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Lowell Fulson
Lowell Fulsonは Oklahoma州 Tulsaの Choctawインディアンの居留地で1921年の 3月31日に生まれています(祖父が Choctawインディアン、という資料があります。ただし ktateさんの「ブルース人名辞典」では、チェロキー・インディアン、しかも祖母が、と違っています)。
育ったのは Texasとの州境に近い Atokaで、12才の時に叔父(あるいは伯父。英文の Uncleではその違いが判りませんので)からギターを貰い、すぐに弾けるようになったようで、まずハウス・パーティなどでアコースティック・ブルースを演奏するようになりました。
1939年には Texas州 Gainesvilleで Texas Alexander*のバンドに加わっています。そこでは後に彼が録音することになる多くのナンバーをモノにしたり、演奏に関する様々な経験を積むことになったようです。

* ─Texas Alexander:Alger Alexander. b.12 September 1900, Jowett, Texas( alt.1880 in Leona, Texas) -d. 16 April 1954. Richard, Texas ( alt.1955 Houston, Texas) Lightnin' Hopkinsの従兄弟と言われる。楽器を弾かないブルース・シンガーで戦前からのテキサス・ブルースマン。


1940年代の中頃、California州 Oaklandにおける 2年間の海軍での軍役を終えて、そのまま San Franciscoにとどまった彼はそのスタイルをさらに都会的なものに仕上げて行きます。
一般的なミシシッピー→シカゴ、という図式とは異なり、彼は第二次世界大戦中にテキサスとルイジアナの隘路をくぐり抜け、ウェストコーストに辿り着いたのでした。
Oakland勤務で知りあったプロデューサーの Bob Geddinsの紹介によって、Big Town、Down Town、Gilt Edge 、そして Trilonなどのレーベルに吹き込みを始めたのが1946年のことです。
1950年にはツアーを開始していますが、そこには Ray Charlesも在籍していた、と言われています(ただし資料によっては初吹き込み以前に在籍していたかのように書かれているものもあります。また、Ray Charles以外にも、ギターに Ike Turner、サックスに Stanley Turrentineあるいは King Curtisがいた、という記載もあります。「3 O’Clock Blues 」の際の12人編成のバンドに Ray Charlesが含まれている、とする説もありますが、Ray Charlesの Biographyではツアーに同行した記載のみなので、1950年のツアー・メンバーから、とする説がやや優勢です)。同年、3曲を R&Bチャートのトップ10に送り込みました。「Every Day I Have The Blues 」、「Blue Shadows 」と「Lonesome Christmas 」がそれですが、特に Memphis Slimの「Nobody Loves Me」をベースにした、と言われる「Every Day I Have The Blues 」はご存知のように多くのブルースマンによって愛され、広く普及することとなりました。

前年には Aladdin Recordsとも接触はしたものの、1954年にはシカゴの Chess Recordsの"Checker" labelと契約。そしてそこで吹き込んだ一曲によって目ざましい成功をおさめます。それが、「Reconsider Baby」なのでございますよん!
ジャンルを超えた名曲として、Rufas Thomasや Freddie Kingなどのブルース畑のアーティストばかりではなく、Elvis Presleyや Merle Travis(「Trouble, Trouble」)、 Lou Rawls(「Room With A View」として)、Foghatにクラプトンと、この曲を愛したアーティストは多岐にわたります。それだけ、この歌詞としっかり結びついた独特のメロディ(いやいや、ブルース業界では稀な部類ですぞ!こんなにしっかりした「曲としてのアイデンティティ」を持ってるっての)が多くの人たちに受け入れられた、ってことでしょうね。資料によれば、R&Bチャートの 5位にまで到達しています。

