues-data | 2005-12-31 20:44
Wynonie Harris
Wynonie Harrisは 1913年(alt.1920) 8月24日に Nebraska州の Omahaで生まれているようなんですが、あまり詳しいことは判っていないようです。
ともかく、彼の音楽のキャリアは、まずダンサーとして始まった、と言われております。1935年には、Jim Bellの Harlem Clubでダンサーとして働き始め、そしてドラマーとしての役割もあったようですが、この頃、歌うことも始めていたようですね。
そして Chicagoの Rhumboogie Clubにおいて彼は Lucky Millinderオーケストラに雇い入れられます。その Lucky Millinder Orchestraで 1944年の 5月26日、彼は「Hurry Hurry / Who Threw The Whisky In The Well 」で初レコーディングを経験しました。

その「Who Threw The Whisky In The Well 」は翌 6月にはビルボードにチャート・インし、実に 20週にわたってチャートにあって、最高位は当然 1位を獲得しています。
その勢いで(?)彼は Millinderのもとを去り、1940年まで彼の住んでいた Los Angelesにあるレーベル、Philoと Apolloにソロとして吹き込むようになりました。
その Apolloからは「Wynonie Blues 」と「Playful Baby 」がリリースされ、短期間ながらチャートにも顔を出しています。ただ、商業的には充分とは言い難く、次には Hamp-Toneと Bullet(出たあ!予習した甲斐があったざんす・・・?)にも吹き込んでいますが、決定打とはなっておりません。
次に契約したのは Aladdin Recordsでしたが、1946年の11月には New Yorkに移っています。そして Aladdinに 2曲を吹き込んだ後、今度は King Recordsと契約し、その最初のレコーディングが 1947年12月13日に開始され、そこで録音された「Good Rockin' Tonight」は翌年の1月にかけて彼の二度目の R&Bナンバー・ワン・ヒットとなったのでした。そして、それはなんと 6月までチャートに居坐ったのでございますよ。
それに続く三枚目のナンバー・ワン・ヒットは「All She Wants To Do Is Rock 」でした。さらに「Grandma Plays the Numbers」、「I Feel That Old Age Coming On 」、「Drinkin' Wine Spo-Dee-O-Dee 」、「I Want My Fanny Brown 」などの、いずれもトップ・テン入りしたナンバーが生まれてゆきます。

これらの成功により、彼は自分の邸宅を郊外に持つまでになっていたようで、かなり稼いだんじゃないでしょか。
1950年には R&Bのパッケージ・ツアーに出るようになりました。これによってさらに知名度も獲得したのでしょうか「Sittin' On It All The Time」は 3位にまで上がっています。
1951年の 7月には T-Boneや Lowell Fulson、さらに Big Joe Turnerたちとのツアーを行い、またも「Bloodshot Eyes 」をチャートに送り込みました( 6位)。「Lovin' Machine」は彼の最後のチャート・イン・ナンバーとなった曲で 1952年の作品です。ここからはパッケージ・ツアーの日々が始まり(?)一度 Atcoにも吹き込みもしているのですが、そいつはどうやら行方不明らしく、どうなっちまったのかナゾでございます。
こうして彼はみるみる失速し、1956年には郊外の邸宅も差し押さえられ、その後の彼はバーのマネージャーなぞをして暮らしておったようですよ。しかし、1960年には Rouletteに「Bloodshot Eyes 」のリメイクも含み何曲か吹き込んでいるようですが、シングルが一枚だけリリースされただけだったそうです(それが「Bloodshot Eyes 」のリメイクかどうかは不明です)。

さらに 1964年 8月には Chicagoで Chessに最後の吹き込みをしましたが、それは彼が 1969年 6月14日に死を迎えるまで、おそらくリリースの予定も無かったのじゃないでしょうか?
Los Angelesの USC Medical Centerでの死でした。


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# by blues-data | 2005-12-31 20:36
Willie Mabon
Blues After Darkの HPの Voodoo Cafeでもチョロっと Screamin' Jay Hawkinsによる I Don't Knowを取り上げておりますが、もしかすっと、みなさまに一番の馴染みは案外ブルース・ブラザースのかもしれませんね。

あるいは現在来日中の James Cottonか?ま、ワタクシあたりは 1977年12月12日の Eddie Taylor Live In Hirosakiにおける Oddie Payne Jr.の快演が印象的だったのでございますが、それはみなさま聴いておられないでしょから(ねっ?)、言ってもせんないこと。

