Wild Jimmy Spruill
Kansas City Marchってのは、あの Wilbert Harrisonの Kansas City でイキのいいギター・ソロをブチかましてくれた Jimmy Spruillの便乗盤(?)でございます。つーか、あのギターのウケがいいので、ここはいっちょ、それだけで押してみっか?てなもんだったんざんしょか?
てなワケで(あ、ホントかどーか判りませんよん。ムセキニンにそーだったりしち、って仮定してるだけですからねえ)、もう徹頭徹尾、彼のギターを主役に(とーぜん歌ナシ!)ゴリ押しでございます。
バックにはピアノもいて、典型的なブーギウーギ・パターンを弾いているんですが、あまり目立ちません。なんたって、サイドを切るギターもやけに「張り切っちゃって」て、めちゃめちゃキレのいい(良すぎる?)特徴的なカッティング・パターンを貫いてますよ。
さらにドラムはってえと、もしかして、ハイハットの上にタンバリン置いてねえ?っちゅーなんだか耳障りな付帯音がず〜っと鳴りっぱなしでげす。

でも、そんなの気にするふうもなく Jimmy Spruillのギターは炸裂しっぱなし。
かなりトレブリィなんだけど、あましサステインの無い音で、アーミングで音揺らしつつ、しかも時にグリッサンドも交えつつ、モロ元気よくトバしてまいります。
この音作りはカンゼンに「ギター」に照準を当ててますなあ。だから、普通だったら「ウルサイ!」ってド叱られそなサイドのカッティングもあれでいーみたい。
ただ、これが現代のギター・フリークたちにウケるか?ってことになると、ちょとギモン。
現代のイロんなギターのスタイルの中でも、ワリと共通してる、ってのが「音伸び」重視、ってとこじゃないか?と思うんですが、そこ行くと、彼のギターは減衰がハゲしすぎるよな気がするのよねー。
ま、だから某「I」楽器店の自社ブランド「M」っちゅーギターみたく、積層合板ボディにチープなハムバッキングなもんで、音ショボイ、なんてヤツでバリバリ弾くと、こんな感じになる、と。

さて、多くのブルースマンたちの足取りを追ってゆくと、とーぜんメイン・ストリームっちゅうのが、Mississippi Deltaから北上(ま、途中 Memphisや Helenaでの道草もあるよーだけど)して Chicagoへ、ってえ図式が有名ですわな。
他にも Texasから West Coastへ、というのもよく知られたルートです。
そこいくと、ややこじんまりとした「流れ」ながらも、North、あるいは South Carolinaから New Yorkへ、っちゅうアメリカ東海岸に特有のパターンも存在してるよーに思われます。

James ’WILD JIMMY’ Spruillは、1934年 6月 9日、North Carolina州の Washingtonで生まれているようです。
ただ、このひとの経歴に言及した資料が殆ど無く、そっから先で判っているのは、どうやら1955年あたりに New Yorkに出てきたらしいこと、あとはレコーディング・データと、1996年の 2月3日、North Carolina州の FaytteVilleで、心臓発作のために死亡した、ってことくらい。お手上げです。

ま、音がすべてを語ってくれてる、っつーコトにしておきましょ。
判ってる範囲では、彼が参加した最初の吹き込みは Charles Walker’s Band With Guitar-James Spruillの Driving Home, Part 1 / Driving Home, Part 2 (HOLIDAY 2604)で1956年のことです。
彼の自己名義での初吹き込みは1957年(1959年とする資料もありますが、それは「"Wild Jimmy"」 Spruill名義での初吹き込みであって、James Spruill and Bandを忘れちゃいけまへん)の「Honky Tonk Hucklebuck / Jumping In」 EVERLAST 5004でしょう。
間にまた James Spruill and Bandでの「Honky Tonk Hucklebuck / Jumping In」 CEE JAY 581(1957)と、Tarheel Slimの「Wildcat Tamer / Number Nine Train」にギターで参加した Fury 1016(1958)を挟み、1959年からは Wild Jimmy Spruillとなって(?)この「Kansas City March / Hard Grind」を Fireに吹き込んでます(FIRE 1006)。
Wild Jimmy Spruillとしては、他に「Scratch ’N’ Twist / Slow Draggin’」 EVERLAST 5017(1961)、「The Rooster / Cut And Dried」 ENJOY 2006(1965)。
そしてタダの(?)Jimmy Spruillで「Lonely Island / ?」 CLOCK 1038(1960)が、そしてちょっとだけちゃう Jimmy "Wildman" Spruill名義で「Country Boy / Scratchin’」 VIM 521(1962)があります。

アルバムでは、イギリス KRAZY KAT KK 7429(1984)、WILD JIMMY SPRUILL『THE HARD GRIND BLUESMAN 1956-64』がリリースされています。収録曲は
Kansas City March/ Hardworking Man (B. Brown & his Rockin’ McVouts)/ Hard Grind/ Driving Home Pt.1 (Charles Walker)/ Drafted (Wilbert Harrison)/ Slow Draggin’/ Rockin’ With "B" (B.Brown & his Rockin’ McVouts)/ Scratch ’N’ Twist/ Hard Times (The Slop) (Noble "Thin Man" Watts)/ Your Evil Thoughts
(Lee Roy Little)/ Charles Walker Slop (Charles Walker)/ Jersey City (Bobby Long)/ Believe Me Darling (June Bateman)/ Scratchin’/ Country Boy/ Cut And Dried

彼が録音に参加したミュージシャンは他に
Jimmy Lewis / Elmore James / King Curtis / Billy Butler / Bobby Donaldson / Danny Moore / Odie Payne / Levon Helm / Belton Evans / J.T. Brown / Johnny Acey / Paul "Huckle-Buck" Williams / Robbie Robertson / Charlie Musselwhite / Michael Bloomfield / Riff Ruffin / Melvin Lastie / Garth Hudsonなど、実に多岐にわたります。ま、こんだけカツヤクしてるワリには資料が無いってのがフシギです。

あ、そうそう、この Furyをやってる Bobby Robinsonってひとも Jimmy Spruill同様に、東海岸の South Carolina州から北上して New Yorkに来ていますね。

James "Wild Jimmy" Spruill、いまからほぼ 45年前のギターです。音的にはシンプルでストレート。でもその姿勢はアグレッシヴ!なんだか今のギタリストってトーンはアグレッシヴでも、フレーズは手アカのついた使いまわしになってません?逆だよね。



