Slim Harpo
James Moore( Harmonica Slimあるいは Slim Harpoとして知られる)は、1924年1月(あるいは2月)11日に Louisiana州の Lobdellで生まれて、同じくルイジアナ州の Port Allenで育っています。
しかし第10学年(ちょっとアメリカの学制に詳しくないので、それが日本で言うところの高1に相当するものなのかどうか、よー判りまへん)の時に両親とも死んでしまい、彼は退学してドックで働き始めつつもハーモニカを独学でマスターし、1940年代を通して、州内のジューク・ジョイントやパーティなどを「Harmonica Slim」の名で回っていました。
そして1948年には、後には作詞を手伝ったりもした妻の Lovelleと結婚し、それとともにフル・タイムのミュージシャンに。

やがて彼はプロのミュージシャンとして Excelloに録音を始めますが、最初はライトニン・スリム( Otis "Lightnin’ Slim" Hicks)の伴奏でした。そして、Excelloのプロデューサー Jay D. Millerは、当時、ウェスト・コーストで同じ名前ながら、まったくの別人の"Harmonica Slim"がデビューしていたこともあって彼のステージ・ネームを、「Slim Harpo」に確定し、また音の作りも変更して、まず歌うキーを低くさせ、レイド・バックしたバッキングと組み合わせることによって、Slim Harpoをブレイクさせたのです。
1957年には「I’m a King Bee / Got Love If You Want It」を吹き込み。以後、ニューオーリンズで Imperialに1962年に吹き込んだものを除けば、1969年まで Excelloとの関係は続いています。
1960年代に入ってからはルイジアナ州内ばかりではなく、南部一帯をツアーするようになりました。
1961年「Rainin’ in My Heart / Don’t Start Crying Now」、1966年「Baby Scratch My Back(R&Bチャート第一位)」、1957年から1966年の間と思われる「Moody Blues」、1967年には Nashville(他はほとんどルイジアナ州 Crowleyでの録音)で「Tip On In」を録音。
彼はまた1967年にはライトニン・スリムと Chicagoのクラブに出演しており、同様にスポットで New Yorkや Los Angelesのブルース・ロック・シーンにも登場しています。

スリム・ハーポは’60年代中期のイギリスにおけるブルース系ロック・ミュージシャンに大きな影響を与えました。
ストーンズは「I’m a King Bee」と「Shake Your Hips」を、キンクスは「Got Love If You Want It」を吹き込みましたが、その曲はまた The Pretty Thingsも採り上げ、さらに「Raining in My Heart」も録音しています。ヴァン・モリソンは「Don’t Start Crying Now」、Dave Edmonds & Love Sculptureは「Shake Your Hips」をストーンズより先に入れているし、あの Moody Bluesはスリム・ハーポのインスト・ナンバーのタイトルからその名前をとったもの。
またロカビリーの Warren Smithは1957年に「Got Love If You Want It」を、さらにカントリーのハンク・ウィリアムス Jr.は「Raining In My Heart」をヒットさせています。

しかし、1970年の1月31日、彼は心臓発作のため、Louisiana州 Baton Rougeの病院で死亡しました。
そして彼の遺骸は出生の地ではなく、彼が育った Port Allenの墓地に埋葬されたのです。



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# by blues-data | 2005-11-15 20:58
Skip James
Nehemiah Curtis James は 1902 年 6 月21日(異説では 9 日)、Mississippi 州の州都 Jackson の北北東、およそ 30km の位置にある Bentonia 近郊の the Woodbine Plantation で生まれた、とゆーことになっていますが、一部の資料では、両親がいたのはそこであるが、実際の出産はそこから States Highway 49 を 24km ほど北に行ったところにある Yazoo City(ここで States Highway 49 は 49-West と 49-East に分かれて北上するようになり、West は Belzoni を経て Indianola を通過、一方の East は Tchula 経由で Blues Heritage Museum もある Greenwood を通り、やがて Tutwiler で再び East と West が合流して、「ただの」 49 号線となる)の「有色人種専用病院」で行われた、としています。
ま、いずれにしろ、彼が育ったのは the Woodbine Plantation だったワケですが、1907 年には、当時、密造酒の製造に手を染めていた彼の父(ひところ、牧師でもあった、っちゅう資料もありますが、そのよーな聖職者が、俗世間の悪に親しんでおったのでしょうか?)が妻子を残して、トツジョ「逐電」してしまいますが、おそらく、国税庁の地方税吏からの告発を前に「逃亡」したのではないか、という説もあります。
そのようにして父がいなくなりはしたものの、1912 年(これにも異説があって 1910 年とするものもあります)には、母が彼にギターを買い与えてくれています。
もしかすると、プランテーションにいた、ということで、経済的に破綻することなく、「それなりに」生活を続けることが出来たのかもしれません。
これが自立した家庭で、父親が突然「失踪」などしてしまったらかえって「悲惨」な結末になっていたかもしれず、ま、逆に考えれば、プランテーションにいりゃあ、死ぬことはない、なんて打算の上で妻子を残して逃げくさったのやもしれませんねえ。
もっとも、2ドル50セントのギターを買うにあたっては、潜伏していた父からのお金も混じっている、とする資料もありますから、そこらあんまりイージィに決めつけは出来ないのかもしれませんが。

彼にギターを教えてくれたのは Sataria Plantation の近くに住んでいた 5 才年上の Henry Stuckey で、Yazoo 2009 the Complete Early Recordings - 1930 にも収録された 8 小節からなる古謡(?)Drunken Spree も教えてくれた、とされています。
ところで、彼 Nehemiah Curtis James が "Skip" James と呼ばれるようになったのは彼がまだ 6 才のころに、その踊り方がちょっとユニークで、スキップをしているように見えたところから "Skippy" James と言われるようになったところから来ているそうですが、そのヘンについちゃあ異説もありそう。