ただし、この曲、この Willie Mabonがオリジナル、と思っておられる方も多いでしょうが、実は 1938年(諸説あって 1937年とするものから 1939年まで)に Cripple Clarence Lofton*によって吹き込まれたものをソースとしてリメイクされたものなのです。それはその歌詞を見たらどなたにもナットクいただけるハズ。ま、著作権法に触れそうなんでここには抜粋たりとも載せませんが、興味がおありのかたは http://www.luckymojo.com/bluesidontknowlofton.htmlをご覧になってください。

*Cripple Clarence Lofton─1887年 3月28日 Tennesse州 Kingsport生まれ。"Cripple"という(肢体障害者を意味する)のは生まれついての(あるいは出産時の事情から、とも言われる)脚の障害だったらしいのですが、それでも、彼は素晴らしいタップ・ダンサーでもあったそうで、ピアノを弾きながら脚で「踊り」、唄い、M.C.もこなし、スタンダップ・ジョークまでこなしていた、という多才なプレイヤーでもあったようです。
おそらくテント・ショウで鍛えられたと思われる彼のワザは 1920年代のシカゴにおいて早くも知られるようになっており、1930年代には Big Appleという名の自身のクラブを持つまでになっていました。
1940年代には Gennettや Vocalionなどにもレコーディングをしていますが、ブギウギ・ブーム(?)の終焉とともに早めのリタイアを決め込んで、1957年 1月 9日に脳血栓で死亡するまで Chicagoで余生を送った、とされています。


ま、それはさておき、一応、この Willie Mabonの I Don't Knowがあったればこそ(?)愛唱歌として数々のミュージシャンにも採り上げられるようになったのも事実でして、1952年10月、Chicagoで Parrotに吹き込んだこの曲は、同年11月に Parrot 1050(カップリングはWorry Blues 。後に Collectable COL 034587として市場に出回っているものはカップリングが Willie Mabonではなく、the MarathonsのPeanut Butter 。なお、蛇足ついでに、同時に吹き込まれた Willie MabonのSee Me Cry L.A.の二曲は結局リリースされなかったようです)としてリリースされるや、たちまち R&Bチャートの 1位を獲得し、そこから実に15週にわたってチャートに居続ける大ヒットとなったのでした。

Willie James Mabonは 1925年の10月24日、Tennesse州 Hollywoodで生まれていますが、もちろん映画マニアが真っ先に連想するであろう、あのハリウッドではございません( Hollywoodって、たしかアメリカ国内に 40ヶ所ほどあって、かなり「ありふれた」地名みたいです)。始めはハープやギターもやってた、と言う説もありますが、手のケガ(ドアに挟まれたとか)のせいでギターをあきらめた、なんて、ギターは弾けないけどピアノは弾ける、っつーケガっちゅうのは、一体どんなものなのかちょっと想像できませんねえ。
ともあれ、16才ではそうとうピアノが弾けるようになっていたらしく、1942年、一家で Chicagoに移り、それからハープも吹くようになった、という説もありまして、そこらかなりな「差」でございますが、ま、とりあえずは彼の演奏活動上でさほど「ハープ」が重要な位置を占めているワケでもないんで、どっちでもいっか?・・・なんて言うとハーピストのみなさまからお叱りを受けるかも。


ところで 1942年といえば、まさに第二次世界大戦の真っ最中でございます。
Willie Mabonも海兵隊として二年間の兵役を送ったとされてるのですが、除隊したのが 1945年、としている資料がございますので、大戦末期をなんとか無事に乗り切ったもののようです。また、ハープを Chicago以降、とする説では、この海兵隊としての二年間、おそらく、もっとも手軽に持ち運んで、どこででもエクササイズできた唯一の楽器としてハープと親しんだのだ、という考察も「一理ある」とは申せましょう。
Chicagoに戻ってきた彼は 1947年にギターの Earl Dranes**とともに the Blues Rockersを結成し 1949年には初録音をしています。また彼は単独でも J.O.B.に吹き込んでいるようですが、そちらは Apolloからリリースされたようです(未聴)。

