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# by blues-data | 2005-11-13 18:27
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# by blues-data | 2005-11-11 12:02
Roscoe Gordon
Roscoe Gordonは 1928年の4月10日(本人は1934年だ、と主張してたようですが)、Tennessee州 Memphisで 8番目の末っ子として生まれています。
父は Rosco Sr。木材伐採関係の労働者だったようです。母は Adele、専業主婦。

18才の時に「ちょっとマズいことをやって」Chicagoにフケた経験がおありのようでございます。なにをやらかしたのかは判りませんが。
1950年に帰って来た彼は Palace Theatreの Wednesday night amateur showで成功しました。
「私はホントのミュージシャンってワケじゃなかった」でも、友人は私が歌えるって知っていたし、なにしろ、その時、酒を買う金が無かったんだ」。
その時、司会をしてた Rufus Thomasから賞金として 5ドル(?)を貰っています。
Rufus Thomasは、Memphisの初の黒人音楽の番組を採り入れていた WDIAの D.J.でもあったのですが、次ぎの日、Gordonは WDIAに招かれ、「週いち」で彼自身の番組を持つようになりました。

わずか16才(自称、ね。1928年生まれなら 22才)で、ギグの経験もなく、自分のバンドも無い状態だったワケですが、やがて若い Memphisのミュージシャンを集めて「The Beale Streeters」を結成します。
メンバーには、サックスの Earl Forrest、ギターに B.B. King、ヴォーカルには Johnny Aceと Bobby Blandという構成ですが、Bobby Blandは彼のお抱え運転手でもあったようです。
ただ、番組を持つ以上はヒット曲が無い、ではハナシにならないので、WDIAのマネージャー David James Mattisは Memphis Recording Service(後の Sun Records)を設立したばかりの Sam Phillipsに彼を紹介しました。
ただ、1951年の1月に Memphisで行われた初吹き込みの時、Gordonはまだ未成年だった、とするのは1934年生まれとしたらであって、はたしてどっちが正しいのかナゾでございますよん。
そして同じ1951年の12月4日には T-Model Boogieを録音。

やたら威勢のいいピアノ・ブーギに乗せて(たぶん)Model-T Fordを歌った、まるでオーディション・トラックかテスト・トラックじゃないの?ってえ荒っぽい仕上がりの曲です。
なんたって構成が Roscoe Gordonのヴォーカル&ピアノ、そしてサックスが二本( Willie Wilks & Willie Sims )あとは John Daleyのドラムだけ、というシンプル(っちゅーより「手抜き」に近いよな気が・・・)さ。
ですからドラムが孤軍奮闘してガンバってますが、サックスも負けずにリキ入れてブロウ・・・
人数の少なさを音数やらを「ガッツ」でハネ返そう、という意気込みのなせるワザでしょうか?

しかし、1月に吹き込まれた Bootedを Sam Phillipsは Chicagoの Chess Recordsと Los Angelesの RPMの両方に売ってしまい、ために両社から Bootedが発売される、という状況が生まれたのでございます。
この曲は1952年の春に、R&Bチャートの1位を獲得いたしました。この両社の録音はビミョーに異なっており、Roscoe Gordon自身は、Chessの方が本番ので、RPMのはデモ録音のヤツっぽい、と言っております。
1960年には Jimmy McCracklinのリフにインスパイアされて作った Just a Little Bitが VeeJayのために吹き込まれ、R&Bチャートの 2位にまで上っています。ご存じのように、この曲はリッパなスタンダードとして、以後、多くのミュージシャンに採り上げられることとなりました。

しかし、それ以降の彼は ABC Records、Old Town、Jomada、Rae-Coxそして Callaとレーベルを渡り歩くのですが、それほどのヒットには恵まれず、また Just a Little Bitも著作権登記上の不備から、長いこと印税を掠め盗られています(生前にやっと著作権が認められましたが、その間の損失は巨額にのぼるでしょう)。
さて、STONY PLAIN Recordsによれば「愛のために音楽を捨て」てケッコンしたなんて表現もありましたが、Ethel Boltonとの最初の結婚に破綻した彼が腰を落ち付けたのが光り輝くマンハッタン、Barbara Kerrのもとにでした。
Old Townレーベルに Rosco And Barbaraとしてデュオで吹き込んでいるようですが、その録音はしばらくリイシューされなかったようです。
彼はクリーニング業を経営するかたわら、Barbaraが1982年に骨癌と診断されるや、三人の子供の面倒をみながら、妻の介護に集中しています。
その Barbaraが死亡した後、Roscoe Gordonはふたたび音楽シーンに戻りました。
Duke Robillardのサポートを受けて 2000年にはニュー・アルバムを発表もしたのですが、2002年7月11日、彼が1960年代の初頭に Beal Streetを後にして移って来て以来ずっと住み続けていた New Yorkの Queensの自宅で死亡しています。

葬儀は 2002年7月18日、Elmhurstの Walker Funeral Homeで行われ、New Jersey州 Lindenの Rosedale Cemeteryに埋葬されました。



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# by blues-data | 2005-11-10 00:18
Roscoe Chenier
Joseph "Roscoe" Chenierは真珠湾襲撃直前の1941年11月 6日、Louisiana州 Opelousasで生まれ、St. Landry Parishで成長しました。
父は Arthur Chenier、母は Philomen Chenier、いとこ(この場合には「親戚」くらいに考えた方が良さそ)には Leroy Washingtonと、John Robinson(ともに Louisianaのブルースマンで、どちらもギター。さんざん資料を探したんですが、ついに生年その他は不詳!)、さらにあの有名な Clifton Chenierと、Morris 'Big' Chenier(1929年生まれ。Opelousasの共同農家で育ち、ギターとヴァイオリンを弾くようになる。1950年代の後半ころには Lake Charlesに移り、単独で、あるいは甥にあたる Clifton Chenierのバックとしても演奏して歩くようになる。1957年には Goldband Recordsに Let Me Hold Your Hand などを吹き込み。音楽活動のかたわら Lake Charlesの Enterprise Boulevardに『 Chenier Barbecue and Smoke House』なる店も持ち、たまにツアーにも出る、という生活を送った)がいて、音楽的にはとても恵まれた環境にいた、ということになるでしょう。