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# by blues-data | 2005-12-21 22:49
Wilbert Harrison
Wilbert Harrisonと言えば Kansas City!
一瞬、ファッツ・ドミノを思わせる 5度から 4度に落ちてくる R&Rっぽいピアノ(もちろん、テンポはゆったりしてますが)で始まり、I’m goin’ to Kansas City, Kansas City here I come ・・・というお馴染みの歌がケッコー落ち着いたトーンで染み込んでくるんですが、間奏では一転、Jimmy Spruillのハイ・テンションかつトレブリィでハードなギターが「かき回し」、ヴォーカルの抑えたトーンと対照的です。
案外そのクールな印象の歌との対比も面白いし、一種の「ご当地ソング」ですから、聴く側も勝手にその「カンサス市」についてのイメージを膨らませられる部分もあったのか、ビルボードでは、初登場100位から 6週間をかけて、1959年5月18日には遂に「1位」まで昇りつめています(翌週も1位)。
ただ、その Kansas Cityの原曲は Little Willie Littlefieldの K.C. Loving で(もち、「K.C.」ってのは「Kansas City」ね)、このカヴァーのヒットによって、原作者、Jerry Leiber/Mike Stollerの著作権料など、金銭トラブルもあったようですね。なまじヒットするとこれだもんなあ。
ついでながら Kansas Cityでトンがったギターを聴かせてくれる Jimmy Spruillは同年、Little Jimmy Spruillの名で Kansas City March なんてのを Fireに入れてます(『N.Y.Wild Guitars』 P-VINE PCD-2359に収録)。

Wilbert Harrisonはその後、Let’s Work Togetherなんてそこそこヒットした曲もありますが、ポップ・チャートの上では、ま、キョクタンに言っちゃうとミゴトな「一発屋」だった、つーことになるんでしょね。ま、アメリカじゃ、二発屋(?)ってことで「A Two-Hit Wonder」なんて言われてるよーですが。

Wilbert Harrisonは1929年の1月5日(6日としている資料もあります)North Carolina州の Charlotteで生まれました(28人家族だったとか!)。
成長の過程で触れていたのはスピリチュアル/ゴスペルからヒルビリー/カントリーとかなり幅広かったようで、そのあたりが彼の音楽的な指向性を左右しているように思われます。
1946年に入った海軍をブジ(?)1950年に Miamiで除隊し、その周辺で音楽活動を始めているのですが、カリプソをベースにした傾向だったそうです(!)。
それがマイアミのプロデューサー Henry Stoneの目にとまり、Rockin’という彼のレーベルにデビュー・シングル This Woman of Mineを吹き込み、Rockin’ 526としてリリースされました(カップリングは The Letter)。
ワタシは聴いたことがないのですが、その曲では既に、後の「Kansas City」に使われているのと実に良く似たメロディが登場しているのだそうです。
でも、その頃すでにオリジナル、Little Willie Littlefieldの K.C.Loving はリリースされてたワケでしょ?じゃあ、やはり、ウェストコースト・スタイルだったオリジナルを、そのスタイルにコンヴァートしたことによって大ヒットにつながった、ってワケなのかな?
この頃には、あのハリー・ベラフォンテの「Calypso Man」なんてのもカヴァーしてた、ってゆーから、にゃるほど、「並み」のブルースマンとはそーとーちゃいますね。

やがて New Jersey州の Newarkに移り、Savoyの上層部が迷ってるうちに、偶然、プロデューサーの Fred Mendelsohnの目にとまり、Terry Fellのカントリー系のキャッチーなカバー「Don’t Drop It」から始めて、Savoyにいくつかのセッションを録音していますが、1954年から1956年にかけて、当時の New Yorkのトップ・クラスのセッション・メンバー;アレンジャーの Leroy Kirkland(記憶の良い方なら覚えておられるかもしれませんが、「あの」Screamin’ Jay Hawkinsの作品でも顔を出しておりますぞ)、サックスに Buddy Lucas、ギターには Mickey Bakerと Kenny Burrellっちゅう「豪華メンバー」を揃えたにも「かかわらず」ヒットにはつながらなかったのねん。

そして1952年に Bobby Robinsonが所有する Furyに吹き込んだ Kansas City(Fury 1023)が大ヒットし、R&Bとポップスの両チャートで成功するのですが、実はその時点ではまだ Savoy(その経営者 Herman Lubinskyがその少し前に姿をくらましていたとはいえ)との契約が「有効」であったため、そのヒットがトラブルの原因となってしまったワケです。

1960年代の後半にはワンマン・バンド・スタイルで演奏していたらしいのですが、1969年に出した Let’s Work Together(Sue 11)が R&Bチャートの 2位、ポップ・チャートの17位、という久々のヒットになっており、それも入れて「A Two-Hit Wonder」と言われてるようですが、それを重視しないひとは「A One-Hit Wonder」と、やはり「一発屋」扱いでございます。
その後、一時期ウェストコーストに行ったりもしてたようですが、1994年10月26日やはり North Carolina州の Spencerで死亡しました。



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# by blues-data | 2005-12-20 15:48
Washboard Willie
Washboardっちゅうと、「あの」洗濯板の他に、ありとあらゆる音が出そうなガラクタをいっぱい付けて、なにやらドガチャカと賑やかに、でもプリミティヴなブルースをやりそうなイメージがあるのですが、この1973年の Ann Arbor Blues & Jazz Festivalでの Washboard Willieのナンバーは、ランニング・ベースに乗せて軽快にトバす 4ビートに彼の滑らかなヴォーカルもキモチいいスマートな仕上がりなのでございますよ。トリオでこんだけの充実度があるんだからタダモノじゃありませんなあ。

Mr.Boの If Trouble Was Money の段にも登場いたしました Washboard Willieが彼のバンド、Super-Suds of Rhythm(Sudsってえのは泡立った石鹸水のコトですよん。)とともに出演したライヴの録音でございます。P-Vine PCD-4782/3(2枚組みなんですが、そのうちの「 Jump」盤、vol.3にはこの曲がそのままディスク・タイトルとして採用されています)

