Tail Dragger
Arkansas州の州都 Little Rockから南南東におよそ 70kmほど離れた Pine Bluff、さらにそこから北東に 20kmほど行ったところにある人口1000人ほどの(しかもその 88%ほどが黒人という、白人にとっては「住みづらそうな」)小さな町 Altheimer( Louis Altheimerっちゅうひとが開いた町なんだって)で 1940年に生まれた James Yancy Jonesは、ホウキの柄にワイヤーを張った「ギター」で練習にハゲんでいたらしいのですが、クルマを修理しているときに指をツブしてしまい、ギターをあきらめています。
それでも彼は Portable Radio hidden under his pillowって言いますから、夜な夜な放送を聴きまくってはブルースを「学んだ」ものでしょう。
ただ、当時の彼の仕事は、重機の整備や大型トレイラーの運転でしたから、「音楽で身を立てる」、にはほど遠い生活だったようです。

1960年代、Chicagoに出て来た彼は、ブルースの嗅跡を追って(?)みごと Howlin' Wolfのもとに辿りつき、それからはウルフにべったしで、その歌い方もまさにウルフそのもとなって行ったのでした。当初、彼は "Crawlin'" Jamesと呼ばれていたようですが、そんな彼に "Tail Dragger"っちゅう名前を付けたのはウルフだったそうです。またウルフは彼のことを、将来、オレの場所に替わりに座るのはコイツだ、と言ったとか( One day this boy gonna take my place)。
それでも、まだ彼はブルースだけで喰っていけたワケじゃなく、毎度お馴染みのデイ・ジョブの傍ら、そのような活動を続けていたようです。

おそらく 1980年代からシングルのレコーディングは始めていたようですが、アルバムでは 1996年の Crawkin' Kingsnake がファーストでしょう。
American Peopleは、1998年の秋に Chicagoで録音された彼のセカンド・アルバムということになります。
・・・と書いてみると、ま、ブルース界じゃフツーのパターン、とも思えるのですが、実は、途中でちょっとしたことがありまして。

マメに板をご覧になっている方なら御記憶に残っておるやもしれませんが、えどすりちゃま情報で、重要なことがひとつあったんですねえ。

それは 1993年のこと、あるブルース・フェスで上がった収益の配分を巡って口論となった末に、彼は Boston Blackieというブルースマンを射殺してしまったのでございます。
ただ、検察側も、この事件に関しては「偶発的な」要素が大きく、単に威嚇しようと銃を向けたものが「誤って」発射されたものである、との見解に傾き、通常の殺人罪の適用は見送ったため、いわゆる刑務所ではなく、Illinois州立の矯正施設での 4年間という判決が決定したのでした(つまり「非行中年?」扱いでんな)。
そして明日からはそこに入るぞー!っちゅう夜に、えどすりちゃまは彼のライヴを見ておった、っちゅうワケですね。そのえどすりちゃまの描写、「眼光鋭く歌う Tail Dragger」ってのが実にいいです!

もちろん今じゃリッパに更正して(?) Chicagoのウエスト・サイドのクラブでギグにハゲんでおられるようでございます。

そしてそんな彼のギグを収録したライヴ DVD、TAIL DRAGGER: MY HEAD IS BALDが 2005年末に Delmarkから発売され、日本のファンたちにも、その雄姿(?)をお披露目することとなったのでした。
詳しくは拙日記*で!



reserched by Othum: Blues After Dark


注!この下に表示されている広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり、当方は
その商品やサービスを「一切」推薦しているものではありません。






[PR]
# by blues-data | 2005-12-12 22:02
Tabby Thomas
さて、Hey Bartenderと言えば、そりゃもう「あの」ジョン・ベルーシ & ダン・エイクロイドをフロントに、マット・マーフィー、スティーヴ・クロッパー、ドナルド・ダック・ダンにトム・マローンてなツワモノどもを配した大プロジェクト(?)、Blues Brothersが真っ先にアタマに浮かぶのはこりゃもうとーぜんでございましょう。
あの、揃いの「 Men In Black」そのままに黒のスーツにサングラス、ハープがギッシリ入ったスーツ・ケースを手錠で手首とつなぐ、なんてえ演出も実にツボにはまって、あの当時はブルースなんてそれまで聴いたことなんてなかった人までも、Blues Brothersなら知ってる、っちゅーブームを巻き起こしたものでございました。
特にあのファッション、あるいはコンセプトが日本のポップ・シーンにも数々の影響を与えたのは、みなさまもご存知の通りでございます。

がっ!(と別にリキむほどのことではございませんのですが)本来の Hey Bartenderはそれとはちょっと、いえ、いささか、いやいや、そーとーに違っております。
あんなメリハリのあるビートの強い仕上がりじゃなく、むしろ 4ビート系の流れるようなバックに、これまた、けっこうメローでジャズィな(?)Tabby Thomasのヴォーカルが乗って、もっとバーっぽく(?)なっております。
でも、この Tabby Thomasはん、EXCELLO DBL28025のTHE EXCELLO STORY に収録されてる Hoodoo Party( 1962年 Crowley録音、バックにはハープの Lazy Lester、ピアノの Katie Webster、そして歌えるドラマー Warren Storm─Mama Mama Mama Look What Your Little Boy's Done Nasco 6015─などがバック)では、もっとリズムの強いブレイクたっぷりのダンサブルな R&B系ナンバーやってますから、それからすると、このツルんとした Hey Bartenderでのテクスチュアはちょっと距離があります。