17才になった1958年には、前述の John Robinsonの Noltervilleの自宅でギターを教わっています(資料によっては Lonesome Sundownにもギターを習った、としているものもあります )。
そして C.D. Gradnier(ベース)と Robert Gradnier(ドラムス)のバンド The Blue Runnersにヴォーカリストとして参加(ハープの Dee Dee Gradnierとのカンケーは判りませんでした)。

Londonの Dark Muddy Bottomに収録された Born For Bad Luckが、その The Blue Runnersにリード・ギターとして Lonesome Sundownを迎え、1962年に Opelousasの自宅で録音した、という一部のコレクターが探し求めている、ってえ「そのモノ」なのかは「?」でございますが(London GXF 2001のライナーでは1963/Reynaud 1018と記されています。ただ Recording Dateではなく発売時期かもしれないので・・・ケッキョクよー判らん!)、今のとこ手元の資料では、これ以外の記録が見当たらないため、「もしかすっとこれかもしんない」(?)って気がしてますが、確証はおまへん。
彼は結局、この C.D. & The Blues Runnersにはおよそ 12年間いることになります。

1970年代に入ると彼はいろいろなバンドからバンドを渡り歩くようになりましたが、70年代の晩期には自分のバンドを結成することが出来ました。そしてそのバンドでヨーロッパにまで行っています。そのバンドについては the Blues Snapp Bandという名前だったようですが、後には the Inner City Blues Bandという(たぶん別な)バンドになっています。
1980年からの彼は昼はトラックのドライヴァー、夜はライヴ、という生活をしていたようですが、90年代に入ってトラック・ドライヴァーから足を洗いました。

1994年には Roscoe Chenierの悲願だった「ブレイク」が訪れます。
Avenue Recordsと契約し、彼の音が Warner Brothers、Electra、そして Atlanticを通して供給される体制が敷かれました。Los Angelesに本拠を持ち、全国に供給されたのですが、このアルバムはRoscoe Chenierというシンプルなタイトルで発売されています。
また1999年初頭には、オランダで録音されたアルバム Roscoe Style(Black & Tan label)がリリースされ、さらに同年、彼は the Louisiana Blues Hall of Fameに名を連ねることとなります。
2000年春には Roscoe Rocksも発売されました。

彼のアルバムで顕著なのは、みなさんが知っているナンバーがいっぱい出てくる、ってとこでしょうか?Louisiana Blues Tasteで調理した馴染みのナンバーをお楽しみください。
しっかし、それにしても、初期の Born For Bad Luck、ここからの距離を意外と近い、ととるべきでしょか?



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# by blues-data | 2005-11-09 23:57
Roosevelt Sykes
Roosevelt Sykesは 1906年 1月31日、Arkansas州 Elmarで生まれました。しかし、彼がピアノを演奏するようになったのは Helenaに出てからだ、と言われています。
15才で彼は St. Louis周辺から各地のバレルハウスを回るようになり、その中で揺るぎない低音部や特徴のある右手のフレーズなどが鍛えられていったのではないでしょうか。
なんてエラそーなことを言うワタクシは、モチロンその足元にも及ばない「なんちゃってキーボーダー」ですから、専門の方々からは「おいっ、それはちゃうぞ!」なんてお叱りを受けることになるやもしれませんが。

その彼がレコーディングを開始したのが 1929年、Okehでの録音から、ということになります。しかるに彼はその翌年には、他のレーベルともガンガン契約しちゃうんですよねえ。
しかも、ちゃんと(ちゃんと?)そっちでは Dobby Braggや Willie Kelly、Easy Papa Johnsonなんてえ偽名を使って契約してるんでげすよ。
なんてえ悪いヤツだ!とお思いになられるやもしれませんが、ま、喰ってくためにゃあ少しでも多くリリースするっきゃないワケで、特に当時のレース・ミュージックに Okeh(にしろ他社にしろ)がそれほど大金を出してくれるワケもなく、他にも、この手を使ってたブルースマンは存在いたしますですよん。

それでも 1935年に Deccaに移ってからは、ミゴト彼の人気はブレイクし、しっかりしたプレゼンスをブルース界の一角に築き上げていったのでございました。
第二次世界大戦を経ても彼の人気が衰えることはなく、1943年、いわば大戦の真っ只中に、今度は Bluebirdとの契約を取り交わしています。
そして録音されたナンバー、彼と、そのバックを務める Honeydrippersによる I Wonderと、その曲名も The Honeydrippersという 2曲を 1945年のヒット・チャートに送り込みました。
続いて Sunny Roadもまたチャートに登場するヒットとなっています。

彼は Going Down Slow で知られる St. Louis Jimmy Odenとともに活動していますが、そっちは 7月 4日付の日記をご参照くださいませ。
その Bluebird時代のあと、1951年には United Recordsに変り、そちらでも素晴らしい作品を残しております。1955年には Imperialでの Sweet Home Chicagoがなかなか。その後、Bluesville、Folkways、Crown、Delmarkと遍歴を重ねて行きますが、どれも一定の評価をかちとっているようです。
1960年代末あたりからは New Orleansに落ち着き、1983年 7月17日の死まで、そこで余生を楽しんだ、とされとります。
彼の最後の録音は Blind Pigのために Michigan州 Ann Arbor(そ、あの Blues & Jazz Festivalのアン・アーバーね)の Blind Pig Cafeで 1977年に行ったライヴ・レコーディング、The Original Honeydrippersでした。