William Paden Hensleyは Georgia州 Columbusで( alt. Alabama州 Phenix City生まれで、Detroitの前は Columbusにいた、という資料もあります)1909年の 7月24日に生まれています。
成長していった過程は定かではありませんが、31才の時にパーカッションに目覚め(?)以来ウォッシュボードやフィンガー・シンバル、フライパンを身につけて「ひたすら」叩きまくっていた・・・
その彼が Detroitに移ってきたのが 1945年と言われています。
そして1948年には Detroitの北部に移り、Car Wash( Motor Cityの異名をとるだけに、この町では自動車関係の仕事が多く、ここでのそれが一般的な洗車サーヴィスなのか、あるいは、生産ラインのフィニッシュで「トリートメントを施す」仕事なのかは判りませんでしたが)の仕事につきました。
そして次第に他のミュージシャンと知りあう機会も増え、Calvin Frazer(
b.1915.9.16-d.1972、ヴォーカル&ギター。Arkansas州 Osceola出身で1930年代には Robert Johnsonとも一緒に演奏していた、という経歴を持つ。初吹き込みは Alan Lomaxによる 1938.10.16 Walfare Blues 、Baby Boy Warrenのバンドでは Washboard Willieと一緒になっている )や Little Sonny( Aaron 'Little Son' Willis、1932.10.6, Alabama州 Greensboroで生まれる。1953─1954とする資料あり─ 年に Detroitへ。Washboard Willieが彼に「音楽で」カネを払ってくれた最初の人間となる。1958年には自己名義で JVBに初吹き込み。I Gotta Find My Baby、これは Dukeでも発売されました。他に Love Shock は JVBから Excelloにリースされています。)といった人脈を形成するようになっていったようです。
1952年ころ、ジョン・リーや Eddie Burnsが出ていた Harlem Innにライヴを観に行った際、その時のドラマーがイケてなかったので外に駐めてた自分のクルマからウォッシュボードを取って来て演奏に参加したところ、二曲やったところでクラブのオーナーに気に入られたらしく、毎週、演奏しに来てくれるよう依頼されます。それから実に 3年間、そのクラブでステージに立つことになった(!)。

そして、仕事がらみの「泡─Suds」からヒラメいて、自分のバンドを Washboard Willie & the Super Suds of Rhythmと命名しています。1955年には Little Sonnyが加入しました。
1956年、Joe Von Battleに「Cherry Red Blues」、「Washboard Shuffle」、「Washboard Blues Pt. 1 & 2」などを初吹き込み。1957年から1962年にかけてはまた Von Battleに吹き込みをしています。
彼のドラム&ウォッシュボードに、Calvin Frazierのギター、Boogie Woogie Red(
Vernon Harrison:Loisianna州 Rayville生まれ。1924.10.24。若いうちに一家を挙げて Detroitに移り、Big Maceoや Dr.Claytonの影響を受けつつも自分のキーボード・スタイルを構築。1942年には Chicagoに行き、Lonnie Johnsonや tampa Red、さらに Memphis Slimなどとジャムをするようになっています。1946年には Detroitに戻り、以後14年間、ジョン・リーのもとで過ごす。1971年、ヨーロッパでのツアーに参加した彼はその反応に気を良くし、デトロイト周辺でのライヴの他に海外へのツアーも開始するようになります。アルバムは『Live At The Blind Pig』など)のピアノ、Chuck Smithのバリトン・サックスというものでしたが、そのテープは George Paulusが Von Battleの倉庫から持ち出して自身の Barrelhouse Records(そ、あの Chicago Boogie で有名な!)で1982年にリリースするまで世に出ることは無かったのでございます。

他に Herculon labelから Natural Born Lover と、有名な Wee Baby Blues(共に1966年のセッションから。Evans McLendonのギター、 Angelo Willisのバリトン・サックス)や Big Bear/Poly 2460 186があります。
1973年からは Ann Arbor Blues & Jazz Festivalを初めとして、各地のフェスティヴァルなどに参加していました。
多い時には週に 6日もクラブに出演したりもしていたようですが、レパートリィはブルースに限ったワケではなく、結構モータウン系のナンバーもやっていたそうです。
1991年 8月24日、Detroitで死亡



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# by blues-data | 2005-12-20 12:34
Walter "Buddy Boy" Hawkins
この Walter "Buddy Boy" Hawkins、残念ながらその出生にまつわるデータはもちろん、どんな人生を送ったのか、というコト自体、まったく判っておりません。
その誕生した年代や、デルタ地帯北部からアラバマにいたる地域的な特徴を同定しようとする研究者たちの試みも、数々の矛盾や決定的な証拠の欠如、あるいは不整合によって頓挫し、結局、推定することすら難しい状態となっています。

その Walter "Buddy" Hawkins(あるいは Walter "Buddy Boy" Hawkins)は例の Wisconsin州の家具製造会社が始めたレーベル「Paramount」に 1927年から 1929年にかけて 12曲ほどを録音しておりますが、この時期の Paramountは electric recordingに移行した直後で、また 1924年に買い取った Black Swanのおかげでブラック・ミュージックのカタログが充実し、有力なプロモーター Mayo Williamsが次々と才能あるブルースマンを連れて来ていたころなのですが、この Walter "Buddy" Hawkinsもそうだったのがどうかは不明です。
その歌からすると、おそらく鉄道の敷設や列車に縁のある生活を送っていたのではないか?という推測が出来そうですが、いまのところそれを裏付けるようないかなる資料も発見されてはおりません。

彼のブルースは Document DOCD-5035『 William Harris & Walter 'Buddy Boy' Hawkins Complete Recorded Works(1927-1929)』でまとめて聴くことが出来ます。収録曲は Workin' On The Railroadはもちろん、「 Shaggy Dog Blues」、「 Number Three Blues」、「 Jailhouse Fire Blues」、「 Snatch It Back Blues」、「 Yellow Woman Blues」、「 Raggin' The Blues」、「 Awful Fix Blues」、「 A Rag Blues」、「 How Come Mama Blues」、「 Snatch It And Grab It」、「 Voice Throwin' Blues」という Paramountに入れた全曲(他に William Harris 9曲)。



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# by blues-data | 2005-12-20 12:19
Wesley Curley Clark
1939年11月16日、Texas州 Austinで、典型的なミュージシャン一家の一員として生まれた Wesley Curley Clarkは、ギターを弾く父、そして歌を唄う祖母、母、姉妹たちによって当然のように聖歌隊に加えられ、そこでの音楽的素養が大きく彼の方向を決めたのではないでしょうか。
そこで彼はギターを弾くことを覚え、16才ですでに the Victory Grill(たぶんグリル、とあるので食事も出来る店だと思う・・・)で最初のギグを経験しています。
ただ、そこで T. D. Bellのバンド the Cadillacsと知りあった彼はベースに転向して、そのバンドに加わりました。
1960年代に入ると今度は Blues Boy Hubbardの the Jetsに入って Austinの Charlie's Playhouseなどで演奏しています。そこで、欠員だったギタリストを探していた Joe Texの目に止まり、ツアーに連れ出されました。