1914 年には母が彼を連れて、前述した States Highway 49-East の Tchula と Greenwood の中間(かなり Greenwood 寄りで、その郊外とも言える 10km ほどのところ)にある Sidon に移っています。
なんだって、そんなヘンな(だってフツー、プランテーションを出たら、職を求めて「都会」に向かうのが一般的ですからねえ)とこに行ったのか、ってえと、そこに潜伏(?)してた父がいたかららしいんですよ。
母は、もいちど一緒に暮そう!と迫ったようですが、その話しはまとまらず、するうち、嫌気がさしたのか Nehemiah Curtis James は 1916 年、そっから家出(ま、はたして「家」と言えたかどーか?)してしまいました。
結局、母は Bentonia に戻り、1917 年にはそこに彼も戻ってきます。
母は彼を高校に通わせ、週末は Gooching Bros. の製材所で働くことになりました。
この時期に彼はいとこで学校教師でもあった Alma Williams からピアノの基本を学んでいます。
しかし、1919 年には高校をドロップ・アウトし、150km 近くも北上し、Jackson と Tennessee 州 Memphis とのほぼ中間地点(からちょっと西にズレてるけど)にある Ruleville(そっから 16km ほど西にある Cleveland との間には Dockery )近辺の道路工事現場に住み込んで働き始めました。
およそその後の 2 年間も彼はランバー・キャンプをはじめとするデルタ一帯の様々な現場を転々としたようです。

そのランバー・キャンプで働いている時に彼は初めて自分でも曲を作ったようで、それが Illinois Blues だ、と言われています。
週末ともなると彼はギターを携えて 10km ほど北の Charlie Patton や Tommy Johnson、そしてWilllie Brown なども活動していた Drew や、逆に 90km ほど南下する Louise や、その少し手前の Belzoni などの町の近くまで赴き、そこで演奏してチップを稼ぐ生活を送っていました。

1921 年には Tennessee 州 Memphis から北西に 70km ほどの Arkansas 州 Weona に移り、そこでもやはり木材関係のキャンプで働いています。
そしてそこで、Weona の東、16km ほどの同じ Arkansas 州 Marked Tree から来ていたピアニストの Will Crabtree に出合ったことが、その後の彼のピアノ奏法ばかりか、生き方にまで影響を与えたのかもしれません(本人はそう言っていたようですが)。

結局 Weona には 1923 年までいたようですが、なにやら、とある女を追って Memphis に出て、North Nichols Street にあった売春宿の専属ピアニストになったのでした。
しかし 1919 年から始まったアメリカの禁酒法(あ、禁酒法ってアメリカだけだと思ってるでしょ?実は Finland でも kieltolaki という名でそれが施行されておったのですねえ。ただ、アメリカより一年早い 1932 年に撤回されています。で、もっとも早くから施行していたのはカナダで、プリンス・エドワード島では 1900 からスタートし、もっとも遅かった Quebec はフィンランドやアメリカと同じ 1919 年から、となっています。しかも翌年には撤回され、そのためアンタッチャブルでお馴染みの Chicago に Michigan 湖を渡って「密輸」なんてハナシが出てくるワケです。一方のプリンス・エドワード島では終ったのももっとも遅く、1948 年!)が次第に売春業界(?)にも不況をもたらしたらしく、1924 年には売春宿を引き上げて Bentonia に帰ってきました。
以後、数年をそこで過ごすのですが、とりあえずは小作農になったものの、じきに「悪の道」に踏み込み、そこはやはりカエルの子はカエルっちゅうべきか、違法に製造されたり、密輸された酒類の密売で稼ぎ、女たちに宝石やら高価なドレスを買い与えてチヤホヤされていたようでございます。

ま、もっとも、そんなことばっかしてたワケじゃなく、例の Henry Stuckey とともに地元 Bentonia はもとより、Sidon に Jackson でも一緒に演奏し、練習し、ギターのウデを確実に上げていったのでした。
そうしてスリー・フィンガー・ピッキングをマスターした、とされていますが、それには Henry Stuckey のみならず、Charley Patton や Bo Carter にも影響を受けていたと思われます。
ただ、それによって完成された彼のスタイルを、E マイナー・オープン・チューニング(彼自身はそれを Cross-note tuning と呼んでいたとしていますが)とする資料と、一般の Vestapol、つまり通常の E オープンとしているものとに分かれています。
E マイナー・オープンだとすっと、Albert Collins みたいですねえ。
その独特の響きとファルセットのコンビネーションはやはり注目されたようで、Paramount Records のタレント・スカウト、H. C. Speir によって、Jackson の Farish Street 111 番地にあった Speir 自身のレコード・ショップでオーデションが行われ、その結果、Wisconsin 州 Grafton にあった Paramount のスタジオで 18 曲を録音(諸説あって、それを 17 曲である、とするもの、また 26 曲を録音したが、現在確認されているのは 18 曲だけである、としているもの・・・)した、と言われています。

その直後、父と再会したことがキッカケとなって、悪事から足を洗い、バプティスト教会の牧師となったらしく、父とともに Texas 州 Plano に赴き、1950 年代初頭に母が死んだことで Bentonia に戻って来ています(別な説では「大恐慌」によってレコードのセールスが止まり、充分なペイが行われなかったために、音楽を離れた、という見方も)。
しばらく聖職者としての生活を送っていたらしいのですが、1964 年にブルース・コレクターの John Fahey によって再発見され、Son House らとともに New Port Folk Festival に出演し、各地のカレッジでのライヴも行ったようです。
ただ、その束の間の栄光も長くは続かず、次第に彼の健康にはかげりが見え始め、1969 年10月 3 日には、ついにガンのために死亡しています。
Pennsylvania 州 Bala-Cynwyd の Mercon Cemetery に埋葬されたのでした。


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# by blues-data | 2005-11-15 20:48
Sippie Wallace
1898年11月11日に生まれた Beulah "Sippie" Thomasはテキサス州 Houstonで育ち、バプティスト教会の宣教師だった父のもと、教会でピアノを弾いたり歌ったりしていたようです。
ただ、小さいころから夜になると家から忍び出して、地方のヴォードヴィル・ショーや、テント・ショーに通っていたみたい。
10代の前半で彼女と兄の George、弟の Hersalはテキサス州各地を廻るテント・ショーに加わって演奏を始めています。
1915年には New Orleansに移り、兄の Georgeと暮らしていましたが(ただし、これを Hersalと一緒にニューオーリンズに出た、とする資料もあり、多少の混乱が見られます)、1917年には Matt Wallaceと結婚。
そのニューオーリンズにいる間、彼女は兄の友人だった King Oliverや Louis Armstrongのようなジャズ・ミュージシャンと出合っています。