彼と Chessとの関係は 1963年まで続いたようですが、1965年には Modern/RPM/Flair fame Recordsのオーナーでもある the Bihari familyが所有する Los Angelesの Kent Recordsと契約。
この Kentでは、名前を Lowell Fulsomと綴っているようです。そしてリリースされて大ヒットとなったのが「Tramp 」でした。1967年に R&Bチャートの 5位にまで上り、これまた皆様ご存じのようにオーティス・レディングによってカヴァーされることとなります。
1969年には Jewel Recordsに移籍しロックに接近した録音を行ったりもしていますが、同時期、Crazy Cajunや Graniteなどのレーベルにも録音をしていたようです。
1980年代からは海外にまで進出し、その後も1990年代までツアーや、ヨーロッパのレーベル(おフランスの Blue Phoenix Recordsなど)、あるいは Rounderや Bullseye Blues labelsなどにレコーディングを続け、1993年には W.C. Handy blues awardsを獲得し、「殿堂」入り、また1995年には Them Update Blues (Bullseye Blues CD 9558)がグラミー賞のベスト・トラディショナル・ブルース部門にノミネートされました。

1990年代の中頃から腎臓の機能障害から、週に三度の人工透析が必要になっていた Lowell Fulsonは、1999年の 3月7日(alt.3/6)腎不全と糖尿病、さらに合併症による心臓の衰弱などによりキャリフォルニア州 Long Beachで死亡しました。

なお、Lowell Fulsonに関しては、すかさんの http://homepage1.nifty.com/bluesknk/flsn.html もご参照くだされば、桁違いにより正確かつ詳細な情報が得られますよん。



reserched by Othum: Blues After Dark


# by blues-data | 2005-09-14 14:42
Louis Jordan
Arkansas州の Little Rockからおよそ東に 100km、北緯 34度 53分 25秒、西経 91度 11分 30秒、かっての大統領からその名をつけた「Monroe」郡の中にある町、(西暦 2000年の国勢調査によれば、人口は・・・MORE

# by blues-data | 2005-09-14 12:02
Louis Collins a.k.a. Mr. Bo
さて皆様は Mr.Boをご存知でしょうか?彼の兄弟、Little Mac Collinsと共作し、1966年に Detroitで録音された If Trouble Was Moneyは、後に Albert Collins(with Charlie Musselwhiteのコンビ?)によってもカヴァーされていますが、初期の B.B.を思わせるヴォーカルと、それよりはもっとアクの強いトレブリィなギターで、じっくりと歌い上げるスロー・ブルースとなっています。バックにはホドをわきまえた、それでいて要所を抑えるリリカルなピアノと、さらに地味ながらもブラス・セクションが控え目に和音をもぐりこませ、全体のトーンに微妙に色付けしてるのねん。ただしバッキング・メンバーは不明でございます。
1995年にこの曲を再吹き込みし、Blue Suitから『If Trouble Was Money』というタイトルでアルバムも出ているのですが、そちらはまだ聴いたことがおまへん。

Mr.Boこと Louis Collinsは Mississippi州の Indianolaで1932年 4月 7日に生まれました。
1946年には Chicagoに移りますが、1950年代に入ってすぐ、今度は Detroitに行っています。ハウス・パーテイなどで腕を上げていったようですが、そこで Washboard Willie*やジョン・リー、Vernon Harrison "Boogie Woogie Red"**や Little Sonny、さらにEddie Burnsなどと知りあう。
1950年代の晩期に彼は「 Mr. Bo」と名乗るようになっています(ただその由来は判りまへんでした)。1959年には初吹き込みをしていますが、その時のレーベルは Northern、Big D、Reelあるいは Diamond Jimのどれかと思われます。

そして1966年に、兄弟の Little Mac Collinsと一緒に作った「If Trouble Was Money」を録音するワケですな。
そのリリース後、定期的にクラブで演奏などもしているのですが、彼の知名度は次第に落ちて行き、1980年代には「忘れられた存在」になりかけていたようです。
1993年に、オランダの Blues Estafetteからそのオリジナル・シングルがリイシューされたのを契機に、復活がはかられ、1995年にはスタジオ入りして再び「If Trouble Was Money」をレコーディングし、Blue Suitから発売されています。
しかし彼はその結実を味わう間もなく流感で死亡してしまったのでした。時に1995年 9月19日のことです。