ただし、アルバム Swamp Man Blues( 1999年 Aim Records 1203)は、そのタイトルにも関わらず、かなり総花的な、カントリー・ブルースっぽいのからステディなブーギ、さらにガンボっぽいのまで、なんでも突っ込んである、みたいな作りになってるよな気がいたしますから、ちょっと一筋縄では行かないのですが。
この Hey Bartenderも、どれ、ちょっとおじょーひんなバーの雰囲気でも、なんてノリだったのかもしれません。
そんなワケで、あまりに Blues Brothersのとちゃうので面食らう方もおられるかも。

Ernest Joseph Thomasは 1929年 1月 5日に Louisiana州 Baton Rougeで生まれています。なんでか、子供のころは T-Booと呼ばれていたらしく、それが後に Tabbyとなったもののようでございます。
祖父は地区の教会の創始者のひとりだったようで、その縁で彼も教会の合唱隊に加わるのですが、母は当時 Victorolaを持っており、それで Son Houseなどをよく聴いていた、といいますから、ここでも聖と俗の絶妙な(?)ブレンドがあったのでしょうね。

やがて高校に進んだ彼は McKinley High Panthersの QB(クォーター・バック)となったのですが、ここでのボール扱いの見事さ(ズルさ)から Tabby(ぶち猫)と呼ばれるよーになった、と本人はインタビューで語っております。
この頃の彼はフット・ボールに人生を捧げる、くらいの気持ちになっていたそうですが、Good Rocking Tonight の Roy Brownを見たことで大きく方向を転換することになったのでした。
それからというもの、B.B.や Lowell Fulsonの演奏に通い、どんどん感化されてったんでしょね。

高校を卒業後、彼は空軍に入っています。この間の彼は基地にあるフット・ボール・チームでクォーター・バックを務め、かつ、基地内のクラブで唄うことも続けていました。
後に配属された California州 Riverside基地での勤務を最後に彼は退役したのですが、その土地の居心地の良さから、西海岸にとどまったようです。
彼は San Franciscoの、ミュージシャンが多く暮らしていた、と言われる Gary Streetに住むようになり、そこで知り合った仲間に薦められてタレント・ショーのオーディションを受け、地元局 KSANの DJ、Fatso Berryの目にとまり、そのまま Ellis Theaterでのコンテストにも出場することとなりました。そこでは Etta Jamesも打ち負かし、僅か 15$の賞金ながら、グラン・プリを獲得しております。

当時の彼は靴屋の店員をしていたらしいですが、昼休みの時間に遊びに行ったスタジオでは Larry Williamsがレコーディングをしており、ちょうどそこに居合わせたプロデューサーの Ollie Huntが、前述のコンテストで優勝した彼に気がついて、一曲唄わせてみることにしたのでした。
この時の録音は Hollywood label RIH 237Midnight is Calling / I'll Make the Trip ( B面は次の日の昼休みに録音!)としてリリースされ、San Franciscoのジューク・ボックスから流れ出すこととなります。この時、全部で 6曲以上を吹き込む契約を結び、その対価として 150$を獲得!
しかし、その直後、彼は未成年の女子との淫行(!)によって有罪を宣告され、刑務所に収監されてしまいました。刑期は二ヶ月という短いものではありましたが、これを機に彼は西海岸を去り、Baton Rougeに戻ったのです。

ところで、その彼の西海岸でのシングル、RIH 237の B面I'll Make the Trip を自分の番組のテーマとして使っていた地元( New Orleansね)の DJ、Ernie the Whipのおかげで、そこそこの知名度は保たれていることを知った彼は、西海岸以来の友人でブッキング・エージェントでもある Alex Shawの助力を得て「酒」への依存も断ち切り、立ち直ることに成功したのでした。
そうして迎えた前述の Jay Millerによる 1962年の Crowley録音のHoodoo Party Excello 2212が彼の最大のヒットとなったのです。

しかしその後も彼は昼の仕事を続けたらしく(結婚─1953年に Jocelynという女性と─して子供が出来たもんだから、育てなきゃならん。苦しいときなんて、辻強盗しようか、なんて思ったくらいさ)、特に 1970年代のディスコ・ブームでは Baton Rougeのブルース・シーンはすっかり下火になってしまったらしく、不遇の時代でもあったようですが、彼はそれに逆らうかのように空きビルを借りて「ブルース・クラブ」をオープンさせました。

この 1980(alt.1983)年に出来た Tabby's Blues Boxは、なんせド素人が始めた店ゆえ、酒類販売許可証の必要性すら知らず、それを教えてくれた客(後に彼の弁護士となった John Digillio)などに助けられ、それでも次第に地域に根を降ろして Tab Benoitのようなミュージシャンを生み出していったようです。
やがて、この店は Baton Rougeでも重要な存在となり、地元局 WBRH-FMに自分の番組を持つまでになりました。

彼の音楽についての自己紹介─"Semi-laid-back jump rockin' blues with a little touch of jazz in it"─これにはホント笑っちゃいましたが、まさに Hey Bartenderなんて、この表現がピッタシじゃございませんか

2002年の 10月には New Orleansで自動車事故のため重傷を負ったようですが、今では彼の息子、Blues-rock/rap fusion(なんじゃそりゃあ)ミュージシャン Chris Thomas Kingの「父」として名前が出てくる時代になりつつあるようです。
ま、ワタクシはその Chris Thomas Kingっての聴いたことはないんですが。



reserched by Othum: Blues After Dark


注!この下に表示されている広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり、当方は
その商品やサービスを「一切」推薦しているものではありません。