**Earl Dranes─通常ギターとして知られ、1954年 8月 9日に吹き込まれた James Banister and his Comboの一員として参加したりもしていますが( James Banisterはドラマーでかつグループ・リーダー&ヴォーカリスト)、一連の Aristocratおよび Chessへの the Blues Rockersのレコーディングでは、Earl Dranes; Bassとなっています。
1949年のTrouble In My Home Times Are Getting Hard は Aristocrat 407として、また翌1950年 3月 5日に録音されたWhen Times Get Better (たぶん前年のTimes Are Getting Hard に対するセルフ・アンサー・ソング?)とBlue Rocker's Bop は Aristocrat 415として、Little Boy, Little Boy My Mama's Baby Child は Chess 1531としてそれぞれリリースされています。その時のメンバーは、ヴォーカルが James Watts、ピアノはモチロン Willie Mabonで、ギター Eddie El、ベースとして Earl Dranes、そしてドラムは Dizzy Pittsあるいは Duke Tideとなっています。

また、James Banister and his Comboのこの Statesへのレコーディング・セッションにはハーピストの Alfred "Blues King" Harrisも参加していますが、普段 James Banisterはハープではなくサックスを入れていたそうです。

また、資料によっては Lazy Bill Lucasも the Blues Rockersに参加していた、としているものもありますが、少なくとも初期のレコーディング・データ上では彼の名は出てきていません。
ただし、クラブなどでの演奏には加わっていたのかもしれず(あるいはたまたま、資料に遭遇することが出来なかっただけ?)、それを否定するのは難しいでしょうが。

そして 1952年、Al Bensonの Parrotに吹き込んだこの I Don't Knowはすぐさま R&Bチャートのトップに躍り出て、そしてすぐにChessに売られました( AMGによればその 8週間後となってますが、当時の Checker 1050のシングルの一部に、Parrot 1050の「上に」Checkerのセンター・レーベルを「貼った」ものがある、と言われておりますから、実際にはもっと早い時期に売られたハズ。やはり AMGはあまりアテにならない!)。翌年には二匹目のドジョウを狙ったI'm Mad もそこそこヒットいたしております。
およそ、この時期の彼はソング・ライターとしての才能を発揮していた、と言うことが出来るでしょうが、面白いことに the Blues Rockers時代のスタイルとは決別し、バンドにギターをいれてないんですね。
やがて 1956年に Leonard Chessが亡くなると彼は Federal Recordsに移籍。以後 Mad、Formal、USAといったレーベルを渡り歩きましたが、この期間にはローカルなセールスをたまに上げたものもありましたが、さしたる活躍はしていません。


その彼も 1972年に Parisに移住し、以後 1985年( 1986年としている資料もあります)4月19日に死亡するまで、主にヨーロッパを安住の地として演奏活動も行っていた、と言います。


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# by blues-data | 2005-12-31 20:24
Wille Kent

今は亡き落語界の異才にしてワタクシがもっとも愛したライヴ・パフォーマー(あ、落語にそゆコトバ使っちゃいけないんだっけ?「高座映えがする」ってのかな?)、偉大なる桂 芝雀師匠がおっしゃっておられましたなあ。
─アホ声っちゅうのがおまして、もう聞いただけで、あ、こいつアホやな、と判る声っちゅうのがおます・・・と。
まっこと不謹慎ながら、この Willie Kentはん、どーも、そのアホ声っちゅうヤツとちゃうか?と思うのでございますが、後年の作品じゃもちっとシャキっとした歌も聴かせてくれるとはいえ、ど~もあの Delmark 40th Anniversaryでの曲 Memories of Youなぞ聴くってえと、芝雀師匠ふうに言えば「あまり賢そうやないで」。
いえいえ、曲はいいんですよ。ただ彼の声を聴いたとたん、トートツに芝雀師匠のセリフをなんでか思い出しちまったんでさあ。

良くいえばおおらかな、ま、緊迫感が無い、とも言えますが、そのユルユルなヴォーカルも案外いい味を出してます。
それにしても、タイトルもまたいいですよね。とてもブルース・ナンバーのタイトルとは思えないじゃないの。
Memories Of You・・・まるでハード・ボイルドのミステリーかなんかのタイトルみたいじゃん。

Willie Kentは 1936年、Tennessee州との州境から南に 100マイルほどの Mississippi州 Invernessで生まれています。KFFAの King Biscuit Timeの放送を聴きまくり、Arthur Crudup、Sonny Boy Williamson、Robert Nighthawkに 11才でのめりこみ、61号線の Harlem Innでは Raymond Hill、Jackie Brenston、Howlin' Wolf、Clayton Love、Ike Turner、Little Miltonなどのライヴにも触れていたようです。

