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Tarheel Slim
そりゃ Number Nine Trainもメッチャ調子よくてキャッチーだし、なかなかいいんですが、ワタクシの好みは Wildcat Tamerかな?
これも、バックでリフを刻むのはお馴染み Wild Jimmy Spruill。他のメンバーはちと判らないんですが、ピシピシと決まる重心が高い、でもスピード感溢れるリズムは洗練された中にエネルギーもあって、この「グイグイ」行く感じは快いですね。
彼のギターはけっこうプリミティヴなとこもありますが、それがかえってこの曲には合ってるよな気がしますよ。
とまあ、Number Nine Trainよりもこっち、ってえ方は他にもおられるよーで、エゲレスの KRAZY KAT 7430(1985)THE SWINGING SIDE OF THE BLUES - WILDCAT TAMER 1951-62ってえアルバムじゃあ、ご覧のとおりこの曲がタイトル・チューンになっております。
でも、このひともあんまり評価が高くないんですよ。ブルースマンとしての知名度もいまいちで、なかなか採り上げてもらえないんですが、もっと注目されてもいいと思うんですけどねえ。
海外のサイトのひとつでは彼を unsung heroeと表現しているのがありました。佳きたとえです。

Tarheel Slim( Alden、あるいは Allen Bunn)は 1924年 9月24日に North Carolina州のタバコ葉栽培農業地帯真っ只中の Winston( Bailey-Wilson)で生まれています。
彼は Nash Countyの Wilson郊外の農園で成長しました。母の Leonia Owensは教会で歌っておりましたが、彼にとって母の持っていたレコードで聴ける 78回転 SPの Blind Boy Fullerが大きな影響を与えることになるのは当然、というものでしょう。
父の Henry Bunnは古いギターを持っており、12才になった Aldenはそのギターを弾き始めました。すぐに彼は教会の催しなどでその腕を披露するまでになったようです。
1946年には、地方の放送局にも出演したりしていた信心深いヴォーカル・グループ、the Southern Harmoneersに重心を置いていました。
時期的には、重なっていると思われるのですが、彼はまた同州 Raleighの放送局 WPTFに出演したり、Nash郡あたりを中心に演奏活動を行っていた the Gospel Fourのほうにも在籍していたようで、そちらでは 1949年に Gothamに吹き込みもしています。
ただ、彼が Thermon Ruth( 1914.3.6 South Carolina州 Pomaria生まれ。The Selah Jubilee Singersとしてばかりではなく、The Larksで「My Reverie 」や「When I Leave These Prison Walls 」、The Harmonizing Fiveでの「That Awful Day In Dallas 」なども残している。2002.9.13死亡。Group Harmony Association Hall Of Fameに選定されました。 http://www.group-harmony.com/ThereJub.htm)に出あったのはそれに先だつ 1947年のことで、まもなく彼はこの伝説的なグループ、the Selah Jubilee Singersに加わっています。彼はグループのギタリストとして、またセカンド・リード・ヴォーカルとして当時このグループを経由して行った Napoleon Brown(後の Nappy Brown: 1929年 North Carolina州 Charlotte生まれ。若いころから数多くのゴスペル・グループを経験する。1950年代に入り Savoyと契約、かなりの人気を得る。1950年代後半は何度も R&Bチャートに登場、「Don't Be Angry 」、「Pitter Patter ( 1955)」、「It Don't Hurt No More ( 1958)」、「I Cried Like A Baby ( 1959)」などがヒットしました。しかし忘れてならないのが Ray Charlesの「Night Time Is The Right Time 」のオリジネイターである、ってことでしょう。あ、カンケーないけど、ワタシもこの曲やってますよん。その後 Elephant Recordsに移るけどパっとせず、Landslide Recordsで 1984年に入れた『Tore Up 』で注目を浴びる。それを受けてツアーに出るのですが、そのバック・バンド the Heartfixersには Tinsley Ellisがギターでいました)とも出合っていたのではないでしょうか。

Jubilee Singersはニューヨークを中心とした活動をしていたのですが、この時期、彼らは複数のレコード会社と「違った名前」で関係しております。
Capitolには the Selah Singersとして、Signatureには the Cleartonesの名前で、Cross and Lee-labelsには the Sons of Heaven!まあ、ケッキョク、それほどは売れなかった、っちゅうハナシもありますが、前述の Thermon Ruthは、心気一転、新しいブランドで(?)っつうことで the Jubilatorsというバンドを作ります。結成直後にバンド・コンテストで優勝し、50ポンド( 22.68kg!)もあるデッカいケーキをカクトクしております(うぷぷ、メンバー 5人で分けても一人 4.4kg!ま、家族のいるひとならモンダイ無いか?)。
1950年 5月10日、ニューヨークで例によって同じ日に四つの違うレーベルにそれぞれ違う名前でレコーディング( the Southern Harmonaires→ Apollo、the Selah Singers→ Jubilee、the Jubilators→ Regal、the Four Barons→ Regent-Savoy)をしちゃったのですが、やはりねえ、「悪はホロビる」っつうか、コトは露見して、Bess Bermanの Apollo Recordsが、他のレーベルに入れた録音の権利をすべて押さえてしまったのでした。
さて、ここで Alden Bunnに光りが当たります。
Got To Go Back Again( / Lemon Squeezer )が Thermon Ruthとバリトンの Eugene Mumfordを従えるカタチで歌われたのです(ついでながら Bサイドは David McNeilがソロ)。そして、Bess Bermanの意向( ゴスペルよりも、R&Bか Doo-Wopとして売りたい?)を受けて、グループは Five Larksと改名しています。
これが当たり(?)1951年から 1952年にかけて Five Larks(メンバーから Hadie Roweが抜けたために「 Five」が無くなり、タダの the Larksとなっていましたが)は Apolloに 11枚のシングルを吹き込んでいます(他にマヘリア・ジャクソンのバックも務めています)。