やがて Austinに帰ってきて(その以前から作っていたけど休眠してた)自身のバンド、Southern Feeling(そこには Angela Strehliと Denny Freemanも)で Austinから西海岸一帯までをツアーしたりもしたのですが、やがてバンドのメンバーの方向性が微妙にズレて来はじめ、ついには解散してしまいます。
そこで彼が作ったのが、今も続いている the Blues Revueでした。このあたりで彼は、Austinのミュージック・シーンがちょっとばかり様変わりして来ていて、ブルース・クラブに白人のガキ・・・うっぷす、若者が出入りしてブルースをやりたがっているのに気付きます。

その一例がスティーヴィ・レイ・ヴォーンで、インタビューによれば彼のところに押しかけてきて、熱心に誘われたことによって、結婚したばかりで金が必要だったこともあり(?)一緒にやることを承知しました。このときのメンバーは S.R.V.、Mike Kindred、Freddy Walden、Lou Ann Barton(ただし、これが the Blues Revueのメンバーだったのかどうかは確認しておりません)で the Triple Threatと命名されました。
そしてそのバンドで彼の初吹き込みが行われたらしいのですが、そのマスターの行方は彼にも判らないようです。本人の記憶ではたぶん 1982年じゃなかったかと・・・
S.R.V.と別れた後の 1986年(あるいは 1987年)に吹き込んだアルバムが Something for Everybodyで、以後 1990年代の前半までに、Anton'sでの定期的なギグや、全国的スター( B.B.やら J.B.そして Albert Kingなど)のオープニング・アクトを務めるようになって行きました。

その彼が全国に知られるキッカケとなったのが、あの PBS-TVによるAustin City Limits において、1989年に彼の 50才の誕生日を祝うために S.R.V.、Jimmy Vaughn、Kim Wilson、Lou Ann Barton、Angela Strehli、Will Sextonが一堂に会し、地元の熱狂的なオーディエンスに迎えられたシーンだったのです。
やがて彼は Mark Kazanoffによって Black Top Recordsに紹介され、1994年、 Heart of Gold、1996年には Texas Soul、1998年には Lovers Plea'をリリース。あ、その前に 1997年には New Orleans Jazz & Heritage Festivalにも出てますね。

2002年には Alligatorから From Austin with Soulをリリース、そして 2004年、Deep in the Heartをリリースしています。



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# by blues-data | 2005-12-20 12:13
Valerie Wellington
Valerie Wellington ─ Valerie Eileen Hallは Chicagoで 1959年11月14日に生まれています。
オペラ歌手を目指して(とした資料が多いですが、その 3年間ってのが何歳の時なのかは「?」なまま)前述した Chicagoの American Conservatory of Musicでトレーニングを積んだようでございます。その後のことだとは思うのですが、15才でピアノを弾くようになっていた彼女は Lee "Shot" Williams*と出会い、ブルースへと軌道を修正(?)したのかもしれません。

Lee "Shot" Williams─ギターの Little Smokey Smothersと一緒に育ち、さらに周囲にはミュージシャンが大勢いたせいで、デルタのジューク・ジョイントに出入りするようになり、そこでブルースに導かれた、とされています。
1954年には Detroit、1958年には Chicagoへと移り、前述の Little Smokey Smothersと活動を開始しました。
この時期に Magic Samやウルフともやったことがあるようで、1960年代初頭には Magic Samのバンドのヴォーカリストだったこともあるそうです。
初吹き込みは 1962年のHello Baby I'm Trying を Foxyレーベルにしたもので、続いて King-Federalや Palos、Gamma、Shama、Tchulaなどの他のレーベルにも録音をしており、1964年の Welcome To The Club 、1969年のI Like Your Style などというヒットも出しています。また 1960年代の後半は Earl Hookerと行動をともにしていました。
その彼が Valerieに出会ったのは自身のアルバム( 1977年Country Disco Roots)が出る前の 1974年あたりでしょう。

やがて Valerie(そー言えば、いつ Eileen Hallから Wellingtonになったんでしょ?そこら、どの資料でも発見できず「?」のまま)の存在は Chicagoでも次第に知られるようになり、1984年には彼女のデビュー・アルバムとなった Million Dollar $ecretが出て、ローカルな存在から、一躍全国的な(タイム・ラグはあるけど「世界的」な、と言ってもいいかも?)注目を浴びることとなったのです。
ところで、そのアルバムが出る直前の彼女及びそのバンド御一行様の、読んでるこっちも「凍えそうな」キョーフのツアー・リポート「Refrigerated Road Warriors」が http://www.he.net/~blues/No_40/twist.html で読めます。ケッコー笑えまっせ(英文。これを Web翻訳にツッコむとたぶんもっと笑えるのかも?別なイミで、ね)。

その 3年後、彼女は Alligatorのコンピレーション・アルバム The New Bluebloodsのために一曲を録音しているのですが、その曲が A Fool For Youなのです。
以後、日本にも何度か来ているのですが、その時期のワタシは、ちょーど余裕の無かった時期で、おそらくブルースからかなり遠い位置におり、その存在すら知らない、当然来日情報にも触れることの無い日々でございました。ま、仕方ないんですがね。
1992年にはLife In The Big Cityをリリース。またこの年には TVショウ Blues Goin' On にも出演、その時の録画は Oprah Winfrey's Harpoという媒体が保有しているらしいのですが、そのサプライ面は不明です。

そして 1993年(一部のサイトで 1991年に死亡、としてるのを見かけましたが、じゃあ Blues Goin' Onに出てたのは「亡霊」?) 1月 2日、Illinois州 Maywoodで、脳動脈瘤破裂に伴う「くも膜下出血」で、わずか 33才の若さで急死してしまいました。
彼女の墓は Illinois州 Worthの Restvale Cemeteryにあり、彼女の名前の上には "Beloved Daughter"の文字が刻まれています。