1920年代の初頭には彼女を「The Texas Nightingale」と謳ってツアーを組んでいた the TOBA vaudeville circuitに参加し、1923年には先に Chicagoに出た兄弟を追って北上し(ただし兄弟と一緒にシカゴに行った、としている資料もあります)、シカゴではカフェやキャバレーで演奏を開始しました。
同年末、彼女は Okeh Recordsと契約し、「Shorty George」と「Up the Country Blues」の二曲を吹き込み、そのヒットによって彼女はいちやくスターとなりました。
Okehにはそれ以降1929年まで、40曲ほどを録音しています。
このアナログ・ディスクに付いてきた日本盤のライナーの中で、中村とうよう氏は「Women be Wise」を1929年の作品、と紹介していますが、どうも Discographyでは発見出来ず、でございました。
1926年には彼女の弟の Hersalがわずか 16才で食中毒(?)で死亡していますが、しばしば兄弟が音楽を供給することもあるものの、ほとんど彼女自身で多くの曲を書いていた、という点で古典的ブルース歌手にしてはユニークな存在だったと言えるでしょう。
サイドマンにはニューオーリンズの最良のミュージシャンとも言うべき King Oliverや Louis Armstrong、Eddie Heywood、Clarence Williamsに Sidney Bechet、そして Johnny Doddsなどなど、が揃っています。
1929年には彼女は Detroitに移り、1930年代の始め、ショウ・ビジネスから身を引いていますが、その理由として、音楽ビジネスの周辺にイヤ気がさした、とするもの、一方ラジオの普及によるレース・レコード・ビジネスの退潮によるとする資料などが存在し、ちょっと判断に迷うところです。
しかし、1935年と1936年、彼女の叔母の Lillie、彼女の夫の Matt、そして兄の Georgeまでが(彼だけは路面電車に轢かれた交通事故によるものでしたが)相次いで死んでしまいます。
この不幸によってもたらされた「ココロの空白」を埋めるため、彼女はデトロイトの the Leland Baptist Churchのオルガン奏者およびシンガーとして、ブルース・シーンからは身を退いてしまったのでした。
その「お務め」は以後 40年も続き、そして1945年の 9月に一日だけ Mercury Recordsのためにレコーディングをした以外、1966年のカムバックまで、ブルース・シーンに浮上してくることは無かったのです。

その彼女のカムバックは Victoria Spiveyによるところが大きいでしょう。
1965年に、一部のファンによって彼女の再評価が始まり、しかも本人が現在も生存しており、かつ教会で、とは言え「現役の」ミュージシャンであることが判明し、Sippie Wallaceのカムバックを期待する声が高まってきたのを受け、「悪魔の音楽」の世界に戻ってきたのですが、それを助けたのが友人の Victoria Spiveyでした。
一緒にフォーク・ブルース・フェスティヴァルに出演し、ふたりで組んだアルバム『Sippie Wallace and Victoria Spivey』を、次いで彼女のソロ『Sippie Wallace Sings the Blues(1966 Storyville label)』をリリースしています。
また、ディスコグラフィーによれば、Alligator Recordsから1992年にリリースされた『Women Be Wise』 ALL4810も Roosevelt Sykesと Little Brother Montgomeryを伴奏者として、1966年に録音されています。また、その翌年には the Jim Kweskin Jug Bandと Otis Spannと一緒にスタジオ入りし録音をしたのですが、この時のテープは実に1990年代の初頭に Drive Archive labelから『Mighty Tight Woman』として発売されるまで陽の目を見なかったのです。

1970年には発作を起こし、以来、車椅子での生活となりますが(つーことは Ann Arborでもそうだったんですね)1980年代に入るとライヴやレコーディングを再開しています。
1982年には Bonnie Raittの仲介で Atlantic Recordsと契約、その Bonnie Raittも参加したそのアルバムは1983年に発売され、W.C. Handy Awardの年間ベスト・ブルース・アルバム賞を獲得、またグラミー賞のトラディショナル・ブルース部門のノミネート作品ともなりました。
1983年と1984年にはドイツのブーギ・ウーギ・ピアニスト Axel Zwingenbergerとツアーし、レコーディングも行っています。
彼女のラスト・コンサートは1986年5月のドイツの Mainzでのライヴでした。そして同年11月、彼女の88才(つまり「米寿」ですな)の誕生日に世を去りました・・・って、ん?この資料じゃあ 11月11日じゃなく、11月1日になってるぞう?およよ、誕生日に「異説」登場!

「Women Be Wise」は Atlantic(Warner-Pioneer) P-5090〜1A『ann arbor BLUES & JAZZ festival 1972』に収録されていますが、他に Alligator ALL4810 『Women Be Wise』、Atlanticの『Sippie. With Bonnie Raitt』などにも収録されています。



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# by blues-data | 2005-11-15 20:33
Shy Guy Douglas
Thomas "Shy Guy" Douglasは 1917年の11月 8日、Tennessee州の Franklinに生まれていますが、その後の生い立ちなどを示す資料に辿りつくことができませんでした。
そのかわり、ディスコグラフィーはかなり判明しており、Work With Her Boy( Sun 638 )、Detroit Arrow( Sun 639)、Hip Shakin' Mama( Sun 640)の、いずれも 1953年 6月 1日の Sunへのレコーディングも知られていますが、おそらく彼の初吹き込みは DeltaというレーベルでのRaid On Cedar Street / I Should Have Known( 1950年。名義は Tom "Shy Guy" Douglas)ではないかと思われます。
ただし、これはパーマネント・レコーディングではなく、今でいうプリクラみたいな、セルフ・サーヴィスで 1枚だけ切ってくれる盤じゃないか?という説もあります(一応シリアルは Delta 213)。
その説を信じるとすると、初の本格レコーディングは同じく 1950年になされた MGM 10769のまったく同じ組みあわせの 2曲、ということになりそうですが、一方では Deltaから MGMが買ったのではないか?という見方もあります。どちらも聴いたことがないので、どちらが正しいのか、が判断できないんですよ。