有名な「Eyesight To The Blind 」では Alden Bunnのリード・ヴォーカルが聴けます。1952年には Percy Mayfieldのツアーに参加、中西部から南部をまわりました。
放送関係では Zeke Manners Show、Ted Steele Show、(まだ TVに移る前の) Perry Como Showなどにも出演。
しかし、この時期を最期に Larksの活動も終り(ただし 1954年に再結成と称して Apolloに吹き込みをしていますが、この時にはオリジナル・メンバーはバリトンの Eugene Mumfordただひとりでした)、Alden Bunnはソロとしての活動を開始しています。
まず Allen Bunn & his Trioあるいは the Allen Bunn Orchestraってのを作ってバッキング・スタッフとして Apolloにブルースのレコードを吹き込みはじめました。

彼が最初に伴奏を手がけたのは、ピアノの Wilbert "Big Chief" Ellisで、次がハープの Sonny Terryとギター Brownie McGheeのコンビです。
続く二枚のシングルではハープの Sonny Terryを Bobby Smithのテナー・サックスに換えてモロ R&B色の強いものに仕立て上げました。
1953には Bobby Robinsonの Red Robin-labelに My Kinda Woman、その裏面としてToo Much Competitionを吹き込んでいます。ただこのときのシングルはあまり売れず、Aldenはほぼ 3年間、スタジオから姿を消します。

1956年、Aldenは Joe Leibowitzの Premium Recordsのスタジオ・ミュージシャン&アレンジャーとして帰って来ました。
同時にジャンプ・ブルース系のヴォーカル・グループ the Wheelsのマネージャーであり、専属ギタリスト(歌ってまへん)でもあったようで、Premiumに三枚のシングルを録音しています。この the Wheelsは後に the Federalsと名を変えて Premiumから離れてゆくのですが、その際、Aldenは彼らとの縁を切っています。
その替わり、と言っちゃあなんですが、そのころ付き合っていたカノジョ(?)、歌手の Anna Lee Sanford(そ、Little Annね)と再婚(最初の結婚がいつ、ダレとだったのか、それがどーなったのかも不明です)し、カノジョとカップルを組んで Aladdin傘下の Lamp Recordsにまるでその二人に相応しいかのよな「 Lovers」名義で録音を始めます。

1958年には二人は古巣(?)の Bobby Robinsonの元に帰り、彼の Fire、Furyそして Enjoy-labelsに吹き込みを開始しました。この頃には、生まれ故郷の North Carolinaからいただいたアダ名「 Tarheel Slim」を名乗るようになっております。
この時の録音は Tarheel Slim and Little Annあるいは Slim and Little Annという名前で出ていますが、有名な Number Nine Trainと、Wildcat Tamer( Fury 1016)では Tarheel Slimの単独名義となっております。

二人の Fireでのファースト・シングル It's Too Late(キャロル・キングのじゃないよん)は R&Bチャートにも顔を出しましたが、他はそこまでにも到達しなかったみたいですよ。
1960年代中頃には二人で「ソウル・ミュージック」への進出を試みていますが、それは二枚のシングルで終りました。ただ、Tarheel Slim個人としては 1963年の Two Time Loserに Goodnight Ireneをカップリングした Atco 6259や、Close To You / I Submit To You( Port 3001)などが地道に活路を開いて行きつつあり、ロックンロールのとば口まであと一歩、とゆうところだったのでしょうが・・・

1970年代の初め、New Yorkの Trix Recordsのオーナー Pete Lowryが Tarheel Slimにカムバックを薦め、1974年までに彼は最後期の録音を行いました。そこでは彼の出発点ともなった、あの Blind Boy Fullerの音を髣髴とさせるアコースティックなブルースが納められています。
まず 1970年11月29日、New Jersey州 Montclairを訪れた Tarheel Slimは伴奏者も無しで 4曲 Walkin'、Some Cold Rainy Day、Weeping Willow、180 Daysを録音し、この四曲目だけが最後の LP、No Time At All( Trix LP 3310)でリリースされています。
その LPの方は同じく New Jersey州 Montclairで 1971年 1月23日、NYの Brooklynで 1972年 3月17日、同じく NY、Cottekillで 1974年 9月22&28日に録音されたものですが、そこには旧友の "Big Chief" Ellisや Brownie McGhee、そして新進気鋭のギタリスト Dan Del Santoも参加しています。
1976年には Trixにニュー・アルバムとなるハズだった録音を開始しましたが、ついにそれが陽の目を見ることは無かったようです。

Tarheel Slimこと Alden Bunnは喉頭癌のために 1977年 8月21日、Montefiore Hospitalで永眠いたしました。
彼の遺骸は New Jersey州 Fairlawnの Fairlawn Cemeteryに埋葬されています。



reserched by Othum: Blues After Dark


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by blues-data | 2005-12-12 22:37

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