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# by blues-data | 2005-12-20 12:03
Tommy Johnson
RBF 14『BLUES ROOTS/MISSISSIPPI』に針を落とすと(そ、アナログ・ディスクなのよん)軽いスクラッチ・ノイズを追い散らすように、Tommy Johnsonの落ちついた歌がキュート(?)なギターに先導されて滑りだします。ちょっと喉声かな?なんて思って聴いてると、Dからのブルースなんですが、1コーラス目はフツーなんだけど、2コーラス目以降、9小節目の Aから12小節目までは、ミゴトな裏声、つーかブルーグラス系にタマ〜にあるよな「ヨーデル発声」になっちゃうじゃないの!そ、これは「ファルセット・テナー」とかゆうんじゃなく、まんまヨーデル!それを「ブキミ」と表現しちゃうのはどーかと思うけど・・・ Canned Heat Blues

Tommy Johnsonは、Mississippi州の州都 Jacksonの 20マイルほど南にある Terryの近くの George Millerのプランテーションで13人の子供のうちの1人として、およそ1896年ころ生まれた、と思われます(この説は Encyclopedia BRITANNICAも採用)。
ただし、異説として、生年については、1880年(by Art Rosenbaum)が、また生地(「せいち」。きじ、じゃないぞう)については Copiah郡の Crystal Springs(by Ishman Bracey)とする説もあります。でも、それは、もしかすると、どっから来た?という問いに対して Tommy Johnsonが気楽に答えたのから「類推(はたまた誤解?)」したものじゃないか?っつー気もするのでございますが。

彼の家族は1910年ころに Crystal Springsへ移ったもののようです。
ただし、これにも異説はあり、Tommy Johnsonが「単独」で「逃亡」した、としている資料もあります。
彼の家族はみな音楽に縁があり、叔父や兄の LeDellはギター、他の親戚もブラス・バンドをやっており、兄がギターの基本を教えてくれたようですね。
このファミリーは揃ってパーテイなどで演奏して得られる報酬を小作人契約の土地代の支払いのタシにしてたようですから、ヒョっとして、そんなせーかつがヤになって、「あがり」を独り占めしたくて「逃げ」たのかも?

1916年に、彼は Maggie Bidwellと結婚し、ふたりは Yazoo Deltaの Drewにあって Dockery’s Plantation( Dockery Farm)にも近い Webb Jenningsの Plantationに移ります。
その後 Johnsonが、たとえ何人の妻を持ったとしても、この最初の妻こそが「不朽の名作」、あの「Maggie Campbell Blues」のキッカケとなった、とゆーのは定説になっとるようです。
ま、そんだけ「女癖」が悪く、多くの女性と関わった「困ったヤツ」だったらしいのですが。

やがて Charley Pattonやローカルなギタリスト Dick Bankston、さらに Willie Brownなどの影響でデルタ・スタイルに接近した、なんてブンセキもあるようですが、そのワリにはちょっとデルタ離れ(?)したとこもありますよね?
どうも Tommy Johnsonのブルースは、その音を聴く限り、意外な広がりを持っているように思われます。例の「Canned Heat Blues」にしても、リズムの切り方がミョーに「ファンシー」なよな気がするんですよ。そこにもってきてあのヨーデルですからねえ。
それとは別に、彼は Charley Pattonからギターを使った「演出」を受け継いだようで、まるでギターがロバで、彼がそれにまたがってるみたいに足の間で弾いたり、後にはみんながやり出す、アタマの後でギターを弾く、あるいはギターを空中に投げ上げるなど、アクロバティックなアクションを見せています。

さて、いまやリッパな(?)アル中&女蕩しとなった Tommy Johnsonが Crystal Springsに帰って来たのが1920年。ファミリーとの音楽的なつながりを復活させています。
彼は小作人の生活に戻り、Jackson周辺で週末のパーテイに出演してチップを稼ぎ、綿花摘み人足に給料が払われたころを狙ってデルタ各地で演奏して歩きました。

1920年代の初頭には Charley Pattonと一緒に Greenwoodや Moorehead(鉄路の交差する有名なポイント「the Southern Crosses the Dog」で W.C. Handyの「Yellow Dog Blues」で知られる)周辺で演奏していたようです。
どうやら彼は、自分の名声を高めるために、ことさら迷信を利用し、St. Louisのブルース演奏者 Peetie Wheatstrawにならって、「悪魔の義理の息子」を自称し、自らの外貌を不吉な影で包みました。
兄の LeDellによれば、彼は Crossroadで「例の」契約をした、と主張していたそうですから。
それは後の Robert Johnson(直接の接触は無かったようですが)にも採り上げられることによって、さらに有名な逸話となっていきます。
当然ラビット・フットなど呪術的なものを身辺に採り入れ、魔術的な雰囲気を漂わせていた・・・
ただ、後の「お馴染み」 Screamin’ Jay Hawkinsのよーに、さらに「VooDoo」までを表立って利用する、なんてとこまではしてないようですが。
そのヘンは当時の黒人社会での「迷信」の「トレンド」の変遷(およびその「重さ」の変化?)を追ってみないと判らないのかもしれませんね。

1928年の 2月に、彼はギターの Charlie McCoyとともに Memphisで Victor labelのために吹き込みをしています。
その録音がそこそこ売れたので、引き続き同年8月にも録音が行われました。
そのセッションに含まれていたのが、「Canned Heat Blues」です。もはやアル中も進行して、酒だけでは飽き足らず、合成アルコール(?)まで呑んでいたそうで、その状態がもたらした「曲」だったのではないでしょうか。
さらにその後もアルコールについて歌った「Alcohol and Jake Blues」なんて曲もあります。この曲は Son Houseや Skip James、そして Charley Pattonなどが録音した「栄光の」スタジオ、Wisconsin州 Graftonの Paramountスタジオにまで出向き、1929年の12月にレコーディング(もち Paramountレーベルのために、ね)したものですが、その時のセッションが、彼の最後のレコーディングとなりました。

世界的な大恐慌が、Paramountの凋落ばかりか、レコード業界そのものにも打撃を与え、彼に録音の機会が与えられることがなくなってしまったのです。
メディシン・ショーや近隣のパーティなどでの演奏は続けていたようですが・・・
しかし彼の残した曲も唱法も奏法も、後のブルースには大きな影響を与えています。
例えばウルフの Cool Drink of Water Blues もそのひとつだし、 Houston Stackhouseはまだギターを覚えたてだった Robert Nighthawkに Tommy Johnsonのナンバーを教えていました。