そして前述の Sunでのレコーディングを経て 1954年に Nashvilleで Excelloのために入れたのが Detroit Arrow / New Memphis Blues( Excello 2008─ Detroit Arrowは前述の Sun 639と同じ曲だと思うのですが、再録かどうかは不明です)、I'm Your Country Man / Wasted Time( Excello 2024)、そして She's My Kinda Girl / No Place Like Home( Excello 2032 )というワケです。
Excelloにはこの後、Long Gone / No Point In Crying( Excello 2279)を 1962年に入れているのですが、それがリリースされたのは 1966年になってからでした。
その 3枚目と 4枚目の間に、Shy Guy Douglas名義で 1954年に Yankee Doodle / Harvest Moon( Bring Her Back To Me─ Chane 517)、Little Shy Guy Douglas & The Hot Rods(マジか?)名義で 1956年に(ただしリリースは 1959年)Let's Rock And Roll / My Little Baby( Calvert 107)、ふたたび Shy Guy Douglas名義で 1963年に Let's Rock And Roll / My Little Baby( Todd1092)を録音しています。
Calvert 107は Championのカタログにも載っていますからリース、あるいは原盤著作権を売却したのかもしれません。

ところで、Nashvilleでレコード製作に携わってきた W.C."Red" Worthamってひとが 1940年代の終りころに Bullet Recordsで働いておりました。
彼は Nashvilleにおける戦後初くらいのインディー・レーベルを立ち上げていたようでして、そこそこ成功もしたらしいのですが、1949年には会社の規模を大きくした割りにはタマ不足、の状態となり、そこで Deltaレーベルを買収しています。
そこには当然 Shy Guy Douglasの原盤も含まれていた、っちゅうワケですね。
そして W.C."Red" Worthamは、Bullet/Sur-Speedと Delta Recordsというマイナー・レーベルの集合体のような企業を作り上げました。
その一部門、Bullet/Sur-Speed Recordsのカタログには、Shy Guy Douglasを録ったテイクがどっちゃりあります。
Yankee Doodleと Harvest Moonは Chane 517で、Monkee Doin' Womanと What's This I Hearは 1963年リリースの Todd 1092、Midnight Soul/take 1〜 4と Shy/take 1、2 & Disc Dubこの 2曲はカップリングされて Bullet 586として 1969年にリリース、Don't Leave Me Girlと Stone Doin' Alright /take 1 & 2はこれも 1969年に Bullet 587としてリリース、Miss Ilola、Evening Soul / Haulin'は1967年に Sur-Speed 221。
というワケで、怒涛の 8枚組み CD、ドイツ Bear Familyの BCD 15864 HL『A Shot In The Dark - Nashville Jumps』にも収録されていないMiss Ilolaだけがもしかすると unissued?

お金がフンダンにおありの方はその Bear Family BCD 15864 HLをお求めになるのがよろしいかと思いますが、なにも、そこまで、とおっしゃる方にはイギリス Ace CDCHD 652、No Jive: Authentic Southern Country Bluesあたりがよろしいかと。これでもShe's My Kinda Girlはモチロン、Wasted Time / I'm Your Country Man / No Place Like Homeの合計 4曲を聴くことが出来ます。

Thomas "Shy Guy" Douglasは 1984年10月19日、Nashvilleで死亡しました。



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# by blues-data | 2005-11-15 20:17
Scrapper Blackwell
Francis Hillman "Scrapper" Blackwellは South Carolina州 Syracuseで、Paytonと Elizabeth Blackwellの間に 16人(!)の子供の一人として 1903年の 2月に生まれました。
本人は Cherokeeの血が入っていると主張しておりましたが、彼の写真はある程度、それを裏付けている、とする声もあります。ま、そのへんは「?」つきにしといたほうがいいのかも・・・

彼の父はフィドルのプレイヤーだったようですが、彼は自分で葉巻の箱と木っ端、それに針金とでギターを作り上げ、弾いていたといいます。
また、場合によってはピアノも「かなり」弾けたそうですが、その前にどうやら一家は、彼が人生の大半を過ごすことになった Indianapolisに移っていたようです。
ただ、彼の場合も、その早い時期についてはあまり詳しいことは判っておらず、特に彼を再発見した、とされる Duncan Scheidtの表現によれば、彼は「多少内向的、時々不気嫌。」とのことで、あまり「話し好き」とは言えず、自分のことを語りたがらなかったことにも起因しているのでしょう。

彼のギターについては、Willie Harrisと、Blind Lemon Jefferson、そしてかって彼の家族がいた Syracuseあたりで聴いていた「かもしれない」 East Coast Piedmontスタイルの残滓を指摘するむきもありますが、そのヘンのことは聴く側の主観(ならびに嗜好)が大きく左右しますので、安易な推論はヤメときましょ。
さて、10代ですでに彼はパートタイムのミュージシャンとして働き始めていて、時には Chicagoにまで出向いていたようですが、だんだんと「気難しい」面が前面に出て来て、一緒に「やりづらい」ミュージシャンになっていったのだとか。
もちろん、それにも例外があり、それがあの Leroy Carrとのパートナーシップでした。
Scrapper Blackwellが Leroy Carrと出会ったのは 1920年代の中頃、 Indianapolisでだったそうですが、以来この二人は時代を代表するような名コンビとしておよそ 1928年から 1935年にかけて 100曲ほどを残しています。
このデュオが訪れた土地も中西部から南部にかけて、Louisvilleや St.Louis、Cincinnatiに Nashvilleなど、広範囲にわたり、大きなプレゼンスを獲得した、といっていいでしょう。
ただ、Scrapper Blackwell自身は Leroy Carrに出会って Vocalionのために 1928年の 7月にレコーディングをしたことによりそのコンビネーションが高く評価されるようになるまでは、自分のことをプロフェッショナルなミュージシャンとは捉えていなかったようで(事実、1920年代の彼はすでに酒の密造で「身を立てて」いたよーですからね)さほど自分の才能というものを重視してはいなかったようです。
あるいは本業(?)の「 Moonshiner」をほっとけなかったからなのか、Indianpolis以外でのレコーディングにはあまり乗り気ではなかったと言います。よく録音に使われた Richmondも同じ Indiana州だし。

さて、彼自身のレコーディングは 1928年 6月16日の Kokomo bluesと Penal farm bluesが最初、とされています(ただし、この時期については異説もあり、6月19日に録音された How Long How Long Bluesによって評価されてから、つまり 1928年の終り近く、とするものです) 。
同年 8月15日には Mr. Scrapper's blues、Down and out blues、Trouble blues - part 1、Trouble blues - part 2の 4曲をレコーディング、さらに翌1929年の 2月15日には Non-skid treadを吹き込み。さらに 3月19日には Be-da-da-bum、1930年 2月 4日には Springtime bluesを、そして 1931年11月24日が Rambling blues他の全 6曲。
1934年 2月21日には Morning mail bluesと Blues that make me cry、1935年 2月25日には D blues と A blues。