[PR]
# by blues-data | 2005-12-12 21:48
Sylvester Weaver
Mr. Freddieのところでも触れましたが、録音の残ったブルースの歴史として

1923年には Ma Raineyや Bessie Smith、Clara Smithに Rosa Henderson。さらに Lucille Boganも録音されています。ただ、この年にはインストながら Sylvester Weaverも録音してて、その中の Guitar Ragは云々・・・
と、紹介いたしましたが、たしかに歌ナシとは言え、この Sylvester Weaverが、初めて「メインとして」録音されたブルース系の男性ミュージシャンであることに変わりはございません。

Sylvester Weaverは 1897年、Kentucky州 Louisvilleで生まれています。
その彼が歴史上に登場するまでの期間についてはあくまで推量の域を出ないものの、おそらく彼にほぼ10年先駆けた Arnold Shultz*からも影響を受けた可能性があり、さらに Earl MacDonaldや Clifford Hayesに率いられた the Louisville Jug Bandsからもなんらかの影響を受けていた可能性があると思われます。
いずれにしても Appalachia山脈に近い地域では、独特のフィンガーピッキング・スタイルが熟成されていったのですが、やはり、そのキー・パースンとも言うべきなのが、この Sylvester Weaverだったのではないでしょうか。
そして、Mr. Freddieのところでも書いたとおり、彼こそがメインとして最初にレコーディングした「ブルース・ギタリスト」であることは(現在、判明している限りでは)マチガイないようです。
1923年の11月 2日、Guitar blues ( 71996-B→Agram AB 2010に収録)と Guitar rag(71997-B→Agram AB 2010)を吹き込みました。どちらも歌無しのインストですが、Guitar ragは白人のカントリー系ミュージシャン、Leon McAuliffeによってリメイクされ Bob Wills And His Texas Playboysの「Steel Guitar Rag 」として1936年に(再?)ヒットしています。
また1924年の 5月28日に録音された Weaver's blues( 72582-A→HK HK 4005)と Smoketown strut( 72585-A→Agram AB 2010)のうち、後者の Smoketown strutは、Cをキーとした低音弦のシンコペーションを伴ったフィンガーピッキング・スタイルの原型として、後には、より洗練された形で、これもブルーグラス系のプレイヤー、Earl Scruggsに Merle Travisに受け継がれて行っています。

*Arnold Shultz、Kentucky州 Ohio Countryで1886年生まれのフィドル&ギター奏者。
主にケンタッキー州の西部で活動していました。当時この地区では、少なくとも音楽シーンにあっては人種間の障壁が低く、充分な交流がなされていたため、彼は白人のハウス・パーティにも招かれ、そこで白人系の楽曲を演奏する機会も多く、それが独特の「 Kentucky finger style」を生み出した、とする説もあります。
事実、この時期にまだ若かった Bill Monroe(トラディショナルなブルーグラスの第一人者)とも会って交流したようです。また多くの白人の(特にカントリー系の)ギタリストたちにも影響を与えたとされています。
ただ、残念ながら、そのような口承はあるものの、自身の録音が存在せず、ケンタッキー大学の Charles Wolfeの著書によれば、その演奏を聴いたコトのある人の証言では、Blind Blakeに匹敵する、とされています。


しかし、判っている範囲では、Sylvester Weaverは Guitar rag( 2 Nov.1923)吹き込みのほぼ 2週間前の10月23日にヴォードヴィル・ブルース・シンガーの Sara Martinのギター一本での伴奏者として「Longing for Daddy Blues 」と「I've Got to Go and Leave My Daddy Behind 」の 2曲をこれも Okehに吹き込んではいるのですよ。
そのギター一本での成功がメインとしての吹き込みの契機になったものでしょう。結局1927年まで彼は Sara Martinのバックを務めていたようです。
一方、彼自身の吹き込みは 26曲におよんでいますが、1927年 4月12日には Six-string banjo piece( Weaver stomp) という曲を吹き込んでいますから、6弦バンジョーの奏者でもあったようです( Library of Congress LBC-14に収録)。
1927年の末に彼は音楽から引退することを決意したようですが、それまでに自分名義のものの他に、Walter Beasley(ジャズのサックス奏者じゃないよん)とのギター・デュオでの吹き込みもあります。New Yorkでの生活を離れ、彼は Louisvilleに戻り、そこで新たな生活に入っていきました。
そして1960年の彼の死まで、その存在はすっかり忘れられていたようです。しかし、1992年、Kentucky Blues Societyは基金を立ち上げて彼の墓碑を建立し、さらに毎年、Sylvester Weaver Awardをブルースに貢献した個人に贈ることを始めています。彼の名はこのようにして、今後も残ってゆくこととなったのでした。



reserched by Othum: Blues After Dark


注!この下に表示されている広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり、当方は
その商品やサービスを「一切」推薦しているものではありません。






[PR]
# by blues-data | 2005-12-02 00:02
Sugar Boy Williams( Jody Williams)
Sugar Boy Williamsこと Joseph Leon "Jody" Williamsは、1935年 2月 3日、Alabama州で生まれています。ザンネンながら、それ以上詳しい出生地の資料は発見出来ませんでした。Chicagoには 6才の時に来ている、とありますから、モチロン自分の意志じゃあなく、家族が揃って北上してきたものと思われます。時あたかも第二次世界大戦にアメリカもひきずり込まれることになる Pearl harborがその年の12月 7日に控えているワケなんで、その後どのよーな少年時代を過ごしたんでしょね?イロイロ資料を漁ってみたのですが、その時期に触れた記述が見当たらないんですよ。
いつも、こーやってそのブルースマンのおイタチ・・・じゃなかった生い立ちを追ってって、イチバン面白いのがその辺りなんですが。
どうやってデビューしたのか、そのブレイク・ポイントが「知りたい」ワケです。
したがって、デビューもハタし、だんだん有名になってって、次々アルバム出すコロのハナシはあましキョーミが無い、っちゅーか薄れちゃってるんですよ。ま、うすうす感づいておられる方もおられるでしょうが、BLUES日記でもその辺は手を抜いてます。
だからこの Sugar Boy Williamsこと Jody Williamsみたく、どーやってギター弾くようになったのか?どうやって弾けるようになったのか?なんてえトコがドカっと脱落してるとヒジョーにサビシいざます!