* ─William Hensley。Georgia州 Columbus出身、1909-1991。31才の時にパーカッションに目覚め、以来ウォッシュボードやフィンガー・シンバル、フライパンを身につけて「ひたすら」叩き続ける。1948年、Detroitの北部に移り、自動車製造ラインの洗車部門に勤務。1952年ころ、ジョン・リーや Eddie Burnsが出ていた Harlem Innにライヴを観に行った際、その時のドラマーがイケてなかったのでクルマからウォッシュボードを取って来て演奏に参加したところ、二曲目でクラブ・オーナーが毎週末、演奏してくれるよう依頼し、それから 3年間、そのクラブでステージに立ちました。そして自分の仕事がらみの「泡─Suds」からヒラメいてバンドを Washboard Willie & the Super Suds of Rhythmと命名。1955年には Little Sonnyが加入。1956年、Joe Von Battleに「Cherry Red Blues」、「Washboard Shuffle」、「Washboard Blues Pt. 1 & 2」などを初吹き込み。1957年から1962年にかけて Von Battleに吹き込み。彼のドラム&ウォッシュボードに、Calvin Frazierのギター、Boogie Woogie Red(Vernon Harrison)のピアノ、Chuck Smithのバリトン・サックスというものでしたが、そのテープは George Paulusが Von Battleの倉庫から持ち出して自身の Barrelhouse Recordsで1982年にリリースするまで「眠り」についていたのですが。他に Herculon labelから「Natural Born Lover」と、有名な「Wee Baby Blues」(共に1966年のセッションから。 Evans McLendonのギター、 Angelo Willisのバリトン・サックス)や Big Bear/Poly 2460 186がある。1973年からは各地のフェスティヴァルなどに参加していますが、1980年代にはいると、地元の婚礼などで演奏する他はあまり出て来なくなります。家庭を大事にし、日曜学校の教師でもある多忙な生活を充分に楽しんでいたようですが、1991年 8月24日、Detroitで死亡。

** ─Loisianna州 Rayville生まれ。1924.10.24。まだ若いうちに一家を挙げて Detroitに移り、彼は Big Maceoや Dr.Claytonの影響を受けつつも自分のキーボード・スタイルを構築していく。18才のときに Chicagoに乗り込み、Lonnie Johnsonや tampa Red、さらに Memphis Slimなどとジャムをするようになっています。1946年には Detroitに戻り、そっから14年間、ジョン・リーのもとで過ごす。しかしモータウン・サウンドの隆盛に押されてブルースが下火になるにつれ、彼も一旦、演奏から身を引きます。それが1971年、ヨーロッパでのツアーに参加した彼はその反応に気を良くし、デトロイト周辺でのライヴの他に海外へのツアーも開始する。アルバムは『Live At The Blind Pig』など。



reserched by Othum: Blues After Dark


# by blues-data | 2005-09-14 11:39
Lonesome Sundown
たしかプリ・ブルース期のワーク・ソング(だと思うんですが確証無し。なんせ遠い記憶の彼方に朽ちかけてたのを無理矢理ひっぱりだして来たんで、いささかアヤしい)で、歌詞に Harry, Down Sun downってえ一節があったように思うのですが、その歌の解説に、当時の綿花プランテーションでは日の出から日没まで、明るい間はともかくコキ使われていた黒人奴隷たちは、もう午後も遅くなってくると、ひたすら「日没」を待ち焦がれたのだ、と。そして生まれたワーク・ソングで、「もういいから、早く地平線に沈んでくれ!」という悲痛な叫びが背景にある、てな主旨のことを読んだ記憶がございます。