しかし、この1935年の 4月29日にはパートナー、Leroy Carrが主として酒に原因がある、とも言われた急性腎炎(あるいは肝硬変?)で死亡してしまいます。
その後、7月 7日のセッションでは My old pal bluesにサブ・タイトルとして「 Dedicated to the memory of Leroy Carr」としてあります。この時は他に、Bad liquor blues、Alley Sally blues、No good woman bluesもレコーディング。翌日にも Motherless boy blues、Wayback blues、Texas stompの 3曲を吹き込んでいます。
最初の吹き込みの Kokomo bluesが Kokomo Arnoldを経て、Robert Johnsonの Sweet Home Chicagoにまで発展して行った・・・てなハナシは置いといて、と。

Leroy Carr亡き後、Scrapper Blackwellは音楽にまつわる意欲を失ってしまったかのようで、またもやコツコツと(?)密造酒造りに戻ったようですが、禁酒法の撤廃により、その業務も以前ほど実り(?)多いものでは無くなってたと思うんですがねえ。ま、それはともかく、彼の消息は音楽業界からカンゼンに消失してしまいます。1959年までは、ね。
ブルース・ファンの Duncan Scheidtによって見出されたとき、彼はもう 15年以上も演奏していなかったことになります。
Duncan Scheidtは彼が演奏を再開できるように尽力し、それは Documentの CDとして結実しました。

これによって、再び世に出るか、と思われた矢先の 1962年、彼は Indianapolisの裏通りで撃たれ、落命しています。
それは、Prestige / Bluesvilleのために LPの吹き込みを終えて帰るところだった、とも伝えられていますが、 この事件の真相はいまだにナゾで、未解決のまま歴史の闇に溶け込んで行ってしまいました。



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# by blues-data | 2005-11-15 00:51
Larry Burton
Larry Burtonは1951年 Mississippi州 Coldwater生まれで、1956年に Chicagoに出る前に短期間 Memphisにもいたようです。
シカゴではウェストサイドで暮らし、Big Bill Hill's pioneering blues radio showってのを聴いて育った、と。
最初ベースを弾いていたらしいですが、後に Albert Kingのアルバムの何枚かでプロデューサーともなった Tony Llorensなどの高校の同級生とバンドを組んでいたみたいです。
やがて Larryは Albert Kingや Albert Collins、ジョン・リー、タージ・マハル(日本じゃムカシ、「タジ・マハール」なんて読み方をしてたんですが、これ、本来はムガール帝国のシャー・ジャハーンの妻のひとり、アルジュマン・バーヌー・ベイガムの死に際し、「国母(ムムターズ・マハル)」の廟として造られた「タージ・マハル」から来てる名前でしょう。キー・ポイントは「インド、イスラーム、霊廟」。これがなんでブルース・ミュージシャンの名前になるのか、あっしにはリカイできまへん)、ジョニー・ウィンターなどとも共演するようになりますが、さらにそのリストを並べて行くと、まるでブルース人名辞典みたくなります。
Koko Taylor、Little Milton、Son Seals、Otis Rush、Jimmy Johnson、Lonnie Brooks、Jimmy Witherspoon、Champion Jack Dupree、John Littlejohn・・・

録音に参加した中で有名なのは 4枚の Albert Collinsのアルバムでしょう。
日本とスイスでのライヴにも名を連ねています(つーことは日本にも来ているのだ)。
兄弟の Aron Burtonと the Burton Brothers Blues Bandを作って、ヨーロッパでは B&B Labelからアルバムをリリースしています。
Elmore好きなだけに、そっち系の音には定評があるみたい。
自身のソロアルバムは Brambus Labelの Hustlers' Paradiseから。
最近では Babylon labelから The Blues Just Stay The Sameを Nashville録音。



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# by blues-data | 2005-11-15 00:24
Sam Lay
Sam Layは、「あの」 Magic Samの Ann Arborライヴでドラムを叩いたので有名ですが、彼の場合はドラムのみならず、ヴォーカルの方でも例の Testamentの Goin' To Chicagoの 3曲を忘れてはいけまへん。
1935年 3月20日、Alabama州 Birminghamで生まれた Sam Layがドラムを始めたのは 14才の時で、Clevelandで、最初のバンド the Moon Dog Comboに入ったのは1956年のことでした。
さらに1957年には the Original Thunderbirdsのドラマーになり1959年までは在籍しています。
しかし彼のインタビューによると、1960年の 2月にはそこから Chicagoに移った、としているのですが、この前後のコトに関しては彼の記憶がコンランしているのか、あるいは、こちらの英文の解釈にモンダイがあるのか、Birminghamを出たのは1964年だ、という発言もあり、実際のところはちょと「?」です。
また彼は1955年の Emmet Till殺人事件(南部の田舎に比べれば「自由な」シカゴで暮らしていた14才の Emmet少年が Mississippiでキャンディーを買ったお店で商店主の妻に気安く声をかけたのが原因でリンチ殺人された事件。陪審は「無罪」の表決をしている)のコトも語っているのですが、Sam Layの祖父はヨハネスブルグから来た白人だし、祖母はチェロキーで、完全な混血だったため、かなりフクザツな思いを持ったようです。また、そのような血筋であるがゆえに、白人のアーティストとも抵抗なく共演することが出来たのかもしれません。

シカゴでは、Little Walterが彼のドラミングを一回聴いただけで、それまでのドラマーをクビにして彼を入れた、と(本人がそー言ってます)ゆうことらしいですが、他にもウルフのバックで1960年から1966年まで叩いてるし、そっからベースの Jerome Arnoldと一緒に抜けてバターフィールドのアルバムに顔を出し(ツアーにも参加してますが)、ディランの、物議を醸したらしい 1965 Newport Folk Festivalでもドラムを叩いてます。
ただ、バターフィールドに関しては、ハープを吹ける白人がいる、ってことで Smokey Smothersが連れてきたらしいのですが、一緒にやってみようか、と言ってた日に、なんとあの John Fitzgerald Kennedyがダラスで暗殺されたのです。
バターフィールドはノコノコやって来たらしいのですが、Sam Layは「そんな気分じゃない」と帰ってしまったと・・・やはりこのへんも白人とカラードの「差」なんでしょうか。