ま、それはともかく、1951年には Chicagoの街頭で Bo Diddleyと一緒に演奏していたそうです。
計算ではまだ16才ってことになりますね。それが1950年代の中頃には、その Bo Diddleyの初期のナンバーのセッションに参加してもいますが、彼の名がブルース・シーンで「知られる」ようになったのは、やはりウルフのバンドに一時在籍していたことが大きいでしょう。
そこで彼が関わったナンバーとしては、Forty Four Evil Who Will Be Next が挙げられます。ただし、ウルフのバンドにあっては、後から登場した Hubert Sumlinにその座を譲っているのは皆様ご存知のとおり。
Hubert Sumlinはインタビューで、「ウルフが紹介してくれて、( Jody Williamsに対し)『こいつ(つまり Hubert Sumlinね)にイロイロ教えてやれ』って言ってくれて、Jody Williamsはオレにギターの弾き方とかを教えてくれるんだが、どれももう知ってるコトか、オレのほーが知ってるようなもんだった」、だそうでございます。
ま、そこら、ブルースマンはみんな(は語弊があるか?)ホラ吹きだから、このハナシもどこまでホントだか判りゃしませんがね。
それでも1950年代後半から1960年代の前半にかけて、Chess、VeeJay、Cobra、そして Mercuryなどのレーベルにサイドマンとしての仕事を残しています。
Billy Boy Arnoldの I Wish You Would 、Jimmy Rogersの One Kiss 、そして前述の Bo Diddleyとは Who Do You Love I 'm Looking For A Woman をレコーディング。
そのようなサイドメンとしての仕事とは別に、1955年には Little Papa Joeとして Looking for My Baby を、1957年には Little Joe Lee(この Leeってのは Leonから来てるんでしょーか?)として例の Lucky Louと You May、さらに1960年には Little Girlと Five Long Yearsを Argoに Sugar Boy Williamsの名前で吹き込んでいます。
この最後の二曲は Red Lightnin'の When Girls Do It に収録された、っつーワケ。

でも、彼はそんな自分の音楽的素養にギモンを持ったのか(一説では Otis Rushに特徴的なリックを盗まれ、さらに Micky Bakerにも彼が Billy Stewartのために作ったリックを盗用されて、このビジネスにすっかり嫌気がさした、としてる資料もありますが)、『Red Lightning』と名付けられた1962年製 Gibson ES-345TDをケースにしまい込み、ベッドの下に押し込んだまま、コピー・マシーンの Xerox社のエンジニアとしての生活を選んだのです。
こうして彼は James Walkerに言わせれば「シカゴ・ブルースの失われた環( the missing link in Chicago Blues)」となったのでございますよん。

月日は流れ、その間に彼は家族との生活を確立し、シカゴのサウスサイドに家を買い、完全に音楽業界からは姿を消してしまいました。そのため、事情を知らないブルース・ファンは彼がすでに死亡しているもの、と思ったようです。
1994年に Xeroxの技術者としての仕事を退き、老後(?)の生活を考えたときに、ふたたび音楽に関わることを決意したようで、当時の彼のドラマーが保存していた1964年当時の録音テープを聴くことが出来た時、思わず「もう、こんな演奏は二度と出来ないのだ」と涙が止まらなかったといいます。しかし、彼は後にインタビューで「ブルースはここ(アタマ)とここ(ハート)にある。ただ手が衰えてしまっていた」と答えた通り、かなりな努力でスキルを取り戻すことに集中し、まずは当時の音を再現することを目標に練習を重ねました。
こうして彼は往時のプレイアビリティを復活させることに成功し、まず Netherlandのフェスティヴァルに出演し、ついには2001年の Chicago Bluesfestでのスタンディング・オヴェーションを味わうこととなりました。

その年の秋には彼とプロデューサーの Dick Shurmanはスタジオに入り、彼にとっての「初の」ソロ・アルバム Return of a Legendを製作しました。
実に 40年の年月を超えて Lucky Louや You Mayが蘇ったのです。
このアルバムには Sean Costello( b.1979, Philadelphia, Guitar & Vocal, Landslide Recording Artist)、Rusty Zinn( b.1970.4.3,Long Beach, CA. Guitar/Singer-songwriter, Alligator Recording Artist )、Tinsley Ellis( b.1957, Atlanta, "I'm a rock and roller who plays the blues,")、さらに古い馴染みの Billy Boy Arnoldまでがヴォーカルで参加しています。

現在はそのかっての職業のなせるワザか、エレクトロニクス系のガラクタ(?)に囲まれて、ハイド・パークのアパートに住んでいるようですが、2002年にはお馴染みのパーク・タワーのために来日しております。この時に抽選で見事にギターが当たった幸運な方が、なんと「ぶるうすまにあの巣」公開セッションに「二人も」揃ったのでございました。


reserched by Othum: Blues After Dark


注!この下に表示されている広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり、当方は
その商品やサービスを「一切」推薦しているものではありません。