そのように南北戦争以前の南部では「日没」が過酷な労働の「休止」を意味するものでもあったようですが、たとえ名目上だけとは言え「奴隷解放」後は、次第に、黒人社会の中での Sundownに対する概念も変質していったのかもしれません。この Lonesome Sundownという芸名での Sundownは多少なりともメランコリックな匂いがしますし、特に Lonesomeってえ語と組み合わせちゃうと、ますますセンチメンタルな風情を漂わせるのは当然でございますね。

その Lonesome Sundown、HPの方でも Favorite Songsで取り上げておりますが、向こうは軽快なテンポのダンサブルなナンバーで、それをいいことに(?)ワタクシなんぞ、そいつをバリバリの Rock'n'Rollに仕上げ、周囲のヒンシュクをかっておるのでございますよ。もちろん、Lonesome Sundownのナンバーはそんなの(って言い方も無いが)が主流ではございませんで、Lonesome Lonely Bluesみたく、内に籠った微熱を感じさせつつも、独特な湿度を湛えた(?)、しかも重くはない、という独特のプレゼンスが Excelloのトーンと良くマッチしておるのでございます。

"Lonesome Sundown"こと Cornelious Greenは 1928年の12月12日に Louisiana州の Donaldsonvilleで生まれました。
最初、彼はピアノを独習でモノにしたようですが、1948年には彼の叔父さんのギターを借りて New Orleansに移り、ポーターの仕事についていますが、その時からギターに転向したもののようです。
次に Jeaneretteを経て Texas州の Port Arthurに移ったのが 5年後の 1953年。そして「あの」 Clifton Chenierのバンドに Phillip Walkerの後ろのセカンド・ギターとして入っていますが、同時に Phillip Walkerとともに Specialtyに別個に吹き込みも開始しているようです。
ただし、その Clifton Chenierのバンドからは the Lloyd Reynaud bandのヴォーカル&ギターとして移っています。
この時期、彼は自分でも曲を作り始めており、1956年には J. D. Millerのオーディションを受けているのですが、その際、ミラーから Cornelius Greenという名前から、「Lonesome Sundown」という芸名に変えることを提案されたのです。
そして Lonesome Sundownとしてリリースした彼の初シングルが Excello 2092 Lost Without Love / Leave My Money Aloneで、それ以降も Excelloに数々の名曲を残しています。
1965年にはいったん Chicagoに出ますが Opelousasに戻って来ると音楽から離れ宣教師となってしまいました。そのあたりのいきさつについちゃあ、ちょっと資料が無いんで、よく判りません。
しかし 1977年には Been Gone So Longでカム・バックしています。

その後も Crowley発の音源を元にしたアルバム(あの Flyright Bought Me A Ticketとかね)などがリリースされていますが、その辺の Bootleg系はたぶん彼自身への経済的なフィード・バックがゼロだったんじゃないでしょか?

晩年、糖尿病が悪化して療養生活を送っていたようですが、1995年の 4月23日、収容されていた Gonzalesの病院で死亡しました。



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# by blues-data | 2005-09-14 11:29
Lonnie Johnson
Lonnie Johnsonの生涯については(特にその成長過程など)けっこう知られていない部分があり、例えばその生年についても、1889年、1894年、1899年、さらには 1900年という諸説があり(ただし誕生日については 2月 8日、ということで統一がとれているようですが)、さらに出生地も一応 New Orleansとされてはいますが、もっと Memphisに近いところだ、とする意見もあり、いまだに一部では議論が続いています。

そのことからも判る通り、彼の幼少期を知る証人は失われて久しく、残っている証言も断片的なものとなっています。
彼 Alonzo "Lonnie" Johnsonは(海外のサイトでひとつだけ Alfonzoとしているものがありましたが) 13人の子供のひとりとして生まれており、父と兄弟からなるファミリー・バンドの一員として音楽に触れるようになったとされています。
その彼がやがて独立して New Orleansのカフェ(つーても中にゃあかなりいかがわしいトコもあったらしいっすよ)で演奏するようになり、次いで、海外に派遣されていたアメリカ軍兵士を慰問するために Will Marion Cookの Southern Syncopated Orchestraに加わり、ヨーロッパに旅立って行ったのですが、その間に悪質な「スペイン風邪」がもとで、兄弟のほとんどと父を失っています。
帰って来た彼が見たのは、かろうじて生き残った母と唯一の兄弟 James "Steady Roll" Johnsonの二人だけでした。