Sam LayはマディのFather's & Sons アルバムへの参加や、前述の Magic Sam at Ann Arborでのドラムでも知られていますが、同時に James Cottonの(初代正式メンバー?の)ドラムでもあったようです。
そして自分のブルース・バンドを結成し(初期には the Blues Revivalと、後には Sam Lay Blues Bandと呼称。Jimmy Rogers、Eddie Taylorもいたことがあるらしい。彼の言によれば、Otis Spann、James Cotton、Sunnyland Slimもいたそうです) Appaloosa Recordsや Evidence Recordsに吹き込み、また Telarc Blues labelでは Rush Hour Bluesが吹き込まれました。

1980年代末には the Blues Hall of Fame in Memphisに the Jazz Hall of Fame in Los Angeles、さらには Rock n' Roll Hall of Fame in Clevelandにまで殿堂入りし、1992年には the Blues Hall of Fameにも名を連ねています。
ドラムそのものをとれば、Freddie Belowほどの大向こうウケするワザは無さそうですが、その存在が持つ包容力みたいなモノ、張りつめそうになるテンションを緩めてくれる潤滑剤的なスタンスが数多いセッションに彼の「場」を作った要因だったんじゃないか?なんて言うと、会ったコトも無いのにムセキニン過ぎるかもね。

彼には 3人の息子と、娘がひとりいて、長男はハリウッドで映画関係の仕事についているようです。
ところで、そのインタビューの中で最高のケッサクはディランと共演した時のエピソードでしょう。
─ 記者が「スーパー・スターと共演するのはどんなキモチですか?」って訊くから、「その質問はディランに訊くべきだろ」って言ってやったよ、はっはっは!だそうです。

ところで、そのインタビューの中で、なんと彼が Kodakの古いムーヴィ・カメラ(たぶん Regular 8と呼ばれる古いタイプの 8mmだと思われます)で撮影した、およそ 20時間分の Little Walterや Jimmy Reedの映像を「持っている」ことを語っているのですが、ナショナル・アーカイヴなんぞにゃ寄付せず、(今までさんざんサクシュされてきたんだからな)いいカネになるぞ!とウソぶいてます。あ、もち「音はナシ」ね。映像だけ。どうかウ〜ンと高く売れて、安楽な老後を送れますように。



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# by blues-data | 2005-11-15 00:19
Curley Weaver
Curley Weaverの本名は James Weaverです。
1906年に Georgia州の Newton Countyで、Jim & Savannah Weaver夫妻のもとに生まれました。
Barbecue Bob(弟: Robert Hicks)や Charlie Lincoln(兄: Charlie Hicks)のとこでも書いたとおり、母の Savanahは Hicks兄弟と息子の Jamesにギターを教え、それ以来この三人は結びつきを強めていくことになります。
10才ですでに彼はギターを演奏し、場合によっては自分より年上の Hicks兄弟(兄は 6つ、弟でも 4つ上)とも共演するようになったようです。
ただ、Jamesは世俗の音楽しか残していませんが、母は教会での音楽だけを演奏していました。
どうやら彼がギターを習っていたのは母からだけ、というワケじゃなく、周辺のミュージシャンたちからも多くを学んでいたようです。それは例えば Judd Smithや Nehemiah Smith(どっちも資料がみつかりません。でも、Curley Weaverの長年の友人という Roy Dunnってえひとによれば彼がイチバン影響を受けたのは Nehemiah Smithだそうです)だったり、Blind Buddy Keith(詳細不明。1943年の Folk Festivalに名前が出て来てますが、それがこのひとかどうかは「?」です。)、Charlie Jackson( Papa Charlie Jackson。1924年に始まった Paramountのレコーディングに始めて登場したブルースマンとして知られています)、そして Harry Johnson(詳細不明)などでした。

Charlie Lincolnのとこでも触れましたが、Curley Weaverは仲間にも人望があり、多くのミュージシャンにも慕われていたようですが、やはり Hicks兄弟や Harmonica wizardと呼ばれた Eddie Mapp( alt. Mappe。ところで、Curley Weaverはそれに呼応するかのような「 Georgia Guitar Wizard」の異名を持っています)との結びつきがとりわけ固かったようです。
1925年には Eddie Mappとともに Atlantaに移り、先行していた Hicks兄弟とまた一緒になり、それ以後、彼はこの街のブルース・シーンを語る際に欠かすことのできない存在となっていきました。
1928年の10月には、先に Columbia Recordsから Barbecue Bobとして「売り出され」看板ともなっていた Robert Hicksのおかげで彼もレコーディングをすることが出来たようです。
この時レコーディングされたのが、母の Savanahの作った「No No Blues 」ですが、これは Barbecue Bobが既に吹き込んでいた「Yo Yo Blues 」のリメイクでもあります。
後には Eddie Mappや Guy Lumpkinとともに New Yorkにまで出向いて QRSレーベルに再度「No No Blues 」を録音しました。
1930年には Columbia Recordに Barbecue Bobと Buddy Mossと一緒に The Georgia Cotton Pickersとして録音をしています。
さらに、女性ヴォーカリストである Ruth Willisや Lillie Maeなどのバッキング、また Blind Willie McTellや Buddy Mossとの演奏も行っているのですが、子供のころからの友人であった Barbecue Bobが死んで Charlie Lincolnも活動しなくなり、さらに Eddie Mappも殺害されるにいたって、彼の環境は大きく変わってしまいました。
1933年には、ふたたび New Yorkに録音に訪れています。この時は Ruth Willis、Buddy Moss、そして「 Man Of My Own」でも共演しているスライド・ギターの Fred McMullenと一緒でした。そして American Record Companyでソロとしての活動をスタートさせているのですが、ここで最初に吹き込んだのもまた「No No Blues 」だったのです。

その後 Curley Weaverは Buddy Mossと Blind Willie McTellとも吹き込んでいます。
一方、「 Man Of My Own」を歌っている Ruth Willisもまた Blind Willie McTellと共演しており、その時の録音が Blind Willie McTell:Complete Recorded Works, Vol.2 (1931-1933)に 4曲収録されているのですが、その中には Curley Weaverの参加した「 You Was Born To Die」も含まれております。