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# by blues-data | 2005-11-06 21:40
Rockin’ Dopsie
Rockin’ Dopsieこと Alton Joseph Rubin Seniorは、ルイジアナ州の Lafayetteに近い小さな町、Carencroで、1932年 2月10日に生まれました。彼の父は週末など、ハウス・パーテイでアコーディオンを弾いていたようで、時々彼も連れていったようです。面白いことに彼もまた自分の息子をライヴに連れてきてたようで、その息子、Dwayne Dopsieこと Anthony Rubinも父の跡を継いで Rockin’ Dopsie Jr.となって行くんですから「Rubin家の掟(?)」おそるべし。

14才になった時、父は彼に小さなアコーディオンをくれました。左利きなのに、それは右利き用だったんで、以来、彼は上下逆さまにして弾くようになったのです。ま、それもあって「教えようがない」とでも思ったのでしょうか、父から教わらずに、弾き方は自分で覚えろ、ってワケで、どうやら彼はラジオから流れて来る曲に合わせて弾くことでどんどん上達し、その父を凌ぐ腕前になるのに、そんなにかからなかったそうでございます。
1950年代に入ると、イトコでラブ(ラ「ヴ」じゃないぞ)・ボード奏者の Chester Zenoと一緒に Lafayetteに出てブルース・クラブなどで演奏するようになりました。このころの彼は煉瓦あるいは漆喰を運ぶシゴトに就いていたようです。

彼はまたダンスにも才能があったらしく、そのせいか、シカゴから来たダンサーから「Dopsie(Doopsieと綴ったりもしてますが)」って名前をパク・・・うっぷす、いただいてるよーでげす。やがて、彼のステージでのハジケっぷりから、その前に「Rockin’」がつくようになり、そこで「Rockin’ Dopsie」っちゅうステージ・ネームが完成したワケですなあ。
一方、バンドのほうは「the Twisters」だったり「the Cajun Twisters」だったり、このアルバム、Sonet SNTF 718(アナログ・ディスクだよん)のジャケ写のバンド・ワゴンには、どー変わってもいーように(かどうかは「?」だけど)カンタンに「and His Band」と書かれてます。
1950年代から1960年代を通して、マイナーな独立系レーベルに吹き込みも経験してたよーですが、彼が世に出ることとなったのは、1976年の the New Orleans Jazz and Heritage Festivalに出演(他に Lightnin’ Hopkinsや Professor Longhairなども出てます)したことがキッカケとなって、スエーデン資本のレコード会社 Sonet(プロバイダじゃないぞう)と契約が成立し、同年ルイジアナ州の Baton Rougeの Deep South Studioで録音され、イギリスでは Pye Recordsから配給されたこの『Doin’ The Zydeco』によるものです。
ま、そんな背景ですから、やはり、それまでザディコを聴いたことないヨーロッパの聴衆を念頭に置いた作りとなっているのはしゃーないんでしょね。

ま、それはともかく、1979年、1980年と連続でヨーロッパに渡り、そっち方面では広く知られる存在になってはいたようですが、ことアメリカ国内では、1985年に Paul Simonのアルバム Gracelandの録音に参加したことでやっとブレイクした、と言えるのかもしれません。それからはシンディ・ローパーやディランと共演したりスーパー・ボウルのハーフ・タイム・ショーに出たり、Louisiana Community CoffeeのテレビCMにも出演し、映画(Delta Heat)にまで出てるんですねえ。

そのバンドには、やがて息子も加わるようになり、三男の Davidが Washboard、次男の Altonが Drumsとして共演することとなりました。四男の Anthony(Dwayne Dopsie)によれば、彼は1970年代からずっと、パール・レッドの、ベースボタンが12個、トレブルキーが31個のアコーディオンを使っていたようですが、後期には同じパール・レッドながら、 80ベースボタン、37トレブルボタンのも使っていたようです。
その Rockin’ Dopsieは1993年の 8月26日に死んでしまいましたが、ほぼ 4年後に、四男の Anthonyのアコーディオンをフロントに、Dwayne Dopsie and The Zydeco Sont Pas Saleというザディコのバンドを結成して跡を継いでいます。なお、このバンドは後に改名し、Rockin’ Dopsie Junior and the Zydeco Twistersとなりました。いまや、ファン・クラブのサイトもありますので、キョーミがおありの方は覗いてみてくさい。

http://www.neworleansproducts.com/fanclub_dopsie/dopsieabout.htm



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# by blues-data | 2005-11-05 22:25
Robert Parker
さて、この Robert Parkerはん、このお方、New Orleansで1930年の10月14日に生まれた、っつーとこまでは判ってるんですが、その後がいきなり1949年に Professor Longhairのバンド、Blue Scholarsのサックス・プレイヤー(alt.同時にバンド・リーダーでもあった、としている資料もあります。う〜む 19才で?)として登場するまで「?」なのじゃ。つまり、それまで、どーゆー育ち方をして来たのか、また、いかにしてサックスを吹くようになったか、もさっぱ判りまへん。そこんとこがイチバン面白いのにねー。
ま、判らんもんはしょーがない。小さなことからコツコツと・・・あ、他に Oscar Willis( T.V.Slim)の「Flat Foot Sam 」でのサックスも、この Robert Parkerだそうですよん。