その Tommy Johnsonが Mississippi州 Crystal Springsで死んだのは、1956年11月1日。
パーティーをした後に心臓発作を起こしたものです。生前、悪魔との契約や民間信仰の禁忌で武装していた Tommy Johnsonでしたが、遺骸は「普通に」Mississippi州 Crystal Springsの Warm Springsメゾジスト教会の墓地に埋葬されました。



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# by blues-data | 2005-12-20 11:49
Texas Alexander
1934年の Mississippi Sheiksとのものはそのバックも判っているのですが、それ以外の作品では、Lonnie Johnsonや、Little Hat Jonesなどもバックをつけていたようで、そこが「ヴォーカルのみ」、っちゅーこの Texas Alexanderならではの世界を作っています。

どっちかってえと、この年代で、ヴォーカルのみのブルースマンってのは明らかに少数派でして、ふつーはギターやらピアノ、はたまたハープなんぞを演奏しつつ「歌う」ってのが当たり前だったと思うんですが、どうやら、生涯いっさいの楽器とは縁が無かったらしいですね。
そして、その唱法ですが、特筆すべきは、かなりの「大声」だったらしいことです。
さらに、震えながら伸ばすあたり、ここらを「フィールド・ハラー」の遺産である、とする分析もあるようですが、ま、確かになにひとつ反響するものが無い野っぱらでは、このよーな唱法が遠達性(あるいは、「やっと届く」ギリギリの遠距離でも、なにかしら歌ってるらしい、と識別できる)という意味でもかなり効果があったのかも知れません。
例えば、ワタクシ個人としちゃあ苦手な部類になる Johnny Shinesあたりに、この唱法の残滓が見られるのではないでしょか?
ま、Johnny Shinesの場合は自分でギターも弾いていますから、その分ヴォーカルに向かう「集中力」みたいなもんは「薄い」とは思われますが。

この Texas Alexanderの No More Woman Bluesなどを聴くと、まさに「 Moan」という表現がぴったし来るような「重さ」に満ちて、上っついた調子を一掃しちゃいますねえ。
もっとも、歌ゼンブがそんな重さに沈んでいるってワケじゃなく、バックとからみつつ、語るように歌ってみたり、また Moanに戻りつつ、独特の世界を作っていきます。
Johnny Shinesが苦手、ってとこから想像されるとおり、この Texas Alexanderも、いささか敬して遠ざけていたとこがあったんですが、この BLUES日記を始めてからというもの、ケッコーあらためて聴いてみてるブルースマンが多く、そーやって聴いてみると、以前ほどヤでもないかな?なんて例も出てきております。
特にこのテのフィールド・ハラー系(?)とされる唱法にも次第に耳が馴れてきてるよな気もするんで、もしかすっといつの日か(?) Johnny Shinesも「いいなあ」と思える日がくるんでしょか?

Alger "Texas" Alexanderは 1900年 9月12日に Texas州の Dallasと Houstonを結ぶ州道 190号線のほぼ中間位置にある小さな町、Leon郡の Jewettで生まれています。
どのくらい小さい町か、ってえと、2000年の国勢調査では、人口が僅かに 861人(!)とありますから、その 100年前が「どんなに違っていたとしても」大都会だった、なんてワケはありません(実際、そんな劇的な「凋落」の歴史があったら、町についての記述に必ず加えられておるハズですが、そんな話しはいっこもございませんでした)。

ただし、その後、彼がいかにしてブルースを歌うようになったのか?ってえあたりの記述は発見できず、ただ、彼がレコーディングを開始した 1927年頃には、テキサス州内では第三の大河(あ、アメリカ的スケールでは「大河」なんて言えないようですが、それでも日本の信濃川よりも長いんですから、ワタクシの感覚としては充分に「大河」でございます。実際に一時期ケツに水車みたいのをグルグル回して進むスティーム・ボートも就航していたような資料も存在していますので、ミシシッピー河ほどじゃないにしても、ケッコーな大河ですよね)、Brazos河の氾濫原に残された三日月湖などを取り巻く湿地帯ではないか、と思われる(ここら、現地をまったく知らないで書いてますから、想像してるだけでして、実際には「ちゃう」可能性もありますが) Bottomlandってえあたりに居住していたらしいんですね。

1928年の 3月 9日に Texas州 San Antonioで Okehのための吹き込み( No More Woman Blues / Sittin' On A Log : Okeh 8624としてリリース)をしておりますが、レコーディング以前には各地のキャンプやピクニック、ハウス・パーティなどにも出張って歌っていたらしく、この時期には Blind Lemon Jeffersonとも交流があったようです。
その Okehへの録音はいったん 1920年代末で中断し、続いて彼が録音シーンに復活したのは1934年 4月 9日、同じく San Antonioで行われた Mississippi Sheiksをバックにしての Okehへの録音となります。
そして同日、Sax Black Tams(氏名不詳のアルト・サックス、クラリネット、ギター、ピアノからなる、彼自身のバック・バンドらしい)の伴奏で Vocalionにも吹き込んでいます。
続いては 1934年 9月29&30日、Texas州 Fort Worthで Vocalionに録音。

その後は 1947年まで、彼の録音は途絶えます。ただし、その間も歌っていなかったわけではなく、Lowell Fulsonや Howlin' Wolfなどとの活動は行っていたのですが、 1939年に Texas Alexanderは自分の妻を殺害した件で有罪となり、1940年から 1945年まで、(一説では Dallas市の Deep Ellum付近にあった刑務所だとか。Deep Ellumについては、Little Hat Jonesのとこで出てきておりますので、そちらをどぞ)収監されておりますが、出所後、Lightnin' Hopkins(親戚だそうで)とともに活動を開始し、さっそく Aladdinに一緒にレコーディングを行いました(としている資料もある一方、ここで Lightnin'は Aladdinによって Wilson "Thunder" Smithと組むこととなって Texas Alexanderとの関係は途絶えた、としている資料も多いんですよねー)。

彼の最後の録音は 1950年に Benton's Busy Beesをバックに録音したものですが、1954年 4月16日(ただし、異説もあり、それによると 1955年)、死亡しています。最後は Bottomlandで迎えた、また死因は梅毒の進行によるものだ、という説もありますが定かではありません。