1935年には Deccaレコーディングに向かう Blind Willie McTellに随行して Chicagoに行き、戦前では最後のレコーディングを行っています。Atlantaを中心に Buddy Mossとともに演奏を続けていたようですが、1949年に Regalが Atlantaにカントリー・ブルースを収録に来た際に McTellとともに吹き込みをしています。また Weaverは Sittin' In Withにも録音をしていますが、この Regalと Sittin' In Withに行われた録音はまだリイシューされてないんじゃなかったっけ?おそらくこの時が彼のラスト・レコーディングだったようです。
1950年代の後半にはあまり活動もしなくなっていたようですが、1959年には、前からあまり良くなかった眼の状態が悪化してついに失明にいたりました。
これによって完全に演奏を断念した彼は Atlantaから Almonに移り、そこで1962年 9月の死まで、短い余生をそこで送ったのです。
決して儀礼的な意味ではなく、死後も彼のことを悪く言う人間は居なかった、といいます。
誰もが彼の音楽と人格を「喜びをもって」回想した、と。
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# by blues-data | 2005-11-14 01:49
Rufus Thomas
このひとの場合、コメディアンでもあった、っちゅう「企み」好きそうなとこが、その音楽にモロ反映されてるような気がいたしますが、ひょっとするとブルースマンってみんな、そんな「おちゃらけた」とこをどっかに持ってるんじゃないかなあ。
それがリアル・ブルースのコアじゃないでしょか。
メイオールだとか、あのヘンのブリティッシュ・ブルースってのがクソも面白くないのは、そこら、マジメ過ぎるからじゃないのかなあ?
1960年代の英国のブルース・ブームっての、どっちかってえとマジメなひとばっかで支えられてたよーな気がすんですよねー。
そこ行くと、この Rufusとっつぁんにしても Gatemouthのクソじ・・・うっぷす、ゲイトマウス翁にしても、どー見たって「スナオな良いコ」って感じじゃないでげしょ。
しかも、その場で「ふざけてる」んじゃなく、存在そのものがイカレてる。
このヴォーカルを聴いてると、モロそんなふうに思えるんですよ。

Rufus Thomasは、1917年 3月26日、 Mississippi州 Cayceで生まれた、とされていますが、一方では 3月28日、Tennessee州 Colliervilleの生まれ、としている資料もあります。
Mississippi Writers & Musicians ( Starkville High Schoolの生徒たちに、南部のブルースマンたちの伝記などを作成させるプログラムの成果を掲載したサイト)ではこの混乱の原因を、一家がヴォードヴィル芸のテント・ショーのキャラヴァンで暮らしていたことにあるのではないか、と示唆していますが、もしかすると実際の出生と、届け出地の違いなのかもしれません。
どちらにしても、そのような生活だったため、家族とともにすぐ Memphisに移っています。そしてこの街は、彼の将来にも大きく関わってくる重要な土地となったのでした。
ヴォードヴィル芸を生業とする家族の中で育った彼にとって、歌を唄うこと、軽妙なトークやアクションでお客を楽しませること、はある意味、遺伝的特質だった、と言えるかもしれません。
13才にしてすでに彼は Beale Streetの the Palace Theatreで行われるアマチュアのショーで M.C.をこなし、Booker T. Washington High Schoolに在学中には本格的に唄い始めていたようです。
やがて家族と同じく、ヴォードヴィル芸のテント・ショーでの生活を送るようになり、1930年代の中頃にはすでに the Rabbit Foot Minstrelsや the Georgia Dixon Traveling Show、さらに the Royal American Tent Showsで活躍するプロフェッショナルなコメディアンでした。

その彼が Memphisに「戻り」 Robert Counceとともに Rufus and Bonesとしてタップ・ダンスとスキャットのコンビを組んだのは1940年代になってからのようですが、その正確な年次は不明です。
その後ブルースを自分でも作曲したり、その吹き込みを1940年代前半に行っている、とした資料も存在するようですが、こちらも正確なことは判明していません(本人の曖昧な記憶では 1943年じゃないか?だそうですが、一番早い時期を主張する説では彼の初録音は1941年だとか・・・)。
彼の「音楽」の初録音の時期はともかく、それ以上に Memphisのミュージック・シーンに関わってくることになるのは、その当時としてはそれほど多くはなかった「黒人の経営者によって運営され」ていた放送局のひとつ WDIAの D.J.(〜1974)となってから、とするのが妥当でしょう。
また地元 Memphisのナイトクラブにも出演するようになっていますが、(前述のように、彼自身の記憶では 1943年だと)1949年には Texas州 Dallasの Star Talentというマイナー・レーベルをやっている Jesse Ericksonという男が Memphisのナイト・クラブ Currie's Club Tropicanaで演奏していた Rufus Thomasのとこに現れ、レコードにしたいので録音してもいいか?とテープ・レコーダー持参で交渉して来たそうです。
Rufus Thomasは承諾し、そこでジャンプ・ブルース系のナンバー、I'll Be Good と、より「ブルージィな(?)」I'm So Worried という 2曲を録音し、それは Star Talent Records 807として78回転の SP(!)として発売されましたが、Rufus Thomasによれば「 5枚売れた。そのうち 4枚はオレが買ったんだけど」だそうでございます。

今ではたぶん本人もどんな曲だったか思い出せないような幻の初吹き込みはこのぐらいにいたしまして・・・
Sam Phillipsの Sun Recordsは1950年にスタートした「Memphis Recording Servis」(そのモットーは "We Record Anything - Anywhere - Anytime."でした)から発展して1952年に設立された Sam Phillipsのレーベルですが、Rufus Thomasは1951年からその Memphis Recording Serviceに吹き込みを開始しています。
そしてあの Big Mama ThorntonのHound Dog 人気に便乗したおちゃらけアンサー・ソングBear Cat を1953年にリリースし、見事(と言って良いのだろうか?)R&Bチャートの 3位にまで到達したのです。
しかし、この曲はオリジナルの「Hound Dog」に肉薄するあまり(?)Jerry Leiberと Mike Stollerからなる原曲の「著作権」に抵触する、として訴訟沙汰になってしまったのでした。
もっとも Rufusとっつぁん、そんなことでメゲるでもなく、それを逆に売り物にして、なにかというと Dogネタを連発する「懲りない」とこを誇示し、 Walking the Dog やらCan Your Monkey Do the Dog and Jump Back なんていう曲を連発すんだから、「いい根性」してます。
あ、そのセンとは別に(こっちは猫族つながりか?)Joe Hill Louisをスタジオに連れ込んでTiger Man ってのも吹き込んでますが。