その彼が家を出たのが 13才の時で、およそ 3年間の空白(というのは彼を追いかける資料の上での、ね。本人にとっては「それなりのことがあった」 3年間だったでしょうが)の後、1952年、彼は Chicagoに現れています。

彼は昼の仕事につき、夜は音楽に「捧げる」という生活を送りはじめたようで、仕事の同僚に Elmore Jamesのいとこがいたこともあって、クラブからクラブへとブルースのライヴをめぐっていたようです。
そこで彼はマディやウルフはモチロン、J.B.Lenoirや Johnnie Jones、Eddie Taylorに A.C.Reed、J.B.Huttoなども知ったのでした。
おそらくその経験からでしょうが、彼はギターを買い込み、1959年には親友の Willie Hudsonを介して Ralph and the Red Topsというバンドに接近し、そのバンドの専属ドライヴァー兼マネージャー、さらに時にはシンガーとしても関わるようになります。
ところで、その Ralph and the Red Topsがとあるクラブに出演した際に、ベーシストが酔い潰れてて使いものにならない状態で現れ、しかもクラブからはすでに前金で貰ってしまっていたのでヤメるワケにもいかず、やむなく、彼が代理のベースとしてステージをこなしたのでした。

どうやらこれが彼の運命を決してしまったようで、それ以降の彼は、もっぱらベーシストとしての活動(あ、歌も続けてたみたいですが)に専念いたします。
1962年には Little Walterのベースとして、また '60年代中期にはマディやウルフのベースもこなし、Junior Parkerともやっていました。'60年代晩期には Arthur Stallworth and the Chicago Playboysのベースとなり、時には Hip Linkchain、さらには「悪名高き(?)」 Jimmy Dawkinsのバックも務めております。
特に Dawkinsとは 1971年のーロッパ・ツアーにも同行し、さらにアメリカに帰って来てからも Dawkinsがホーム・グラウンドとしていた Ma Bea's Loungeのハウス・バンド Sugar Bear and the Beehives(ギターは Willie James Lyons、ドラム Robert Plunkett)に加わってバックで支えていたようで、そのハウス・バンドでは他にも Fenton Robinson、Hubert Sumlin、Eddie Clearwater、Jimmy Johnson、Carey Bell、Buster Benton、John Littlejohn、Mighty Joe Youngといった錚々たるメンバーのバックを務めております。

1970年代の晩期からは主に Eddie Taylorのバンドのベースとなり、1982年からはレギュラー・メンバーとして正式に一員となりました。このバンドは Eddie Taylorの他に Johnny B. Mooreのギター、Tim( Timothy: Eddie Taylorの長男)と Larry(同じく Eddie Taylorの次男。ちなみに三男が後に Eddie Taylor Juniorと呼ばれるようになる Edward Taylor Jr.)のドラム、と Taylor一家に Willie Kentが混じるカタチとなっています。

その Eddie Taylorが 1985年の12月25日に死亡した後、彼は Willie Kent and the Gentsをスタートさせ、自らベースを弾きながらヴォーカルをとる、というスタイルを始めています。ドラムには Tim Taylor、ギターに Jesse Williamsと Johnny B. Mooreで発足し、その後メンバーの異動はありましたが、基本的にウェスト・サイド・シカゴのサウンドをキープしている、と言っていいんじゃないでしょうか。

2004年には青森でのフェスティヴァルに来ています。
ただし、心臓の疾患が発見されて再三のバイパス手術も受けており、一時は活動も危ぶまれていたようですが、どうやら小康を保ち、昼の仕事からは足を洗って、音楽に専念しているようでございます。
その Willie Kentですが、2006年 3月 2日、シカゴで肺癌のため死亡しました。



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# by blues-data | 2005-12-31 19:58
Willie Cobbs
You Don't Love Meを初めて聴いたのは Junior Wellsと Buddy Guyの演奏です。Buddy Guyのストラトのトーンが良くて、なんとかあの音を、と思っていた時期でございますね。
で、次に聴いたのが、ちょっとコンランしておりまして、Eddie TaylorのReady For Eddie に収録されてたヤツか、あるいは Arhoolieが Harry Osterの Folk-LyricレーベルのコレクションをまとめたCountry Negro Jam Session (しっかしまあ、なんっちゅー無神経なタイトルだこと!まだ差別用語、なんてえ概念に気付きもしなかった「脳天気」な時代のなせるワザなのでしょうか?)に収録されたアコースティック・ギターによるユニークなリフをベースにしたヴァージョンのほうだったかもしれません。