Professor Longhairのバッキングとしての Robert Parkerは、Atlanticに吹き込まれた『Mardi Gras in New Orleans 』などで聴くことが出来ます。そして「後に」バッキング・バンドは Professor Longhair and his Shuffling Hungariansという名前になったのですが、このあたりが「バンマス」云々の由縁かもしれまへん(なんで Hungariansなのかはサッパリ判りませんが)。

同時に Robert Parkerは New Orleansの the Club Tijuanaのハウス・バンドも率いていたようで、Ernie K-Doe、Fats Domino、Frankie Ford、Joe Tex、Huey "Piano" Smith、Joe Texに Irma Thomasなどのバックも務めています。
さらに Huey Smith and the Clownsとともにツアーをこなし、その後 Eddie Boや Percy Stovallともツアー。
彼自身の吹き込みとしては1959年(alt.1956年という説もありますが未確認です)のシングル「All Nite Long( Part 1) / All Nite Long( Part 2) 」 Ron 327が最初と思われます。このあたりはサックスのみの資質が注目されており、翌1960年の「Walkin' / Across The Track 」 Ron 331、から Imperialに変わって、1962年の「Mash Potatoes All Night Long / Twistin' Out Of Space ( Imperial 5842 )」と「You're Looking Good / Little Things Mean A Lot ( Imperial 5889 )」、1963年の「Please Forgive Me / You Got It ( Imperial 5916 )」、そして年月日不明の「The Laughing Monkey / Let's Do The Thing ( Booker 506 by Robert Parker & Band )」に至るまでは Instrumentalのナンバーが続いています。
彼のヴォーカルの隠れていた魅力が表面化したのは1966年の「 Barefootin'」からだった、と言えるでしょう。
Earl Kingのとこでも Hot Lineレーベルのディストリビューションとして名が出た Doverですが、いわばその子会社的レーベルと言って良い Nolaからリリースされた「 Barefootin'」は Popチャートの 7位にまで到達し、R&Bチャートではミゴト 2位を記録しています。
Nolaではそれ以降も二匹目のドジョウを狙って「Ring Around The Roses / She's Coming Home ( Nola 724 )」、「Happy Feet / The Scratch ( Nola 726 )」、「Tip Toe / Soul Kind Of Loving ( Nola 729 )」、「A Letter To Santa / C. C. Rider ( Nola 730 )」をたて続けにリリース、翌1967年も「Yak Yak Yak / Secret Agents ( Nola 733 )」、「Everybody's Hip-Hugging / Foxy Mama ( Nola 735 )」、「I Caught You In A Lie / Holdin' Out ( Nola 738 )」とガンバるのではございますが、1966年の「Tip Toe 」がかろうじて R&Bチャートの 48位、Popチャートでは 83位にもぐりこみ、ヒット・チャートの末席に名を連ねたにとどまり、やはり Barefootin'の再来はなりませんでした。

その後も1969年の Silver Fox 12 「You Shakin' Things Up / You See Me 」、1970年の SSS International 819 「Hiccup / Rockin' Pneumonia 」、1974年の Island 015 「Get Ta Steppin' / Get Right On Down 」、1975年 Island 044 「Give Me The Country Side Of Life / It's Hard But It's Fair 」、1976年 Island 074 「A Little Bit Of Something / Better Luck In The Summer 」とリリースを続けて、同じ1976年、New Orleans Jazz & Herritage Festival 1976に「Country Side Of Life 」とともに吹き込んでいます。

さて、1997年(もう「 Herritage」の文字は消えている・・・)のフェスティヴァルにもちょこっと出て、Barefootin'も歌ったらしいですが、よろしかったら http://members.jcom.home.ne.jp/bluesy2/no97/502.html をご参照くださいませ。



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# by blues-data | 2005-10-29 21:37
Robert Nighthawk
恐れ入りますが、このブログでは文字数制限にひっかかり、収容しきれなくなりましたのでこちらへどうぞ。
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# by blues-data | 2005-10-19 23:47
Robert Johnson
Robert Johnson ─ 1911年 5月 8日、Mississippi州 Hazlehurstで生まれ、1936年と1937年の録音で、それ以降のブルースを不可逆的に変えてしまった男。
伝説では、深夜、十字路に立ち、そこに表れた黒い巨人と契約し、魂と引き換えにギターの腕を手に入れた、と言われる男。
オンナにからんで、その嫉妬深い亭主に毒殺された、と言われる男。
彼の「本当の」墓はどこにあるのか?が TVの番組にまでなりましたが、その探求の前にはやはり濃い霧が立ち込めています。その伝説もまた彼の一部なのでしょうが・・・

Mississippi州 Hazlehurst(一部のサイトでは「 Hazelhurst」と綴っていますが、それは Wisconsin州にあり、Robert Johnsonが生まれた Mississippi州の Hazlehurstではありません)はそんなに大きな街ではないようで、2000年のデータでは人口が 4,400人(うち女性がやや多く 2,408人、男性が 1,992人)といいますから、ちょっとイメージしづらいですが、それでも Hazlehurst Cityだそうですから、アメリカの地方行政の法制は日本とはだいぶ違うようです(日本じゃ、そんなに人口が少なかったら「市」にはならないんじゃなかったっけ?)。
州都 Jacksonからは南南西に 50kmほどの位置にあり、この市の中心を State Highway 51が南北に貫き、その少し西には、同じように Route 55が南北に走っています(でもこれって後から出来たバイパス臭いなあ。もしかすると、その昔には、State Highway 51が Route 55だったのかも?)。どちらも北に辿れば Jacksonです。