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# by blues-data | 2005-12-15 00:26
Tarheel Slim
そりゃ Number Nine Trainもメッチャ調子よくてキャッチーだし、なかなかいいんですが、ワタクシの好みは Wildcat Tamerかな?
これも、バックでリフを刻むのはお馴染み Wild Jimmy Spruill。他のメンバーはちと判らないんですが、ピシピシと決まる重心が高い、でもスピード感溢れるリズムは洗練された中にエネルギーもあって、この「グイグイ」行く感じは快いですね。
彼のギターはけっこうプリミティヴなとこもありますが、それがかえってこの曲には合ってるよな気がしますよ。
とまあ、Number Nine Trainよりもこっち、ってえ方は他にもおられるよーで、エゲレスの KRAZY KAT 7430(1985)THE SWINGING SIDE OF THE BLUES - WILDCAT TAMER 1951-62ってえアルバムじゃあ、ご覧のとおりこの曲がタイトル・チューンになっております。
でも、このひともあんまり評価が高くないんですよ。ブルースマンとしての知名度もいまいちで、なかなか採り上げてもらえないんですが、もっと注目されてもいいと思うんですけどねえ。
海外のサイトのひとつでは彼を unsung heroeと表現しているのがありました。佳きたとえです。

Tarheel Slim( Alden、あるいは Allen Bunn)は 1924年 9月24日に North Carolina州のタバコ葉栽培農業地帯真っ只中の Winston( Bailey-Wilson)で生まれています。
彼は Nash Countyの Wilson郊外の農園で成長しました。母の Leonia Owensは教会で歌っておりましたが、彼にとって母の持っていたレコードで聴ける 78回転 SPの Blind Boy Fullerが大きな影響を与えることになるのは当然、というものでしょう。
父の Henry Bunnは古いギターを持っており、12才になった Aldenはそのギターを弾き始めました。すぐに彼は教会の催しなどでその腕を披露するまでになったようです。
1946年には、地方の放送局にも出演したりしていた信心深いヴォーカル・グループ、the Southern Harmoneersに重心を置いていました。
時期的には、重なっていると思われるのですが、彼はまた同州 Raleighの放送局 WPTFに出演したり、Nash郡あたりを中心に演奏活動を行っていた the Gospel Fourのほうにも在籍していたようで、そちらでは 1949年に Gothamに吹き込みもしています。
ただ、彼が Thermon Ruth( 1914.3.6 South Carolina州 Pomaria生まれ。The Selah Jubilee Singersとしてばかりではなく、The Larksで「My Reverie 」や「When I Leave These Prison Walls 」、The Harmonizing Fiveでの「That Awful Day In Dallas 」なども残している。2002.9.13死亡。Group Harmony Association Hall Of Fameに選定されました。 http://www.group-harmony.com/ThereJub.htm)に出あったのはそれに先だつ 1947年のことで、まもなく彼はこの伝説的なグループ、the Selah Jubilee Singersに加わっています。彼はグループのギタリストとして、またセカンド・リード・ヴォーカルとして当時このグループを経由して行った Napoleon Brown(後の Nappy Brown: 1929年 North Carolina州 Charlotte生まれ。若いころから数多くのゴスペル・グループを経験する。1950年代に入り Savoyと契約、かなりの人気を得る。1950年代後半は何度も R&Bチャートに登場、「Don't Be Angry 」、「Pitter Patter ( 1955)」、「It Don't Hurt No More ( 1958)」、「I Cried Like A Baby ( 1959)」などがヒットしました。しかし忘れてならないのが Ray Charlesの「Night Time Is The Right Time 」のオリジネイターである、ってことでしょう。あ、カンケーないけど、ワタシもこの曲やってますよん。その後 Elephant Recordsに移るけどパっとせず、Landslide Recordsで 1984年に入れた『Tore Up 』で注目を浴びる。それを受けてツアーに出るのですが、そのバック・バンド the Heartfixersには Tinsley Ellisがギターでいました)とも出合っていたのではないでしょうか。

Jubilee Singersはニューヨークを中心とした活動をしていたのですが、この時期、彼らは複数のレコード会社と「違った名前」で関係しております。
Capitolには the Selah Singersとして、Signatureには the Cleartonesの名前で、Cross and Lee-labelsには the Sons of Heaven!まあ、ケッキョク、それほどは売れなかった、っちゅうハナシもありますが、前述の Thermon Ruthは、心気一転、新しいブランドで(?)っつうことで the Jubilatorsというバンドを作ります。結成直後にバンド・コンテストで優勝し、50ポンド( 22.68kg!)もあるデッカいケーキをカクトクしております(うぷぷ、メンバー 5人で分けても一人 4.4kg!ま、家族のいるひとならモンダイ無いか?)。
1950年 5月10日、ニューヨークで例によって同じ日に四つの違うレーベルにそれぞれ違う名前でレコーディング( the Southern Harmonaires→ Apollo、the Selah Singers→ Jubilee、the Jubilators→ Regal、the Four Barons→ Regent-Savoy)をしちゃったのですが、やはりねえ、「悪はホロビる」っつうか、コトは露見して、Bess Bermanの Apollo Recordsが、他のレーベルに入れた録音の権利をすべて押さえてしまったのでした。
さて、ここで Alden Bunnに光りが当たります。
Got To Go Back Again( / Lemon Squeezer )が Thermon Ruthとバリトンの Eugene Mumfordを従えるカタチで歌われたのです(ついでながら Bサイドは David McNeilがソロ)。そして、Bess Bermanの意向( ゴスペルよりも、R&Bか Doo-Wopとして売りたい?)を受けて、グループは Five Larksと改名しています。
これが当たり(?)1951年から 1952年にかけて Five Larks(メンバーから Hadie Roweが抜けたために「 Five」が無くなり、タダの the Larksとなっていましたが)は Apolloに 11枚のシングルを吹き込んでいます(他にマヘリア・ジャクソンのバックも務めています)。

有名な「Eyesight To The Blind 」では Alden Bunnのリード・ヴォーカルが聴けます。1952年には Percy Mayfieldのツアーに参加、中西部から南部をまわりました。
放送関係では Zeke Manners Show、Ted Steele Show、(まだ TVに移る前の) Perry Como Showなどにも出演。
しかし、この時期を最期に Larksの活動も終り(ただし 1954年に再結成と称して Apolloに吹き込みをしていますが、この時にはオリジナル・メンバーはバリトンの Eugene Mumfordただひとりでした)、Alden Bunnはソロとしての活動を開始しています。
まず Allen Bunn & his Trioあるいは the Allen Bunn Orchestraってのを作ってバッキング・スタッフとして Apolloにブルースのレコードを吹き込みはじめました。