この二つはエレクトリック&アコースティック(いまで言う「アン・プラグド」なんてえんじゃなく、ホントに「ナマ」なのじゃ)という違い以上に、そのリフの扱い、基本的なテンポそのものが「あまりに」違うんで、ワタクシのアタマの中でまったく別個の曲として存在しておりまして、そのせいか、どっちを先に聴いたのか?ってのが判らないんですよ。オリジナルの録音年次は Arhoolieが古いに決まってるんですが。

ところでこの You Don't Love Meですが、忘れちゃならないのはその最初のレコーディング・アーティスト、Willie Cobbsです。
Willie Cobbsは 1932年 7月15日に、当時は米作地帯でもあった Arkansas州の Smaleで生まれています。
まずゴスペルに関わることで彼の音楽生活はスタートしたのではないでしょうか。
1947年には Chicagoに移って Little Walterと出会い、その教えを受けて 1950年代の初頭にはどうやらブルース・ハープのキャリアをスタートさせていたものと思われます。
その後、1952年から 1956年までは軍務についていた、ともいわれますが、資料によってはThe National Guardとしておるものがあり、ちょっと調べてみたのですが、それがなにを指すのかは不明でした。国境警備隊( The Coast Guardなら沿岸警備隊なんですが・・・)なんてえ存在もあましアメリカじゃ聞いたこと無いし(一部の資料では National Guardではなく、海兵隊─ U.S. Marineで、しかもその期間も 1956年までではなく、1957年までである、としています)。
1958年には Chicagoに戻り、音楽の世界に入っています。
そして 1961年の You Don't Love Meのヒットが彼のブルース界でのプレゼンスを大きく変えました。
その後も数々のヒットを出してはいますが、後半生はむしろクラブ・オーナー(別な資料ではシカゴに戻ってきたのを 1957年や 1958年としているものがありました。そしてその時に彼はシカゴで自分のブルース・クラブを開いた、と。さらに、そこを基盤として 1959年には自分のバンドも作っているそうです)や、バーベキュー・レストランの経営者として生きているようなところがありました。
やがて 1969年には Arkansasに戻ります(ただしこれにも異説はあって、1974年に Mississippi州の Itta Benaに移った、としている資料もあります。もちろん、いったん Arkansas州に移り、そっから Itta Benaへ、という可能性も無いではありません)。
そんな彼が 1991年に Rooster Recordsから、彼にとって「初めての」アルバム Down To Earthを送り出し、それ以降 1994年の Down To Earth、1998年の Pay or Do 2 Months & 29 Days、2000年の Junkin' と次々と発表しています。



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# by blues-data | 2005-12-22 23:36
Willie Brown
Willie Brownについては、1900年8月6日生まれ、なんてゆう記述も存在しますが、でも、それだと、1911年に Charlie Pattonと出会った時には、20才くらいに「見えた」ってゆうのと「明らかに」矛盾いたしますねえ。
それを考えると、ktateさんの「ブルース人名辞典」にある「1890年ミシシッピー州クラークスデイル生まれで、57年同州テュニカで死去」ってのが符合しそうですよ。
だって、ホントに1900年生まれなら、1911年じゃまだ11才ですからなあ。11才と20才を区別できないアホはおらんでしょ。
また、彼の写真は1枚も残されてないみたいです。いつ死んだのかも判らない(ktateさんの人名辞典では明記されてますが、他に、1952年12月30日、Mississippi州 Tunicaで死亡、としている年表も存在します)なんて解説も多いんですが、マチガイなく1941年以降であるコト「だけ」は確かでしょ。だって、この曲の録音データが c. 24-31,August 1941(Alan Lomaxの Library of Congressのために)となってるんですから。
「travel.nostalgiaville.com」によれば、1930年代から1940年代にかけて、Kirby Plantationを本拠地としてたみたい。ついでに彼が埋葬されてるのは、Mississippi州 Prichardの Good Shepherd Church cemeteryだそうで、そこまで判ってて生没年が判らないなんて・・・