父の名は Noah Johnson、母は Julia Major Dobbsだったようですが、母は後に再婚しており、継父の Charles Dobbsがいました。そして「どちらの父も」彼の成長にはあまり関心が無かったようです。
また Charles Dobbsはどうやら個人的な恨みを買っていたらしく、復讐されるのを恐れて苗字を Spencerに変えていたため、彼自身も一時期 Robert Spencerとなっていたとか。
ただし、これについては異なる証言もあり、R.L. Spencerや、さらに他の名前も名乗っていた、とも言われています。
さらに Johnson姓を名乗った時には Lonnie Johnson(1894 or 1889年、New Orleans生まれ、最初はヴァイオリンに興味を持ったようだが後にギターに転向。1925年11月 2日に初吹き込み。以後1932年までにおよそ130曲を吹き込む。1928-29には白人のジャズ・ギタリストで Blind Willie Dunnとしても活動していた Eddie Langとも録音しています。1969年、カナダの Trontでクルマにはねられ、それが原因で翌1970年に死亡。Robert Johnsonが吹き込む前にすでに「スター」でした)の縁者である、と主張したこともあったようです。
もしかすると、彼が恵まれなかった「家族」というものに対する「憧れ」がそうさせたのかもしれませんが。

Robert Johnson自身は当初、さほどギターの才能には恵まれてはいなかった、と言います。
証言によれば Eddie "Son" Houseがギターを教えたらしいのですが、およそ基本からその応用にいたるまでを学んだ、と。
しかし、それとは別に、ギターに関してはむしろ Ike Zinnermanの存在を重視する見方もあようですが。
1931年に彼がいったん Robinsonvilleを出た(一説では実父を探そうとしたとか)時に出合ったのがこの伝説的なギタリストらしいのですが、まったく録音が残っていないため、その腕前などは推測の域を出ません。
それはともかく、彼はこのギタリストのもとでめざましく上達し、素晴らしいギターを弾くようになったのだと。
Robinsonvilleに帰って来た彼のギターを聴いた Son Houseは、そんな短期間で巧くなったのは「魂を悪魔に売った」からに違いない!と言ったそうです(ってのも伝説かも?)。

横長の Tennesse州はその西側を Mississippi河に阻まれ、ほぼ 60度の角度で台形をなすようなカタチになっています。そのとがった先っちょにあるのが Memphis。
その Memphisから、ほぼ河と並行するように南南西に伸びてゆく Route 61(どうやらアメリカでは南北方向に伸びるハイウェイには奇数番号、東西に走るものには偶数を当てているのかな?)を辿り、Mississippiとの州境を越えてすぐに Robinsonvilleはあります。
つまり、この街は Mississippi州の北西の隅に位置しているワケで、河を挟んで Arkansas州とも近い、というロケーション。
現在では街の東側を新しいバイパスが南下していますが、当時の旧 61号線は街の中心を貫いていたようです。現在はもっぱら「カジノ」で成り立っているようですが、20世紀も晩期になるまでは綿花畑が一面に広がる典型的なプランテーション地帯だったことでしょう。
街の中心で東から来る 304号線(現在は「州道」713号線に「降格」)が 61号線と交差し、そのまま Old Commerce Roadとして西方の Commerceに向かって抜けていくのですが、この道を辿り、堤防(と言ってもミシシッピー河のじゃなく、周辺の河川、あるいは水路の、だと思いますが)の手前で左に折れ、丘を一つ越えたあたりに Robert Johnsonの母 Julia Major Dobbsと継父 Noahが働いていたと言われる The Leatherman Plantationがあり、堤防に面した家で彼が少年時代を過ごした、と信じられています。
しかし現在では、当時はあり得なかった光景が出現しているようで、それは Sam's Town Casinoというギャンブルの殿堂(?)だとか。

ま、それはさておき、1929年の 2月には Robert Johnsonは Virginia Travisと結婚しています。
この若いカップルにはやがて子供が生まれて、家庭を築いて行くハズだったのですが、翌1930年、出産がスムースに行かず、Virginiaはわずか16才で死んでしまいました。
彼の「家庭」への希望はこうして挫けてしまったのではないでしょうか。どの資料にも、この時に生まれた子供、というのが出てこないところを見ると、母子ともに死亡してしまったもののようです。

この年の 6月には Son Houseがやって来て Robert Johnsonにも大きな影響を与えることにはなるのですが、この時期、彼のギターがさほど進歩をみせなかった、という背景には、もしかするとこの悲劇が影を落としていたのかもしれません。
ただ、ある意味では音楽に関わることが「救い」になっていた可能性もあるんじゃないでしょか?
この時期 Robert Johnsonは同じように Willie Brownにもつきまとい、全身でブルースを吸収していたようです。
しかしその割りには彼自身の「伸び」はイマイチだったようで、Son Houseの目には「ダメだこりゃ」と映っていたのかもしれません。
やがて Robert Johnsonの姿は Robinsonvilleから消えます。

一部の資料では、いまだ会ったことがない実の父親を探しにハイウェイ 61を南下した、ともありますが(でも Hazlehurstに向かったのならどっかで東にそれてハイウェイ 51あるいは 55に乗る必要がありますよね?)、その真実は 70年を超える時間の隔たりによってもはや追跡不可能になってしまっているようでございます。
さて、瞼の父(?)Noah Johnsonを探して Hazlehurstに向かった、という説自体もまた「ひとつの伝説」である可能性はありますよね。
実際はどうだったのでしょうか?その動機についてもっと「冷静な」分析をしている資料では、それを、小作農として報われない仕事に取り込まれて行きそうな Robinsonvilleでの生活から脱出するためだったのではないか、としています。
いずれにしても、Hazlehurstでは父に会った、という話も無く、ジューク・ジョイントやランバー・キャンプでの演奏に巡り歩いていたようですから、「父を訪ねて」というストーリィそのものが「やや」危うくなるかも?
この時、これまた伝説的な存在の Ike Zinnermanとの出会い、ギターの修練によるグレード・アップ、なんてエピソードが有名ではあるのですが、実はこの時、彼より10才以上も年上の心優しき女性、Calletta "Callie" Craftとも出会い、1931年の 5月には彼女と結婚しているのです。ただ、この結婚はヒミツにされていたようですが。
Ike Zinnermanに師事したことがギターのめざましい上達につながったとする見方は、それなりに説得力がありますが、でも、もしかして、ここでひとりの女性と出会ったことが原因だった、あるいは相乗効果を発揮した、という可能性は無いでしょうか?