彼が最初に伴奏を手がけたのは、ピアノの Wilbert "Big Chief" Ellisで、次がハープの Sonny Terryとギター Brownie McGheeのコンビです。
続く二枚のシングルではハープの Sonny Terryを Bobby Smithのテナー・サックスに換えてモロ R&B色の強いものに仕立て上げました。
1953には Bobby Robinsonの Red Robin-labelに My Kinda Woman、その裏面としてToo Much Competitionを吹き込んでいます。ただこのときのシングルはあまり売れず、Aldenはほぼ 3年間、スタジオから姿を消します。

1956年、Aldenは Joe Leibowitzの Premium Recordsのスタジオ・ミュージシャン&アレンジャーとして帰って来ました。
同時にジャンプ・ブルース系のヴォーカル・グループ the Wheelsのマネージャーであり、専属ギタリスト(歌ってまへん)でもあったようで、Premiumに三枚のシングルを録音しています。この the Wheelsは後に the Federalsと名を変えて Premiumから離れてゆくのですが、その際、Aldenは彼らとの縁を切っています。
その替わり、と言っちゃあなんですが、そのころ付き合っていたカノジョ(?)、歌手の Anna Lee Sanford(そ、Little Annね)と再婚(最初の結婚がいつ、ダレとだったのか、それがどーなったのかも不明です)し、カノジョとカップルを組んで Aladdin傘下の Lamp Recordsにまるでその二人に相応しいかのよな「 Lovers」名義で録音を始めます。

1958年には二人は古巣(?)の Bobby Robinsonの元に帰り、彼の Fire、Furyそして Enjoy-labelsに吹き込みを開始しました。この頃には、生まれ故郷の North Carolinaからいただいたアダ名「 Tarheel Slim」を名乗るようになっております。
この時の録音は Tarheel Slim and Little Annあるいは Slim and Little Annという名前で出ていますが、有名な Number Nine Trainと、Wildcat Tamer( Fury 1016)では Tarheel Slimの単独名義となっております。

二人の Fireでのファースト・シングル It's Too Late(キャロル・キングのじゃないよん)は R&Bチャートにも顔を出しましたが、他はそこまでにも到達しなかったみたいですよ。
1960年代中頃には二人で「ソウル・ミュージック」への進出を試みていますが、それは二枚のシングルで終りました。ただ、Tarheel Slim個人としては 1963年の Two Time Loserに Goodnight Ireneをカップリングした Atco 6259や、Close To You / I Submit To You( Port 3001)などが地道に活路を開いて行きつつあり、ロックンロールのとば口まであと一歩、とゆうところだったのでしょうが・・・

1970年代の初め、New Yorkの Trix Recordsのオーナー Pete Lowryが Tarheel Slimにカムバックを薦め、1974年までに彼は最後期の録音を行いました。そこでは彼の出発点ともなった、あの Blind Boy Fullerの音を髣髴とさせるアコースティックなブルースが納められています。
まず 1970年11月29日、New Jersey州 Montclairを訪れた Tarheel Slimは伴奏者も無しで 4曲 Walkin'、Some Cold Rainy Day、Weeping Willow、180 Daysを録音し、この四曲目だけが最後の LP、No Time At All( Trix LP 3310)でリリースされています。
その LPの方は同じく New Jersey州 Montclairで 1971年 1月23日、NYの Brooklynで 1972年 3月17日、同じく NY、Cottekillで 1974年 9月22&28日に録音されたものですが、そこには旧友の "Big Chief" Ellisや Brownie McGhee、そして新進気鋭のギタリスト Dan Del Santoも参加しています。
1976年には Trixにニュー・アルバムとなるハズだった録音を開始しましたが、ついにそれが陽の目を見ることは無かったようです。

Tarheel Slimこと Alden Bunnは喉頭癌のために 1977年 8月21日、Montefiore Hospitalで永眠いたしました。
彼の遺骸は New Jersey州 Fairlawnの Fairlawn Cemeteryに埋葬されています。



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# by blues-data | 2005-12-12 22:37
Tampa Red
Tampa Redこと、Hudson Woodbridge( Whittaker)は、1900年の12月25日(本人は1908年生まれ、と称してるんだって。あ、ktateさんの人名辞典じゃ1904年1月8日説を採用しているようです。他に同じ1月8日ながら、1903年説もあります。さらに1903年ということでは、10月16日説も!)、ジョージア州の Smithvilleで生まれています。
しかし幼くして両親を失い、フロリダ州 Tampaの祖母のもとにひきとられ、Whittakerはその祖母の姓 だったようです。
シカゴに出た時期については異説があり、1918年とするもの、また1925年あたり、とする解説もあります。でも Tom Dorsey(Thomas A. Dorsey=Georgia Tom)とシカゴで活動をともにし始めたのは1920年代の半ば以降ってことでは一致しているようです。
1928年の「It’s Tight Like That」がヒットしたおかげで翌年には17枚の SPをリリースしてますね。そっから戦後の1953年までの間に(途中ミュージシャン・ユニオンのストライキによる空白期はあるものの)実に 300曲以上(!)の録音をこなしています。この、チョー多作なとこも、Tampa Redが渋好みのブルース・マニアから軽んじられる理由なのかもしれませんねえ。

でも「It’s Tight Like That」を始め、「Anna Lou Blues(後に"Anna Lee"としてカヴァーされる)」、「Don’t You Lie To Me」、「It Hurts Me Too」などのオリジネイターであり、ルシール・ボーガンの「Black Angel Blues」もタンパ・レッドが採り上げたヴァージョンが契機となって Robert Nighthawkや B.B.Kingの録音が誘導された、と見ることが出来ます。その意味でも、ブルース界にとって、かなり大きな存在だった、と言えるのではないでしょうか?

1955年に愛妻が死んでからは第一線を退き、一時期、「再発見」されかかったりしてましたが、1981年に他界するまで、ついに隠遁生活(?)を通したようです。彼がヤル気を無くして「宙に浮いた」そのバック・バンドを構成していた、Little Johnny Jones(pf)、Odie Payne(ds)、Ransom Knowlingに J.T. Brown(b)あたりが、そのまま Elmore Jamesのバック・バンドとして活動しました。

収録アルバムは『Tampa Red Slide Guitar Classics』 P-VINE PCD-5764など。



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# by blues-data | 2005-12-12 22:12

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