[PR]
# by blues-data | 2005-12-01 23:26
Sam Chatmon
1897,JAN.10 - 1983,FEB.2
Mississippi州の Boltonで、Chatmon Strings Bandとして知られていた有名な「音楽一家」に、11人の息子たちの一人として生まれていますが、その何番目なのか、また女の子はいなかったのか?などについては不明でございます。
ただ、父の Henderson Chatmonは「最初の」結婚で、その妻との間に(人数などは不明ながらも)すでに、多数の子供を作っており、その後、再婚した次ぎの妻との間に生まれたのが上記の 11人である、としている資料もございますので、そーなると異母兄(&姉?)がはたしてどんだけいたものか?あ、そっちのほーは「音楽」とは関わりが無かったんでしょか?
ま、それはともかく、その子供たちはそれぞれ音楽の道に進むのですが、1920年代の中頃から the Mississippi Sheiksの名のもとに活動を開始しておりますが、その音が録音されたのは the Beale Street Sheiksに遅れをとって 1930年代に入ってからのこととなります。
この「 Sheiks」というコトバそのものは映画俳優のルドルフ・ヴァレンティノ主演の映画から来たそうですが、映画、中でもアメリカの映画には「冷淡」なワタクシにその由来など判るハズもございません。本来ならアラビア圏における「首長・族長」などを表すコトバなんですが、アメリカでは「色男」ってえイミになっとるよーで、それがその映画以降なのかどうかも判りまへん。
とと、また脱線してましたねえ。
えー、その兄弟の中から双子の兄のひとり Lonnie( 1888 - 1942、双子のもひとりは Laurie)のフィドルとその友人のギタリスト Walter Vinson、そこに Samも加わって活動していましたが、多くは街頭で、あるいはパーティなどでの演奏だったようで、たとえばマディなども、「彼らの演奏がある、と聞けば 10マイル歩いてでも聴きにいったよ」と回想するほど、有名な存在でもありました。Sitting On Top of the World のオリジネイター(あるいは「レコード史上に浮上させた」かも?)と言われています。


reserched by Othum: Blues After Dark


注!この下に表示されている広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり、当方は
その商品やサービスを「一切」推薦しているものではありません。






[PR]
# by blues-data | 2005-11-24 10:43
Speckled Red
決して粗野というのではないけど、シルキー・スムースとはとても言えないゴツゴツしたテクスチュアの「ガリゴリ系(?)」の硬骨ピアノ・ブーギに乗せてちょっぴりいかがわしさを匂わせた、ぶっきらぼうな歌いっぷりがこれまたいい味を出しています。ピアノの「弾き語り」なんて言うと、もっとしっとりした情感を連想しがちでしょうが、ことブギウギ・ピアノではそんなコトは「ありえません」ねん。たったひとりで弾いて歌って、こんだけパワフルなんですから、これだったらランバー・キャンプとかの酔っ払いどもの騒音に勝てるかも。

Rufus G.Perryman(ミドル・ネームの「 G」がなにを略したものかは判りませんでした)は 1892年10月23日、Louisiana州の Monroeで生まれています。彼と彼の弟( William─1911年生まれ、Rufusとは 19才も離れている。兄弟は全部で 4人、他に姉妹が 4人いたらしい。父は Henry Perrymanで、Williamが生まれた時には一家は Georgia州の Atlantaから 32マイルほどの Hamptonにいた。しかし、姉妹の一人をかばって父が農園主に銃を向けたため、そこにはいられなくなり Atlantaに移っています。そして、すでに成人していた兄の Rufusと父の二人が働きに出ていたようです。その兄は 1921年に Detroitに発って行ったあと、まだ学校に行っている間からピアノ演奏でカネを稼ぐようになり、徐々に Atlantaでは知られた存在となって行ったようですが、そのピアノは兄の影響ではなく、Fats Wallerの影響なんだって。そして、もうすっかり「お馴染み」、Blind Willie McTell、Barbecue Bob、Charlie Hicks、Buddy Mossに Curley Weaverといったギタリストたちとも交流をするようになっています。1950年には初吹き込み、以後「You Got the Right String, Baby (But the Wrong Yo-Yo)」などをリリース。ついにはヨーロッパ・ツアーを行うまでになりました。1985年に死亡)は遺伝的な色素異常で、ともに黒人でありながら白い皮膚と「赤い」髪をしていたため、どちらも「〜 Red」という名を貰うこととなりました。彼は Speckled Red、弟のほうは Piano Redとして有名になります。