さて、Robinsonvilleに帰ってきた Robert Johnsonがトツゼン凄いギターを弾いたものだから、悪魔に魂を売ってギターの腕を手に入れた、という噂が優勢になったようですが、これはそれ以前のブルースマン、例えば Peetie Wheatstrawや Tommy Johnsonあたりが「ハクをつけるため(?)」にもっぱら自分で言いふらした、というのとは異なり、Robert Johnson自身が肯定的にそれを語ったことはない、と言う点で少し位相が違っております。
Tommy Johnsonなんてまことしやかに、悪魔との取り引きの仕方なんて How To話まで語ってますから、Robert Johnsonも「自ら言う」ことはしないにせよ、一面ではそんな噂でも「宣伝になる」ことを考えて、あえて否定しなかった、ということなのかもしれませんが。

ところで、Robert Johnson(の特にギター)がトツゼン腕が上がっていて、それによって「悪魔と契約」のエピソードも生まれたのですが、この時点で、後に吹き込まれたあの歴史的録音で聴かれるようなギターが「完成」していたんでしょうか?
Ike Zinnermanの存在や、あるいは各地のジューク・ジョイントなどでの経験が彼のスタイルを作り上げていったのかもしれませんが、それ以前に彼にとってアイドルでもあった Willie Brownから学んだもの、そして直接教えられた Son Houseから受け取ったものが「時期を得て」開花したと言うことかもしれませんね。
極端な言い方をすれば、Robert Johnsonは、彼以前のブルースを魅力あるカタチで総括し、それ以降の世代に手渡した「結節点」だったのではないか?という気がしています。
当時の有名な(あるいはまったく無名な)ブルースマンたちの演奏に触れ、そこで耳にしたブルースを自分なりの演奏に消化してゆく過程で、その曲が劇的な変化を遂げ、永遠に近い生命を持つことになったのではないか?と。

Robert Johnsonは南部一帯の小さなクラブやジューク・ジョイント、さらには集会などでも演奏し、つねに次の「場」を求める生活だったようです。
1935年には彼と一緒に活動をしていた、と言う Johnny Shinesによれば、「 Robert Johnsonは根っからの放浪する人間だった」と。街から街へ、演奏できるところならばどこにでも出向いて行ったのでしょう。
貨車に飛び乗り、トラックの荷台に乗り、たまたまチケットを買えるカネがあるときはグレイ・ハウンドで旅を続けたといいます。
彼は自分で作った曲だけではなく、先人たちの残したブルースや、もっと一般的なポピュラーも演奏していたようですから、それだけ表現言語を豊富に持つことになったのかもしれませんね。

資料によれば彼は Mississippi州 Jacksonにあったレコード・ショップの白人の店主 H.C. Speirsにアプローチして ARCのスカウトマン Ernie Oertleに会うことができたようです。
Oertleは Robert Johnsonを Texas州 San Antonioに伴い、そこでレコーディングを行うことになりました。
1936年11月23日に、前日の W.Lee O'Daniel & His Hillbilly Boysと次に控える Hermanas Barazacon guitarrasの録音との間に行われています。
Columbia C 30034(アナログ・ディスク)の King Of The Delta Blues Singers. Volume Ⅱのジャケットのイラストを信じるとするならば、録音は San Antonioのホテルの部屋で行われ、ふた部屋の間のドアが上半分ガラスであるのを利用して、一方を録音ブース、他方をミキシング・ルームとして使用しているようです。
マイクはカーボン・マイク 1本を立て、そのケーブルがドアの下のスキ間を通って隣りの部屋に入り、管球式のドライヴィング・アンプに入り、その出力が直接カッティング・マシーンへ、という構成でしょうか。

カーボン・マイクというのは炭素粒を 2枚の電極で挟み、そこに電圧を掛けます。
一方の板が音圧を受けるようにしてあって、その圧力に応じて「抵抗値」が変わるため、入って来た音に応じた電圧の変化を検出できる、というワケです。その構造上、広い周波数帯域には適合できないため、それで録音されたものは「独特の」狭帯域感があります。

この時に録音されたのは「 Kindhearted Woman Blues」や「 I Believe I'll Dust My Broom」、そしてあまりにも有名な「 Sweet Home Chicago」さらに「 Rambling On My Mind」、「 When You Got a Good Friend」、「 Come On In My Kitchen」、「 Terraplane Blues」、「 Phonograph Blues」、「 32-20 Blues」、「 They're Red Hot」、「 Dead Shrimp Blues」、そしてこれまたとてつもない広がりを見せることになる「 Cross Road Blues」、「 Walking Blues」、「 Last Fair Deal Gone Down」、「 Preaching Blues ( Up Jumped the Devil)」、さらに「 If I Had Possession Over Judgment Day」・・・Robert Johnsonは録音の終了後、カネを受け取るとミシシッピー・デルタのなかに消えていきました。
この時から、アメリカの「ブルース」は(広い意味では「アメリカ音楽」そのものまでも)不可逆的な変成を遂げたのだ、ってのは言い過ぎでしょうか?