1929年にはミシシッピー州 Robinsonvilleに移り、「そこで」Son Houseと Robert Johnsonに出会ったとも言われていますが、一部に見られる「1930年の Graftonでのレコーディング後、親友の Son Houseを Robinsonvilleに呼び寄せて」と言う記載はそれと矛盾します。だって、それじゃ、もうすでに「親友」なワケでしょ?ワケ判らん。
その Graftonでのレコーディング(28 May 1930)での M & O blues(スタンダード E)と Future blues(オープンG)は、The Legendary Delta Blues Session P-VINE PCD-2250に収録されてます(実はこの時、他にも Kicking in my sleep bluesと Window bluesという二曲も録音したようなんですが、いまだにリリースされていないようです)が、ワタシの持ってるのは CREAM OF THE CROPという ROOTSの RL-332っちゅうアナログ・ディスクで、Willie Brownはこの1941年の Make Me A Pallet On The Floor 一曲だけが収録されてます。

ところで、Willie Brownと Robert Johnsonの関係については、1920年代後半、Robert Johnsonは Willie Brownからギター・コードやストリング・スナッピング・ベース(右手の親指で掬いあげた低音弦が指板に叩きつけられ、独特の迫力を演出する奏法)、さらにオープンGチューニングも教わった、とゆーことになってます。
一説では Robert JohnsonのCrossroad Blues の歌詞中に出てくる
─You can run, you can run tell my friend Willie Brown.─
ってえ一節が彼のコトだ、ってえ解釈もあるんですが、それは別人である、っちゅう説もあって、そこらは定かではございません。
ま、なんにしろ、Willie Brownについちゃ資料が無さすぎるんですね。

さらに事態をフクザツにしてるのが、どうやらギター弾き語りする「Willie Brown」が全部で 3人「居た」らしいんですよ。1941年のこの Make Me A Pallet On The Floorの翌年、1942年にも Alan Lomaxは Library of Congressのために録音をしてるんですが、そこに、どうやらまったくの別人らしい Willie BrownってのがMississippi Blues って曲をレコーディングしてるんですよ。
デルタ・ブルースとしちゃあ異例なことにキー「A」からのブルース・ピアノのスタイルを真似たようなギターだったそうです。
そしてもう一人が William Brown Parthで、こちらもやはり Library of CongressにRagged And Dirty East St. Louis Blues の二曲を吹き込んでいます。

ま、そんなワケなんで(Vcl/Guit.に限定しなければあと二人います。詳しくは ktateさんの「ブルース人名辞典」で!)Robert JohnsonのCrossroad Blues で名前が出てくる Willie Brownってのが一体ダレのこったか判ったもんじゃないのよねー。
しかも、音楽シーンにカンケー無い、タダの呑み仲間でそんな名前のヤツがいたのかもしんないし。ま、「この」Willie Brownだったらハナシは面白くなるんですが。
さらに、Born August 6. 1900 in Clarksdale, Mississippi.ってゆう記載も、残りふたりの Willie Brownのどっちか(ま、Willie Brown Parthは混同しない、とは思うんですが)の出生データだ、っちゅー可能性があります。

イギリスの『Encyclopedia of Popular Music』に登場する記述を紹介しますってえと(でもなー、これも「Born August 6. 1900 in Clarksdale, Mississippi.」って始まってますからねえ・・・別人の可能性も?)
『小作人の倅として生まれ、Charly Patton並みの腕だった、っつう Earl Harrisからギターを教わった。第一次世界大戦の時期には(1900年生まれだとしたら14才〜18才)William Moore( Virginiaのラグタイム系ブルースマンで、1927年の12月から1928年の1月あたりに Chicagoで Paramountに16曲を吹き込んだ、ってえ William Mooreでしょか?)と組んでて、その後の10年間は Memphis Minnieの「かたわらにいた」と。
Charlie Pattonが1930年5月に Paramountに三度目のレコーディングをした時にはピアノの Louise Johnsonや Son Houseとともに伴奏を務めました。
Charlie Pattonの死後は Son Houseと組み、さらに Fiddling Joe Martin( Fiddlingとあるので、ヴァイオリン弾くの?と思われるかもしれませんが、Fiddlingってのは俗語で「ペテンにかける」っちゅーイミですからねん。弾く楽器もベース&ドラムだそーです)や Leroy Williams(ハーピスト)と組んだものは Library of Congressのために、ミシシッピー州 Cormorantで録音されています。
その後ずっと Son Houseの伴奏を務めていましたが1952年に心臓発作で死亡したデルタに戻っています。』( )内はワタクシのおせっかい「注」。