ま、それよりも Stax(まだこの時点では Satelliteですが)にとって重要だったのは、娘の Carla Thomasとデュエットで吹き込んだCause I Love you のローカル・ヒットでしょう。この曲が売れたばっかりに Jerry Wexlerというハイエナ・・・うっぷす敏腕プロデューサーに嗅ぎつけられたワケで、そこから Staxの栄光と転落の両方が始まったのでした。

言わば Staxの1970年代は終末へのカウント・ダウンでした。この時期、その主力は the Soul Children、the Staple Singers、Frederick Knight、Jean Knight、Rance Allen、Mel and Tim、the Emotionsといった次の世代へと移っています。
Rufus Thomasはこの時期、TV出演や1973年の the LA Forumで行われた Wattstaxのコンサートに Con Funk Shunの一員として出演するなど、数々のライヴ・シーンに活躍の場を見出しています。
ケッキョク彼は1975年12月19日に裁判所によってついに Staxの「破産」が宣告されるまで、律儀(?)にも同社にとどまったのでした。
その後もライヴ出演や D.J.をしつつ録音もしているようですが、1988年の Stax Reunionに娘の Carlaや William Bell、Johnnie Taylor、Eddie Floyd、そして the "new" Sam and Daveなどとともに集結しています。そして同年 King Snake Recordsに吹き込んだThat Woman's Poison! は Alligatorから発売されています。
1992年には Rock and Roll Hall of Fameの殿堂入り。
1996年には Atlantaオリンピックにも出演(出場じゃないぞ)していますが 1998年、心臓の手術を受けて以来、健康がすぐれず、2001年12月15日、「世界で最も年寄りな teenager」は死亡しました。



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# by blues-data | 2005-11-14 01:36
Roy Milton
Roy Miltonの生まれは 1907年 7月31日、Oklahoma州の Wynnewoodです。でも、ほとんど、Chickasaw居留区*にいた彼の祖母のもとで育ったようです。

* ─ Chickasawインディアン:およそコーカソイドが表れる遥か以前の西暦1300年ころにはミシシッピー河流域の広い範囲で生活していたと思われる Chickasawは、その中心をアラバマ近辺においていたようです。それが1700年ころの各部族の移動に伴い、現在のテネシー州あたりと、同じくケンタッキー周辺とに分割されたようです。また一部のグループは 1723年に現在のサウス・キャロライナにあたる Savannah川流域からジョージア州 Augustaあたりにかけて定着しました。そこにはイギリスからの独立闘争に際し、英国側についたために1783年に土地を没収されるまで住んでいます。この分派はやがて本流であるミシシッピー河北部に復帰するまで、アラバマ周辺の峡谷などを仮りの住まいとしていたようです。しかし、1830年からのいわゆるインディアン排除思想の本格化に伴い、まず1832年にはミシシッピー東部に追いやられ、さらに1837年にはオクラホマの南西に Choctaw族(そ、Lowell Fulsonのとこで出てきましたよね。みなさん覚えてますかー?)から借りた土地に移り、1854年にはそこから一部がさらに東へ移動させられています。そして、これらの居留地制度が消滅したのが Roy Miltonの生まれる前年の1906年だったのです。しかし「消滅」したのは州法上の居留地を管理する条例などであり、Chickasawの人々が「一気に」解放され、自由に住む場所を求めて出ていった、なんて思わないよーにねん。その後も旧居留地近辺に 12,000人を超える Chickasawたちが暮らしています。


しかし Roy Miltonがブルースと出会ったのは、一家が Tulsaに引っ越してからのことだったようです。1920年代の晩期に、彼はヴォーカリストとして Ernie Fields Orchestra**に参加しています。そしてそのバンドでテキサスを公演中に、バンドのドラマーが拘留されていまったために、彼が替わりにドラマーとなったのでした。

** ─ Ernie Fieldsは Texas州 Nacogdochesで1905年に生まれ、オクラホマ州の Taftで育っています。ピアノとトロンボーンを学び、それが Tuskegee Instituteを1921年に卒業するまでのメインの楽器となったようです。やがて Tulsaで彼の最初のバンド、The Royal Entertainersを始めました。またキャブ・キャロウェイのもとでツアーに連れまわされた際に、ツアーの重要性を悟り、以後、彼のバンドはオクラホマからテキサスにかけてのツアーを行うようになります。ただ、このあたりでは、まだ the Ernie Fields Orchestraの名前は使っていないと思われ、したがって、本来なら「(Roy Miltonは)ヴォーカリストとして後の Ernie Fields Orchestraに参加・・・」が正しいかとおもわれます。
バンドは1939年には John Hammondに認められて New Yorkに招かれ、Vocalion Labelに10曲以上を吹き込みますが「T-Town Blues 」がマイナー・ヒットした以外、これといった「当たり」には恵まれませんでした。


しかし Roy Miltonは、1933年にはそのバンドを離れ、Los Angelesに移っています。そして間もなく彼は有名な Roy Milton and The Solid Sendersを作ることになるのですが、その前に Roy Milton Trio(?)を作っていた、とする資料もあります。Solid Sendersはそのトリオ時代からの女性ピアニスト Camille Howardにトランペットの Hosea Sappに、Buddy Floydのテナー、Jimmy Nottinghamのトランペット、Dave Robinsonのベースを加えたメンバーで、その Roy Milton and The Solid Sendersが1945年の12月に吹き込んだ「RM Blues 」が大ブレークして、彼自身はもとより、Specialtyにとってもその地位を確立させるものとなったのです。また、このようなスモール・コンボによるヒットはビッグ・バンドの存在に「弔鐘」をならすもの、なんて言われたりもしたようです。
Roy Miltonはその後も Specialtyに10年間在籍し、「Milton's Boogie 」、「Hop, Skip And Jump 」、「T-Town Twist (Ernie Fields Orch.のT-Town Blues との関係は不明です)」、「Best Wishes 」などのナンバーを残しています。
Specialty以降は Dootoneや King、Warwickなどに吹き込んでいますが、1960年代の終りころには、彼のスタイルがもはや「outdated」なことは明白となって来てはいたのです。
それでも、ジョニー・オーティスのショウに参加し、1970年の Monterey Jazz Festivalに出演したことによって再び注目されるようになり、ヨーロッパ公演の機会にも恵まれました。
1982年に病で倒れて以来、そのまま回復することなく、1983年の 9月18日、Los Angelesで死亡しました。



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# by blues-data | 2005-11-14 01:21

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