弟の Piano Redのインタビューによると、Rufusが Detroitに向かったのは 1921年となっていますが、1925年、とする資料もあります。
あ、そうそう、弟の Piano Redが生まれる前ですから、彼が知るハズのない点ですが、どうやら幼い時期を Detroitで過ごした、という資料もあります。それが、第一次世界大戦の間、Georgia州 Hamptonに「戻り」教会の足踏みオルガンを弾いていたのだ、と。
「戻り」とあるからには、それ以前にも Hamptonにいたことがあるのでしょうか?
はたして、そんなに頻繁に行ったり来たりなんて出来るもんでしょか?
もしかすると「前後」の記述に混乱があるのやもしれません。
それはさておき、1920年代の始めには Atlantaにいた、というのが弟のインタビューと符合いたします。そこからさらに Detroitに戻ったようですが、ただし、まだ音楽で喰ってはいなかったようで。
やがて南部諸州を放浪し始めたらしく、Jim Jackson(おそらく 1884年の生まれ。Mississippi州の、Memphisから 20マイルほど南の Hernandoという小さな町の農園で育ったようです。彼のギターは父から教わったようですが、Frank Stokesからも影響を受けているとされています。1905年にはシンガー、ダンサー、そしてギター・プレイヤーとして medicine showに雇われました。当時の medicine showは色々なエンターテイナーを雇い入れ、テントやワゴン─「フィフィ空を行く」でサーカスのメンメンが暮らしてたのがそれですねえ。え?選ぶ映画がコア過ぎる?─で生活をしつつ、各地を旅して、アルコール・ベースの強壮薬みたいなドリンクを売るためのショウをして歩くものです。1912年にはそこ以外にも Gus Cannonの Cannon's Jug Stompersで演奏したり、Hernando在住の相棒 Robert Wilkinsとも演奏をしたりしています。1915年からは the Silas Green Minstrels、あるいは the Rabbit Foot Minstrelsといった「ミンストレル・ショー」、さらに the Abbey Sutton showなどに参加し各地を巡っていました。彼の持ち歌は何百曲もあったそうですが、それはブルースだけではなく、バラッドやヴォードヴィルなど様々な内容だったようで、ブルースでは、「ごく初期の」プリミティヴなものが主流だったと言われております。旅に出ていないときには Memphisの Beale Streetあたりに出没し、前述の Gus Cannonを始めとして、Furry Lewisや、後に Memphis Jug Bandのギタリストとなる Will Shadeとも一緒に演奏をしていました。またクラブでは Pee Wee'sや Big Grundy's、そして時には the Monarch Clubにも出演しています。Speckled Redと一緒にやっていた、とされるのが、おそらくこの頃じゃあないか、と思うんですが・・・1927年にはタレント・スカウトの目にとまり、Paramount Recordと契約が成立しました。ただ、これをまとめたスカウトの H.C. Speirがその契約を Vocalion labelに「転売」してしまいます。結局、彼は1927年10月10日シカゴで、有名な Jim Jackson's Kansas City Blues, Parts 1 & 2 を吹き込んでいます。それは同年12月にリリースされ、大ヒットとなりました。Vocalionはとーぜん年が明けてスグ Kansas City Blues, Parts 3 & 4 他、全10曲を吹き込ませています。もう有名になった Jim Jacksonは、Memphisに居を構え、Victorなどが「出向いてくる」フィールド・レコーディングに神輿を上げるっちゅー活動になったようでございます。その時期のヒットは「I'm Wild About My Lovin' 」など。ただし、基本的に彼のスタイルは前世紀的なところがあり、新しいブルースとは異なった風合いを持ったものです。1929年には映画 Hallelujah! にも出演し、勢いがつきかけたところに「大恐慌」が到来し、それも失速してしまったのでした。彼の最後の録音は 1930年の 2月ですが、やがて故郷の Hernandoに戻り、ふたたびショーで各地を訪れたり、時には Memphisでも演奏をしたりしていたようですが、1937年には、Hernandoで死亡しています)と一緒に「仕事をした」とされています。1929年から1930年にかけて Brunswickに 10曲を吹き込み、1938年には Bluebirdにも 10曲を入れています。1950年代になってからは Tone/Delmark labelに録音しています。

The Dirty Dozensはランバー・キャンプでのバレルハウス・スタイルのナンバーで初吹き込みは 1929年と言われますが、12番目の悪弊を意味したところから「 Dirty Dozen」( Dozenってのはダース、つまり12でひとくくりでげしょ?)ってタイトルになってるらしいっす。
このデルマークのものは↓の URLで聴くことが出来ます。
http://www.delmark.com/delmark.601.htm

彼が死んだのは 1973年 1月 2日、St. Louisで、でした。



reserched by Othum: Blues After Dark


注!この下に表示されている広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり、当方は
その商品やサービスを「一切」推薦しているものではありません。






[PR]
# by blues-data | 2005-11-17 21:38
Jim Jackson
Jim Jackson ─ おそらく 1884年の生まれ。
Mississippi州の、Memphisから 20マイルほど南の Hernandoという小さな町の農園で育ったようです。
彼のギターは父から教わったようですが、Frank Stokesからも影響を受けているとされています。
1905年にはシンガー、ダンサー、そしてギター・プレイヤーとして medicine showに雇われました。当時の medicine showは色々なエンターテイナーを雇い入れ、テントやワゴン(「フィフィ空を行く」でサーカスのメンメンが暮らしてたのがそれですねえ。え?選ぶ映画がコア過ぎる?)で生活をしつつ、各地を旅して、アルコール・ベースの強壮薬みたいなドリンクを売るためのショウをして歩くものです。
1912年にはそこ以外にも Gus Cannonの Cannon's Jug Stompersで演奏したり、Hernando在住の相棒 Robert Wilkinsとも演奏をしたりしています。
1915年からは the Silas Green Minstrels、あるいは the Rabbit Foot Minstrelsといった「ミンストレル・ショー」、さらに the Abbey Sutton showなどに参加し各地を巡っていました。

彼の持ち歌は何百曲もあったそうですが、それはブルースだけではなく、バラッドやヴォードヴィルなど様々な内容だったようで、ブルースでは、「ごく初期の」プリミティヴなものが主流だったと言われております。
旅に出ていないときには Memphisの Beale Streetあたりに出没し、前述の Gus Cannonを始めとして、Furry Lewisや、後に Memphis Jug Bandのギタリストとなる Will Shadeとも一緒に演奏をしていました。
またクラブでは Pee Wee'sや Big Grundy's、そして時には the Monarch Clubにも出演しています。