なんだか、しょっぱなの生年月日の「引っかかり」さえ無きゃ、ゼンブ信じられそーなんですが、ううむ。



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# by blues-data | 2005-12-22 23:10
Willie Baker
Willie Bakerの Weak-Minded Blues、そのタイトルに反して、やたらゲンキがいいじゃありませんか。
お仲間(?)の Charley Lincolnなんてアダ名こそ Laughing Charleyなんて言われてても、その歌となると、ケッコー内向的っつーか、ま、陰気、と言ってもいいようなダウン気味なのに対し、あくまでアッパーっつうか、あっけらかんと唄い上げていきます。

ギターの音の扱い、曲全体の構成など、Barbecue Bobや Blind Willie McTellなどにも通じる「この一派」に共通したクリシェが下敷きになっているようですが、このひとの唱法はその節回しや旋律の骨子などで、ところどころ、ブルーグラスなどにも一部共通するような白人的なものが見られるような気がいたします。
よく言うところのアパラチア山系の「ケルト系→アイリッシュ(あるいはスコティッシュ)→アパラチアン」という、古ヨーロッパ文明の残滓まで「嗅ぎ分けられる」なんてホラをこくつもりはありませんが、やはりアフリカ&西インド諸島由来のものだけではない「雑味」・・・じゃなかった「隠し味」が「むしろ」ブルースを引き立ててくれてるよな感じがしませんか?

彼は 1920年代の半ばから 1930年代にかけて、前述の Barbecue Bobや Charley Lincolnの Hicks兄弟(って、なんじゃそりゃ?って文面ですが、詳しくは 2003-10-162003-10-09あたりをご参照くださいませ)、James Weaverに Blind Willie McTellなどと Atlanta周辺において交流し、一瞬の光輝を放つのですが、あいにく、その彼の出自について、さらにその後の彼の人生なども歴史の中に消えてしまったらしく、それを辿り得る資料を捜し当てることは出来ませんでした。
収録アルバムは Yazooの The Georgia Blues 1927 - 1933。他に DocumentのComplete Recorded Works 1927 - 1930では Charley Lincolnとの組み合わせとなっています。

さらに Gennett 6766 Mamma, Don't Rush Me Blues なんてのが、コレクター垂涎の 78rpmレコードとなっているようですが、そこらも上の Documentには入ってたハズ。



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# by blues-data | 2005-12-22 22:55
William Harris
William Harrisもまた非常に資料が少ないひとです。
Cream Of The Crop: ROOTS RL-332に収録されている Kitchen Range Bluesを聴くと、Vestapolチューニングのオープン Eと思われるギターはブーギ・フォームのリズムをとってはいませんが、歌詞もコードも標準的なブルース進行の A-A'-Bというパターンをきれいにおさえた曲となっています。
エグい個性はあまり感じられませんが、まさにスタンダードなブルースをゆったりと歌う余裕を感じさせてくれます。

その Cream Of The Cropのクレジットによれば、1928年10月 9日、Indiana州 Wayne郡の Richmond(フツーRichmondってゆーと Virginia州なんですが、そっちじゃないのよん。)での録音、となっていますが、他の資料とも合致しておりました。
ただ、彼をミシシッピー・デルタ出身と推定する説と、1927年 7月18日の初吹き込みが Alabama州 Birminghamで行われている事実をもとに、Alabama系のブルースマンである、とする説が存在します。

そして特に、この録音の日付に注目して、彼が F.S.Wolcottの Rabbit Foot Minstrelsの一員だったのではないか?とする( by Jason Ankeny)説があり、それは翌1928年10月の 9日からの 3日間という二度目の録音の日付が、一行の巡業日程とも合致することによって説得力を持ってはいますが、残念ながら、同ショーのメンバーの陣容を証明できる資料があってのことではないので、これもまた推測の域を出ない、と言って良いでしょう。
William Harrisの足どりは、1928年10月11日の 3曲を最期に「消え」てしまいました。
どこで、いつ生まれて、どんなふうに育ち、どう生きて、いつどこでどのようにして死んでいったのか、すべてナゾのまま。



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# by blues-data | 2005-12-22 00:56
Bobby Robinson
1917年 4月16日、South Carolina州の州都 Columbiaから北西に約100kmほどの位置にある Union(地名です)に生まれ、Elmore James on Fire/Enjoy ( P-Vine PCD 2889/90/91)の日本語に翻訳されたライナーで見る本人の言葉を信じるとすれば、南部での生活の経験もあるようですが、1930年代の終り近くに New Yorkに出て来たひとりの男が、1946年、あの有名な Apollo Theatreから僅か 1ブロックの 301 West 125th Streetに Bobby's Happy House Recordsというレコード店をオープンしています(ただし、その店名は Bobby's Record Shopである、とする資料もあります)。
そこにはあの Atlanticの Ahmet Ertegenと Herb Abramsonがしばしば訪れ、彼らの製品を持ち込んでは、その男にレコード店主としての意見も訊きにきた、と言われております。
その男こそが Bobby Robinsonでした。