その James Johnsonと二人、1920年に St. Louisに移っています。
この時期は Charlie Creath's Jazz-O-Maniacsの一員として、またミシシッピー河を航行するリヴァー・ボートで Fate Marableのバンドのメンバーとして活動していたようです(このあたりのジャズあるいはヴォードヴィル系と思われる楽団やら人名については「探索」いたしておりません。どーもワタクシの担当外のようですんで・・・)。
1925年にはブルース・シンガーの Mary Johnson(元々Johnson姓だったんでしょね?)と結婚し、さらに Okeh Recordsがスポンサーになったコンテストで優勝し、ごホウビにレコーディング。
年代から言ってこれしかないでしょ、っつーコトで、その時吹き込まれたのが「Falling Rain Blues / Mr. Johnson's Blues 」─1925年11月 4日、St. Louisにて録音、Okeh 8253として発売─これだと思います。

その後ジャズ系の Eddie Lang、Louis Armstrong and his Hot Five、そして the Duke Ellington Orchestraなどとも関わっていますが、そこらはそっちカンケーのサイトでどうぞ。

1930年代初め( 1931年の早春)には New Yorkで Okehに「Beautiful But Dumb 」などの吹き込みも行っていますが、やがて Ohio州 Clevelandに移り、the Putney Dandridge Orchestraに参加する一方、タイヤ製造工場や製鉄所でも働いたりしてるんですよ。
そして1937年からは Chicagoに移動し、Johnny Doddsや Jimmie Nooneとも活動を共にしています。
そして 1939年には Bluebirdと契約、1942年 2月13日の Chicagoでの録音では 10曲を吹き込んでいます。
He's a Jelly Roll Baker 」とカップリングとなった「When You Feel Low Down 」( Bluebird B9006 )をはじめ、「Baby, Remember Me / Lonesome Road ( Bluebird34-0714)、「Fly Right, Baby / Rambler's Blues 」( Bluebird34-0708 )、「The Last Call / From 20 To 44 」( Bluebird B8980 )、「The Devil's Woman / Heart Of Iron 」( Bluebird B9022 )がそれ。

1946年には Blind John Davisと Lonnie Johnsonのデュエットで Disc labelに吹き込み、1947年には同じくデュエットで Aladdin labelにも吹き込んでいます。
また1948年には単独で「Tomorrow Night 」を King Recordsに吹き込み、これは同年の R&Bチャートで 30万枚を売る最大のヒットとなりました。また1952年には渡英した最初のブルースマンとなっています。
しかし、その後一時期、Lonnie Johnsonは音楽ビジネスから離れていたのですが、ジャズ愛好家(?)の Chris Albertsonによって1959年に再発見された時には Philadelphiaの Ben Franklin Hotelの門衛をしていたそうです。
1961年には音楽界に復帰し、Spiveyに二枚のアルバムを録音しています。また1963年の American Folk Blues Festivalにも参加しています。

1965年にカナダの Torontoにあるコーヒー・ハウス、the Penny Farthingに出演したことがきっかけとなって、その街に住むようになりました。そして Home of the Bluesというクラブまで開いています。1967年には彼の最期のレコーディングが Folkwaysに二枚。
1969年に彼は交通事故にあい、それと併発した発作によって左半身麻痺となってしまったのですが、1970年には Torontoの Massey Hallで聴衆の前に姿を見せ、それが最期のパフォーマンスとなりました。
その年の 6月16日、事故の後遺症から来る合併症で死亡しています。



reserched by Othum: Blues After Dark


# by blues-data | 2005-09-14 11:20

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