翌1937年の 6月、Robert Johnsonはふたたびレコーディングの現場に帰ってきます。
この時の録音は同じ Texas州ではありますが、Dallasで行われ、「 Hellhound On My Trail」、「 Little Queen of Spades」、「 Malted Milk」、「 Drunken Hearted Man」、「 Me and the Devil Blues」、「 Stop Breakin' Down Blues」、「 Traveling Riverside Blues」、「 Honeymoon Blues」、そして「 Milkcow's Calf Blues」を 3テイク、「 Love in Vain」の 4テイク(他はすべて 2テイク)を録音しました。

1938年の 8月13日の土曜日。その夜、Robert Johnsonは Mississippi州 Greenwood(位置としては、ちょうど Robinsonvilleと Hazlehurstの中間あたりに位置します。あの有名な Dockery Farmにも近く、また某レコード会社 ─ てなコト言っても、次の名前を見たらバレバレですが ─ がその名前をいただいた鉄道「 Pea Vine Railroad」の路線もあったようですが、この Pea Vine railroadってたしか、テネシー河を越える橋が完成して自動車の方が圧倒的に便利になっちゃったもんで、次第に採算性が悪化して、ついには1936年10月31日を最後に「廃止」に追い込まれちゃったんじゃなかったっけ?1937年だったかな?)郊外のジューク・ジョイントで演奏をしていました。
それは Three Forksにあった Shaples General Store(つまり雑貨店ですね)のバック・ルームにあったようです。
そこでの演奏が終った後、午前 2時半ころに気分の悪くなった彼は Greenwoodの Young Street 109番地の黄色いペイントを施された家に担ぎこまれ、そこで三日後に息をひきとりました。

この件に関する見解はいくつかあって、死因については「刺された」と「毒殺された」と「病死」の三つが取り沙汰され、また、もし他殺だとすると、その犯人は「その時に付き合っていたオンナが嫉妬から」というのと「その時に付き合っていたオンナの亭主が嫉妬から」という二つが「まことしやかに」語られてきました。
たしかに Robert Johnsonが Greenwoodのとある女性と「非常に」親しくしていたことは広く知られており、それ故にウィスキーにストリキニーネのような毒物を入れられた、というのが「信じられやすかった」のは確かでしょう。

この時 John HammondによってSpirituals to Swing Concert がカーネギー・ホールで計画されていたのですが、そのさなかに Mississippiから悲報が届いたのでした。「 Robert Johnsonが死んだ。嫉妬したガール・フレンドに毒殺された」と。
このニュースがまず行き渡り始めたのでしょう。また「口から泡を吹き、まる四日間、のたうちまわって、看護するひとにつかみかかるなど狂った犬のようだった」などという恐ろしげな描写も伝えられたようです。また、彼は松材の棺に入れられ、なんのマークもない場所に埋められた、と。
彼の遺言とされているのは、「 I pray that my redeemer will come and take me from my grave.(私は、贖罪者が来て、墓から私を連れ出してくれるように祈ります。─だと思う)」という言葉です。

1970年代の中頃、 Steve LaVereというオトコが Robert Johnsonの曲の印税関係に興味を持ち、調べていたところ、唯一の近親者として、異父妹(姉かもしんない?) Carrie Spencerの存在をつきとめ、権利関係を管理する財団、the Robert Johnson Estateの運営をもちかけ、結果として、彼女に雇われてそこで働くカタチになりました。
さっそく彼は Robert Johnsonの演奏した曲を採り上げたアーティストに対し、支払いを求める業務を開始しています。
それらの一連の業務の中で LaVereは他にも Robert Johnsonの遺産に関わってくる存在はいないのか調査をしていましたが、その過程で Robert Johnsonの「死因」に関する新しい解釈を与えることになりそうな文書に遭遇することとなります。
それ以前の関係書類としては、ミシシッピー州の検死官による公式の報告書に記載された表現しかなかったのです。それにはこう書かれていました。「死因:医者にかからなかったため( No Doctor)」・・・おいおい、それって「死因」か?と思わずツッコミたくなりますよねえ。

新たに発見されたのは、前述の Robert Johnsonが死を迎えた家、Greenwoodの Baptist Townと言われた一角、Honey Boy Edwardsの記憶を信じれば Young Street 109thの家主の陳述を含む文書だったようで、それによれば、Robert Johnsonは梅毒からくる合併症で死んだ、と述べられていたようです。
これについては別な資料でも、ほぼ四日間にわたって彼は発汗し、毒素を体外に排出することに成功しかけていたが、そこで持病からくる肺炎が悪化して死亡した、としているものもあります。
この件に関して LaVereは数人の Robert Johnsonの友人たちにもインタビューをして調べているようなのですが、梅毒からの合併症が死因、という見解について、「それを否定するような証言は得られなかった」としています。

ただし、多くの人たち(たとえば CeDell Davisは彼を毒殺したのは Criphouse Beaという女性だった、と具体的な個人名を挙げて証言しているようですが、その事件が、彼がポリオと闘っていた 10才そこそこのときに起きていることを考えれば、それもまたどっかからの伝聞だったでしょうから、どこまで信じられるかは「?」です。ただ彼はまだ生きていて、まだこれからもその「彼の信じるところの真実」を敷衍し続けることでしょうが)にとっては、毒殺説こそが「伝説」に相応しいものだったようで、いまでも、Robert Johnsonをドラマティックに語るコトバの中には必ずこの「毒殺説」は登場し、それが残す印象があまりに強いために、その部分だけが独り歩きを始めてしまうのかもしれませんね。

彼が最後に演奏した Shaplesはとっくに無くなり、Three Forksも現在では Highway 82と 49Eの交差する円環状の交差点となっているそうです。