1927年にはタレント・スカウトの目にとまり、Paramount Recordと契約が成立しました。
ただ、これをまとめたスカウトの H.C. Speirがその契約を Vocalion labelに「転売」してしまう・・・
結局、彼は1927年10月10日シカゴで、有名な Jim Jackson's Kansas City Blues, Parts 1 & 2を吹き込んでいます。それは同年12月にリリースされ、大ヒットとなりました。
Vocalionはとーぜん年が明けてスグ Kansas City Blues, Parts 3 & 4他、全10曲を吹き込ませています。
おかげで、もう有名になった Jim Jacksonは、Memphisに居を構え、Victorなどが「出向いてくる」フィールド・レコーディングに神輿を上げるっちゅー活動になったようでございます。
その時期のヒットは I'm Wild About My Lovin'など。
ただし、基本的に彼のスタイルは前世紀的なところがあり、新しいブルースとは異なった風合いを持ったものです。
1929年には映画 Hallelujah! にも出演し、勢いがつきかけたところに「大恐慌」が到来し、それも失速してしまったのでした。
彼の最後の録音は 1930年の 2月ですが、やがて故郷の Hernandoに戻り、ふたたびショーで各地を訪れたり、時には Memphisでも演奏をしたりしていたようですが、1937年には、Hernandoで死亡しています。



reserched by Othum: Blues After Dark


[PR]
# by blues-data | 2005-11-17 21:34
Sonny Boy Williamson II
Sonny Boy Williamson II。
彼の Early Yearsには濃ゆ〜い霧(だか煤煙だか・・・)が立ち込めておりまして、第一、生年すら定かではございません。
それなのに、ナゼか誕生日だけは判っているのはどして?
様々な説がありますが、おそらく、1899年から1909年のどれか(!?)らしいのですが、12月 5日に生まれています。
生まれた場所は、Mississippi州の Glendoraに近い Tallahatchie Countyの Sara Jonesの農場で、Alex( alt. Aleck。ただし姉妹の証言によれば、時おり権威あるブルース研究者が主張する「Willie」と呼ばれたコトは「無い」とハッキリ否定されています)Miller( alt. Ford。出典不明)として記憶されています。
姉妹だけではなく、兄弟もいたようですがその名前などは不明です。
姉妹の方は Mary(結婚後の姓は Ashford)と Julie(同じく Barner)でともに Tutwilerに居住していましたが、同地で火災のため1995年に Julia Barner 95才、Mary ashford 89才で死亡しています。
それから逆算していくと、姉の Juliaが1900年生まれ、妹の Maryが1906年生まれとなり、どのみち Alexの生年と推定されるデータの幅がその両方の日付を「前後」にハミ出しているため、彼女たちが両方とも姉、あるいは妹だった可能性も、ひとりは姉でもひとりが妹だった可能性もあるワケです。ま、最近の通説では、彼を1899年生まれ、とするのが主流のようですから、それでいくと、ふたりとも妹だったコトになりますが。

その、おそらく妹と思われる Mary Ashfordの Living Blues magazineによる(というか、掲載された)インタビューの内容を信じれば、幼いころから、彼は「Rice」と呼ばれていたそうです。
本人は気に入ってなかったようですが、みんながそう呼んだ、と。
それが Alex "Rice" Millerの由縁でしょう。
また、彼のハープは独学であり、「誰にも教わってない」そうです。
1930年代を放浪生活の中で過ごしたらしく「1933年に父が死んだときにはもういなかったように思う。」また、「父は彼が音楽をやるコトを妨げたりはしなかった」そうで、そこら「怠けとらんで綿を摘め!」っちゅうてシバかれた他のブルースマンとはちょとちゃうよーですね。
また、家族の中でハープであれなんであれ、音楽に関わっていたのは彼ひとりだったと。

10代の彼はそのハープで自ら伴奏をつけながらブルースを歌っていたようですが、妹の Maryはブルースを忌み嫌っていたようで、たまたま彼が彼女のいた街に来て歌っていた時など、街で偶然、耳にしたことはあっても、わざわざ自分からそこに出向いて行くことはしなかったそうです。
おそらくは、その1930年代の前半と思われますが彼は結婚と離婚を経験しています。この時、子供はいなかったようですね。

1940年代には有名な Arkansas州 Helenaのラジオ局 KFFAの『King Biscuit Time』を通じて南部諸州にその存在を知られるようになっておりました。
その彼の初吹き込みは1947年の Trumpetへの「Mighty Long Time 」で、続いて Aceへの「No Nights By Myself 」を経て、1955年には Checkerに辿りつき、そこではより恵まれたバッキング、機材などにより、自身の古い曲を吹き込みなおしたり、また新曲も加えています。
ここでリストに加わったのが「Nine Below Zero」、「Cross Your Heart」、「Mr. Downchild」、「Fattening Frogs For Snakes」などです。
Willie Dixonの「Bring It On Home」はほとんど彼自身の作が多い中では異色の存在かもしれません。しかし彼が本当にブレークしたのはヨーロッパ・ツアー、特に英国ツアーがもたらした成果でしょう。
Yardbirdsと Animalsとのライヴ・レコーディングがもたらした彼の栄光はしかし1965年の 5月25日に Arkansas州 Helenaで消えてしまいます。心臓の発作でした。



reserched by Othum: Blues After Dark


注!この下に表示されている広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり、当方は
その商品やサービスを「一切」推薦しているものではありません。