彼はレコードを販売するだけではなく、やがて自ら製作する(資料によっては、彼が Mel Londonの Chief Recordsのやり方に飽き足らず、自分のレーベルを、としているものがありましたので、もしかすると、一時 Chiefに関わったことがあったのでしょうか?残念ながら、他の資料では裏付けがとれていませんので、そのようなハナシも存在する、とだけお伝えしときましょ)ことを目指すようになり、1950年(あるいは 1951年)には Robinというレーベルを作りましたが、これは南部に、まったく同名のレーベルがすでに存在していたことが判明したことから、1952年には Red Robinと改名しています。このレーベルは兄弟の Danny Robinsonと共同で始めたもので、追って Whirlin' Disc Recordsを 1956年(単独で)、Holiday Records( Danny単独)に、また Fury Recordsも 1957年(これも単独)、さらに Everlast recordsは同じ 1957年ですが共同で、続く Fire Recordsが 1959年(単独)、Enjoy Recordsを 1962年(共同)に設立し、かなり膨大なカタログを持つようになっています。

ただ、本来 Fireは音楽出版に始まり、後には Furyなどで録音したトラックを販売するための別レーベルとなった、としている資料もありますが、そのヘンは確認出来ませんでした。
Red Robinは Morris Lane、Charlie Singletonあたりに始まり、Jack Dupree、Sonny Terry、Brownie McGhee、そして「あの」 Tiny Grimes( 1954)なんてのも・・・残念ながら(?)我らが Screamin' Jay Hawkinsセンセはすでにこの時期の Tiny Grimesのとこにはもうおられませんのですじゃ。
この Red Robinは次の Whirlin'ともども、全体としては明らかにヴォーカル・グループをそのカタログのメインにしており、たとえば The Trasher Wonders、The Du Droppers、The Vocaleers、The Velvetsなんてそれらしい名前でイッパイです。
Whirlin' Disc Recordsは The Channels、The Continentals、The Quadrellsなんてグループが吹込んでますが、これらがどんなグループなのか?なんてことは訊かないでねん。
Holiday Recordsは The Bop-Chords、The Harmonairesなんてのが録音してますが、これもどんなのか、さっぱ判りません。

とは言っても Furyのカタログを見ても The Kodaks、The Federals、The Miracles、The Emotionsなんて言う、たぶんヴォーカル・グループじゃ?ってのがどっちゃりあるんですけどねえ。
ま、あまり厳密には別けてなかったんでしょか。
そして Furyとなると The Teenchordsに始まって Hal Paigeや Tarheel Slim、Wilbert Harrison、そして「あの」 Fury 1035、Sammy Myersの You Don't Have to Go (1960)なんてのもあります。
後には Lee Dorseyなんてのもカタログに加わりますが、ここでの最大のヒットは Wilbert Harrisonの Kansas City (1959 -two million!)でしょか。ま、Gladys Knight & the Pipsなんてのもありますが。
その Kansas Cityについては Wilbert Harrisonが Savoyとの契約を残していたため、裁判沙汰となってエラい目にあったりもしております。

Everlastでは The Charts、The Kings & the Queens、Les Cooperなんて名が挙っていますが、ワタクシとしちゃあ Wild Jimmy Spruillが目玉ですなあ。
ま、上で挙げた他にも Danny Robinsonのレーベルで The Rodans、Charles Walker、Bobby Brantなどを持つ Vest Records、Jerry Dornや Artie Lewis、Jesse Powell、Bob Myersなどをリリースした Fling Records (by Bobby)、King Curtisの Soul Twist (1962:後に Everlast 5030)や Janet Calloway、Titus Turner、Riff Ruffin、Willie Hightower、そして後には Elmore Jamesもリリースした Enjoyなどという一大グループとなっているワケです。

1970年代に入ると Bobby Robinsinは Hip Hopにも手を拡げ、主に Enjoyレーベルでそれを採り上げています。



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# by blues-data | 2005-12-21 22:56

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