さて、「 Robert Johnsonの遺骸は松材の棺に入れられ、なんのマークもない場所に埋められた」と言う説についても異論があります。
別な資料では、Greenwoodの南西にほぼ 20kmの位置にある Morgan Cityの小さな教会に葬られた、と・・・
ま、こんなだから、彼の墓はどこにあるのか?なんてえ番組が成立するんですね、きっと。

そうそう、彼の死因のとこで三つが話題になった、とも言いましたが、実はこれにも「もひとつ」あるんですよ。刺殺・毒殺・病死の他にヒソヒソと(?)語られたのが、「契約していた時期が来て、悪魔が命を回収に来た」というものでございます。

なんたって深夜の十字路で悪魔と契約してるんですから、そりゃアリだべ!ってワケですね。
およそ伝記作家たちのイマジネーションをこれほど刺激するシチュエーションは滅多にあるもんじゃございません。
「深夜、ひとけのない十字路にギターを持って行くんだ。そこで巨大な黒人が表れるから、自分のギターをそいつに渡すんだ。するとそいつはそのギターを持ってチューニングをして返してくれる、それを受け取った瞬間から、ギターが弾けるようになるのさ。悪魔のようなギターがね」・・・これは Tommy Johnsonが悪魔との契約について語ったとされているコトバです。
たとえブルースをあんまり聴いていない、さほど詳しくはないひとまでが、この「 Crossroad」の神話を知っている場合があります。どうやらそれは映画で(最近ならレンタル・ヴィデオで、かな?)観た知識から来ているようですが、そのヘンの「十字路」信仰(?)は我々日本人には理解し難いものがあるかもしれませんね。
日本にもかって「辻斬り」などと言って、出合い頭にいきなり斬りつけてくる「魔」の辻などもあったようですが、しかし、それらも実は妖怪などではなく、生身の人間が潜んでいて犠牲者が通りかかるのを待っていたワケで、そこに「上昇」のための神話などは存在しなかったように思います。

特にアメリカ南部の黒人たちの迷信というものは、その背景に、現状からの脱出の願いがバイアスとしてあるのではないでしょうか。
たとえ悪魔に魂を売ったとしても(だって、そのままだって「地獄のような」生活なんですから。そのヘンの「救いの無い状況」を想起できなければ、黒人の被差別の歴史がもたらしたもの、ひいてはブルースだって理解することは難しいのかもしれません)、それでギターがウマくなるんだったらいいじゃないか!ってなもんでしょ。

もちろん、冷静に考えれば、Robert Johnsonのギターにしたところで、突然変異のようにそれまで誰も聴いたことの無いような「ありえな〜い」フレーズだらけだったワケではなく、それ以前のブルースマンたちの様々なクリシェを「自分のものとして」血肉化して見事にブレンドされている、と言えるのではないでしょうか?
ただそのブレンドの具合が「いまだかってないほど」絶妙だった。そしてその上に自分の経験した様々なシーンを織り込んだ(と言われる)ココロに残る歌詞で溢れるブルース・・・
彼のブルースを形成するエレメントを徹底的に分析していけば、Robert Johnsonのブルースの「ある一面」は理解できるかもしれませんが、なぜ「こうなったのか?」は永遠のナゾでしょう。
周囲からいくら精密に分析してみたところで、我々が手にすることが出来るのは、やはり「結果論」でしかないのですから。

Robert Johnsonの残した録音は1990年にようやく完全な全集が発売されています。
また、長い間、切望されていた彼の顔写真も公表され、また少し霧が晴れてきたのですが、それでもやはり彼にまつわるミステリーは厳然として存在し、世のロマンチストたちに格好の話題を提供し続けることでしょう。


reserched by Othum: Blues After Dark


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# by blues-data | 2005-10-12 00:08
Robert Garrett
Robert "Bud" Garrettは Tennesse州の Free Hillで 1916年の 1月28日に生まれています。
1830年以来、自由を得たかっての奴隷たちの作った隔離されたコミュニティがあった Free Hillで殆どの生涯を過ごしたようです。
ただし、手持ちの資料ではそれ以上のことが判りませんでした。
どのような人生を歩んでブルースマンになったのか?などなにひとつ判りません。

その彼がブルースの歴史の上に登場するのは1962年に Nashvilleで録音され、Excello 2216として発売されたシングル「 Quit My Drinkin' / Do Remember」からです。
その後 Ted Jarrett( 1955年に Excelloの Louis Brooks & The Hi-toppersのために作った曲It's Love Baby (24 Hours A Day) で成功を収めたシンガー・ソングライター。その後、独立プロダクションに移り、 Champion、Calvert、Cherokeeなどという一連のレーベルを立ち上げました。そして Nashvilleの R&Bをリリースしていますが、中でも Earl Gainesや Gene Allison、Larry Birdsongに Shy Guy Douglasなどが有名なところでしょう。さらに手を広げて Poncelloやその傘下の Valdotや Spar、Bullet/Sur-Speedなどのレーベルも生み出し、最終的にはソウルの Ref-O-Reeレーベルも作っています)のもとで I Don't Wanna Be Soberと Mean Man(ただしこちらは未完成なまま)の 2曲をレコーディングしていますが、その日付は判明しませんでした。
その後、1980年代にはコミュニティ内でのフェスティヴァルなどにも出演をしているようですが、Free Hillでも次第にディスコやケーブル TVの普及に伴ってそのような場も減っていったようです。

1987年11月24日、Robert "Bud" Garrettは 71才で死亡しました。場所はもちろん Tennesse州 Free Hillです。



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# by blues-data | 2005-10-11 23:16

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