[PR]
# by blues-data | 2005-11-17 21:15
Sonny Boy Williamson I
John Lee Williamson(つまり Sonny Boy Williamson 1世ね)はレコードがまだ 78回転の SPだった1930年代から1940年代にかけて実に 120曲ほども吹き込んだ戦前の代表的なブルースマンのひとりでした。
その彼が生まれたのは、前述の通り1914年の 3月30日で、Tennessee州の Jacksonに近い Madison Countyの南西部でした。
彼はほとんど Jackson周辺で成長し、異母兄弟、あるいは異父兄弟の TW Utleyとともに叔父あるいは伯父の Fred Utleyがいた St.Louisに向かっています。
彼のキャリアはその St.Louisから始まっており、彼の音楽を形成した重要な地であったようです。

まず Blairs Chapel Churchに所属する the Four Lambsというゴスペルのカルテットに 10才で参加し、その後 Sleepy John Estesや Homesick Jamesとも仕事をするようになったそうですが、それでもまだティーンエイジャーですからね。
また Billy Boy Arnoldにハープの「チョーク」を教えてくれたのも Sonny Boyだったそうです。
およそ、ブルースでハープがメインとなり得ることを初めて証明したのが Sonny Boyと言われていますが、ハープのみならず、彼の曲もブルース界に大きく貢献しているんじゃないでしょか。特に一連の Bluebirdに吹き込まれた作品群は「Bluebird Beat」と呼ばれています。

ブルース・ハープの世界に偉大な足跡を残した Sonny Boy、その彼が結婚した女性は Lacey Belleと言って、彼女の名前を冠した曲があるくらいなのですが、1948年のある寒い朝に Laceyが自宅のドアを開けると、そこには何者かに襲われて虫の息になっている Sonny Boyを発見したのです。
最期の言葉は「 Lord have mercy」でした。
同じ Chicagoの the Plantation Clubでの仕事からの帰りだったといいます。

機会がありましたら『 RCAブルースの古典』 BVCP-8733〜4で彼のブルースに触れてみてくださいませ。



reserched by Othum: Blues After Dark


注!この下に表示されている広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり、当方は
その商品やサービスを「一切」推薦しているものではありません。






[PR]
# by blues-data | 2005-11-17 21:05
Son Seals
Frank "Son" Sealsは 1942年に Arkansas州の Osceolaで生まれています。
彼の父、Jim Seals(たぶんね。原文じゃあ父のジム、としか書いてないけど、特別ことわってないんで同じ苗字だろう、と・・・)は Juke Jointを持っていたようで、家族はその店の背後の狭いスペースで生活していたもののようです。
そのイミじゃあタイヘンだったでしょうが、Juke Jointにはいろんなブルースマンが来ては夜ごと演奏してたワケですから、彼はごく早いうちから「ブルースまみれ」の生活だった、と言うことが出来そうです。
Sonny Boy Williamsonに Albert King、そして Robert Nighthawkなどの音を「直接」聴いて育ってるんですから、こりゃもうメチャメチャ羨ましい!まだ立って歩けるようになる前に「ブルースの洗礼」を受けていたワケですなあ。
そんな環境でブルースに馴れ親しんでいた彼でしたが、それでも、最も大きな影響を与えてくれたのは自らピアノ、トロンボーン、ギターにドラムを弾き、あの有名な The Rabbit Foot Minstrelsにも参加していた「父」だった、といいます。
Son Sealsによると、その父が音楽に関することはすべて「いちから」教えてくれたようで、やがて 18才で自分のバンドを作り、そこではギターを、また時にはドラムとして Earl Hookerや Albert King( Live Wire / Blues Power)のバックについたりもしておりました。

1971年には Chicagoに移り、Junior Wellsや James Cotton、Buddy Guy、そして Hound Dog Taylorなどともセッションを持っていますが、ツアーにも一緒に出たり、毎週末のサウス・サイドのクラブ The Expressway Loungでのギグにも参加していたようです。

その Hound Dog Taylorは彼のことをドラマーとしてではなく、ひとりのブルースマンとして認めてくれていたらしく、まだやっと Hound Dogが売れ始めたところで、その売り上げで次の吹き込みの資金を作る、という「右から左へ」の操業を続けていた Bruce Iglauerが、その貴重な機会を誰に与えるか悩んでいた時にサイドからプッシュしたのが Hound Dog Taylorで、それ以外にも、自分のステージを彼のために割いてくれたりしたそうですから、Son Sealsにとっての Hound Dogは、まさに「恩人」と言ってよいでしょう。
ともかく、新興レーベル Alligatorの三枚目のリリースとなったのが Son Seals Blues Bandだったのです。
そのアルバムが発売された後、彼は各地のキャンパスやクラブ、そしてフェスティヴァルに出演してその知名度も次第にアップして行きました。

続く 1977年には Midnight Sonをリリース、これは広く歓迎され、Rolling Stone誌はこれを過去10年間のベスト・ブルース・アルバム、と呼んだほどです。
以後もヨーロッパ・ツアーを経験し、Olympia Beerの TVCMにも登場し、アルバムも Live & BurningChicago FireBad AxeLiving In The Danger ZoneNothing But The Truthとリリースされています。



reserched by Othum: Blues After Dark


注!この下に表示されている広告はエキサイトが勝手に掲載しているものであり、当方は
その商品やサービスを「一切」推薦しているものではありません。






[PR]
# by blues-data | 2005-11-17 20:56

[ BACK to BIO-INDEX ]